翻訳記事:勝つ為に戦う(27)

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勝つ為に戦わない

この回では逆の視点から見てみよう。いつも「勝つ為に戦う」のは非生産的だ。長い期間に渡って勝ち続けるのであれば、全ての試合を大会の決勝の如く戦うのは不可能だ。そんな事をしていたら基本的な研究もできないし、特定状況下での変わった戦い方も知らずにいる事になる。そうして結局は次善の戦術に甘んずる。

 

研究

勝つ為の戦いと学ぶ為の戦いはしばしば異なる。今この試合の勝率を最大にするためには、新しい戦術や対策やパターンを試して無用な危険を冒す事はできない。回り道をせずに戦うのは試合に勝つ最善の道だ。だがそれは貴重な経験を得て戦術の引き出しを増やす機会を逸する道でもある。

ストリートファイターで簡単な例を挙げよう。コンマ数秒後に相手が超必殺技を出す事が読めたとする。このラウンドを取る一番賢明な方法は、そのままガードする事だ。だがそれでは学べない事もある。その必殺技はそもそもどれぐらい判定が強いのか? こっちが先に蹴りを出せば止められるのか? それとも必殺技が出る時の「暗転」を待ってから1フレーム(1/60秒)後に無敵の昇龍拳を出すべきか? 相手の方が先に無敵が切れてこっちの技が当たるかも知れないし、向こうの技が常に勝つのかも知れない。この情報があれば、体力が残り1ドットで相手が超必殺技の削り勝ちを狙った時に非常に役に立つ。大会ではそういう局面がよくあるのだ。どういう選択肢があるか知っている方が良い。

「カジュアル」な試合ではよく、私は安全な選択肢を捨ててその技にどんな返しがあるか試してみる。たとえそれが駄目で試合に負けても、得た知識の価値がそれに勝る。もう同じ間違いは(多分)しないからだ。勝つ為に戦いたいなら、全ての瞬間における全ての選択肢を知らねばならない。それには多くを犠牲にして実験をしなくてはいけない。

もちろん大抵のゲームで事情は同じだ。StarCraftでコルセア6体はミュータリスク12体に勝てるのか? Unreal Tournamentでショックライフルコンボは接近戦でも使えるのか? 実際にやってみなくては分からないのだ。

 

弱い戦術を磨く

ゲームが出たばかりの頃は、どんな戦略なり戦術なりが実際に強いのかまだ分からない。それでも全部分かったと豪語するプレイヤーは多いものだが。確かにその時点で他のプレイヤーより良い戦術を知っているのだろうが、対戦は進化する。新たな発見とともに古い戦術は時代遅れになる。大抵はまったく違う戦術が見つかり、古い物はプレイヤーの面汚しと化す。またしばしば、古い「最強」戦術への対策が見つかることもある。格闘ゲームでも、どのキャラクターが最強かという探索がある。発売後数ヶ月、時には数年も経ってから弱キャラと思われていたXがとんでもないバグYを利用して無敵になるという事もある。

これが勝つ為の戦いとどう関係するのか? 「勝つ為に戦う」ハードコアプレイヤーは1人のキャラクターを選び、強力な戦術を選び、それを極限まで磨き上げる。そしてそのキャラクターがその戦術を使うための全ての技を身につける。例えば初代マーヴルvsカプコンでロックマンを選び「ロックボール鳥籠」を練習する。これはロックマンが「ロックボール」というサッカーボールを作り出し、画面端へ斜めに蹴り上げ、それに続いて地上と空中へ1発ずつ弾を撃つというパターンだ。この3つの飛び道具で画面全体を支配する。そして相手がそれに対処している間にまたボールを作り出して同じ事を繰り返す。

真剣なロックマン使いなら春麗用のロックボール、ヴェノム用のロックボール、と色々なバリエーションを研究するだろう。他のプレイヤーがロックボールの有用性を減ずる対策を見つけたら、対策への対策を見つけて同じパターンを押し通す。これはまさに「勝つ為に戦う」様に見えるが、結局最後は僅かな勝利に甘んずる。そうやって修練した戦術は実は、悪くはないけれども他のキャラクターの1/10も良くない事が判明する。

私が考えるゲームとは、幾何学的な丘や山に満ちた風景である。それぞれの山は戦術や戦略やキャラクターを表し、高いほど強い。時が経つに連れてプレイヤーはこの地を探索し、多くの丘や山を見つけ、見つかった範囲でできる限り高い場所へ登ろうとする。プレイヤーは山の高さを盛る事はできない。ただそこにあるのを見つけるだけだ。尤もこれはやや観念的な区別であるが。問題は、新たな山(例えばロックボール)の麓にたどり着いた時、その頂上が実はそれほど高くないとしてもまず気づかないという事だ。そこを登るのは険しい道かも知れない(沢山の練習)。だが登ってみると、向こうに見える巨峰に比べたらこちらの戦術は低い山なのだ。つまり局地最適解にたどり着いてしまったのであり、もっと他の山を探している方が良かったという事だ。

言い換えると、勝つ為の戦いには探索も含まれる。ゲームの中の色々な要素を試してどれが合っているか、他のプレイヤーは何が得意か、そして最後には何が一番有効かを研究する。ロックボールに磨きをかけている(そして一番勝っている)時、本当に勝つために戦うならば別のキャラクターも試してみるべきだ。不慣れで、扱い方が何も分からないけれど、実は最後になってロックマンより10倍も上手く扱えることが判明するようなキャラクターを。

探せば見つかるわけではない。しかし探す者にしか見つけられない。

—スーフィ教の諺

 

秘密の物語を学ぶ

大会ではしばしば決定的な瞬間が訪れる。極めて珍しい状況が生まれ、どうするか咄嗟に判断しなければならない事態だ。大会では最高のプレイヤー同士が己の戦い方をぶつけ合う。各々自分の得意技を持ち、相手の得意技に即座に対策を見つけねばならない。これは最早単なる楽しみの為ではなく、「本物」の戦いだ。こうした極限の緊張の中で、今までに無い状況で今までに無い解法が生まれるのだ。

こうした珍しい状況になった時、果たして準備はできているか? どんな選択肢がありどんな危険があるか分かっているか? 「秘密の物語」、あるいは珍しい状況における相互作用について知っているかどうかはしばしば勝敗を分けるのだ。

秘密の物語をどうやって学ぶか。例えば大会に向けて準備し、練習し、勝つ為に戦っているとしよう。何を練習しているだろうか? ほとんどの試合で必要になる事が分かっている要素だろう。相手として出て来る事が分かっている物への対策だろう。要するに「真ん中の道」を通って練習しているわけだ。大会への意識的な準備と「珍しい状況」への対応とは正反対だ。その練習に弱キャラへの対策は含まれているか? 大会で使う気の無いキャラクターの練習はしているか? 恐らくはしていないだろう。だがもしどこからか謎めいた挑戦者が現れ、その「弱キャラ」を使って実はそれが強い事を見せたらどうなる? そして練習しなかったキャラクターこそが唯一の対抗手段だったら? 残念、そこまでは探索していなかった。「勝つ為に」戦っていたからだ。

