魔法の論理的演繹

どうしてフィクション内の魔法が合理的でなくてはならないかの考察


ゲームなり創作物語なりを拵え、作品世界に魔法を存在させたとしよう。火の玉を作るとかネズミに変身するとか宿敵に納豆の匂いを全身から発させるといった便利な現実湾曲メソッドである。するとどこからともなく合理性の番人が現れて文句を付け始める。「この魔法は熱力学の第一法則を破っているぞ!」「変身中の声帯で人間の言語を使えるのはおかしい」「皮膚常在菌が納豆菌の繁殖を抑えるのでは?」といった調子だ。

ううむ、どういう事だろう? そもそも魔法には物理法則をねじ曲げる事が期待されているのではないか? 合理性の番人は物語に不合理な期待を抱いていてすべてが現実世界と同じでなければ気が済まないのか?

そうではない。こうした苦情には実は理がある。本質的な問題は現実を湾曲する事でなく、湾曲の帰結を十分に掘り下げていない事なのだ。

 

物を空中に持ち上げる魔法があったとしよう。その過程で獲得する位置エネルギーと同等以上のエネルギーを外部から供給してやる必要が無いとすれば、それはエネルギー保存則を破っている。そしてエネルギー保存則を破る方法が作品内に存在すると、当然次の様な疑問を惹起する。「どうしてこの人達は永久機関を作って粉挽きを楽にしないんだろう?」記録に残っている範囲でも永久機関を作る試みは13世紀から存在するし、粉挽きは人力でやると相当な重労働だ。

もしその世界の住民が我々の知る意味での生物であり、楽な栄養源を無意味な重労働よりも好むとすれば、永久機関文明を築いていない事についてそれなりに筋の通った説明が必要である。それは「魔法を使いすぎると環境中のマナが汚染される」でもいいし、「ラッダイト運動が激しく自動化はギルドからの執拗な妨害に遭う」でも構わない。またゲド戦記の様に魔法を使って目の前の問題を解決する事が本質的な改善に繋がらないと示唆するのでもよい。とにかくその世界の住人が馬鹿でない事を示すべきなのだ。登場人物の一部でなく全部が馬鹿だとすれば、それは真剣な感情の投入を妨げる理由にしかならない。

 

物理法則を曲げる魔法の論理的帰結を徹底的に描いたらどうなるだろうか? 永久機関文明の出現に伴い生産のボトルネックが情報や天然資源に移行し、経済構造の激変とそれに伴う政治体制の変化を迎え、我々の知る歴史とは全く異なる技術史を構成するかも知れない。あるいは「魔法でパンを生成する事は可能だがそれは必ず他人の食卓に供さなくてはならず、自分自身のためにパンを出す事は許されない」という魔術版インセストタブーによって濫用が戒められ冷たい社会を保つかも知れない。

こうした演繹無しにアドホックに魔法が導入された場合、社会体制や習慣や他の風景との整合性を取るために物理法則に従う事が要請されるのである。登場人物がネズミに化けるのは少しも問題ではない。ネズミを見ても「誰かが変身しているのかも知れない」と疑わない事が問題なのだ。

#42 レモンポーカー

2〜人用トランプゲーム。親の作った2つの手のどちらが強いか当てる。


遊び方

  • 親プレイヤーを決める。もう一方は子になる。
  • トランプデッキ(52枚)をよく切る。
  • 共通カードとして2枚を表向きに置く。
  • 親のホールカードを引く。
    • 裏向きのまま親だけが見ることができる。
    • 5枚を1組として2組引く。
    • 組は引いた時点で固定され、カードを入れ替えることはできない。
  • 親はそれぞれの組のカードを数字の大小に従って並べる。
    • 小さい方が左。
    • 違うスートの同じ数字はどの順番でもよい。
    • Aは最大として扱う(Kの隣)。
  • 親はそれぞれの組ごとに2枚を選んで表に返す。
  • 子は裏向きのカードを1枚選んで表に返す。
  • 子はどちらの組が強い手になるかを予想して賭ける。
  • すべてのカードを表に返す。
  • それぞれの組ごとに、ホールカード5枚と共通カード2枚の中から5枚を選び出して最も強いポーカーの役を作る。
  • 予想の成否に応じて賭け金を払い戻す。

 

( ・3・)<まだ作ってる途中だよ