Bitcoin騒動に関して

Bitcoinについて色々調べていたら急にニュースが来たので現状の考えを記録。


貨幣の成り立ちを説明する際にはしばしば牛の寓話が挿入される。君は牛を2頭持っている。1頭を手放して羊に換えたい。そこで羊が余っていて牛を欲しがっている人を捜して市場を練り歩く。しばらくの後にそれが不便だと気付き、まず牛を金に換えてから羊を買う様になる……

これは全く正しくない。人類の経済は物々交換で始まったのではない。経済システムは大まかに4種類あり、成立順に次の様になる:

 

1:貸し借りの経済

狩りで大きな獲物を捕って来たが自分達だけでは食べ切れない。そこで近隣の家族みんなを呼んで豪華な食事を振る舞う。彼らはその恩義を覚えておいて、後で困った時に助けてくれる。即ち「これで貸し1つだよ」という経済である。共同体に存在する人間の数が少なければこれは十全に機能する。我々も知人に対して「この間お世話になったから」と手土産を持って行ったりする。

 

2.贈与の経済

土産を持って行くのは別に見返りを期待してとか借りを返すためばかりではない。単に贈りたいからかも知れぬ。また部族の境界付近にごみを捨てたら、隣の部族が勝手にそれを拾った挙げ句自分達への贈り物だと解釈する事もある。そして何らかのお返しをして来る。ポリネシアには霊的価値を持ったアクセサリを島から島へ贈与して受け渡す習慣も存在した。これも財物が流通する形態の1つである。

 

3.交換の経済

他の部族と特産品を交換する、あるいは珍しい貝とか金属をやり取りする。古代ギリシャでは35kgの青銅塊が通貨として使われた。要はコモディティを取引の媒介にする仕組みである。オンラインゲームの取引ですら手頃なアイテムが通貨として使われたりする。

 

4.信用の経済

銀行は当初貸金庫であった。金貨を安全に保管してくれるサービスである。預け入れたら代わりに引換証を貰う。窓口に引換証を持って行けば金貨を払い出してくれる。するとこの引換証を金貨の代わりに支払いに使うのが便利だと分かる。どうせいつでも金貨に換えられるからだ。これが銀行券、いわゆる紙幣である。

これは一見金というコモディティを介した交換の経済に見えるが実は違う。もし自分の金庫に入れておいた金貨が盗まれたら無くなってそれきりだが、銀行に預けておいた金貨が金庫に侵入した泥棒に盗まれても銀行券は手元に残る。そして銀行に金貨を請求できる。銀行はもうその金貨を持っていないけれど、他所から工面して支払わなくてはならない。銀行は引き換え義務というマイナスの金=負債を抱えている。誰かが負債を抱え、同じ額の請求権を別の誰かが持ち、その請求権を流通させる。金本位制廃止後も銀行券は中央銀行の負債であり本質的には変わらない。誰かが借金を抱え、それを返済する為に働く債務者本位制である。

 

Bitcoinやその他の新興通貨に関する混乱は、社会制度が4に達しているのに通念上の「貨幣」に対する理解が3で止まっているせいである。金は交換すべきコモディティではない。誰かの負債である。政府がそれを金だと定めたから金になるのではない。そういう金は政府紙幣と呼ばれすぐ紙になる。信用通貨を「無価値なコモディティを政府の力で流通させている」と誤解した所から全ての問題が始まっている。

Bitcoinの根源的な問題は誰の負債でもない事だ。世界には1200万少々のコインが存在するが誰もそれに対する支払い義務を負ってはいない。つまりこれは信用通貨ではない。またコインは使用価値を持たないビットの塊であり交換用コモディティでもない。民間の政府紙幣である。それ自体に使用価値の無い4の「お金」と、誰も負債を抱えておらず金山から掘り出せる3の「お金」を巧みに混同させ、あたかも無から有を作り出したかの様に見せているだけである。無より生まれし物無に帰すべし。

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