業という考え方に従えば、ゲームへの愛は何かしらの良い結果を引き起こす。そのゲームを愛する者は好きだから遊ぶ。そして色々最適でない事をやってみる。変なキャラクターを選んだり、変な戦術を使って他の変な戦術とぶつかり合わせる。そして秘密の知識を得ていく。勝つ為だけに戦っている者はそんな回り道ができない。ゲームをしている一分一秒が今の山を登る努力であり、局地最適へと達する道のりである。それはもしかしたら、流行りのキャラクターで流行りの戦術を使う以外の事をしてみる気にならない程度にしかそのゲームが好きでないからかも知れない。

私は2001年8月9〜11日にあったスーパーストリートファイターIIXの大会に向けて猛練習をした。その大会ではダルシムだけを使おうと決め、色々な相手にダルシムの練習をした。幸い私はこのゲームが好きだったお陰で、「お遊び」で本田やリュウも使い、「本気」のベガも時々やった。それでも重点はやはりダルシムだった。

いざ大会当日。事態は思わぬ方向に推移した。私のダルシムは勝ち残り、ある日本の有名なホーク使いに当たった。ホークは弱キャラとして有名である。とりわけダルシムに対しては不利だ。だが相手は「弱キャラ」で魔術を見せる事のできるプレイヤーの好例だった。1ゲーム目で私のダルシムは惨敗を喫し、作戦を変えなくてはならなくなった。(訳注:北米の大会は大抵複数ゲームの先取である) そこで思いついたのが「お遊び」で使っていた本田だ。本田ならラウンドの間中しゃがんだままホークをやり過ごせる。相手が近づいて来れば頭突きで押し返し、またしゃがみ続ける。そして結局、この大会本番における頑固さと寒さの見本市は結果を出した。私はその日本のプレイヤーを、誰も予想していなかった様な組み合わせで倒したのだ。私はその後別の日本のプレイヤーにまた別のおかしな組み合わせで負けるのだが、これは別の話である。

この話の教訓は、勝つ為の戦いはしばしば結果に結びつかないという事だ。ゲームを愛し、好きだから遊ぶ者は、大会で使える珍しい綾を学んでしまう。もちろん役に立たない事もあるだろうが、「好きだから遊ぶ」プレイヤーは気にしない。楽しければいいのだ。そうやって知識を集める事自体が楽しいのだ。「勝つ為に戦う」プレイヤーはしばしば特定の戦術・戦略・キャラクターに囚われてしまい、ある日突然それが時代遅れになって呆然とする。これに対し、戻ったり回り道をしたりできるプレイヤーは新しい山を見つけるなり、他の山に登ろうとしたりする。そしてその山が実は10倍も高かったという落ちが付く。

 

個人的アドバイス

2003年、私はXにはもっと高いキャラクターの山がある事に気付いた。私の得手不得手と大会で負ける相手から予測したメタゲームに基づき、今度はバルログを使い始めた。いくつかの大会でバルログを使い、1回負けると使いなれたベガに切り替えた。こうしたバルログの練習が実を結んだのが2004年の第9回東海岸大会だ。1回だけベガを使った他は全てバルログで通して優勝した。しかも決勝戦では1ラウンドも負けずに8ラウンドを取ったのだ。

 

日本での覚書

上の章を書いた数ヶ月後、アメリカチームのX担当として日本の大会に遠征した。Capcom vs. SNK 2も少しやった。そこで興味を惹かれたのが、日本のプレイヤーは1人のキャラクター(あるいはCvS2なら1つのチーム)だけをずっと使い続けるという事だ。というのも大会レギュレーションがキャラクターの途中変更を許していないからだ。アメリカでは試合ごとにキャラクターを変えられるのが通例で、2〜4人のキャラクターを練習しておく方が良かったのだ。

日本のプレイヤーが見せてくれたのは、1人のキャラクターを磨き続ける事で不可能を可能にできるという事だ。私がやったどちらのストリートファイターでも、「弱キャラ」に全てを賭けたプレイヤー達が、実はそれらの山は想像したより遥かに高い事を見せてくれた。こう聞くと、色々な山に登ってみるという論点は怪しいと思うかも知れないが、その大会のCvS2部門を制したのは結局皆がよく知る「壊れキャラ」の使い手だった(ちなみにAグルーヴの前転キャンセルを使うブランカ・さくら・ベガ)。その優勝者というのがときどである。彼はまた前述の2001年大会でもCvS2部門を制している。彼は結局これまでの論述が正しい事を証明したのだ。ゲーム内で最も高い山を見つけ、全てを費やしてそれを完璧に登った。残念ながら彼は信じがたいほど寒いプレイヤーでもあったが、とは言えアメリカと日本の全国大会を制した寒いプレイヤーなのだ!

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翻訳記事:勝つ為に戦う(26)

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上級プレイヤー向けガイド

大会

強くなりたいなら大会に出るべきだ。上達を測る最良の方法は、どれだけ勝てるかを調べる事だ。しかし正式な競技会以外での試合は思ったほど参考にならない。最も硬い鋼は最も熱い炎で鍛えられ、最強のプレイヤーは真剣勝負の中で作られる。カジュアルな試合は「楽しみ」の為だが、大会は血の汗を流す挑戦だ。

大会においては、普段よく戦う同じ相手ですら違うレベルになる。プレイヤーはしばしば最高の戦術、秘密兵器を公式大会の為に取っておく。大会では誰しも慎重になる。そして今まで対処できなかった戦術にいきなり解法を見つけたりもする。何故なら今それを見つけねばならないからだ。皆ゲーム内の生命に必死でしがみつき、あたかも地球の運命がそれに掛かっているかの如く決して諦めない。不利になるとすぐ降参するカジュアルプレイとは大違いだ。

かくの如く、「楽しみ」の為の戦いと勝つための戦いは目指すところが全く違う。エドワード・ラスカー(エマヌエル・ラスカーとはたまたま同姓)は著作”Chess for Fun and Chess for Blood”の後半導入部でこのことを述べている。

ここまでのページでは、チェスの楽しい側面だけを見てきた—アマチュア同士の、気軽な興奮の為のゲームだ。双方とも司令官になって駒を率いるが、勝っても負けても深刻な結果にはならない。

だがチェスにはもう一つの、大いに異なった側面がある—マスターとマスター志望者による大会や公式戦だ。その勝敗は地位を、時には生活をも左右する。

こうした試合は楽しいわけではない。勝者にとってすらそうだ。これらは想像しうる限りの難事業だ。命がけで試合に臨むのだ! 美しい手の誘惑があったとしても、それが勝てない試合を引き分けに持ち込む機会を潰してしまうなら避けねばならない。大会に勝つのは妙手の主ではなく勝ち点の多い者だ—勝てば1、引き分けなら半分、負けなら丸をひとつ描いておしまいだ。

 

大会を理解する

思い出すのは、最初の頃に参加したゲーム大会の事だ。自分で思っていたほど上手く戦えなかった。その時たまたま一緒に参加した友達というのが国内最高クラスのプレイヤーで、実を言うとジョン・チョイだ。ちなみに彼はその日優勝した。彼は「心配するな、君はまだ大会に不慣れなだけだよ」と言ってくれたがそうは思えなかった。「そうじゃない、今日のプレイは本当に駄目だったんだ」と私は言った。今になってみればチョイの方が正しかった事が分かる。

