ナショナルエコノミー テーマデザインノート

ゲーム内の要素は何を表しているか


ナショナルエコノミーは元々マクロ経済シミュレータとしてプロトタイプを組み、冗長な要素を削ぎ落としてゲームに落とし込んだ製品である。つまり削られる前の「リアル」な状態があったわけで、そこでは現実の経済とゲーム内要素が一対一対応していた。

もちろんゲームは教材でもシミュレータでもない。そしてデザイナーはゲームの物語についての最終決定権がない。プレイヤーが「これはこういう世界なんだ!」と感じた意味こそが最終稿であり、デザイナーの考えた物語は発表した瞬間に脇に追いやられる。あらゆる分野のあらゆる作品がそうだ。「作者の伝えたかったこと」とか「作品の意味」など存在しない。

それでも一応気になる人のために読み物としてテーマ的説明を書いておく。

 

手札

これは物理的実体を持った「財」、早く言えば在庫を表す。原料、機械、一般消費者向け製品、燃料、食料、部品など資本として固定されていない実物資産全てである。在庫は場所を取るし経年劣化する。だから手札には上限がある。というか上限を付けるのがゲーム文法において自然になるからカードで表している。

販売

手札を捨てて家計から金を取る行為は財を消費に充てる事に相当する。Y=C+IのC部分である。店に派遣された従業員は販売員として商品の流通を担う。家計が潤沢にあるほど百貨店など高度な職場を起動できるのはインフレーションを表す。逆に家計が枯れると効率の低い職場しか起動できないのはデフレーションである。

建設

手札を捨てて建物を作る行為は財を固定資本として投資する事を表す。Y=C+IのIである。

売却

建物の売却はもともと借入であった。実物資産を担保に銀行から金を借りる事で信用創造が行われ、流通する貨幣量が増加するという表現である。サプライから金を供給しているのは政府でも外国人でもなく銀行である。ゲームでこれをやると何もかも面倒なのでただ売る仕組みになった。

家計

「家計金融資産」などに見られる集合的家産の意味である。労働者など国民総体が持っている金だ。当初は消費性向の概念があり全てが消費には回らなかったが面倒なので全て簡略化した。

政府

当初のプロトタイプでは政府が存在しケインジアン政策とか課税を通じて経済を左右できた。面倒なので退場。

外国

当初は貿易の概念があり、投資だけでなく純輸出によって流通貨幣を増やすことができた。家計の取り合いというゲームバランスが壊れるので退場。結果ゲームではY=C+I+G+NXのうち最後の2項が排除され鎖国下の民間経済と化した。

貨幣

貴金属に裏打ちされない信用通貨である。だから担保になる実物資産さえあれば無限に発行される。舞台が20世紀なのはこの辺りの都合による。なお続編で時代設定は忘れ去られた模様。

労働者

国内総体での人口が変動したり、失業者がいたり、市場環境によって賃金が変動したり、解雇によって不況が深刻化したりと動的な振る舞いをする連中だったが全て簡略化。これはゲームだ。誰が何を言おうとただのゲームなんだ。

賃金

元々は動的な賃金水準変動システムを持っていた。生産性の向上によって労働者1人あたりの事業者利益が増え、労働需要が高まり、供給逼迫から賃上げに繋がる…という流れだったが面倒なので全部ラウンドごとに固定。どうせゲームが進めば経済は膨らむのだ。

消費財

バナナは元は存在せず全てが「財」だった。完全にゲーム上の都合で導入している。財を2個生み出す「農場」と、財を2個捨てて4個生み出す「工場」の役割分担が必要になったためである。

勝利点トークン

完全なるゲーム要素。何を表しているかよく分からない。最初は強力な効果がある代わりに負債トークンが発生する建物をデザインしたがバランスが悪く、反転させて効果が控えめな代わりに勝利点トークンが発生する建物にした。ゲーム内要素は複数の獲得手段と複数の使途があると勝手に面白くなるので大聖堂の建設に参照される。

 

[ ・p・]<機械人形は何を表してるんですか? (・ε・;)

ナショナルエコノミー・グローリー デザインノート

派手でバランスの取れたゲームを作る


ゲームはボトムアップで作る場合とトップダウンで作る場合がある。ボトムアップは「こういう動きが面白い」「こういうルールが面白い」という中核部分が先に出来てそこから製品としての体裁を計算する作り方である。トップダウンはまず「冒険要素のあるデッキ構築ゲームを作ろう」とか「このシリーズの次を作ろう」とか製品の構想があり、枠の中に仕様を埋める作り方である。

