翻訳記事:筋を通さない

これは翻訳記事です

GDC#16:筋を通さない

2011/2/7 Soren Johnson
Game Developer誌2010年12月号に掲載された物の再掲

素晴らしいゲームも時には設定が意味不明だったりする。例えばなぜ「パズルクエスト」のプレイヤーはトロルやゴブリンやスケルトンと”Bejeweled”の対戦版で戦わなくてはならないのか? 同様になぜ、「レイトン教授」シリーズの世界では物事の成否が謎解きパズルの上手い下手で決まるのか? 理屈などあったものではない。

ゲームのストーリーもこれとどっこいである。「マリオ」の公式ストーリーは不思議の国並に意味不明だ。配管工が煉瓦を殴って魔法のキノコを見つけ出し2倍の大きさになって姫君をさらった邪悪な亀と戦う。「メタルギアソリッド」シリーズの紆余曲折、とりわけリボルバー・オセロットの精神がリキッド・スネークの腕に憑依して云々はもう一切触れぬが吉だ。

しかしながらゲームにはそれ自体の文法があり、それはストーリーが意味を成しているかどうかよりも重要である。いやメカニクスが論理的にすっきりまとまっているかどうかより重要だ。伝統的な面クリア方式、残機制、復活などは開発者のビジョンを支える構造であり、現実世界を反映しているかどうかやテーマに沿っているかどうかは問題ではない。

例えばなぜチームFPSのプレイヤーは殺されても復活するのか? 死んだ者は生き返らないとプレイヤーは期待すべきではないか? 理由はゲームの敷居を低くしたいと開発者が望んだからである。死亡のペナルティを軽くすれば、ゲームは思い切ったプレイがしやすくなる。リスクを取ったり実験をする事を報奨しているのだ。

復活システムを持たないゲームにもちゃんと居場所はある。白眉は”Counter-Strike”だ。しかし開発者はリアルさの追求としてこうしたのではなく、ゲームプレイを違う物にしたかったのである。死んだら復活しないとなれば、プレイヤーは試合中により強い緊張を感じる。そして慎重さと正確さを報奨する。結果、復活のあるゲームとは違う位置を占める事になったわけだ。

 

ゲームに正直であれ

こうしたゲーム上の都合による構造がジャンルそのものに必須であったりもする。いわゆる普通のRTS、農民・本拠地の建物・ラッシュ/タートル/ブームの三すくみなどは実際の戦争をほとんど再現していない。テーマによく含まれるファンタジー要素を別にしてもだ。一体どんな戦争において、双方が兵舎や研究施設を戦場の真っ只中に建設するというのだ? なぜキャンペーンモードではシナリオをクリアするごとに技術の進歩が失われてしまうのだ?

「そのジャンルにはそれが必要だから」という答えに結局は行き着く。戦略ゲームはプレイヤーが難しい決断を迫られる事によって成立する。それぞれの選択肢がトレードオフなのだ。最もリアル志向のRTSでさえ経済インフラやら研究機関やらの道理に合わない要素が登場する。これらは戦略の深みを増すための重要なメカニクスである。

インフラ施設を戦場のどこかに建設するという事は、守るべき地点が生まれるという事なのだ。もしこれが無ければ軍隊は好き勝手に陣地を放棄してうろつき回れる事になってしまう。技術研究は短期利益と長期利益のトレードオフを作り出してプレイヤーに提示する。資源は科学研究に投じて長期的に強いユニットを得るべきなのか?それともユニットに投じて敵を攻撃し、初期のアドバンテージを得るべきか?

これらのトレードオフは非常に根本的な部分で意味を成している。プレイヤーは陣地を守らねばならない事や、適切な状況では長期投資が実る事を理解する。たとえゲームの世界観が支離滅裂でも、ゲームプレイそれ自体はきちんと成立する。労働者が激戦のすぐ向こうでせっせと作物を植えていたとしてもだ。

 

一貫性にこだわるな

実際、あまりにもゲーム世界観の一貫性にこだわるとゲーム自体を台無しにしてしまう。”StarCraft”の開発者はマルチプレイでテランとザーグが組んで他のテランと戦っても問題無いと判断した。一方”Company of Heros”では枢軸対連合の構図しか認められない。これはゲームのテーマからすれば明らかに意味のある決定だが、好きな仮想軍隊を他の仮想軍隊にぶつけてはいけないのだろうか?

