翻訳記事:選択が善ならざる時

これは翻訳記事です

GDC#25:選択が善ならざる時

2013/7/29 Soren Johnson
Game Developer誌2013年5月号に掲載された物の再掲

 

ビデオゲームの決定的性質は何よりもプレイヤーの選択である。相互作用こそゲームを映画や文学と分かつ物だ。批評家が”Dear Esther”などのデジタルコンテンツを「ゲームとは言えない」として非難するのは、往々にしてプレイヤーの選択が事実上存在しないという意味である。

しかし、選択という概念はいささかゲーム開発者によって理想化されており、「プレイヤーに介入させる」「著述をやめる」といったフレーズによって、選択の負の側面がしばしば開発において見過ごされている。それは開発者の盲点に入っているのだ。本当は、ゲームに選択を1つ加える度にトレードオフが起きているのである。

新しい選択肢が加わる事によってゲームはプレイヤーの介在度合いが高まり、同時に何か別の物を失う。そのコストは大きく分けて「過度の複雑さ」「過度の時間消費」「過度の反復」である。どれも度が過ぎれば選択の利益以上の不利益をもたらす。

 

過度の時間消費

仮にゲームを簡単な方程式で表すとすれば、[楽しさ = 意味のある選択 / プレイ時間]となるだろう。言い換えれば、同じ程度にプレイヤーの選択が介在するゲームが2つあれば、必要プレイ時間の少ない方が面白いという事である。そしてこの比較は容易ではない。新要素は意味のある選択を増やすが、果たしてそれはプレイ時間の増加に見合っているだろうか?

例として、”Dice Wars”と”Risk”はどちらも似た様な領域征服ゲームであり、この問題に違った答えを出している。どちらのゲームもプレイヤー同士がダイスを振って戦い、勝者は次のターンにより多くの軍隊を手に入れる。Riskの場合、軍隊をどこに置くかはプレイヤーが自由に決める。状況に応じて意味のある選択をするのだ。ところがDice Warsの場合、軍隊はゲームによってランダムに配置される。それによってプレイ時間が短縮される。

どちらのデザインが正しいのか? 答えは主観的にならざるを得ない。適切な問いは、プレイヤーが時間をかけて軍隊を配置する事によって戦術がもっと意味のある物になるのか、なるとすればどの程度改善するのかである。結局のところ、Riskのプレイヤーはより意図的な戦略を採用できるが、それは軍隊配置フェイズで消費する時間に見合っているのだろうか?

答えはプレイヤー層によって異なるだろう。Dice WarsはカジュアルなFlashゲームであり、Riskは伝統的なボードゲームだ。だが開発者は自分の決断がどういう影響をもたらすか理解していなくてはならない。Riskの軍隊配置は時々ルーチンワークと化すし、Dice Warsで意外な配置に対処するのは新しい種類の楽しみだ。結局の所、Riskはプレイ時間を延ばす要素に関してきちんとそのコストを正当化する必要がある。

 

過度の複雑さ

時間というコストの他に、プレイヤーに与えられる選択肢はそれぞれ複雑さを増し、認識力に負荷をかける。これもバランスを取らなくてはならない。多くの選択肢があればそれだけ悩む。5つの技術からどれを研究するか選ぶのと、50の技術から選ぶのは大分違う。プレイヤーは自分が選んだ選択肢だけでなく選ばなかった選択肢についても知ろうとする。否定すべき選択肢の数が増えれば、それだけ悩む理由も増える。

ゲームはその種類ごとに適切な選択肢の数がある。ゲームを管理可能な範囲に収めつつ、プレイヤーを圧倒しない適度な面白い意思決定を用意する。BlizzardのRTSは種族ごとのユニットの数がずっと一定だ。”StarCraft”も、”Warcraft 3″も、”StarCraft 2″も平均して1種族あたり12ユニットである。StarCraft 2に関しては、新しいユニットを追加した分だけ古い物を削除したと開発チームが明言している。

実際、RTSというジャンル自体がその子孫に人気を奪われつつある。”League of Legends”や”Dota 2″に代表されるMOBA(マルチプレイ・オンラインバトルアリーナ)ジャンルである。元々これはWarcraft 3のMODで”Defense of the Ancients”という名前が付いていた。通常のRTSと違い、プレイヤーは軍隊全てを操作するのでなくヒーロー1人だけを動かす。

この変更によりプレイヤー層は大幅に広がった。複雑さが大きく減少し、それによって認識力への負荷が軽くなったのである。プレイヤーはRTSの様に鉱山や兵舎や農民や兵士の集合を全て管理するのでなく、自分のキャラクター1人の事だけを考えればいい。考えてみよう、カメラが戦場全域を移動するのでなくヒーローだけを追い続けるとしたらどれだけインターフェースが簡素になるだろうか。それによって注意力の配分というストレスの多い作業をしなくて済む様になる。

もちろん、この変更はRTSから多くの意味ある選択を奪ってしまう。プレイヤーはどんな建物を作るか、どの技術を研究するか、どのユニットを作ってどこに送るか決める事ができない。これらの選択は全て抽象化されるか自動化される。ここでもまた、適切な問いはこうだ。失われた選択肢と、それがあった場合のRTSの複雑さは果たして見合っているだろうか?

MOBAゲームの成功が示しているのは、RTSによって開かれた戦争のスリルと迫力をプレイヤーは楽しんでいるものの、全ての要素を操作するという認識力の試練は必ずしも楽しんでいなかったという事だ。同様に、全てのユニットを操作しないRTS “Gratuitous Space Battles”の開発者のクリフ・ハリス氏も同様の点を指摘する。「GBSはプレイヤーが300隻の宇宙船を操作できるとは期待しない。そんな事は無理だ。それは最初から選択肢から外す。賛否はあるが、10万人以上のプレイヤーがこれを購入する程度に楽しんでいる以上、この考え方をするのは私だけではあるまい」

 

過度の反復

これは少し意外かも知れないが、ゲームの自由度が高過ぎると単なる反復作業と化す恐れがある。よくある例は、非常に広範だが基本的には条件の変わらない選択をセッションごとにさせるという物だ。プレイヤーは往々にしてお気に入りの選択の組み合わせを開発し、そこから抜け出す事をやめる。

プレイヤーが様々な環境に適応しなくてはならない場合、こうした選択肢の集合は上手く行く事もある。Civilizationシリーズにおけるランダム生成マップはプレイヤーが色々な道順でテクノロジーツリーの進める様に求める。しかし、ほとんどのゲームは選択肢を減らす方が全体としての多様性が恐らく増すだろう。

“Atom Zombie Smasher”の場合を考えてみよう。プレイヤーは街からゾンビを一掃するのに3つまでの武器(狙撃銃とか迫撃砲とか道の封鎖)を使える。しかしこれらの武器はミッションごとに8つの中からランダムに選ばれる。つまりプレイヤーは街とゾンビの配置だけでなく、武器の組み合わせという環境にも適応しなくてはならない。お気に入りの組み合わせにずっと頼る事はできず、意外な組み合わせがどうやったら上手く行くのかを発見せねばならない。これによりゲームプレイは毎回違った物になる。

似た例で”FTL”の場合、乗組員や武器や強化パーツはゲームごとに違った物が現れる。店で売っている物はランダムに変わるのだ。よってこれは完璧な単一の戦略を見つけるゲームではなく、手に入る物を組み合わせて最適な道筋を探すゲームになっている。簡単に言うと、Atom Zombie SmasherとFTLの多様なゲームプレイは選択肢を減らした結果なのだ。

これと全く逆に、厖大なカスタマイズの選択肢を持つゲームは大抵の場合いくつかの最適な組み合わせに収斂する。柔軟なシステムが結局台無しになるのだ。「アルファケンタウリ」にはデザインワークショップという物があり、プレイヤーが数値や能力を組み合わせて自由にユニットを設計できた。しかしすぐに最も有効な組み合わせが明らかになり、この要素はゲームの中心から外れてしまった。

然るに、プレイヤーに余りに多くのコントロールを与える、つまり選択肢や介入の余地が多過ぎると、ゲームのリプレイ性が下がってしまう場合があるのだ。実際、”Diablo”は習得するスキルを選べなければ今より面白くなるだろうか? ゲームは確実に別物になるだろう。意図した方向に進められないのは熟練者を遠ざけるだろうが、ゲームプレイの多様性が増える事によって別の層に訴えられるだろう。スキル割り振りがランダムであれば、ツリーのうち本来行かなかった筈の部分も探索する事になる。重要な点は、プレイヤーの選択の減少が必ずしもゲームを悪くしないという事だ。

究極的にはゲームデザインはトレードオフの連続である。そして開発者が認識すべき事は、プレイヤーの選択それ自体も他とバランスを取るべき一要素に過ぎないという点だ。プレイヤーの介入はゲームの中核的な強みだが、必ずしも他の全ての要素に無条件で優先するわけではない。即ち簡潔さ、洗練、多様性である。

 

原文:http://www.designer-notes.com/?p=609

翻訳記事:ゲームに物語は必要か?

これは翻訳記事です

GDC#24:ゲームに物語は必要か?

2013/5/13 Soren Johnson
Game Developer誌2013年2月号に掲載された物の再掲

 

物語とゲームの結婚はなかなか上手く行かない物である。大昔から、ゲーム開発者は自前で物語を書き、プレイヤーに決まった開始地点と決まった道筋と決まった終着点を与えて来た。その一方、決まった物語が無いために人気を博すゲームもあった。ゲーム体験とは物語を紡ぐ過程であり、開発者の自作ノベルに従う過程ではないのである。

全ての根底にあるのはドグマの対立だ。プレイヤーの選択が物事を決めるとしたら、開発者の考えた物語の入り込む余地はあるのだろうか? ゲームをゲームたらしめる物が相互作用であるならば、開発者のねじ込む筋書きはプレイヤーから主役の座を奪ってしまうのではないか? 言い換えれば、「ネタバレ」のあるゲームは本当のゲームと言えるのか?