グローリーは後者である。イラストレータに仕事を供給するためにナショナルエコノミーの続編を作る事になり、カード枚数も箱の大きさも全て先に決まった状態からプロジェクトが始まっている。

この種のトップダウン方式のコツは最初に「掴み」を作る事だ。メセナの大聖堂の時もそうだが、パッと見てとんでもなく強かったり使いたくなる要素をねじ込み、その存在を正当化する様に逆算してバランスを組んだり他の要素を調整する。こうすると早い段階で自由変数を減らせるので制作に迷わない。コスト10のものが存在する環境に踏み倒しは存在してはならないとか、他の勝ち手段はそれに対抗できるぐらいのパワーが必要だとか、一箇所を決める事で自動的に他の仕様が限定されるのだ。

グローリーの掴みは機械人形である。こいつは4コストで作れる無料の労働力だ。労働者のおっさんと全く同じ機能を持つが維持費はかからん。研修も要らん。テスト版を見せた人々には「こいつは強すぎるだろ」という感想を毎回貰った。

インパクトはこれでよろしい。後はこいつに合わせてバランスを組むだけだ。生産力を労働力に変換できる以上、ドローソースはやや控え目にせねばならん。でないと無限に拡大再生産が行われて収拾がつかぬ。

そこで今回のレギュラーになったのが養鶏場である。手札が偶数なら2枚、奇数なら3枚の消費財を引く。前作の養殖場に近いがこちらは1回起動すると手札が偶数になるので生産力が極端には伸びない。併せて芋畑や果樹園の様な「一定枚数まで補充」の類は全て退場させ、お手軽ドローソースを根絶した。手軽なドローがそれ自体として悪いわけではないが、機械人形という受け皿と同じ環境に存在すると具合が悪いのだ。

ドローがただ減るだけだと地味なゲームになって楽しくない。また機械人形ルートに対抗する別の勝ち手段も要る。両方を一遍に解決する方策として、勝利点トークンを集めると建設コストが安くなるドロー施設を導入した。これはフレーバーとしては高度な技術を表している。技術研究に励んで少人数で効率的に生産するか、頭数を揃えて力で押すか。卓上で異なる戦略が競い合うとリプレイ性が高くなりやすい。

メセナにおける勝利点トークンはプレイヤーが作った建物からしか生まれなかった。このためゲーム展開によってはほとんど登場せず、序盤から参照するのが難しいというデザイン上の制約があった。グローリーでは最初の公共施設を追加して勝利点ソースを作る事でゲームの中核に持って来る事にした。

最後はテーマだ。ロボットがいて、高度な工場があって、技術を公共の空間から掘り出して来るのはどんな世界か? スチームパンクだ。上手く行くプロジェクトは全てが理路整然と嵌り迷いがない。かくて6週間で過去最高のナショナルエコノミーが組み上がった。

ナショナルエコノミー・グローリー

ナショナルエコノミー・グローリー

最新作がいつでも最高傑作。ナショナルエコノミーの続編だ!

メセナで好評だった勝利条件系建物をさらに発展させ、勝ち筋の多様化とバランス調整を押し進めたゲーマーのためのゲームである。無償の労働者である「機械人形」が出てきたり、勝利点トークン=技術力を集めると生産施設が安くなったりとスチームパンクならではのギミックも満載だ。

6/1発売。¥2,600+税。ゲームショップかAmazonかこにょっとで買えるぞ。春のゲームマーケットにも持って行こうとしているが間に合うかは微妙だ!

翡翠の商人 デザインノート

作った経緯とかデザイン思想


翡翠の商人 パッケージ画像

amazonリンク

ボードゲームの基本は競りである。ゲーム内資源に対して「値を付ける」、言い換えれば価値を判断して支払ってもいい犠牲を計算する行為は全ての根源である。陣取りは駒で土地を買う。ワーカープレースメントはワーカーでアクションを買う。RPGは金で装備品を買う。ほかにも株を買ったり属州を買ったりゲーマーはいつも買い物に大忙しだ。

こうした「競り」のルールを構造に分解し、いくつかの二項対立に落とし込む。ちょうど音声学で母音を前後・開閉・円唇非円唇に分類する様な具合だ。すなわち

  • 金を支払うか、機会費用を支払うか
  • 財物を買うか、アクションを買うか
  • 値段を釣り上げるか、段々値段が下がるか
  • 順番に値を付けるか、同時に値を付けるか
  • 単独の物品が対象か、いくつかの組み合わせが対象か
  • 単一の競りが行われるか、同時に複数の競りが進行するか
  • 支払い能力が固定されているか、後から増えるか