「アサシンクリード」はかなり手の込んだやり方でゲーム構造を正当化している。ゲームは12世紀の中東を舞台にしたものとして宣伝されているが、枠組みのストーリーは21世紀が舞台で暗殺者の子孫が主人公だ。そして記憶再構成技術によって先祖の記憶を蘇らせるのである。

これはゲームデザイン上の構造を正当化する試みだ。面が分かれているのは異なる記憶の断片だからであり、キャラクターの死は偽の記憶である。暗殺者の動きがゲームコントローラーに制御されているのは、実際それが記憶の中の操り人形だからだ。

こうした理屈の裏付けは、果たしてゲーム構造を上手く説明する事で間口を広げているのだろうか? それとも無駄な枠組みでストーリー進行を込み入らせ、中世の暗殺者とプレイヤーとの距離を広げているだけだろうか? 少なくとも、一般的なゲーム機所有者はキャラクターをコントローラーで動かせと言われても別に驚かないと思う。

実際、黎明期のアーケードゲームは創造性の泉だった。ゲームは何か意味を成す物とは期待されていなかった。ドットを食べる「パックマン」、立方体を飛び移る「Qバート」、光線の上を走る「テンペスト」。グラフィックがより写実的になり、アーケード筐体はレース、格闘、STGなどにカテゴリ分けされる様になった。高解像度の環境で奇妙なアブストラクトゲームは流行らない。最近になってようやくモバイルやWebゲームで低解像度の環境が戻り、あの頃の熱狂的エネルギーが蘇って来たのだ。

 

自分の道を行け

珍しいゲームデザインの上に貼る紙としてストーリーを拵えるのも時には良い方法だ。「プリンス・オブ・ペルシャ 時間の砂」に登場する時間のダガーは時間を数秒だけ巻き戻す力を持っている。これはクイックセーブの仕組みをゲームの中核に組み込むエレガントな手法だ。「トーチライト」では主人公のペットが戦利品を売りに町まで走ってくれる。ゲームの世界観を損ねずに無駄な手数を省いたわけだ。

開発者は堂々と自分の道を行くべきである。メカニクスが作ろうとしているゲームにおいて意味を成しているならそれで良い。「風来のシレン」はローグライクゲームである。ローグライクの主人公は死んだらそれまでであり、そこまでの進行は失われる。繰り返し遊ぶのが前提であり、プレイヤースキルの向上だけがクリアへの道だ。

ところが「シレン」は非常に珍しい事に、強力な武器・防具を含む戦利品を保管しておける。ゲーム中のあちこちに保管場所があり、それはセッションが終わってもそのままなのだ。もしキャラクターが不運にして死んでしまっても、次のキャラクターの為にアイテムを残す事でクリアへの進行に貢献できる。

不思議なメカニクスである。世界は死によってほぼリセットされるが、一部はそのまま残る。ゲームに限らずこういう構成は珍しい。そしてストーリーは何ら理由を説明しようとしない。というより説明は不要なのだ。このゲームはゲーム自体に対して正直なのだから。開発者は取り返せない死という緊張と共に、RPG的成長要素も少し入れたかったのだろう。

“BioShock”もまた、不合理な要素への説明を放棄したゲームである。海底都市ラプチャーにばら撒かれた音声日記、あれは何なのだ? これらは主要登場人物の吹き込んだ短い話であり、この客観主義ディストピア世界のバックストーリーを説明してくれる。だが、一体どういう人種が、自分の考えをテープに吹き込んだ挙げ句それを分割し、何かのゴミの様に世界にばら撒こうと思うのだろうか?

そしてプレイヤーは散らばった音声日記の破片をほぼ順番通りに発見し、退屈なカットシーン無しに開発者の考えた物語を拝聴できる。滅茶苦茶だ。とは言え、それでも開発者が間違った選択をしたとは言えないだろう。確かにエレガントな方法ではないが、延々何も操作できずに映画を見せられるよりはマシだ。

 

完璧なテーマ

筋を通さない事の大きなメリットは、メカニクスに合わせて適当なテーマを自由に選べる事だ。タワーディフェンス系ゲームは元々”StarCraft”や”WarCraft 3″のユーザー生成シナリオだった。

これらのプラットフォームの限界により、このジャンルには独特な慣習が生まれた。一切動かない防御施設と動ける「クリープ」の戦い。物語によってこれが正当化される事はまれである。なぜ防御側は動いてはならないのか? なぜクリープ共は遅くて馬鹿なのか? 適切なテーマさえあれば説明できるのだろうが。

実はそれをやってのけたゲームがある。まるで虚空から取り出した様なアイディアで、開発者は相当図太いのだろう。どんな生物なら成長し、かつ動けないか? 植物だ! 足を引きずりながら考え無しに列を成して直進して来るものとは何だ? ゾンビだ! となれば自然な答えとして、この両者を戦わせるという流れになる。

「プラント vs. ゾンビ」はタワーディフェンスに乗せる完璧なテーマだ。常識に完全に合致する。何故突然変異植物でゾンビと戦わなくてはならないのかという点に目をつぶりさえすれば。重要な点は、タワーディフェンスというジャンルに馴染みの無い人であっても、何が起きるかタイトルを見ただけで直感的に理解できる事だ。開発者が筋を通すのを諦めなかったお陰である。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=310