誤解の無い様に言っておくが、「テトリス」などのアブストラクトゲームを除きほとんどのゲームは物語を活用している。面白い背景設定、特有の雰囲気、印象深いキャラクター、魅力的な会話、劇的な戦いなどなど。最高のゲームには他のメディアに負けない優れたキャラクターがいる。”Portal”のGLaDOSや”BioShock”のRaptureを思い浮かべてみよう。

しかしながら、文字通りの「物語」、即ち何がどの順番で起きるかの筋書きはゲームの相互作用性と調和させるのが難しい。書籍や映画の筋書きは作品の中核であり、他の要素はそれを支える為にあるが、ゲームの場合はそれと事情が違う。

海賊の時代を舞台にしたゲーム”Pirates!”を見てみよう。シド・マイヤーはこのゲームを作る際、単一の海賊物語を書いて筋書きと結末を決めるのでなく、海賊ものにありがちな小さな話を大量に散りばめた。プレイヤーは何をするか自由に選択できる。生き別れの妹を助けたり、邪悪なスペイン人と決闘したり、反乱を生き延びたり、宝を探したり、脱獄したり、市長の娘を口説いたり。ゲームの終わりにはプレイヤーの海賊人生における重要な出来事を振り返り、人生の浮き沈みを物語にまとめる。こうして出来上がった物語は決められた筋書きに比べると出来が悪いかも知れないが、プレイヤーにとってはかけがえの無い自分だけの物語だ。

だが全てのゲームが動的なストーリー生成に適しているわけではない。決まった背景の方が適するテーマやメカニクスもある。勇者は邪悪な魔法使いを倒すべきだし、兵士には敵が必要だし、配管工はお姫様を助け出さなくてはならぬ。この場合の解法は薄く味付けをする事だ。物語を直接伝えるのでなく示唆する。筋書きという考えを離れ、プレイヤーに世界を探索させる。そして最後にプレイヤーの頭の中で物語が組み上がる様にするのだ。

“ローリングストーンズ曰く、歌詞は判読不能の寸前が一番印象的である” – ポール・エヴァンズ、ローリングストーンズアルバムガイド

実際、ゲームにおける物語の役割は音楽における歌詞の役割に似ている。歌詞は文脈、雰囲気、背景のかけらである。聴衆には想像の余地が残される。わざと聞き取れない部分を作って意味を曖昧にしている事もある。果たして小説で同じ事をするだろうか? それに外国語の曲が好きな人もいる。一体どれだけの人が外国語の本をわざわざ読むだろうか? 歌詞の意味は最重要ではない。優れた曲は解釈の余地を残しておく。同じ様に、ゲームの物語もプレイヤーに自由を残すべきなのだ。

2Dパズルアクション”LIMBO”はその雰囲気、モノクロの色調、ミニマルな音楽で知られている。このゲームの物語は、少年が妹を捜すという原始的な冒険を軸に展開し、謎を残して終わる。どうして少年は暗い神秘的な森で妹を捜しているのか? どうして蜘蛛の化物に追われているのか? 襲いかかって来る子供は誰なのか? “LIMBO”は完全に一本道のゲームだが、普通の会話によって答えが与えられないため、物語はプレイヤー自身が紡がなくてはならない。

ミニRTS”Atom Zombie Smasher”もこれに似ている。このゲームでは色とりどりの兵隊が架空の南米都市でゾンビの大群と戦う。調味料になるのが数々のヨタ記事(「エスポージトは決勝ゴールを決め、数分後に生きたまま食われた」)で、市民達が災厄にどう立ち向かったかが描かれている。エンディングは狂った物語の傑作だ。サイボーグ化したプレシデンテとAK47のなる木を背景に、アイゼンハワー大統領が「軍産複合体」についての有名な演説を行うのである。

重要なのは、これがいわゆる普通の物語を用いずに魅力的な世界観を成立させている事だ。ヨタ記事はキャンペーンの間にランダムに出て来る。プレイヤーは隙間を想像で埋める。制作者のブレンドン・チャンはこう指摘する。「情報のかけらを集めて組み合わせるのは楽しいし、ゲームがプレイヤーを信じているという事も伝わる」。一般層には少し取っ付きにくいかも知れないが、”Atom Zombie Smasher”は結果として生き生きした開放的な世界を作り上げた。それは筋書きの決まった普通のシューティングゲームや、会話で膨れ上がったRPGとは比べるべくも無い。固定の筋書きはプレイヤーの介入を妨げる敵なのだ。

“祈りは神に影響を与えるためでなく、祈祷者自身を変えるためにある” – セーレン・キュルケゴール

ビデオゲームと物語を組み合わせると相互作用のある物語への道が開ける。物語の中でプレイヤーが大きな決断をするという物だが、これこそ最もじれったい要素だ。現実にできるのは最初から用意された分岐のどれかを選ぶ事だけだからである。複数のエンディングがあるとしても、結果の数はあくまで有限である。相互作用は結果の程度を変えるだけであって種類を変えるわけではない。

開発コストが上がるに連れ、プレイヤーが目にしないかも知れない要素を作る余裕は無くなって来た。よってプレイヤーがどういう選択をしようと物語は要所要所で同じ所を通る。”Knights of the Old Republic”はその例証だ。プレイヤーは善か悪の道を選べるが、どちらを選んでも終着点は同じである。悪の親玉ダース・マラックを倒すのだ。善の道なら彼を阻止するため、悪の道なら取って代わるため。倫理面で全く異なる選択をしてもマラックの死は変わらないのである。

こうした固定の筋書きはプレイヤーとゲームを乖離させる。RPGに何十時間も費やしたが物語を全く覚えていないという事がしばしば起きるのは、それがプレイヤー自身の利益や選択に全く関わって来ないからだ。最終的には物語がゲーム上でどういう意味を持つかを抜き出して、それを皆で回し読みするという事態になる(「これを達成するとゲームにどういう影響があるの?」)。物語の中核は大抵の場合登場人物の決断である。ゲームの中核はプレイヤーの決断である。ゆえにゲームを意味ある物にするのはプレイヤーの決断でなくてはならない。果たしてゲームは決まった物語とプレイヤーの選択を両立できるのだろうか?

アクションRPG”Bastion”はこの問題に正面から取り組んだ。ゲーム世界は「大災厄」によって砕け散っている。ゲームが進むと、災厄を引き起こした武器がどうして作られたのか、それが使われた時何が起きたのかをプレイヤーは知る。そして最後に、プレイヤーは決断を迫られる。時間を遡って大災厄を防ぐか、生き残りを集めて新天地へ移るかである。

この決断が面白いのは、その次に起きる事である。というか何も起きないのだ。ゲームはそのまま終わり、プレイヤーの選択を反映した一枚絵が表示されるだけである。プレイヤーが実際に介入できるという嘘を開発者はつかなかった。この決断は純粋に人生観の問題である。人生の大きな過ちを取り消すか、それとも新たな人生を踏み出して前に進むか?

“Bastion”ではプレイヤーは自分の選択を通じて己自身を知る事になる。開発チームの誰かがこうと決めた結果を見るのではない。”The Walking Dead”では、プレイヤーは自分の選択と他のプレイヤーの選択を見比べる事ができる。これはプレイヤーの性格に光を当て、どの選択が多数派に属し、どれが少数派に属するかを呈示する。

筋書きだけを中心にしたゲームは、ゲームにとって最も重要なのはプレイヤーだという事を忘れている。どれほど重厚で力があろうと、ゲームに物語を入れるという事はその本質を損なう危険を伴うのだ。ゲームはプレイヤーに自由を残さなくてはならない。ルール、メカニクス、システム、そして物語において。

 

原文:http://www.designer-notes.com/?p=459

翻訳記事:ゲームデザイナーになる方法

これは翻訳記事です

GDC#23:ゲームデザイナーになる方法

2013/2/4 Soren Johnson
Game Developer誌2012年11月号に掲載された物の再掲

 

ゲーム業界に入る理由は色々ある。才能あるイラストレーター、プログラマ、作曲家にとって、ゲームの仕事は創造性を発揮できる場だ。あるいは単に、自分の好きな事を仕事にできるのが楽しいという人もいる。しかし多くの場合、業界に入る理由はただ一つ。ゲームデザイナーになる事だ。

言うまでもなく、ゲームデザイナーになる最も簡単な方法はゲームを作る事だ。優れたツールや配信チャンネルが今程充実している時は無い。これらは個人で素晴らしいゲームを作る助けになるだろう。Andreas Illigerは”Tiny Wings”を、Brendon Chungは”Atom Zombie Smasher”を、Vic Davisは”Armageddon Empires”を、Jonathan Makは”Everyday Shooter”を作った。誰もゲームデザイナーになるのに許可など取ってはいない。

とは言っても、誰もが個人でできる程の資質を、あるいは気力を備えているわけではない。残念ながら、大手のゲーム会社でゲームデザイナーとして仕事を始めるというのはほとんど神話である。この職は非常に経験を要する上、競争は極めて激しい。どの会社にもデザイナー志望の開発者は溢れている。ゆえに新入社員が雇われるのは、コードを書くとか絵を描くといった特定の技能のためである。