大会というのは、仕組みを知らない者にとっては奇獣の様なものだ。ゲーム自体のルールとは別に、大会を運営するための細かい規則や決まりごとがある。単純トーナメント形式か、それとも敗者復活があるか? あるいは総当たり戦か? スイスドローか? 過去の成績に基づいてシードされるか? シード権がある場合、最強のプレイヤーは緒戦で最弱のプレイヤーと当たる。おいおい何故だ? どうして新参者がいきなりチャンプと戦わなくてはいけないんだ、と文句の一つも言いたくなるだろうし、大会の方針そのものに異議を唱えたくなるかも知れない。だがシードというのはそもそも、最高のプレイヤー同士が早い段階で潰し合ってしまわない様に按配するものだ。こういった事に一々腹を立てているのはエネルギーの無駄だ。ベテランはみな当然の事として受け入れている。

大会には独自の文化と風習がある。先手後手がゲームに影響する場合、それをどうやって決めるのか? 格闘ゲームのキャラクターやウォーゲームの陣営をどう選ぶのか? あるいはチェスなら白か黒かどう選ぶ? そのゲームの達人であっても、大会の新参者はあたかも異国の地にやって来た様な感覚になる。他の参加者が話しかけてきたら、それは本当に友達になりたいからか? それとも脅威になるかどうか、どんな戦術を使うかを偵察に来たのか? もし大会の挙動について十全に理解していれば、こうした疑問に答えを出すのはずっと簡単だ。そうすれば猜疑にエネルギーを吸われずに済む。

大会の対戦形式も調べてみよう。試合は一本勝負かも知れないし、複数本先取かも知れない。トーナメント形式であれば最終的にどちらが試合に勝ったかだけが問題だ。一方、勝敗数が同じであればラウンド数で順位を決めるという形式も存在する。どういう形式かによって、考慮しなければいけない範囲が変わるのだ。試合の心理的な側面はどうか? 5本中3本取れば勝ちであれば、その5本は連続した流れとして感じられるだろう。そしてまた、一方のプレイヤーがもう一方を「解析」してどんどん有利になるという事もよく起きる。いつそれが起きるか注意していよう。自分が解析される側であれば戦い方を変えた方がいい。途中で使用キャラクターを変えることは大会のレギュレーションで許されているか? 格闘ゲームでは負けるとキャラクターを変更できる(少なくともアメリカでは。日本では不可能だ!)。RTSでは普通、1ゲームごとに双方が陣営を変更できる。M:tGではデッキの変更は不可能だが、あらかじめ用意しておいたサイドボードから1枚ずつカードを差し替える事ができる。変更するかしないか、正しく判断できる様になるには経験が必要だ。これらの要素は大会の独特なルールと結びついており、ゲームの達人でも大会の達人でない場合は失敗する事もある。

自分の強さを本当の意味で試すただ一つの方法は正式な試合である。ただ単に優れたプレイヤーであるだけではいけない。それは極めて主観的だ。優れた大会プレイヤーになり、成績を残さなくてはいけない。

 

大会に備える

大会の準備にどれだけかかるか、その答えは人によって異なる。門外漢には想像もできないほどの大事業になる場合もあるし、全く必要でないという事もある。大学時代、私は試験勉強を一生懸命する者ほど成績が悪い事を発見した。何故なら最終試験が数日後に迫っているのに今から詰め込まなくてはいけないとしたら、既に戦いに負けているからだ。どれほど頑張ったところで、半年も前からその分野を自然に理解して扱えるようになっている学生との競争には勝てないのだ。

ゲームでも状況は似たり寄ったりだ。付け焼き刃で前日に覚えた事は、長年かけて身につけた経験とは比べるべくもない。操作精度が必要なら、身体に深く覚えこませている方がずっと役に立つ。戦術が必要なら、時間をかけて色々な相手にそれを試し、自分自身の経験として身につけている方が遥かに良い。要するに、継続的な自己鍛錬の道に自分を置いているなら本番の準備はできているという事だ。

とは言え、来たる大会はゲームへの集中を新たにする手段でもある。上手くできない事が分かっているテクニックがいくつかあるとして、普段はそれをやらずに済ませているだろう。だが次の大会に真剣に取り組むなら問題を割り出して反復練習をしなくてはいけない。どれほど退屈で時間がかかろうとだ。また普段はゲームの裏通りを探検する習慣があるかも知れない。例えば格闘ゲームなら弱いキャラクターを試しに使ってみるとか、RTSなら「本気」陣営以外に「お遊び」陣営を使うとか、FPSなら役立たずの武器を使ってみるとか。そうやって変化をつけたり観戦者に面白いものを見せたりする。こうした習慣はゲームの理解を深めるのに役立つが、大会の本番ではそんな機会は無い。力を披露できるチャンスは限られている。1つも無駄にはできない。格闘ゲームであれば一番得意なキャラクターを使うべきだし、その為に練習しておく。RTSなら一番得意な陣営で最高のオーダーと戦術を使う。FPSなら最高の武器で最良のルートを走る。もちろん他の選択肢があるのは望ましいが、現実的になるのも大事だ。大会に向けた練習では「お遊び」は脇に置いて、勝つためにより重要な技術を磨かねばならない。格闘ゲームでひとつのキャラクターの操作技能を20点から75点に上げるのにかかる時間と、93点を93.5点に上げる時間は同じぐらいだろう。それでも自分の持ちキャラクターに全てを注がなくてはならない。それこそが大会の勝利をもたらしてくれるからだ。

大会準備のもう1つの側面はメタゲームの研究だ。つまりゲームが現状どんな風に遊ばれて、大会においてどんな戦術が使われるかを知ることだ。Warcraftで誰もがナイトエルフを使ってハントレスラッシュをかけている? ストリートファイターで皆が春麗を使っている? M:tGで皆が赤単スライを使っている? どんな相手にぶつかるか知らなければ大会で悲惨な事になる。メタゲームについてある程度知っていれば正しい準備ができる。特にM:tGでは参加者がそれぞれ自分のカスタムデッキを持って大会に臨むため、この点が極めて重要だ。もし他のプレイヤーが特定のデッキを使うことが分かっていれば、普通なら弱いが人気デッキに対しては強いデッキを作ることができる。流行を知り、大会によく出る様にしていれば、世間知らずのプレイヤーに対して優位に立てるだろう。

私自身の格闘ゲームでの経験から言えば、頂点付近の戦いでは「メタ」の意味が全く変わる。強豪たちはプレイヤー全体の流行を気にする必要は無い。中級以下の連中が何をして来ようと結局は叩き潰せるからだ。気にするのはほんの2〜3人、大会で自分を脅かす他の強豪がどんな技やトリックを使うかという「ミニ・メタゲーム」である。

どちらにせよ、敵を知るのも大会に備えるうちという事だ。自信満々の新参プレイヤーが大会で好成績を出すと豪語するのを何度も見て来たが、実際に結果を出せた試しは無い。少なくともすぐには。強さには大会のメタゲームに詳しい事も含まれる。何もない所で技術を磨いていきなり大会に行って勝つというのは非常に難しく、ゲームによっては全く不可能なのだ。

 

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翻訳記事:勝つ為に戦う(25)

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無敵と「野獣」

チェスプレイヤー:ホセ・ラウル・カパブランカ(1888-1942)

もし勝つ為に戦ったプレイヤーがいるとすれば、それはカパブランカだ。彼はチェスの教科書を読んだりオープニングを研究する事を拒んだ。チェス王者の態度として普通なら考えられないが、カパブランカは普通ではなかったのだ。

17歳の時、当時の世界王者ラスカー博士が多面指しをした相手の中に彼はいた。そして勝っていた。3年後、彼はアメリカに渡りそこで多面指しの新記録を打ち立てた。しかも速度と結果の両方で。最初の10セッションでいきなり168連勝し、最終的に703勝12敗19引き分けという戦績に達した。そして1909年、彼はアメリカ王者のフランク・マーシャルに8-1(引き分け14)で圧勝する。

快進撃はその後も続く。生涯で567試合をこなし、負けたのはわずか36試合だけ。10年間全く負けなかった時期すらあった!