以上7項目でルールを記述する。例えば「ハイソサイエティ」は次の様に記述される。

  • 金を払って
  • 財物を買い
  • 値段を釣り上げ
  • 順々に入札し
  • 単独の物品が対象で
  • 一つずつ競りが行われ
  • 最初に全ての金を持っている

あるいは「アグリコラ」は次の様なゲームである。

  • 機会を消費して
  • アクションを選び
  • 徐々に値段が下がり(1アクションでできる内容が多くなる)
  • 順番にアクションを選択し
  • 一度に一つのアクションが選ばれ
  • 複数のアクションが同時に提示され
  • ワーカーが後から増える

これら全ての二項対立について一般的(無標)な値に0、変わり種(有標)の値に1を割り振る。するとハイソサイエティは0000000で、アグリコラは1110011で表される。これを2進数と見なせば前者は0番で後者は115番である。

(´・ヮ・)<0は自然数

これで0番から127番までのルール構造がデザイン空間上に生まれる。元素周期表みたいなものだ。元素と同様に既知のゲームをここに当てはめる。するとやはり同様に「理論上存在できるが未知の箇所」が多数発見される。これで未来にデザインされる競りゲームの性質をある程度予想できるわけだ。

この未来予想は常に正しい。何故なら自分で作るからだ。これら空き地のうちで最も面白そうだったのは次の組み合わせである。

  • 機会を消費して
  • 財物を買い
  • 値段を釣り上げ
  • 順番に入札し
  • 複数の財物の組み合わせを取り
  • 一度に一つの競りが行われ
  • 支払い能力が固定されている

ユニークなのは「機会を消費する」と「値段を釣り上げる」の組み合わせである。コロレットをはじめ「決まった回数だけ取れる」という機会費用型の競りは普通に存在するが、大抵は取る物の内容が徐々に良くなる=価格が下がる競りである。これを釣り上げ型に置き換えると取る物の内容を徐々に切り下げる競りになる。

この論理的演繹により「財宝カードを何枚取るか」を下向きに競るルールができる。「3枚取りたい」「じゃあ俺は2枚でいい」「だったら1枚で落札だ」と段々条件を切り下げていくのだ。これは同じ量の財物に対して「$1払う」「じゃあ俺は$2払う」「だったら$3で落札だ」と値を釣り上げる=条件を悪くするのと構造的に同じである。

 

続いて勝利点であるが、これまた既知の計算方式は概ね5つに分類できる。念能力かな?

  • 直線型:獲得物と成果が線形に対応する
  • 閾値型:獲得物がある値を超えると急激に良くなったり悪くなったりする
  • 曲線型:収穫逓増または収穫逓減の曲線を描く
  • 順位型:他のプレイヤーとの相対量で成果が決まる
  • 組合せ型:特定のものを組み合わせると成果が急激に良くなる

これをそのまま財宝カードとして実装すると次の様になる。

  • 金:量がそのまま得点
  • 贋金:量がそのまま得点だが金を上回ると0点
  • 翡翠:1個で1点、2個で3点(1+2)、3個で6点(1+2+3)…と階和になる
  • 香辛料:集めた量を比較して1位に24点、2位に12点、3位に6点
  • 書物:ABCDEの5種類がありセットを作ると20点

複数の型を組み合わせたりひねりを入れたりすればもっと複雑なものも無限に作れるだろうが、基本形はこれだけである。

 

以上を踏まえて財宝カードを取り合うゲームができる。人間が一度に認識できる対象物はせいぜい8個なので8枚ずつ出てくる。このルールで飽きずに続けられるのは9ラウンドぐらいである。なので7ラウンドに減らして「あと少し遊びたかった」という地点で終わらせる。すると8×7=56枚のカードで成立する。これはちょうどトランプの1デッキの大きさであり、製造費用が膨らまず、また手で散らからずにシャッフルできるほぼ上限である。

物事が計算通りに行くと気持ちが良い…といったことを…「デザイン」というんだ…。

2019/5/25 – 5/26 ゲームマーケット2019春参戦情報

アナログゲーム即売会「ゲームマーケット」に出展します。

  • 名称:ゲームマーケット2019春
  • 開催日:2019年5月25日(土) 5月26日(日)
  • 会場:東京ビッグサイト
  • 開催時間:10:00〜17:00
  • 入場料:1000円
  • C20「スパ帝国」(株式会社キュリオシティ)