ゲームデザイナーの役割は自分で勝ち取らねばならない。そして勝ち取るのは仕事を通じてである。デザインに関われる位置を占めれば機会は自ずと現れる。私が初めてデザインの仕事を得たのは、Civilization 3チームからデザインとプログラミングの人員がいなくなった時にちょうど準備ができていたからである(当時Big Huge Gamesの立ち上げにより人員が流出した)。

チームには純粋なゲームプレイプログラマがいなかった。社長であるJeff Briggsはリードデザイナーとしての仕事に忙しかった。私は一度も公式にデザイナーとして任命された事は無いが、デザインに関する仕事は可能な限り全て引き受けた。プロジェクトが完成する頃には私の貢献は明らかになっていた。かくしてJeffは私を共同デザイナーとしてクレジットしてくれた。

つまり、ゲーム開発者として働いている人間にとっての大きな問いはこうだ。デザインの仕事に関わる機会が現れたら、どうやってそれを活かすべきか? 以下にいくつかの知見を述べる。

 

1.プログラミングを学ぶ

ゲームというカテゴリは非常に広い。文章、音楽、映像といったいくつもの要素を往々にして含む。ストーリーに重点を置いたゲームもある。純粋なアブストラクトゲームもある。しかしそれらは全てアルゴリズムを土台にしているという共通点がある。コードはゲームの言語である。そしてコードを書く方法を知っていれば非常に様々な役割を果たす事ができる。

誰かが敵の挙動スクリプトを書かなくてはならない? チームがシナリオエディタを必要としているが誰もそれを作る暇が無い? あるいはゲームにもっとランダムマップスクリプトが必要? シニアデザイナーにゲームのアイディアがあるが、プロトタイプを作るプログラマが足りない? これらの仕事は全て、デザインの仕事に至る梯子である。そしてそれができるのはプログラマだけだ。

 

2.UIやAIを作る

ゲーム開発の分野でありながら、「ゲームデザイン」と厳密には見なされていない2つの要素がある。UI(ユーザーインターフェース)とAIである。AIはゲーム世界において人間の操作しない要素の挙動を決める。これはゲームプレイ自体と切り離せないものであり、AIを作るにはデザイナーと毎日相談しなくてはならない。もしAIプログラマが常に良い仕事をし、更に信頼性を高める事を目指すなら、ゲームデザインは明らかな次の一歩だ。

この道筋はインターフェースの仕事においては更に明白である。UIはまさにユーザ体験の最前線だ。プレイヤーとやり取りができなければゲームメカニクスは無意味であり、UIこそその問題を解決する最も重要な道具である。即ち、UIデザインはゲームデザインの一部なのだ。「インターフェースからデザインへ」という道筋の良い所は、インターフェースの仕事をやりたがる開発者が非常に少ないという事だ。ベテランはインターフェースの仕事は若手にやらせれば良いと思っている。この偏見を利用して、皆が嫌う仕事に志願しよう。インターフェースデザインをやりたがる実力ある開発者は、どこのゲーム会社も探し求めている。

 

3.DLCに志願する

DLCもまた、ゲームデザイン職への良い道筋だ。小さいリリースならば競争は激しくないし、ゲーム本体のデザイナーは往々にして疲れ果てており、DLCが必要だと考える事さえ難しくなっている。ゆえにDLCはデザイナーの卵にとって、自分の力を示す素晴らしい機会なのだ。会社は自分の従業員が成長してデザイン職に相応しい力を付ける事を望んでいる。新たなデザイナーを外部から雇うのは大博打だからだ。DLCは小さなリスクで従業員を育てる素晴らしい機会なのだ。

拡張パックのデザインを担当するのもデザイナーの卵には利益が大きい。即ち、真っ白な所から面白さを作り出すという困難な事業に挑戦しなくて済む。これは新人デザイナーにとっては何もできなくなる程のプレッシャーだ。拡張パックなら、中核デザインの改良を続けつつ、大勢のプレイヤーが遊んで得られた知見を適用していける。多くのゲームは簡単に実現可能な改良点がいくつもぶら下がっているが、それが明らかになるのはリリースの後だ。これらの改良に集中せよ。プレイヤーはきっと良い反応を示してくれる。

 

4.フィードバックに集中する

ゲームデザインは才能と技能である。 Noah Falsteinによれば、ゲームデザイナーに占めるINTJ(内向・直感・思考・判断)タイプの人間は不釣り合いに多い。つまりゲームデザインの仕事に向いた性格とそうでない性格とがあるわけだ。しかし才能だけでは十分とは言えない。自分のデザイン技能を自発的に磨いていかなくてはならない。そしてそうする方法はただ一つ、デザインを実装してユーザからフィードバックを得る事だ。私がデザインについて本当に学び始めたと言えるのは、Civilization 3がリリースされ、プレイヤーはこうやって遊ぶだろうという当て込みが悉く外れた時である。

ゲームは自律アルゴリズムの塊ではない。デザイナーとプレイヤーの間に存在する、共通の体験こそがゲームである。ゲームは常に中立的なプレイヤーに晒されなくてはならない。さもなくばそれは机上の空論である。ゲームはリリース前に可能な限り多くのパブリックテストを行わなくてはならない。ゲームを晒せば晒すほどデザイナーの技能は高まる。デザイナーの卵は何とかしてこのフィードバックループを得る方法を見つけなくてはならない。簡単なモバイル用ゲームを出すとか、人気ゲームのModを作って皆からのフィードバックを得よう。その方が、リリースまで外部に晒される事の無い巨大プロジェクトで働くよりずっと有益だ。簡単なボードゲームを作るのでさえ、きちんとテスター集団を見つけてフィードバックを得られるなら技能を磨く助けになる。

 

5.謙虚であれ

今日のゲーム業界において、謙虚な性格は成功の鍵である。デザイナーは現実を受け入れなくてはならない。多くのアイディアを出してもその殆どは上手く行かないのだ。実際、ゲームデザイナーの仕事とは自分の考えやプライドに固執する事ではない。展望を選び、チームに任せる事だ。デザイナーは口上手な演説家でなく、謙虚な聞き手であるべきだ。もしデザイナーが懐疑的な聞き手に向かって、何故そのメカニクスが面白いか論じているとしたら、そのゲームには非常に大きな問題がある。確かにデザイナーは自信と自己主張の強さを備えていなくてはならない。そうでなければ誰も取り合わない。だが、謙虚さは物事をあるがままに見る目を与えてくれる。どうあって欲しいかという希望ではなく。

もちろんゲームデザイナーの卵にとって、この規則は二重に重要である。傲岸不遜で自分のアイディアに自信を持ち過ぎている様に見えれば、職に就く準備ができていないのは誰の目にも明らかだ。素晴らしいアイディアがあるのに誰にも相手にされないのは途轍もないストレスだ。しかしそれでも正しい態度を保ち続けるべし。誰かのアイディアが実装されたとしても、そのアイディアが勝ったとは思わないこと。それはテストされているだけなのだ。本当の仕事が始まるのはアイディアがプレイ可能な形になり、それが「皆の物」になった時だ。どのゲーム開発チームも実装し切れないほどの大量のアイディアを抱えている。開発者はその中で最高のアイディアを追求せねばならない。誰のアイディアだったかなど関係ない。実際、アイディアの出所は往々にして忘れ去られる。覚えているのは、それを正しい形に持っていくのに誰が時間を費やしたかである。

 

誰がデザイナーになるべきか?

最後に、デザイナーの卵に次の質問に答えてもらおう:ビデオゲームを作った事はあるか? シナリオは? Modは? ボードゲームやカードゲームは?

全ての質問に対して「否」と答えたら、そもそも自分がゲームデザイナーに向いているのかどうか考え直すべきである。画家は子供の頃から絵を描き始める。音楽家は小学生の頃から楽器を習う。作家は文章を書く。俳優は演じる。監督は監督する。若いデザイナーはゲームを作る。成功への情熱を抱いているならば、ゲーム作りは絶対にすべき事だ。したいと思う事ではない。本物のゲームデザイナーはゲーム作りを止める事などできないのだ。

ゲームを作るのと遊ぶのとは違う。ゲーム作りを楽しめる人の数は、ゲームで遊んで楽しめる人よりも遥かに少ない。ゲーム作りとは何年にも渡って1つのコンセプトを磨き続ける事であり、批判から学ぶ強さを要する仕事だ。本物のゲームデザイナーの証とは何か? それは適当な週末に彼がしている事を見れば分かる。空いた数時間を費やして最も好きな事をしていれば……即ち新しいゲームを作っていればそれが証だ。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=455

翻訳記事:デジタル・ミーツ・アナログ

これは翻訳記事です

GDC#22:デジタル・ミーツ・アナログ

2012/10/22 Soren Johnson
Game Developer誌2012年8月号に掲載された物の再掲

 

ビデオゲームとボードゲームが親戚だとすると、それはまるでヨーロッパの貴族階級の様なものだ。2つのフォーマットは相互に混ざり合い、間に引いた境界線はぼやけている。今や多くのデジタルゲームがボードゲームに似せて作られている。最近のモバイルゲーム、”Cabals”や”Hero Academy”を見てみよう。これらはデジタルゲームとしてのみ存在するのだが、どちらもボードゲームの外観を備えている。ターン制プレイ、駒になるデッキのシャッフル、タイルで区切られたゲーム盤、そして隠しデータの無い透明性を持ったルール。