全ての面で、カパブランカのスタイルは直截にして無欠であった。彼は一手一手を最適解を探すパズルの如く扱った。序盤から中盤はわずかな陣地や駒得で満足し、終盤になるとそのわずかな優勢を一気に勝利へと変える。これが持ち味だった。

 

私は常に注意深く指し、無用な危険は冒さない様にしている。私のやり方は正しいと信じている。余計な外連味はチェスの本質に反するのだ。チェスは賭博ではなく、純粋に知的な戦いであって、明確なルールと論理に従うのだ。

—ホセ・ラウル・カパブランカ

 

哀れなりカパブランカ!汝聡明な技巧家にして哲人にあらず。チェスにはただ一つでなく多くの正解があると悟れぬか。

—第5代チェス世界王者、マックス・エーワ

 

引き分けと負けの試合は収録しない事にした。この本の目的にそぐわない。

—ホセ・ラウル・カパブランカ、チェスの本にて

 

非常にありそうなのは、カパブランカは自分が考えた以上に良い手があると想像できないのではないかという事だ。そして彼は往々にして正しい。

—チェスマスターにしてInside Chess誌の編集者、マイク・フラネット

 

カパブランカ氏はチェスの歴史上最も偉大なプレイヤーだったのではないか。

—第11代にして歴代最年少チェス世界王者、ボビー・フィッシャー

 

ストリートファイタープレイヤー:梅原大吾

日本では「ウメ」、アメリカでは「ダイゴ」、そしてどこへ行っても”The Beast”と呼ばれる。梅原大吾はこの地球上で最高の格闘ゲームプレイヤーだ。例えるなら、チョイを3乗して全ての感情を取り去った様な存在だ。操作精度や細かい知識の面では日本の同輩たちに遅れを取るが、勝つという一点に関しては他の追随を許さない。しかもただ勝つだけではない。完膚なきまでに打ち破る。ある大会において、私の目の前でアメリカ人プレイヤーが徹底的に負かされた。そしてそのすぐ後に同じキャラクターで私が当たったのだ。何をしてはいけないか予習できたはずなのに、あたかもリプレイの如く同じ目に合わされた。

他のどんな格闘ゲームプレイヤーにも増して、梅原は読みの力を持っている。即ち対戦相手の考えを知る力だ。もし相手が次に何をするか全て分かっていたら、難しいコンボも細かい知識も最早必要ない。彼は「危険な」立ち回りを次々に繰り出すが、その殆どを通してしまう。またもや読みだ。相手が何をするか分かっていれば危険など無いのだ。彼との対戦で、私は「正しいタイミング」で攻撃を出さない様によくよく気をつけた。そうすれば読まれにくい筈だと思ったのだ。だが実際には、正しいタイミングで攻撃しないのは殆ど不可能だったのだ。10年の経験がこの瞬間に攻撃を出せと命令するのだ。心の中を覗かれている感触が生まれ、己の中でコンマ数秒の逡巡が始まる。そして次の瞬間にはもう倒されているのだ。梅原とチョイはどちらも、競技ゲームには個別の知識より重要な根本的技能があると教えてくれる。梅原が勝つにはそのゲームが「得意」である必要すら無い。彼は梅原だ。だから勝つ。

 

超能力とか、超自然の力を使うプレイヤーなんかいるはずが無いと思っていたんだが…正直言って…恐れ入った。彼はそうかも知れない。

—アメリカGGXXチームメンバー、「蒼き混沌」ロメル・シャヒード

 

“. . .” —梅原大吾

 

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翻訳記事:勝つ為に戦う(24)

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万能流

チェスプレイヤー:エマーヌエール・ラスカー(1868-1941)

ラスカーは人当たりのいいチェス名人だ。そして他の分野の名人でもある。数学の博士号を持ち、1930年代にアインシュタインのルームメイトだった。ラスカー博士はブリッジをやり、囲碁をやり、そしてチェスもやった。かように様々な興味を持っていた博士であるが、特にチェスの世界は完全に支配していた。チェス世界王者の座を何と26年間も保持し、その間に7回の防衛に成功している。勝率は66%で他のどの歴代チェス世界王者より高い。112試合の戦績は52勝16敗44引き分け、合計得点は74だった。

だがラスカーの天才性は数字だけでは測れない。彼は攻撃的なプレイヤーだったが攻撃だけではなかった。防御的でもあったが防御だけでもない。彼の数学的知性は他の者には見えない盤上の正解を見つけ出したが、問題を解くだけに終始したのでもない。彼はチェスには魂が宿っていて、対戦相手の心理はセオリーと同等以上に重要だと信じていた。彼のスタイルは多くの側面と理論をバランスよく組み合わせたものだった。故に変幻自在で適応力に優れていたのだ。多くの名人がそうであるように、彼はあたかも簡単な様に難しい事をやってのけた。対戦相手を不安に陥れる手を見つける事に長けており、一見絶望的な状態から挽回する術を知っていた。そして特に注意を引かれるのが、彼には対戦相手の心を読む神秘的な力が備わっていると思われていた事だ。「心を読んでいる」というある種の漠然とした言説が、戦略ゲームの達人にはいつも付いて回るのだ。

 

ラスカーは多くの劣勢を挽回し、ある時は魔術を使ったと告発され、別の時には催眠術だと言われた。そして繰り返し繰り返し幸運の賜物だとも言われた。実際のところ、彼はしばしば故意に難局を作り出していたのだ。その上で適切な対処をする事で攻撃者に大きなストレスを与えた。まず希望を与え、次に道程を困難で埋め尽くし、疑念と混乱と恐慌に陥れる。これがラスカーのやり方だった。

—チェス作家、ウィリアム・ハーツトン

 

シュタイニッツもタラッシュも完璧な戦略を用いて常に最善手を指した。対してラスカーはもっと柔軟で、チェスの本質を誰よりも見抜いていた。客観的な真実の探索ではなく、極限状況下で自分自身と相手に心理的に打ち勝つ事が本当の戦いなのだ。

—ウィリアム・ハーツトン

 

特筆に値するのは、ピルズベリー、マロツィー、ヤノフスキーといった達人ですらラスカーを前にすると催眠術をかけられた様になってしまう事だ。

—チェス注釈家、ゲオルク・マルコ(?)