翡翠の商人を持って行きます。クッソ運が良ければナショナルエコノミーグローリーも間に合うはず。

翡翠の商人

新作を出すと言ったな。あれは本当だ。

前から作っていた競りゲームである。得点のカードが場に出てくるので「取りたい枚数」を各自言う。小さい数を言った者から好きなものを選べる。カード1デッキだけで本格的な駆け引きが成立するのだ。

5/18発売。¥1,380+税。ゲムマかゲームショップかAmazonこにょっとで買えるぞ。

説明書:

好きなものを仕事にする事について

Q.趣味を仕事にしたら人生楽しいか? A.ふつう


 

元々ゲームが好きで、趣味でボードゲームを作り始めて、売ってみたら存外好評でそれがそのまま仕事になって…という噛み砕いた身の上話をする機会が増えた。会社を作って士業の人とか取引相手と話さねばならなくなったからだ。大抵は「すごい」とか「羨ましい」とか「いい人生ですね」という感想を寄越すのだが、それは果たして実態を捉えているか?

現実はもう少し灰色である。まず生活の良し悪しと生業にしている活動を楽しんでいるかどうかは殆ど関係がない。仕事中に好きなものに触れていられるメリットは、好きなものに触れている間も仕事について考えねばならんデメリットで概ね相殺される。第一仕事としてやる以上、成果や生産性が全てであり何もかもその為に最適化せねばならん。遊びを作る仕事とて遊びでやってはおれん。

生活水準に直結するのはむしろ仕事が「どれぐらい苦痛でないか」である。仕事には必ず面倒臭い瞬間とか悩ましい局面とか歯を食いしばらねばならん戦いがある。それも山のようにある。峠を越えようとしたら上り坂とカーブにぶつかるぐらい当然の事である。そうした苦痛を「まあまあ堪えられる」程度と捉えるなら、それなりに向いた仕事である可能性は高い。

入稿の瞬間とか作ったゲームを楽しんでもらった瞬間にどれほど喜ぼうとそれは一瞬である。苦しみは延々と続く。凡庸な試作品をボツにし、スプレッドシートを睨み、外注先を急かし、カートン仕様について工場と話し、税関からの電話を受け、問屋から納品スケジュールを聞かれ、税金を払い……リストは無限に長くできる。

こうした作業がそれほど苦痛でない事によってボドゲ屋は我が生業として成立している。全く興味のない分野だろうと「苦痛でない」ならそれは向いた仕事である。どれほど夢に見た大好きな分野だろうと堪えられないほど辛い部分があるなら早晩破綻する。「好きなもので生きていこう」というのは割にトンチンカンな考えである。

ただしこれとは別に生活の中核だった趣味を仕事にするのは大きなメリットがある。仕事と人生が完全に一体化してワークライフバランスを考える必要が無くなるのだ。

同性交配の人口学的帰結

男同士で子供が作れたらどうなるかという思考実験


 

知り合いにサンドウィッチマンの両方に半分ずつ似ている男がいる。冗談で「2人の子供なのではないか」などと言っているが、もし本当に男同士で子供が作れたら何が起きるのだろうか? 暇に任せて計算してみた。

まず父親2人の生殖細胞を掛け合わせて受精卵を作ることが可能だと仮定しよう。本来ミトコンドリア遺伝子は母方からしか受け継がれないがそれもどうにか解決したとしよう。その他の生物的社会的諸問題も全て片付けて普通に男同士で子供を作る時代になったらどうなるか? 興味深いことに男性人口が段々減っていくのだ。

生殖細胞が作られる際は減数分裂によってX染色体とY染色体のどちらかが引き渡される。異性交配であれば母親はXX、父親はXYなので受精卵の組み合わせはXX(娘)かXY(息子)のどちらかである。

ところが父親が2人いる場合、どちらもXYを持っているためXX・XY・YYの3通りの組み合わせが生ずる。X染色体には生存に必須の情報が含まれているのでYY個体はまず死産になるか着床しない。よって生まれて来る子供はXX(娘)が1/3、XY(息子)が2/3である。すると遺伝子プールに占めるY染色体の割合が父親世代では1/2だったのに子供世代では1/3になる。男同士で交配すると1世代ごとにY染色体の割合が2/3に減るわけだ。

母親2人の交配であればこうした問題は起きない。親の染色体がXXとXXなので生まれて来るのは全てXX(娘)である。

もし世界が異性交配をすっかりやめて同性交配のみを行う様になったとすると、およそ55世代後に地球から最後の男がいなくなる。

 

並立ならば?