他にも、主流のビデオゲームがボードゲームの要素を抽出して採用しているケースもある。例えば”Rage”におけるTCGメカニクスがそうだ。開発者は、プレイヤーがビデオゲームに馴染んでいるのと同じくらい、ボードゲームにも馴染んでいると期待したわけだ。カードやダイスを入れておけば、他のビデオゲームの習慣に従うのと同じくらいプレイヤーがデザインに親しめると。

同時に、デジタルとアナログの邂逅は後者をも変えつつある。とりわけiPadはボードゲーム業界に革命をもたらした。アナログゲームのデジタル移植がようやく上手く行く様になったからだ。iPadは多くの機能を備えている。高解像度のスクリーン、タッチ式インターフェース、そして(もしかしたら一番重要な)アプリ販売の強固なインフラ。ボードゲームのデジタル化に完璧な組み合わせだ。Days of Wonderの創業者エリック・オートモンは、このデバイスへの熱情をこう語った:

「iPadの美しさとは、それが存在する事を忘れてしまえる事だ。2人のプレイヤーの間にiPadを置くと、スクリーンがあまりに良く出来ているために、その下に電子機器があるという事をほとんど忘れてしまう。iPadの前に座って”Small World”をプレイしていると、それがiPadのゲームだという事はすぐに頭から抜け落ち、ただ”Small World”そのものに思えて来る。将来、あるゲームが「ボードゲーム」なのか「iPadゲーム」なのか、あるいは未来のデバイスのゲームなのかという質問は意味が無くなるだろう」

Days of Wonderの業績はモバイルによって急加速した。「乗車券」のiPhone版を発売した所、アナログ版の売れ行きが持続的に70%向上。同時にiPad版もトップ100アプリに常駐しており、$6.99という健全な値段で売れている。(iOS用ボードゲーム市場の健全さを表しているのがこの価格帯だ。99セントのゲームが氾濫する中で、「カタン」や”Samurai”は$4.99、「カルカソンヌ」に至っては発売後2年経っても$9.99という破格の値段で売れている!) 実際リリース以来、「乗車券」のデジタル版はアナログ版の販売を3:1で上回っている。そうなると疑問が出て来る。Days of Wondersはそもそもボードゲーム会社なのか、それともビデオゲーム会社なのか?

 

透明なゲーム

こうした成功により、デジタルボードゲームはビデオゲームデザインの議論においても無視できない存在になった。しかしボードゲームがますますデジタル化する中で、それはボードゲームとしての性質を残せるのだろうか? ボードゲームとは単に物理的コンポーネントを持ったゲームの事だろうか? 先に触れた”Cabals”や”Hero Academy”はデジタル版としてのみ存在する。これらはどうか? iOSの”Assassin’s Creed Recollections”はどうだろうか? これはリアルタイム版のM:tGだが、コンピュータがリアルタイムの相互作用を処理してくれなければ存在できないゲームだ。

物理的コンポーネントが必須でないとしたら、ボードゲームをボードゲームたらしめる物とは何だろう? なぜこのカテゴリに入るゲームとそうでないゲームがあるのか? 思うに、ボードゲームを定義する物は物理的コンポーネントではなく、完全なる透明性だ。ゲームの全てのルールが見える様になっているべきという哲学である。

この気付きは重要な含意を持つ。透明性が全てのボードゲームを繋ぐ糸だとしたら、透明性こそボードゲームが楽しい理由そのものという事になる。つまり、透明性はあらゆるゲームにおいて楽しさの源泉になり得るという事だ。それが自分のゲームにどんな役割を果たすか、開発者はよく理解しなくてはならない。

例えば、”Civilization”シリーズは本質的に巨大なボードゲームであり、計算と記録にコンピュータを使わなければプレイできないというだけである。ゲームメカニクスの大部分はプレイヤーに公開されており、都市が1ターンにどれだけの食料を産出するか、次の技術を開発するのに何ターンかかるかなど全て分かる。

あまり透明でない部分のひとつが戦闘システムだ。プレイヤーにとってはブラックボックスであるため、状況によっては戦車が槍兵に負ける事を心配しなくてはならない。Civ4はこの問題の解決に向けて一歩踏み出した。戦いの前に実際の勝率を表示する様にしたのだ。Civ5は更に一歩進み、予想ダメージをグラフィカルに表示する様になった。

これらの戦闘システムは、平均的プレイヤーにとってはやはりよく分からない代物だろう(言うまでもなく、ハードコアプレイヤーはリバースエンジニアリングで計算式を突き止めた)。しかし、それでもこうした改善は、戦闘結果を明らかにする事で透明性を指向しているのである。歴代開発チームは透明性がCivシリーズの重要な美徳だと分かっていた。これらの変更はファンに喜ばれた。

 

デジタルがアナログを打ち負かす時

デジタルとアナログの融合で面白いのは、デジタル化によって大幅に改善されたボードゲームが存在する事だ。まずデジタル化すればセットアップも記録作業もいらない。これによりゲーム時間は大幅に短くなり、今までに無い環境でも遊べる様になった。今や”Memoir ’44″がコーヒーショップで、他の客をぎょっとさせる事無しに遊べるのだ。

ボードゲームを何十回、何百回と遊べる様になると、ゲーム体験そのものが変わって来る。巨大な歴史シミュレーションカードゲーム”1960″は実物なら数回しか遊べないが、Web版なら1ゲームが1時間で終わる。1ゲームの短さとゲーム回数の多さは敗北の痛みを減らしてくれる。そうすればもっと実験的な戦略を試す事も可能になる。月に1回の遊ぶ機会を犠牲にしなくて済む訳だ。

しかし、こうした頻繁なプレイは新たな挑戦ももたらす。ゲームバランス上の問題はかつてない程素早く見つかる。2011年に出たマーティン・ワレスの”A Few Acres of Snow”はフレンチ・インディアン戦争を題材にしたウォーゲームだが、修正の必要な箇所が見つかり悪評を得てしまった。イギリス側に”Halifax Hammer”と呼ばれる支配戦略が存在したのだ。このゲームはWeb上で無料で遊べたため、リリース後すぐにこの戦略が生まれてしまった。水がひび割れを見つけるのはかくも早くなったのだ。

デジタルボードゲームには他にも利点がある。非同期プレイだ。ボードゲームをやろうとすると同じ場所に長時間、中断を挟まずに集まらなくてはならない。非同期プレイはこの問題を迂回する方策だ。プレイヤーはそれぞれ好きなペースでゲームを進める。プログラムは次のプレイヤーが手番を行うまで待ってくれる。

iOSゲームの”Ascension”は非同期フォーマットを正しく採用して成功した例だ。ゲーム自体は「ドミニオン」の焼き直しだが、Appストアにおいて多大な成功を収めた。変わった遊び方としてではなく、ゲームの中核要素として非同期プレイが実装され、複数のゲームを同時に進行させておく事が簡単にできる。全てのボードゲームが非同期プレイに適する(ターンごとに多くの決定を下せる)訳ではないが、適しているゲームはモバイルの世界に新たな可能性を求めるべきだろう。

 

分析する楽しみ

非同期プレイにせよシングルプレイにせよ、デジタル化はボードゲームにつきものの待ち時間を無くしてくれる。「ケイラス」や「プエルトリコ」など、全ての情報が公開されランダム性が少し入るというゲームがドイツにはよくある。これを効率主義のプレイヤーと一緒に遊ぶと大変だ。最適手を確信するまで延々時間をかけ、ゲームの進行そのものを大幅に遅らせてしまう。だが、手番の遅いプレイヤーを待つ事は苦痛だが、だからといって最適手を探す事自体がつまらない訳ではない。

はやく手番を終えろというプレッシャーの下で最適手を探すのは面白くないだろう。しかし複雑な状況において正しい手を探すのは、この種のゲームの面白さの源泉である。知っての通り、最適手探しはシングルプレイヤーゲームにおける熱い戦いでもある!

実物のボードゲームで遊んでいる場合、ゲーム進行を滞らせたくないが慌てて間違った手を選びたくもないという問題が出て来る。非同期プレイとシングルプレイはこの問題を解決し、プレイヤーに好きなだけ時間を与えている。iPad版「プエルトリコ」は1人で好きなペースで全ての決定を下せる様になり、エレガントなゲームとして輝いている。実際、近年の協力型ボードゲーム「パンデミック」や「ゴーストストーリー」の人気を見るに、ボードゲームの魂を持ったソリティア型ビデオゲームには十分な市場があるのではないか。

新たな知見により、物理的コンポーネントとボードゲームの本質とを分離する事の価値が明らかになって来た。ボードゲームの本質とは完全なる透明性である。そしてそれはほとんど全てのゲームジャンルや形式において美徳となるものだ。”Triple Town”のタイルの組み合わせ、「プラント vs. ゾンビ」における敵の決まった挙動、”Cut the Rope”における分かりやすい物理法則。これらはボードゲームとは似ても似つかないが、どれも透明性という美徳を備えているのだ。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=446

翻訳記事:シドのルール

これは翻訳記事です

GDC#5:シドのルール

2009/3/1 Soren Johnson
Game Developer誌2009年1月号に掲載された物の再掲

 

多くのゲーム開発者は「良いゲームは面白い選択の連続である」というシドの格言を聞いた事があるだろう。実際、ダミオン・シューベルトが同じ雑誌でコラムを連載しているのだが、プレイヤーの選択に関する2008年10月の記事はこの格言で始まっている。だがシドはその他にもいくつかのゲームデザインに関するルールを編み出している。2000年から2007年にかけてFiraxis Gamesで働いていた時、彼がこれについて語るのを何度も耳にした。これらの知見は開発者にとってとても実践的な教えであり、論ずるに相応しいものと言えるだろう。