 

近年私が知り合った中で、エマヌエール・ラスカーは間違いなく最も興味深い人物の一人だった。

—アルバート・アインシュタイン

 

ストリートファイタープレイヤー:ジョン・チョイ

チョイは人当たりがよく、慎ましく、そして凄まじく強いプレイヤーだ。高校では彼はレスリングのチャンピオンだった。そして今は格闘ゲームのチャンピオンだ。恐らく全米でも最強だろう。チョイは反応速度が優れているが、最速ではない。技量と操作精度も優れているが最優秀ではない。彼が最も優れているのは適応力と柔軟性だ。チョイは相手の戦い方を素早く学び対策を見つける。チョイを相手にすると、段々自分が馬鹿の一つ覚えで戦っている様な気分になって来る。ラスカーと同様、彼も時に攻め、時に守り、バランスの取れた試合をする。余計な事はせず、あたかもゲームが単純であるかの様に見せる。これまたラスカー同様、論理的最善手を見つける分析的アプローチと相手の考えを読む心理的アプローチを組み合わせる。この種のプレイヤーから得意武器を奪うのは不可能だ。何故ならどんな状況も出来事も全て武器に変えてしまうからだ。相手の得意な場面さえも。こうしてみれば、私の様なマニアックやオーティズの様な防御一辺倒よりも、中道を行くスタイルが結局は強いのも納得が行くのではないか。

チョイは米国の大会での優勝歴があまりに多くここには書き切れない。

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翻訳記事:勝つ為に戦う(23)

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チェスプレイヤー:ハワード・スタントン(1810-74)

この人物を蛇と形容するのは公平を欠くと思われるかも知れない。何しろ彼はいくつもの偉大な業績を持ち、そもそも今日の標準チェス駒は彼が発注した「スタントン式」である。彼は29年間に渡って有名な絵入りロンドン新聞にチェスコラムを連載していた。世界で最初に電信チェスをやったのも彼だ。おまけに当時第一級のシェイクスピア研究者で注釈付き戯曲も出版していた。疑う余地なき重要さと影響力を備えた人士である。

だがその一方、「チェス世界王者」を自称してもいた。出版上の影響力を悪用して、今日ならばトラッシュトーク(相手を混乱させる舌戦)と呼ばれる様な手を使っていた。口頭と紙面の両方でだ。負けた相手には横柄で敵対的な態度を取った。有利になる為にあらゆる盤外戦術を駆使したと言われ、対戦相手を太陽の真正面に座らせた事さえあった! こうした水面下の戦いで最も有名なのが全米王者ポール・モーフィーとの論争である。自称世界王者に挑戦する者が現れると、スタントンは仕事を休んでまで地球の裏側には行けないと言って断った。ポール・モーフィーはこれを欧州への招待状と受け取った。相手のホームで負かしてやるべく遥々欧州に渡り、どうにかスタントンに会って戦いを挑んだ。ちなみにモーフィーはこれまで誰かに直接挑戦した事はほぼ皆無である。

スタントンはまたも釈明をこしらえて試合を先延ばしにした。モーフィーが強く要請するとスタントンは相手のオープニングを研究するのに1ヶ月欲しいと言い、モーフィーも合意した。だがそれでもスタントンは試合そのものには結局同意しなかった。スタントンはそれから出版の力を使い、モーフィーが約束の場に現れなかったとか、必要な掛け金を持って来なかったとか、厚顔無恥なる嘘を撒き散らした。良しにつけ悪しきにつけ、この手の人間はどんなゲームコミュニティにも現れる様である。そして常に誰かの怒りを爆発させるのだ。

 

ストリートファイタープレイヤー:ジェフ・シェイファー

シェイファーはストリートファイターコミュニティの中で常に論争に身を投じている。彼は論争すべき問題を発明する。ロスにいる他のプレイヤーがどれだけ強いか、特定のキャラクターが他のキャラクターにどれだけ優位かといった事だ。この手のダイヤグラムは毎週変わる。そしてシェイファーは常にあらゆる問題に対して狂ったスタンスを取る。誰もが彼を憎まずにはいられない。彼の攻撃はほとんどがロス以外のプレイヤーは下手だと「証明」する事に焦点があり、個人攻撃で炎上させるのを楽しんでいる。ある時など北カリフォルニアのプレイヤーを全く下手だと言い放ち、「霊安室に転がる事すらできないだろう」と凄まじい悪口を浴びせた。しかも霊安室の綴りが間違っていた。

プレイヤーとして見ればシェイファーは上手いが一頭地を抜くほどではない。彼の功績はただ黙って座っている事を不可能にした点にある。人々を激怒させ、遠征させ、練習させ、大会の参加へ駆り立てた。そのうちに彼はストリートファイター界を去った。奇妙に聞こえるかも知れないがこれはコミュニティにとっての損失だと私は思う。

 

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(22)

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マニアック

チェスプレイヤー:ダヴィド・ヤノフスキー(1868-1927)

このグランドマスターはチェスの一側面に取り憑かれていた。即ちビショップだ。

彼にはゲーム上のちょっとした悪癖があった。自分のビショップを大事にし過ぎるのは有名な弱点だった。しかもそれを誰よりも自信満々にやるのだ。ついでに彼は自分の容姿にも自信満々な伊達男だった。

-ヤノフスキーの友人、フランク・マーシャル

ヤノフスキーはビショップが大好きで、対戦相手もそれは重々承知していた。彼は様々な打ち手と盤面を編み出してビショップの力を最大に活かした。ひとつの側面に取り憑かれたプレイヤーにとって、その側面を誰よりもよく理解する事になるのは必然だ。大好きな部分に関しては世界最高のプレイヤーすら上回るのだ。ただし肝心の武器を失うと弱ってしまう。ヤノウスキーの対戦相手は、ビショップを守る為には他の駒を犠牲にしなくてはならない様な攻撃を仕掛ければいいと気づいた。そのうちアメリカではビショップを「ヤノフ」と呼ぶのが流行り始めた。

 

ストリートファイタープレイヤー、デイヴィッド・サーリン

そして著者である私自身の登場だ。私はオーティズの様な辛抱強さでも知られていたが、むしろ有名だったのは同じ技を繰り返し繰り返し出す事の方だ。まず100回でも繰り返し出せるような技を探し出す。お仕置きを恐れずにずっと出し続けられる技が見つかればこの上なく嬉しい。そういう技が存在するのはゲームデザインとしてどうかとも言えるが、それはプレイヤーである私にとってはどうでもいい事だ。「想定通りに」「楽しく」プレイする義務など負ってはいない。ヤノフスキーはビショップを使い続けてその駒が「ヤノフ」と呼ばれるに至ったが、私はストリートファイターでローズを使い続けた挙句に私自身が「屈中パン」と呼ばれるに至った。

理論上、もし特定の技を相手が止められなければ私は読み合いに付き合う必要が無い。自分の次の行動が読まれる心配もしなくていい。次に何をするかお互い承知だ!少なくともその技を出している限り負けないのであれば問題はないし、それを破れると証明する義務は相手にある。

私は操作が下手糞で反応が遅い事でも有名で、それを補う為にはタイミングを上手く読まねばならなかった。ストリートファイターアルファ2(ストZERO2の北米版)ではかなり活躍できた。いくつもの大会で優勝したし、ヴァイエとチョイを除けばアメリカのどんな選手にも安定して勝てた。ただ、他のゲームでは上級者のグループには入ったもののもっと強いプレイヤーの陰に隠れてしまった。