では異性交配と同性交配が並存する世界ならどうだろうか? 人類が交配相手の選択に際して性を一切考慮しなくなり、人口比率に応じてランダムに組み合わさると仮定しよう。これを次の様な単純な計算式に落とし込む:

第n世代の男性比率 = n-1世代の男性比率 x ((1-男性比率) + (男性比率*2/3))

するとこの場合でも男性人口は減り続けるが、そのペースはかなり緩やかだ。人口に占める男性の比率が減るに従って男同士の交配機会が少なくなるため、減少スピードが次第に0に近くなり、7000世代が経過してもなお数百万人を残す。

このお話の教訓は? 多分何もない。せいぜい稀な潜性遺伝子が淘汰圧を受けるには非常に長い時間が必要だという一般論を言い換えた程度だろう。

 

(´・ヮ・)<ほんと時間の無駄だな

采配の問題

単騎で強いタイプの指揮官は部下に無闇な期待をするという話


 

「未熟の不知」という有名な論文がある。被験者を集めてテストを受けさせると、成績の悪い被験者はだいたい自己評価が過大であり、下から2割ぐらいの連中でも自分は平均より上だと思っている。一方成績の良い被験者は自己評価は正確だが、他の被験者の成績を高く見積もりすぎる傾向があり、自分の相対順位を実際より低く予想する。これは今日ダニング・クルーガー効果と呼ばれあちこちで引用される。

日常の言葉で言い換えるとこうだ。できない者は鈍すぎて自分ができない事にすら気づかない。できる者は自分にできる事は誰にでもできると勝手に思い込んでいる。

こうした現象は人員を登用して仕事に割り当てる際にしばしば問題になる。本人が思っているよりも仕事ができないことはよくある。特にその登用を決める上役が個人戦闘力の高いタイプだと、そいつ自身ダニング・クルーガー効果に罹患しているため二重に判断が歪められる。そして上役というものは大方指揮能力の高さではなくその前段階での個人的能力のゆえにその地位に登って来ている。終末を告げるラッパは鳴りやまん。

こうした現象に対抗し、パフォーマンスに対する認知の歪みを矯正する方策を考えた。要約すると次の2つだ。

  • 自己申告はノイズである
  • 速度は優れた指標である

 

自己申告はノイズである

Perceived Ability

先の論文に示されている様に、自分自身の能力に対する認知は実際の成績と極めて緩い相関しかない。個人ごとのばらつきや、観測者期待効果による誘導や、上役との性格的合致が有能さとして誤認される傾向を考慮すると能力の自己申告は情報として無価値である。

日常の言葉で表現するならば、「絶対やってみせます!」と豪語する候補者と「できるか分かりませんが頑張ってみます」とはにかむ候補者の期待値は同じである。よって最初から自信の有無を聞かない方が息を無駄に吐かなくて済む。

誓言とか契約とか供託金とかを用いて嘘の申告にリスクを負わせたとしても正確な情報を引き出すのは不可能である。なぜなら能力の低い候補者は本当に自分はできると信じているからだ。

 

速度は優れた指標である

もう少しマシな能力計測手段を探す場合、一番良いのが速度である。つまり成果物を期日通りに、あるいは前倒しで持って来る傾向である。ギリギリ通用する水準を満たしていれば出来具合にはそこまで注意を払わなくてよい。大幅遅れで素晴らしいものを持って来る者より期日通りにほどほどのものを持って来る者の方が期待できる。

なぜか。第一に、速度の方がばらつきが少なく客観的に計測できるからだ。制作分野では特にそうだが、出来の良し悪しはどうしても主観に左右される。好みもあるし、要求仕様が上手く伝わったかどうかにも影響を受ける。単純に発注者が2つの色から1つを選択しただけでも認知が歪められてその色を好ましく感じるものだ。

速度の方は均質で無機質な時間によって容赦無く表される。調子の良し悪しはあるにせよ、リテイクを除けば品質ほどには偏差が大きくない。不可抗力による遅れも時にはあるが、5回連続で運悪く家に隕石が落ちる確率は低いのである程度の標本規模があれば信頼性の高い計測ができる。