 

倍にするか半分に削れ

良いゲームが無から生まれる事は滅多に無い。だからこそ多くの開発者が反復的なデザイン方式を提唱するのだ。まず単純なプロトタイプを非常に早い段階で作り、繰り返し繰り返し手を加えて最終的に出荷できる製品に仕上げる。シドはこの過程を「面白探し」と呼んでおり、その成功率は開発ループを何回繰り返せるかにかかっている。アイディアを形にし、出来た物をテストし、フィードバックに基づいてそれを修正する。その繰り返しだ。サイクルの回数は有限であるため、小さな変更のために時間を無駄にする事はできない。ゲームプレイを修正する時は大きな変更を加えて、はっきりとした反応を呼び起こすべきだ。

あるユニットが弱過ぎたら、コストを5%減らすのでなく強さを倍にする。アップグレードの種類が多過ぎて混乱するのであれば、半分を取り除く。初代”Civilization”はゲームプレイのテンポが悪くなり、地べたを這う様になってしまった事がある。シドはマップサイズを半分にする事でこれを解決した。大事なのは新しい値が正しいかどうかではない。より多くのデザイン領域を囲い込む事が目標だ。

新しいゲームのデザイン空間を未踏破の世界として考えてみよう。地平線の向こうに何があるかはぼんやりとしか分からない。実験とテストをしてみなければ、どう予測しようと机上の空論でしかない。そして大きな変更を加える度に新たな土地が明らかになり、最終的な製品の着地点を決める判断材料が増える。

 

1つの良いゲームは2つの素晴らしいゲームに勝る

シドはこれを「コバート・アクションの法則」と呼んでいる。90年代初頭に彼が作り、あまり売れなかったスパイゲームの名前から取った物だ。

「失敗だったのは、2つのゲームを一緒にしてそれが喧嘩してしまった事だ。建物に侵入して手がかりを集めたりするアクションゲームと、謎の陰謀に巻き込まれて黒幕を捜すアドベンチャーゲームとが共存していた。どちらもそれぞれ良いゲームだったが、両方一緒にすると喧嘩してしまうのだ。解決すべき謎が出て来る。そして次にアクションパートに入ってひとしきり暴れ、建物から出て来る。ここで「それでどういう謎を解こうとしてたんだっけ?」となってしまう。”Covert Action”はストーリーとアクションの調和に失敗した。アクションパートがかなり激しく、1回のミッションに10分かそこらのプレイ時間がかかる。出て来た時には何が進行していたのかすっかり忘れてしまっているのだ」

言い換えれば、どちらのパートもそれぞれに面白いゲームだったが、両方を同時に存在させる事でゲーム体験が損なわれてしまったのだ。プレイヤーはどちらかに集中する事ができなかった。このルールはもっと大きな論点に繋がる。全てのデザイン上の決定は他との相互関係において良し悪しが決まり、それぞれメリットとデメリットを伴うトレードオフである。戦略ゲームを作るという決定は戦術ゲームを作らないという決定である。それ自体としては「面白そう」なアイディアも、プレイヤーを本来あるべき体験から逸らしてしまうのでは駄目だ。実際、このルールは何故Civシリーズが戦術的バトルシステムを導入しないかという理由である。

しかし、複数のゲームが調和のもとに共存できる場合もある。シドの”Pirates!”は戦闘、航海、ダンスなどのミニゲームを上手く組み合わせた集合体だ。ただしこれらのゲームプレイはそれぞれ非常に短い。長くて数分だ。ゆえに海賊として生きるというメタゲームへの集中を失わずに済む。各々の小さな課題は長い冒険の中の一歩である。例えばスペインの都市を全て略奪するとか、生き別れの家族を救い出すとか。

“X-Com”も複数のサブゲームを上手く組み合わせている。ターンベースの作戦級ウォーシムと、リアルタイムの戦略級資源管理ゲームである。”Pirates!”と同様、”X-Com”が上手く行くのは焦点を定めているからである。このゲームは軍隊を動かして異星人の侵略と戦うのが楽しいのだ。戦いはそれぞれ30分ほど。上位の戦略ゲームは各々の戦闘にどんな意味があるかを決める枠組みでしかない。資源管理を有利にするために戦うのではなく、戦いを有利にするために資源を管理しているわけだ。

 

資料収集はゲームが出来てから

歴代のベストセラー、「シムシティ」、”Grand Theft Auto”、”Civilization”、”Rollercoaster Tycoon”、「シムピープル」などは現実世界をテーマにしている。誰もが知っている物をゲームにする事で幅広い層に売り込めるのだ。しかし、現実の事象をゲームにするという試みは自然な、しかし危険な傾向を引き起こす。あらゆる細部と無駄な知識をゲームに詰め込み、開発者がそれについてどれだけ勉強したか示そうとするというものだ。こうなるとプレイヤーが最初から持っている知識だけではゲームができなくなり、現実世界のテーマが有益である理由自体が失われる。誰でも知っている通り、火薬は軍隊を強くし、警察署は犯罪を減らし、カージャックは違法である。シド曰く「プレイヤーが制作者と同じ本を読んでいる事を求めてはならない」のである。

ゲームには大きな教育効果を持ち得るが、多くの教育者達が考える様な方法によってではない。もちろん事実として間違っている事を入れるべきではないが、インタラクティブな体験の価値は単純なコンセプトの相互作用から生まれるのであり、データや数値を詰め込む事からではない。ナイル、ティグリス・ユーフラテス、インダスなど最初期の文明は川沿いに生じた。どのタイルが初期の農業において多くの食料を産出するかという単純なルールにより、”Civilization”はこれを非常に効果的に表現している。ゲームの中核部分が出来上がった後なら資料集めはとても有益だ。歴史シナリオー、フレーバーテキスト、詳細なグラフィックなどは細部を肉付けして深みを与えてくれる。新しいゲームを学ぶのは大仕事である。プレイヤーが最初から必要な知識を備えていると期待して、テーマの親しみやすさを放棄するべきではない。

 

楽しむのはプレイヤー。開発者やコンピュータではない

ストーリーを基盤にしたゲームを作るのは楽しい。つい夢中になって、大げさな背景設定やら大量の固有名詞やら、珍しい子音やら「’」だらけの名前やらを詰め込んでしまう。また、複雑で精密なシミュレーションに基づくゲームは内部の計算式が隠されていると非常に分かりにくい。シドに言わせると、これらのゲームは開発者やコンピュータが楽しんでいるのであってプレイヤーが楽しんでいるのではないそうだ。

例えば”Civilization 4″の開発の際、試しに研究や生産物を指定できない代わりに大きな生産ボーナスが得られる政治体制というのを導入してみた。内部に隠されたシミュレーションモデルがあって、国民が何を生産したがるか決定しているのだ。このアルゴリズムを作るのは楽しかったし、ゲームを離れて興味深い議論ができた。だがプレイヤーは置いてけぼりである。楽しみをコンピュータがみんな持って行ってしまったからだ。そこでこの要素はカットされる事になった。

更に、ゲームに必要なのは意味のある選択肢だけではない。その選択が正しいと感じられる様なコミュニケーションも必要である。プレイヤーに選択肢を与えても、それがどういう結果になるのか理解できなければ楽しくない。RPGはしばしばこの部分で失敗している。例えばキャラクター作成時に職業やスキルを選ばされるが、そのゲームを1秒も遊んでいないのにその選択をしなくてはならないのである。戦闘システムが実際どうなっていてパラメータに何の意味があるか分からないのに、どうしたらバーバリアンと戦士とパラディンのどれが良いか選べるのだろうか? 選択肢が面白くなるためには、異なる結果を生むだけではなくちゃんと情報が与えられていなくてはならない。

シドは言う。プレイヤーは「常に王様」であるべきだと。我々開発者はプレイヤーの側に付いてなくてはならない。ゲーム世界におけるプレイヤーの役回りがどうなるか、その内部のメカニクスをプレイヤーがどう理解するか、常に慎重に考慮してデザイン上の決定を下すべきである。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=119

翻訳記事:ゼロサムを超えて

これは翻訳記事です

GDC#21:ゼロサムを超えて

2012/7/24 Soren Johnson
Game Developer誌2012年4月号に掲載された物の再掲

 

ゼロサムゲームとは誰かの得が誰かの損になるゲームである。損と得は釣り合っている。例えばポーカーで賭け金を勝ち取る様な具合だ。厳密なゲーム理論の定義から言えば、多くの競争ゲームは実際にはゼロサムではない。例えばアメリカンフットボールでフィールドゴールを決めても、相手から3点を奪って来るわけではない。

しかしもう少し緩く定義すると、「ゼロサム」方式とは相手を困らせるのと自分を助けるのが等価であるという意味になる。”StarCraft”の様な典型的なRTSでは、ラッシュ戦術はブーム戦術と同じくらい有用だ。前者は敵の経済を速やかに破壊する事を目的とし、後者は自分の経済を建設する事を目的としている。相手の最初のユニットをすぐに倒してしまえれば、自分の軍隊の研究がどこまで進むかはそれほど問題ではなくなる。

つまり相手を妨害するのと自分を強めるのと、両方の戦術を同等に報奨するゲームはゼロサム方式である。多くのチームスポーツ(バスケット、サッカー、アメフトなどなど)はこの性質を持っている。防御によって相手の得点を阻むのは、攻撃によって得点を狙うのと同様に重要だ。