このプレイスタイルから学んだ教訓はこうだ。ひとつの側面を極めるだけでも相当上まで行けるが、頂点までは行けない。アルファ2の時ですらヴァイエやチョイとの頂上決戦では「同じ技をひたすら出す」作戦を放棄せざるを得なかった。別のキャラクターでオールラウンドな戦い方をする必要があったのだ。チョイの凄さに触れるにつけ、私は重点を他へ移して「すべてのボタンを使う」様になった。

 

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翻訳記事:勝つ為に戦う(21)

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アタッカー

チェスプレイヤー:フランク・マーシャル (1877-1944)

マーシャルはペトロシアンよりも古い時代、「ロマン派」に属する。他のロマン派と同じく、マーシャルは閃きの一手と熱い戦いに生きていた。彼は防御をほとんど捨てて乱戦に持ち込み、天才的な手を繰り出して勝利を掴んだ。苦境から脱する妙手のゆえに彼は「偉大なるペテン師」と呼ばれた。彼は勝利の為と同じくらい、観客とスリルの為にも戦った。1909年から1935年にかけてアメリカチャンピオンの座を維持した。

私はいつも自由奔放な局面を好み、相手を可能な限り早くチェックメイトにしたいと思う。攻撃は最大の防御なりという古い諺の通りさ。

—フランク・マーシャル

 

マーシャルの奇手はまるで棋譜の誤植みたいだ。

—チェスプレイヤー、ウィリアム・ネイピア

 

マーシャルほど勝つ事だけでなくチェスそのものを楽しんだチャンピオンはいないだろう。彼は妙手のチャンスを逃すぐらいなら敗北を選んだろう。

—チェスグランドマスター、アンディ・ソルティス

 

ストリートファイタープレイヤー:アレックス・ヴァイエ

ヴァイエはあらゆる意味で「恐るべき」男だ。強く、自信に溢れ、体格もよい。ヴァイエの持ち味はその攻撃的なスタイルで、防戦一方の亀を攻め切ってプレッシャーで圧倒する。そのスタイルは誰にも真似できない。彼の技は彼がやった場合にしか上手く行かないのだ。彼は予測不可能な事を予測不可能なタイミングで行い対戦相手を困惑させる。そして反射神経とリスクを取りたがる傾向でも有名だ。一体何がいつ繰り出されるのか相手は決して分からない。次第に彼のボタンの押し方さえ恐ろしくなって来る。彼のプレイスタイルと物理的な存在感はゲームの決着のはるか前に相手を心理的に圧倒する。いや時には始まる前に。

だがここで、私がヴァイエの本当の秘密と思う物を明かそう:彼の苛烈な攻めと冒険はたいてい幻影なのだ。貶しているのではない、褒め言葉だ。オーティズが恥も外聞も無く逃げ回るのに対し、ヴァイエは果敢に攻めるかの如く見える。次々に技を繰り出し相手の周りを飛び回る。いかにも攻めている様だが、実は安全な所で込み入ったダンスを踊り相手を誘っているのだ。彼が多くのプレイヤーよりもリスクを取る傾向にあり、優れた反射神経を持っているのは間違いないが、リスクに見える物の多くはその実「織り込み済み」なのだ。何故なら彼は対戦相手が特定のタイミングで特定の行動をする様に追い込んでいるのだから。相手のする事がほとんど確実に分かっていれば、速い反射神経も過度のリスクも必要無いのである。

ヴァイエは狡猾に「偽の攻撃」と本当の攻撃を混ぜて繰り出す。本当のリスクを取る時もあれば、単に他のプレイヤーの悪い癖につけ込む時もある。彼が格闘ゲーム界でも最高クラスの「恐怖のオーラ」を纏っているのも納得だろう。

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翻訳記事:勝つ為に戦う(20)

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プレイスタイル:亀

あらゆるゲームコミュニティは、他のゲームコミュニティの歪像である。同じ様な性格と同じ様なプレイスタイルがどのゲームにおいても繰り返し現れる。チェスの歴史を紐解いてプレイヤーの性格を調べると、それがストリートファイターの世界と余りに似ている事に驚かされる。これから私はそれらの性格について語る。そして極めて賛否の分かれるだろう立場を取る。即ちある1つの性格が他の全ての性格に勝るという主張だ。上級プレイヤー層は様々なプレイスタイルの混合であるが、「真の」スタイルこそその中で頂点を占める。私自身はそのスタイルの持ち主ではないが努力はしている。もしかしたら読者の身近にもそういったプレイヤーがいるかも知れない。

 


チェスプレイヤー:チグラン・ペトロシアン (1929-84)

ペトロシアンはしばしば指し手が地味だと評される。彼は自分のポーン陣形に非常な注意を払い、滅多に弱点を露出しなかった。彼は相手の攻撃が始まる前にそれを止めようとした。

「ペトロシアンは主導権を握ると、蛇の如くじわじわと締め付けた。相手が喜んで投了するまで圧迫するのだ。旗色が互角ならマングースの如く全ての攻撃をいなしてしまった」—正直なチェスプレイヤー、ラリー・パー

私の村ではこの種のプレイヤーは違う動物に例えられる。亀だ。亀はリスクを取らず、不必要な動きは一切しない。ゆえに観客はたいてい亀が大嫌いだ。ペトロシアンは批判に応えてこう言った:

「私のチェスは用心深過ぎると考える人もいるが、問題はそこではない。私は好機を避けているのだ。好機に依って戦わんとするならトランプやルーレットをする方がいい。チェスはそれとは違う物なのだ」—チグラン・ペトロシアン

「もっと面白いチェスを見せてくれと言われる事もある。その場合私は負けるだろう」—チグラン・ペトロシアン

2つ目の返答は問題の核心を突いている。ペトロシアンを含むほぼ全ての亀プレイヤーは、単に与えられた状況で勝つ為に最善を尽くしているのだ。ペトロシアンはそれほど多くの大会で優勝しておらず、大抵は2位か3位だったが、それでも彼を打ち破る事はほとんど不可能だと思われていた。そして亀プレイヤーにも勝利の日は来る。1963年、チェス世界選手権でそれまでの王者ミハイル・ボトビニクを破ったのだ。

 

ストリートファイタープレイヤー:リッキー・オーティズ

オーティズは小さな変わり者だ。華奢で女性的、ヘアスタイルと髪の色を始終変えている。顔に光り物を付ける時もある。そしてペトロシアンと同様、「地味」なプレイスタイルで批判され、打ち破る事はとても難しいと考えられている。

私自身も大会における辛抱強さと相手を苛立たせる技術には定評があるが、オーティズはそれを遥かに上のレベルで行う。彼はほぼゼロリスクの試合をし、僅かな体力リードを得たら恥も外聞も無く逃げ回る(こうすれば相手は攻撃を当てられず、制限時間が来たら残り体力の多い方が勝つ)。彼の無限の辛抱強さはどんな真面目な対戦相手をも苛立たせ、残り時間に追われた無謀な逆転策へと駆り立てる。オーティズはぬめる魚の如く捕まえにくいのだ。

彼のもう1つの特技は「ちょうど都合のいい間合い」に留まり続ける事だ。自分の攻撃は有効で相手の攻撃は当たりにくいという距離である。苛立った相手から上手く攻撃を誘い、優れた反射神経ですかさずそれに反撃を浴びせる。そして体力リードを得たらますます逃げ、相手(と観客)をますます苛立たせるのだ。