次に、速度は他の全ての基盤になる。素早く手を動かせればリテイクも早い。多くのものを完成させれば成長も早い。次々に試みていれば偶々素晴らしい出来のものが生まれる可能性も高い。プロジェクト管理の観点からもリスクが低い。手が早いという事はとにかく素晴らしいのだ。この要素はしばしば過小評価されている。

 

まとめ

人員の能力を測るにあたって「できるか?」と聞くのは酸素の無駄である。「何月何日までにXを持ってこい」とクエストを提示した方がよい。

 

( ・3・)<明日までにぷにぅ饅頭の型作ってこい えぇ…(困惑)>(・q・ )

不完全情報ゲームデザインの基本定理

嘘つきゲームを作る時の問題


 

この頃ポーカーに凝っていてテキサスホールデムを随分遊んでいる。電車の中で暇があると古典と呼ばれる理論書を読んだり確率表を眺めたりして時間を潰す。アメリカの国民的ゲームと呼ばれるだけあって相当な量の研究がなされている。

しばらく遊んでいる内に気が付いたのだが、ポーカーはどうやら役を作るゲームではなくて誰が強い役を持っているかを当てるゲームらしい。自分が一番強いハンドを持っていると思ったら賭け金を膨らます。弱いと思ったら大人しくしている。ブラフをかけたり煙幕を張ったりも偶にはするが、そうした搦め手の頻度は最初思っていたよりずっと少ない。

卓の上でやり取りしているのは本当はカードでもチップでもなく情報である。見えているカードや他の人間の行動によって推察を行い、それに基づいて行動し、その行動がまた他の人間にとっての手がかりになる。

そこで興味深いのが”Harrington on Hold ‘em”で紹介されていた2つのプレイスタイルだ。「保守的」なスタイルはあまりブラフをかけず、弱いハンドはさっさと投げ捨てる。「攻撃的」なスタイルは相手が弱いと見たらどんどんブラフをかけるし幅広いハンドで参加する。保守的な方は確率論的により妥当だが相手に読まれやすい。攻撃的な方はリスクが大きいが相手から見ると非常に読みにくい。賭け金を釣り上げているのが真正な高いカードなのか、ブラフなのか、低いカードでポットに入ったら偶々モンスターハンドに化けたのか分からんのだ。

だから逆説的なことに、「攻撃的」なスタイルは相手に情報を与えないという観点から見れば防御的である。逆に「保守的」なスタイルは自分の行動の最適化という点で攻撃的である。

 

ゲームデザインへの応用

私の本業はゲームデザイナーなので(そうだったのか!)そちらに応用してみよう。不完全情報ゲームを遊ぶ時ではなく作る時の定理は次の様に導かれる。

  1. プレイヤーは非対称な情報を持つ
  2. 知り得ない情報についての正確な推察はプレイヤーを有利にする
  3. 正直な行動はプレイヤーを有利にする

1は基本的な前提である。明らかにされない情報があってもそれが全員に共通だと単に乱数を用いたゲームである。2はこれまた自明である。情報はゲーム内での戦略的優位性を生み出すが故に意味があるのであって、何にも影響しないなら最初から隠れた情報が存在しないのと同じだ。

3はしばしば軽視される極めて重要な点だ。プレイヤーは自分だけが知っている情報を正直に申告した方が嘘をつくより有利にならなくてはならない。そうでなければ卓に情報が流通しない。全員が常に嘘をついていたらそれは嘘ではなくランダムなノイズである。

不完全情報ゲームの奥行きを担保しているのは2と3の間のジレンマである。正直に行動すればするほど最適化され有利になるが、同時に他のプレイヤーに沢山の情報を投げ与えてしまう。”Harrington on Hold ‘em”で紹介されていた例は、AA(最上のハンド)で常に賭け金を釣り上げていたら、釣り上げなかった時はAAが入っていないことがばれてしまうという論考である。だから偶には逆の行動もして目をくらます。

所謂「正体隠匿」ジャンルの失敗作によく見られるのは3が十分に考慮されておらず、ランダムな振る舞いに基づいて裏切り者を探さねばならない代物である。これは大抵言いがかりと印象論に終始する。一緒に遊んで楽しい友達同士で言いがかりを付けるのは楽しいのだが、それはゲームが楽しいのでなく人間が楽しいだけである。

 

(´・ヮ・)<お前友達いたの? (・ε・ )