競争型のゲームはこの土壌にしっかりと根を張っている。格闘ゲームでは自分の体力を守るのも相手の体力を削るのも両方大事である。戦略ゲームは自分の計画を通すと同時に相手の計画を潰さなくてはならない。FPSはできるだけ多くの敵を殺すと同時に、フラグやチェックポイントなどの目標も達成しなくてはならない。

実際、競争ゲームをデザインするとなるとゼロサム方式がデフォルトになっている様だ。しかし、そればかりが増殖した結果様々な問題が起きている。ゼロサム方式というのは本当の所、せいぜい良くて必要悪でしかない。そして悪ければ、多くの潜在顧客を引き離してしまう間違ったアプローチなのだ。

 

ゼロサムの問題点

ゼロサム方式の問題点は、誰かがババを引かなくてはならない事だ。「ストリートファイター」で凄まじいコンボを食らう。”Age of Empire”で建物を粉々に破壊される。”Team Fortress”で何度も何度も死んではリスポーンする。誰かの楽しみは他の誰かの痛みなのだ。

本当は誰かの痛みなど必要ない。プレイヤー間の相互作用の頻度と大きさを決めるのはゲームのルールである。つまりプレイヤー同士がどのように関わり合うか、決めるのはデザイナーの裁量である。実際、相互作用が全く無くとも競争ゲームは成立する。ゴルフやボウリングの様な並列型スポーツを考えてみよう。あるいはハイスコアを競うオンラインゲーム、”Bejeweled Blitz”や”Burnout Paradise”を。

最も重要な区別は、プレイヤーがプレイ中に進捗を失うか、それとも以後の進捗を阻まれるだけかという点だ。前者の場合、ゲームメカニクスにはゼロサムの感覚がある。自分の進捗を失うのはたいてい苦痛であるし、往々にして負けに至る道でもある。一方「乗車券」や「カタン」に代表されるドイツゲームの大きな特徴は、そうした直接的でゼロサムな対立を避けていることだ。進捗を破壊しない、限定された間接的な相互作用が人気を呼んでいる。

例えば「アグリコラ」や「ケイラス」の様なワーカープレイスメントゲームの場合、プレイヤーがそれぞれ能力を選ぶ事でターンが進行する。誰かが選んだ物はもう選べない。そこで誰が良い役回りにありつくかという競争が生まれる訳だ。もし対戦相手が食料を欲していると分かったら、自分で食料生産の仕事を選ぶことで相手にダメージを与えられる。だがこれは”Age of Empires”で敵の農地を焼いて農民を殺すのとは質的に異なっているのだ。

前者の場合、進捗の遅れは一時的な物である。後者の場合、感情的にも苦痛だし再起のチャンスはほとんどない。実際、「アグリコラ」の様なゲームで他のプレイヤーの邪魔ばかりしていると自分の墓穴を掘ってしまう。アクションは貴重であり、機会費用は大きい。逆にRTSで早期に敵を痛めつける事には殆どデメリットが無い。敵の経済を一掃してしまえば、それだけ自分の経済を大きくする時間が稼げるのだ。

RTSは早期攻撃を報奨する。そうでない様に調整するのは恐ろしく困難だ。そして実際、RTSはゼロサム方式の呪いに苦しんでいる。そのせいでラッシュが有利になってしまうのだ。多くのプレイヤーが「早期戦争無し」のハウスルールを作ってわざわざゲームを再調整している。破壊的な侵略を防止して、終盤に向けての建設ができるようにしている訳だ。

更に、RTSの試合は爆煙でなくすすり泣きで幕を閉じる。勝利条件が敵の全滅であるため、試合の途中で勝敗が明らかになってしまうのだ。「乗車券」の場合、プレイヤーは駒が切れる前に路線を完成させようと競争する。その間試合の熱気はずっと上り坂だ。これに対し、”StarCraft”の熱気は上り坂と下り坂で出来た山になる。そして不幸な事に、下り坂の方は敗者にとってただの苦痛でしかない。

しかし、ゼロサム方式はRTSが必ずかかる風土病という訳ではない。”Annoseries”、”Railroad Tycoon”、”M.U.L.E.”などの経済ゲームを考えてみよう。これらの最終目標は富の獲得だ。誰が一番速く成長するかの競争であり、他のプレイヤーを邪魔する事を報奨しなくとも、いやそもそも可能にしなくてもゲームが成立するのだ。

戦争RTSでも直接的でない競争原理は採用できる。”Warcraft 3″はクリープを導入した。これはマップ中央部分に生息する中立キャラクターで、プレイヤーはこれを倒して戦利品と経験値を得る事ができる。次世代RTSはこれをもう一歩進めてクリープを倒すだけのゲームにできるのではないか?

 

マイナスを無くす

ゼロサム問題を解決するため、多くの競争型ゲームが取り入れているのが相互作用の制限である。プレイヤー同士が影響を及ぼし合える状況を限定するのだ。例えば「マリオカート」の場合、特定の場所で甲羅を手に入れるまでは攻撃ができない。そして手に入れる場合も、最強の甲羅はどん尻にいる時しか出て来ないのだ。ハードコアなRTSの世界でさえ、まず兵舎を建て、兵隊を作り、それを所定の位置まで動かしてようやく攻撃ができる。

このように、相互作用の制限はゼロサム方式の嫌な部分を取り除く強力な道具である。同じ様なテーマとルールを持ったゲームでも、どんな相互作用が可能かによって全く違う感触になる。例えば「トラビアン」と”Empires & Allies”は似た様な非同期戦略ゲームであり、どちらもプレイ期間は数ヶ月に渡り、リアルタイムで軍を編成して敵を攻撃する。しかしこの2つの間には大きな違いがある。他のプレイヤーの都市に攻め込んだ時の挙動である。

「トラビアン」における侵略は厳密なゼロサムである。攻撃者が資源を奪ったら被害者はその分だけ資源を失う。一方”Empires & Allies”の場合、一方が得をしてももう一方は損をしない。攻撃者の戦利品は無から出て来るのである。更に「トラビアン」では死んだユニットはゲームから取り除かれるが、”Empires”の方は防御側のユニットが死んでもそのまま生き返る。

“Empires”は戦闘というものに対するプレイヤーの常識を密かに裏切っている。勝利が存在するためには敗北が必要であるという常識を。だがこのデザインのお陰でゲームの敷居は低くなり、感情的にも消耗しなくなった。一方トラビアンは伝統的な方式を採用し、一方の得は一方の損である。その結果、このゲームは怒り狂ったプレイヤーだらけの酷い空間になってしまった。

デザイナーは本能的に戦いイコールゼロサムと考えてしまう。しかしこの先入観のせいでゲームの敷居を上げてしまっているのだ。プレイヤーがゲーム中に経験する感情は現実のものだ。ゆえに誰かの苦しみを必要とするメカニクスを導入するのは慎重にすべきである。

 

プラスを加える

目がくらむほどシンプルな解決策もある。ボードゲームの「七不思議」では、プレイヤー同士が様々な軸で競争する。科学、政治、建物、富、軍隊における得点を競う。この様なゲームに軍事要素を入れるとなると、まず思いつくのは軍隊を作って他のプレイヤーのユニットなり建物なり資源なりを攻撃する方式だろう。だが七不思議は全く違う答えを出した。

ゲームは3つの時代に分かれている。そしてそれぞれの時代ごとに、最大の軍事力を持っていたプレイヤーに得点が与えられる。配分される得点の合計はプラスであり、戦いに勝てば得をするが負けてもそれほど損にはならない。ゆえに軍事戦略が他のプレイヤーを死滅させる事にはならず、適切にバランスが取られているのである。強力な軍隊があっても対戦相手が科学で勝つのを止める事はできない。軍事的勝利は敗者から進捗を奪わないのである。

実際、物事がプラスになるやり方はゲームデザインの他の面にも良い影響を及ぼす。例えば「パズルクエスト」の場合、全ての戦闘が必ずプラスの結果になるので手動セーブシステムが無い。戦闘中にアイテムを失う事は無く、戦えば必ず少量のゴールドと経験値が手に入る。プレイヤーは勝とうと負けようと必ず戦闘前より良い状態になっており、それゆえゲームにはセーブスロットが1つしか無く自動でセーブされる。これは伝統的な、負ければ何かを失うデザインではハードコアになってしまうだろう。このシステムのお陰でセーブ/ロードが不要になり、それだけ敷居が下がり、ゲームはより広い層に訴求できる様になった。

とは言えゼロサム方式はやはり強力な道具である。プレイヤーの非常に原始的な感情を呼び起こす事ができるからだ。時にはプレイヤー同士で破壊し合う事もゲームには必要だろう。だが全ての争いがゼロサムである必要は無い。ゼロサムには大きなデメリットも存在するのだから。勝者が栄えるために敗者が苦しむ必要は無いのだ。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=438

翻訳記事:来るべき嵐

これは翻訳記事です

GDC#20:来るべき嵐

2012/5/30 Soren Johnson
Game Developer誌2012年2月号に掲載された物の再掲

 

GDC2009でOnLiveが劇的に発表されて以来、業界はクラウドゲーミングに注目し続けて来た。時には懐疑的に、時には期待をかけて。このテクノロジーにはビジネスを一新する可能性がある。もしかしたら、消費者・ゲーム機メーカー・ゲームショップのトライアングルは永久に葬られてしまうかも知れない。

色々な利益がすぐに得られるのは明白だ。インストール無しで時間制限付きの体験版があれば、余計な作業無しにゲームをすぐ展示できる。1日、あるいは1時間いくらでスムーズに課金できればレンタルゲーム屋は必要が無くなり、もっと多くの金銭が直接ゲーム開発者に流れるだろう。同様に、ネット上でライセンスを所有する方式は中古ゲーム屋が同じディスクを複数回売る事を難しくし、消費者から開発者へ直接金銭が行く様にする。更に、オフラインバージョンを廃止して全てをクラウドに移行させれば、海賊版は事実上存在できなくなるだろう。