 

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翻訳記事:勝つ為に戦う(19)

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冷静さ

冷静さとは、一瞬の内に起きる出来事の全ての瞬間を見る能力である。それにはしばしば時間の流れが遅くなったかの様な感覚が伴う。これが可能になるのは、その状況に十分に慣れて、脳が不必要な情報を全て遮断できる様になった時だ。そうなれば残るのは必要な手がかりだけである。

新しいゲームを始めたばかりで不慣れな内は、決定的瞬間は文字通り瞬く間に過ぎ去ってしまうだろう。最初はそもそも、その瞬間が重要で注意を要するという事に気付かないかも知れない。たとえ気付いても、その瞬間に起こりうる何百万もの可能性に圧倒され、全てを正しく認識する事は不可能だろう。それが変わるのは、その瞬間を迎える準備ができる様になった時である。決定的瞬間が来るのが分かり(なぜならその前に起きる事のパターンを既に知っているから)、その瞬間に起きうる事はほんの数種類だと分かり、待ち望む1つか2つの合図以外は全て無視できる様になる。

格闘ゲーム「ギルティギアXX」から例を取ろう。私の使用キャラクターはチップだ。私は突進して行って連続攻撃を繰り出し、相手にガードさせる。恐らくはしゃがみガードだ。私はここにトリックを差し込んで、「中段」蹴りを繰り出す事ができる。これは立ちガードしなくてはならない。相手がチップとの対戦に慣れていなければ、こちらの攻撃は瞬く間に展開し、ただそれを終わるのを待つだけになるだろう。そして攻撃から抜け出すには何らかの判断をしなくてはならないという事にすら気付かないだろう。

では仮に、前もってこの中段蹴りを見せておいて、それがどういう物か説明したらどうだろうか? 中段を出す度に立ちガードせよと伝える。練習する。ガードできる様になる。そしていざ実戦になると、それでもやはり私は中段蹴りを当てる事ができる筈である。実戦の混沌の中で中段蹴りを正しく見極めるのはかなり難しいからだ。中段蹴りがいつ来るか分からないので備えておく事もできない。立ちガードそのものは反射神経が良ければ可能なのだが、格闘ゲームは(通説に反し)反射神経だけの問題ではない。反射神経が役に立つのは、次に何が起こるか分からないのに素早く反応しなくてはならない状況である。鋭い読みがあれば相手が次にやりそうな事を予測する基盤ができる。それが無い場合に反射神経に頼らなくてはならないのである。

ここで、中段蹴りをガードするための重要な手がかりを教えよう。実はこちらは好きな時にこの技を出せるわけではない。出し方は2つしか無いのだ。相手に向かって走って行った後、まず6P、斬撃、斬撃、重い斬撃という具合に連続技を出す。これは別に注意しなくてもよい。何が何やらよく見えなくてもそれで構わない。この時点でこちらができる事は非常に限られており、せいぜい裂掌からの連続攻撃ぐらいである。これは派手な炎を纏ったパンチで始まる。そしてその後、中段蹴りを繰り出すチャンスが来る。あるいはそうせずに下段蹴りを出すという選択肢もある。下段蹴りの後にはもう1回中段蹴りのチャンスがある。こちらが中段蹴りを出せるタイミングはこの2つだけなのだ。

これを知っていれば、次に同じ状況になった時に冷静さを保っていられる。こちらは走って行ってパンチか何かを繰り出すが、別にこれは吟味する必要が無い。ただしその後にはたいてい裂掌が来る。それが来たら、立ちガードするかしゃがみガードするかを決めるタイミングである。よし、裂掌が来た。予定通りだ。中段蹴りが来る最初のタイミングだ。実戦上の都合に照らすと、こちらの選択肢は2つしかない。多くの可能性に圧倒される必要は全く無い。次に来るただ1つの瞬間にだけ集中すればよい。それを待つのだ。画面上の無関係な情報は全て遮断せよ。体力バーは忘れよう。スーパーゲージも忘れよう。SEも忘れよう。キャラクターや背景の美麗なグラフィックも忘れよう。見る必要があるのは中段蹴りの始動モーションだけだ。練習するうちに、この状況は慣れ親しんだ物になり、無駄な情報を遮断する能力が発達するに連れて中段蹴りを食らう事など想像すらできなくなる。その瞬間はあたかもスローモーションの様に流れ、相手がそんな蹴りを当てようとしている事が可笑しく感じられる。一方、初心者にとっては同じ瞬間が一条の閃光の様に過ぎ去り、何が起きているか全く分からないのである。

喩え話をしよう。ある人物の声を聞いたら手を叩く事に決めたとする。そして30人がめいめい勝手に話している部屋に入る。数秒ごとに新しい人物が話し始める。その全てが不協和音であり、聞き取る事などできるわけがない。ではここで、同じ任務を別の部屋でやってみよう。今度はその部屋は完全に無音であり、中に入るのは目的の人物だけである。その1人が静寂を破って話し始める。「簡単じゃないか、誰がこんな任務に失敗するんだ?」と思い、少しも困難なくすぐに手を叩く。これが上級プレイヤーの見ている1/60秒の世界である。完璧な集中によって不必要な全ての情報を遮断し、重要な手がかりだけを残しているのだ。

 

「バーチャファイター3」から別の例を挙げよう。ジェフリーが「大カウンター」(相手の技を潰すタイミング)でローキックを当てると確実に投げを決める事ができる。キックの当たりが大カウンターでなかった場合は確実には投げられない。プレイヤー達にどうやってそれを判断しているか聞いたところ、彼らは「大カウンターの音を聞いたら投げコマンドを入力しろ」と言った。最初は冗談を言っているのだと思った。実戦の混沌の中でその音だけを聞き分けるのは至難の業である。しかし練習するうちに、キックボタンを押した後、全てがスローモーションになってその音を待ち構える事ができる様になったのだ。その音を聞いた時には既に準備ができており、投げコマンドを入力するのは馬鹿馬鹿しいほど簡単になった。

ただし気をつけよう。もしそうした瞬間を見る事ができ、対戦相手の誰もができないとしたら、対戦は非常に有利になる。トリックは毎回通用する。そしてそのトリックは優れているのだと勘違いする。そしてある日同等の冷静さを持った強敵に出会い、向こうはこう思うのだ:「何だこいつは? こんな見え見えのトリックに引っかかると思っているのか?」ここに至って今度は自分が馬鹿に思えるだろう。そしてトリックはもちろん通用しない。

だが話はここで終わらず、まだその上がある。上級者と対戦したら「冷静さによるトリック」はもう一切通用しないのだろうか? 基本的に通用しない、ゆえに全く新しい戦略を考えなくてはならない、と以前私は思っていた。だが気付いたのだ。あるプレイヤーは間違いなく最強なのに、時々セオリーから全く外れた行動をしていた(彼の名はアレックス・ヴァイエ。後の章でもまた登場する)。行動Bが優れていると誰もが知っている状況で彼は行動Aを選ぶ。あるいは、まともなプレイヤーなら誰でも見破れる様な見え見えのタイミングでトリックを繰り出す。それは時間の無駄の筈である。ところが彼はそれを当てて、しかも勝ってしまうのだ。何故だろう?