消費者にとっても、インターネットに接続する端末さえあればインストールしたりパッチを当てたりする手間無しに最先端のグラフィックスに触れられる様になる。常時接続環境が必要だが、どのみち既にシングルプレイ用も含めて多くのゲームがネット接続必須になっている。 実際、クラウドゲームの方が回線が途切れた時に上手く対処できるのだ。”Diablo III”のプレイ中に接続が切れるとプレイヤーはチェックポイントに戻される。一方OnLiveでは接続が切れる前の最後のフレームに戻れるのである。

消費者にとって最も重要なのは、クラウド化がゲームの価格体系を変えてしまう事だ。レンタルや中古も含めたゲームショップをみな中抜きしてしまえば、今まで60ドルで売っていたゲームを30ドルに値下げしても開発者は同じくらいの収益が得られる。これでようやくゲームという商品が常識的な値段になる。映画や書籍や音楽と同じぐらいの値段になれば世の中の主流に出て行けるだろう。60ドルのゲームと300ドルのゲーム機は普通の消費者には相当敷居が高い。

変化は開発者にも利益をもたらす可能性がある。例えば1日、1週間、1月といった単位で料金を払う新しいビジネスモデル(Netflixの様な全ゲーム解禁のオプションもあるだろうが)が出現し、デザインへのインセンティブを変えてしまうのだ。クラウドゲーミングの下では、装飾に凝った一本道のストーリーより、奥深いゲームプレイが有利になるだろう。”Left4Dead”や”StarCraft”の様な無限のリプレイ性を持ったダイナミックなゲームが、突如として”Call of Duty”や”Uncharted”といった映画もどきより儲かる様になるのだ。

 

ゲーム機の見直し

クラウドゲーミングは次世代ゲーム機に対しても重大な影響が予想される。クラウド経由でゲームを動かす機能は、ゲーム機メーカーに旨みのある商売をもたらすだろう。今までゲームショップやレンタル店がやっていた事を、自社のエコシステム内で代替できるのだ。おまけに、光学ドライブやHDDを外した廉価な「クラウド専用」ゲーム機を売る事もできる。

だがこの方向で進んで行くと、そもそもゲーム機は必要なのかという疑問が出て来る。OnLiveは既に”MicroConsole”という物を売っており、最新ゲーム機と同等のゲームがクラウド経由で遊べる。これと同様のテクノロジーがTV自体に組み込まれないとする理由は何も無い。ケーブルテレビ受信機でも衛星放送受信機でも構わない。そもそもゲーム機とは何ぞや? 必須の3要素はコントローラーと、画面と、ソファである。遠からず、この3つとクラウドへの接続環境さえあればいかなるゲームにも数秒でアクセスできるようになるだろう。

実際、クラウドサーバは最新ゲーム機を馬力の面で圧倒している。消費者に次世代ゲーム体験を届けるのが基本サービスなのだ。定期的に高性能の新型サーバが導入される事で、クラウドは「永久に」新しいままのゲーム機でいられる。ゲーム開発者はこれを歓迎すべきだろう。新しいゲーム機が出る度に起こる勃興と崩壊のサイクルがもはや繰り返されないのだから。

現世代のサイクルで言えば、今が一番開発者の儲かるべき時である。ところが実際には倒産しないのが精一杯だ。次世代へのアップグレードの際にその多くが消え去ってしまうだろう。消費者が新しいゲーム機に乗り換えるには数年かかり、そのギャップを無くしてくれる物は何であれ望ましい変化である。

つまりゲーム機メーカーにしてみれば、クラウド化は諸刃の剣というわけだ。一方ではゲームショップの呪縛から解き放ってくれる存在だが、もう一方ではゲーム機の存在価値を脅かす。後者への最大の対抗手段は顧客との密接で積極的な関係だろう。1つのゲーム機にこだわってはいけない。

この方面において、MicrosoftのLiveサービスはソニーや任天堂を遥かに凌駕している。多くのゲーマーはゲームスコアや、実績や、フレンドリストや、ダウンロードしたゲームを捨ててまで他のエコシステムに乗り換えようとは思わないだろう。更に積極策を打てばこの絆を更に強化できる。

クラウド用の小さな端末は殆ど何にでも載せられる。ゆえにどのゲーム機メーカーでも、OnLiveなりGaikaiなりを買収して次のシステムアップデートに組み込めば次世代機を始められる。その次には現行ゲーム機のクラウド版をタダ同然($100なり$50なり)で売る事ができる。これは市場をひっくり返すだろう。これが来るべき変化に備える方法である。次の世代のゲーム機は最後のゲーム機になると言われているが、それすら必ずしも必要ではない。

 

ゲームの見直し

しかしクラウドの可能性は業界への経済的影響よりももっと大きい。実際これはゲームを作る方法そのものを変革しうる。まず、クラウド化は多くの開発チームが抱える最大の問題を解決できる。方向転換のしやすい開発初期において、実際のプレイヤーからフィードバックを得られないという問題だ。ゲームプロジェクトは最初小回りの利くモーターボートとして始まり、やがてゆっくりと膨れ上がって鈍重な戦艦になる。こうなったらもう方向転換は難しい。

クラウド技術を用いれば、ゲームがプレイ可能になったらすぐにファンに公開する事が可能になる。技術的な問題やセキュリティ上の懸念は殆ど無い。プレイヤーが必要なのはブラウザとパスワード(あれば)だけ。ゲームを開発初期に公開してフィードバックと評判を得るのは、インディーズにとっては目新しい事ではない(というより、それがインディーズの競争における大きな強みなのだ)。一方大手は開発中のゲームの流出や前評判で躓くなどのリスクがあるため同じ事をするのが難しかった。

だがゲームプログラムやデータがサーバ上にしか存在しないとすれば、何も流出しようが無い。前評判に関しても、最大のリスクは悪いゲームをリリースしてしまう事であり、それに至る最も確実な道は開発チームに実際のプレイヤーという酸素を吸わせない事である。更に、クラウドの持つ柔軟性はテストプレイヤーを選ぶ無限の方法を提供してくれる。24時間限定パス、地域限定セッション、プレスリリース版、パッケージにアクセスコードを入れておく、などなどなど。

更に、クラウドでのテストプレイは従来の単純な統計や掲示板のコメントよりもっと多くの物をもたらしてくれる。クラウドサーバの出力はゲーム画面の映像そのものであり、そのゲームがプレイされた全ての瞬間を録画して開発者に見せる事が可能である。トリッキーなボスを皆がどうやって倒しているか知りたい? 色々なプレイヤーの録画映像を観ればいいだけだ。

そしてクラウド化がもたらす最大の変化は、クライアント/サーバ構造の終焉である。多くのオンラインゲームは小さなクライアントと、「実際の」計算を行うサーバ側ソフトウェアに分かれている。これはチートの蔓延を防ぐ為だ(ラフ・コスター氏の名言「クライアントソフトは敵の手にある」)。クラウド化した世界では、クライアントは最早クライアントと呼ぶのもおこがましい程の小さなソフトになっているだろう。それはただの入力機能付きビデオ再生ソフトだ。

このシステムの良い所は、もうクライアントという物を作ったり、セキュリティホールを塞いだり、P2Pの接続性を考えたり、クライアント側にどんな最小情報セットを送るかを最適化したりする事に労力を割かなくてすむ事だ。言い方を変えれば、ゲームにマルチプレイを追加するのは基本的に些細な仕事になる。

マルチプレイヤーゲームを一から書くのは大変な挑戦だ。サーバとクライアントの間で状態を同期させ、安全性、公平性、正確さを確保するのは並大抵の事ではない。クラウド化によって、クライアントソフトそのものが無くなりこれらの問題は消滅する。開発者は1つのマシンで走る1つのバージョンのゲームを書けばいい。ゲームはユーザーのアクションに従って反応する。これはまさにシングルプレイヤーゲームの作り方と同じだ。

この面でのメリットを得るには少し勇気が必要だ。完全なクラウドへの移行を必要とするからである。クライアントソフトの無いオンラインゲームを作るという事は、それがクラウド上でのみプレイできるという事を意味する。クラウドへの完全移行には色々なメリットがある。例えば海賊版の消滅だ。そして最大のメリットはネットワークプログラマが要らなくなる事だろう。

この変化から最大の利益を得るのは小規模なインディーズ開発元かも知れない。インディーズでMMOを作るというアイディアは、投じられる労力があまりに少ない為に笑い種でしかなかった。もしMojangがクラウド版の”Minecraft”を出していたらどうなっただろう? 自動でアップデートされ、あらゆるデバイスとブラウザからプレイでき、全ての世界が繋がれている…想像は膨らむ。クラウドゲーミングに関しての質問は今の所、「いつ」それが実現するかという所に絞られている。だがもっと重要な質問は、それが「何を」可能にするかだ。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=410

翻訳記事:フィードバックを得る

これは翻訳記事です

GDC#19:フィードバックを得る

2012/2/1 Soren Johnson
Game Developer誌2011年11月号に掲載された物の再掲

 