ヴァイエに言わせれば、対戦相手はいつでも一定の認識能力を持っているわけではない。ヴァイエは相手を苛立たせたり混乱させる為にあらゆる手を尽くし、その認識能力を減衰させる。もしゲーム中に恐ろしく変な事が起きれば、相手はその瞬間に囚われて「なんじゃありゃ?」と思い、一時的に目の前の事が見えなくなる。その時こそ、いつもなら見え見えの攻撃が当たってしまうのである。ヴァイエは相手の集中力を失わせ、時間がスローダウンする感覚を奪い去るのである。

興味深い事に、セオリーから外れる行動はヴァイエにとっては非常に効果的なのだ。彼は本来なら当たらない様な攻撃を上手く差し込むだけでなく、それを可能にする為に敵を惑わせる。非常識な行動で敵を混乱させる。もし彼の行動を棋譜の上で吟味したら、「この行動は危険だ、この行動は無意味だ、この一連の動きは全く非効率で別のコンボの方が常にダメージが大きい」という風に批評できるだろう。彼の選択はしばしば非論理的で非最適である。しかしゲームの達人は彼であり、学ばねばならないのは私の方である。誰よりも冷静に状況を見据える達人と対戦する事になったら、セオリーから外れて相手を惑わす事はますます重要になる。相手の目に「砂」をぶつけるのである。普段は見える瞬間が見えなくなったら、本当は通用しない数多くの戦術を差し込むチャンスだ。

 

闇の如く知り難くあれ。雷の如く素早く動け。
—孫子兵法

 

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翻訳記事:Plants vs. Zombies 2 無料化の悲劇

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以下の2つの記事はPlants vs. Zombies 2を全く逆の側面から描き出している:

言い換えれば、前者はこのゲームがアイテム課金で台無しになったと信じており、後者はEAが「ユーザーを怒らせるのを恐れて」手ぬるい事をしたと信じている。EAはPlants vs. Zombies 2を基本プレイ無料にした事で駄目にしたのか? それとももっと徹底的に改造すべきだったのか? 2つの記事はあたかも違う並行宇宙で書かれたかの様だ。

実際、両記事の著者は非常に異なる世界に住んでいる。ファラデイはモバイル向け戦略ゲームブログの筆頭、Pocket Tacticsの創始者である。コアゲーマーにとって基本プレイ無料はおよそ唾棄すべきものだ。カトコフはそれと逆に、Supercellの金のなる木、基本プレイ無料MMO “Clash of Clans”のプロダクトマネージャーだ。このゲームは大口顧客を誘い込んで何千ドルも使わせる事で悪名高い。

カトコフから見れば、Plants vs. Zombies 2は基本プレイ無料ゲームとして巨大なポテンシャルを持ちながらそれを発揮できていないのだ。それはEAのプレイヤーに金を使わせる努力が不十分だったせいである。それはつまり、このゲームは簡単すぎてプレイヤーがアイテムを買う必要が無いのだ:

残念な事にPlants vs. Zombies 2は馬鹿馬鹿しいほど簡単である。ステージをクリアするには欠片ほども努力を要さない。簡単で退屈である。Plants vs. Zombies 2はリアルマネーで消費アイテムを買ってステージを突破する事ができる。だがその需要が生じる為には、プレイヤーがあと少しでステージをクリアできそうになり、それでもあと一歩を消費アイテムに助けて貰わなくてはならないという状況が必要だ。低い難易度のために消費アイテムへの需要は伸びず、収益も低迷する事になった。

更に、このゲームは大抵の基本プレイ無料ゲームの様なプレイ制限要素が存在しない。これまた種々な強化やアイテムへの需要を鈍らせている:

Plants vs. Zombies 2には制限要素が無く、よってコアループが存在しない。このゲームに相応しいコアループは”Candy Crush Saga”に似たスタミナシステムだろう。スタミナシステムがあればこのゲームの収益はもっと増えたと言っても差し支えないと思う。スタミナ回復と、貴重なスタミナでステージに挑戦した後のパワーアップとで継続的に需要が発生したのではないか(ステージに挑むのにコストが必要であれば、それをクリアできない事態は避けたがる)。

EAは金を使う方法を色々用意した。プラントの解禁とか、特殊能力とか、追加のプラントフードとか……しかしゲームそのものがプレイヤーに金を使わせる様に作られていない。結果、本作はあっという間にiOSの収益トップ20から転がり落ち、現在では50位付近をうろうろしている。カトコフに言わせれば、これだけの宣伝と期待がかけられたゲームとしては失敗でしかない。

それと対照的に、ファラデイはこのゲームに失望している。商業的な都合でゲーム性が台無しになり、雰囲気が毒され、プレイヤーを満足させる事が重点項目ではなくなってしまった:

もちろんPlants vs. Zombies 2は面白くなる様に作られている。しかし同様に明白なのは、プレイヤーが適度に苛立って財布を開く程度にしか面白くしていないという事だ。プレイヤーは$5でプラントを早く解禁するなり、$6で新しいステージに行くなりといった形で金を使う。全く無神経で野蛮な仕組みだ。

初代Plants vs. Zombiesの独創性に対する賞賛の後、ファラデイはこう宣言する。「Plants vs. Zombies 2に関してEAとPopCapが犯した最大の間違いは、このゲームを鈍速の挽き臼に変えてしまった事だろう」。不幸にして、ゲーム時間を延ばしてゲーム内購入の余地を作る為にEAがやった事はこうだ:

最初の11面をクリアした後、Plants vs. Zombies 2は挽き臼の速度を弄り始める。ステージ11のエジプトをクリアするとそのワールドは終わりなのだが、次のワールドに進むにはそれまでの面を繰り返し繰り返し遊ばなくてはならない。そうやって星を集めて海賊の海を解禁するか、さもなくば$6支払うかだ。

両方の著者は事実認識について少々異なっている(ファラデイの言う星システムはカトコフが求めるコアループに近い。ゲーム内の関所がプレイヤーを先へ進ませないという仕組みだ)。どちらにせよ、ファラデイとカトコフの両方がPlants vs. Zombies 2を失敗と見なしているのはEAにとって頭が痛いだろう。このゲームが無料ゲームで金を稼ぐ人間も、元々のゲームのファンも満足させないとしたら、一体誰を満足させられるというのか? もしかするとこの苦い教訓は、元々のファンを失うリスクを冒すのであれば、何が何でも金を稼がなくてはならないという事かも知れない。

EAはコアゲーマーと大口顧客の板挟みになっている様だ。コアゲーマーは何を遊ぶかに関心があり、数十年に渡ってEAに富をもたらして来た。不幸なのは、大口顧客が他の会社をそれよりもっと金持ちにしている事だ。Supercellは2つの基本プレイ無料ゲームだけで30億ドル級の企業になった。2つのゲームは今や1日に250万ドルを生み出し、利益率は驚愕の75%である。これに対してEAの去年の利益率は2.5%に過ぎず、2つどころか遥かに多くのゲームを作っている。株主のいる会社として、一体どうしたらこの大口顧客を無視できるだろうか? 彼らを相手に商売をするSupercellに対抗せねばならないのに? 答えは「無視できない」であり、PopCapはもう初代Plants vs. Zombiesの様な物は作らないのである。

 

原文:http://www.designer-notes.com/?p=674