「成功を企図し、失敗に備えよ。そして失敗からどう復帰するか考えておけ。我々の”AI WAR”バージョン1.0は成功したが大ヒットには至らなかった。細かいイライラが積もり積もって、皆プレイを止めてしまうのだ。ゲームが公開されると思いもよらなかった問題が次々に発覚する。その時、必ず時間を割いて問題の解決に当たらなくてはならない。そうすればファンは幸せになり、ゲームはもっと売れる。きちんとミスを認めて対処せよ。大変だがすぐに慣れる。私も最初は感情的に辛かったが、今では普通の事だ。辛いと気付きさえしない。それは単にフィードバックであり、的を射ているか判断して『やる』『やらない』『そのうち』の箱にそれぞれ放り込むだけだ」

-クリス・パーク、”AI WAR: Fleet Command”のデザイナー。”Three Moves Ahead”ポッドキャストその37より。

ゲームデザイナーは間違えるのが仕事である。アイディアは思った通りに動かない。面白いはずのメカニクスが実際には退屈だったりする。プレイヤーはゲームの「間違った」部分に時間を集中してしまう。本来あるべきはずのゲームは、プレイヤーと接触した瞬間から徐々に死んで行くのである。

更に、デザイナーは往々にして改善案の爆撃を受けるものだ。チームの仲間から、声高なファンから、善意の友達から、通りがかりの重役から。この大洪水を前にすると、本能的に自分のデザインを守ろうと思ってしまう。これらの改善案は乗り越えるべき試練であって、デザイナーたる己の道を行くのが正しいのだと。

しかしフィードバックを消化する過程はゲームデザインの根幹であり、最初のバージョンを作る過程と同じぐらい重要なのだ。ゲーマーは生きた存在であって、頭の中だけで勝手に判断できる対象ではない。それはプレイヤーの頭の中に住んでいて、同じゲームをそれぞれ違った風に遊ぶのだ。

ゆえにデザイナーは優れた説得者ではなく優れた聞き手であるべきだ。もし何らかの理由でプレイヤーにどう楽しめばいいかを説明せねばならないとしたら、何かが根本的に間違っている。実際、デザイナーは非常に謙虚にプレイヤーの言う事に耳を傾けなくてはならない。フィードバックこそ、デザイナーの頭の中にあるゲームと実際に遊べるゲームの間にある霧を取り払う唯一の手段なのだ。

結局の所、ゲームはそれ自体が説明になっていなくてはならない。デザイナーはアイディアを売り込むのに、自分の熱意とコミュニケーション能力に頼ってはならない。自分のゲームに入れ込んでいるデザイナーにとって、己を捨てて批判から学ぶのは苦しい挑戦だろう。だが我々はゲーム作りの手法にこだわるべきであって、最初のデザイン案に拘ってはいけない。

 

仲間の意見を聞く?

フィードバックを集めてそれを判断する能力は、今日のゲームデザイナーに欠かせない能力になっている。最初の、あるいは唯一のフィードバック元は開発チーム自身だろう。情熱を傾けているチームであれば、自分達のゲームを遊んでデザイナーにフィードバックを返す仕事を喜んでやるだろう。何が上手く行って、何が上手く行かないか。しかし、チームからのフィードバックには重大な限界がある。

まず、開発チームはそのゲームと何ヶ月、事によっては何年も付き合っている。平均的なプレイヤーのプレイ時間を遥かに上回る。開発過程でゲームに慣れ切った結果、ほとんど自動的にプレイできるようになり、メカニクスが非直感的だったりUIが分かりにくい事に全く気付かなくなってしまう。開発者はあっという間にゲームを客観的に見られなくなるのだ。そしてゲームを過大評価したり過小評価したりする。

もっと言えば、チームメンバーはそのゲームが好きだからそこにいるのではなく、それぞれの特殊技能によって雇われたのだ。3Dアニメなり、サウンド作成なり、ネットワーク最適化なり。新しいプレイヤーが体験するちょっとした楽しみを彼らは忘れてしまうかも知れない。もっと危険なのは、燃え尽きてゲームへの興味を失い、ファンコミュニティの声高な意見に反発を覚えるかも知れないという事だ。

 

ファンコミュニティを信じる?

ファンコミュニティもまた、溢れるほどのアイディアと提案のるつぼだったりする。”Civilization 3″の開発の時、最大手ファンサイトが「リスト」を提出して来た。読むだけで大変な20万語の大著で、最新作に何を期待するかが詳細に書かれていた。掲示板を漁るのは殆どのデザイナーにとって余りに大変だろう。よほど神経が太くなければ開発上の選択肢が全く無くなってしまう。

だがコミュニティに入るほどのプレイヤーは、誰よりもそのゲームをよく理解している。彼らにとってそのゲームは生活の一部である。彼らは何百時間もそのゲームを遊び、メカニクスとシステムについての知識を高め、開発者すら気付かなかった事にも気付きうる。

難しいのは、プレイヤーの言う事と実際にやる事がしばしば乖離している事だ。GDC2011の講演において、ベン・カズンはちょうどその様な状況について語った。舞台はF2PオンラインFPS、”Battlefield Heros”である。このゲームは十分な利益を出しておらず、課金システムが見直される事になった。無課金プレイヤーが貴重なアイテムを「レンタルする」のを難しくし、それらを直接現金で売るという仕組みである。

掲示板は大騒ぎになった。1週間のうちに4000以上のスレッドが立ち、この変更を非難した。多くの古参プレイヤーが引退を宣言した。状況を更に悪くしていたのが、カズン自身がかつて「武器を売る計画は無い」と公言していた事である。メディアは発現の矛盾を取り上げ、Kotakuに至っては「Battlefield Herosは終わった」という記事まで掲載した。

ところが数字は全く違う事を語る。アクティブユーザー数に有意な減少は見られず、収益は3倍に膨れ上がった。引退を宣言したプレイヤーが嘘をついていたのかどうかは判断が難しいが、それが平均的なプレイヤーを代弁していなかったのは確かである。カズンは更に詳しく調査した。すると掲示板を見ているのは全プレイヤーの20%であり、発言しているのはわずか2%であると分かった。

更にコミュニティ参加者はサイレントマジョリティに比べて課金率が高く(27%対2%)、1人あたりの月額課金額も高かった($110対$32)。つまり掲示板に書かれていた事はプレイヤーの総意を正しく反映していなかったわけだ。本音を語っていたのではなく、金を節約するためにゲームをやめると脅していただけかも知れない。

“Heros”の経験は統計の重要さを示している。統計はフィードバックに次ぐ情報源だ。プレイヤーが実際に何をしているか調べるのは、彼らの言う事に耳を傾けるのと同じ位重要である。もちろん統計にも限界はあり、数字を眺めるだけではなぜプレイヤーがゲームを止めてしまったのか知る事はできない。

ユニットXがユニットYより優先して作られる確率を調べるのはRTSのバランス調整に役立つが、2つのユニットが全く同じだけ魅力的である必要は無い。それは必ずしもゲームを面白くしない。統計は実データを要する客観的質問に答えるには最適だ。例えば最初に選ばれる難易度はどれが多いかなど。しかしゲームが実際に面白いかどうか知るには、プレイヤーの言う事に耳を傾け、プレイヤーがどう感じているかを見つけ出すしか無い。

 

信頼できる意見を見つけよう

どこからフィードバックを得ればいいのか? デザイナーにとっての難問である。声高なファンコミュニティは情報源として不確かなだけでなく、積極的に開発者をミスリードしようとする。最悪なのは開発者が掲示板を見ている事に気付かれると、それだけ欲しい物を手に入れる為の嘘が出て来るという事だ。MMOの開発者はこの手のプレイヤーに始終晒される。自分の使っているキャラクタークラスが弱過ぎると常に強弁するが、客観的な証拠は常にその真逆なのである。

この問題に対処するには、ファンからのフィードバックを得る手段を前々から用意しておくべきである。ファンにも色々いる。木でなく森を見て価値あるフィードバックを返せるのは、限られた一部のファンである。そういう意見がゲーム全体の健全さと面白さに貢献する。”Civilization 4″の開発の時、我々はその様な見識を持ったグループを育て、信頼できるフィードバックを貰っていた。

彼らは信頼できる情報源としての実績があった。Civ3をリリースした後、彼らには特別なプライベート掲示板が与えられ、開発チームと直接やり取りができた。このグループは我々の主たるフィードバック源であり、リリースの前後に渡ってどのアイディアが良くどのアイディアが悪いかについて確信を与えてくれた。彼らがいなければCiv4は非常に違った物になっていただろう。確実に悪い方に。

しかしこうしたグループは慎重に案配せねばならない。他の一般プレイヤーより偉いとか優れていると思わせてはいけない。この理由により、可能であればグループの存在自体を隠しておくべきである。またプレイヤーの代弁者を捜す事にも全力を尽くすべきであり、掲示板の外側から新しいメンバーを入れる事も検討するとよい。

 

早く聞け、しょっちゅう聞け

「クリネックス」テストも正確なフィードバックを得る手段である。テスターはリリース前のゲームに一度しか触れられない。これが名前の由来である。プレイヤーが最初にゲームに出会った時の反応は価値のある情報だ。UIの穴やゲームプレイの歪みに慣れてしまう前の反応である。Valveはこの種のテストを定期的に行っており、ゲームストアで適当なプレイヤーを捕まえてテストさせるのである。

しかし深く掘り下げるテストも同様に重要である。その為にはリリース前に継続してゲームに触れてもらわなくてはならない。そうしてゲームのシステムとメカニクスに対する探索と実験を行うのである。大手パブリッシャーは早い段階でのアクセスを与えるのが難しい場合がある。ゲームがクラックされて海賊版サイトに流れたり、秘密情報がライバルに渡る事を恐れるのである。

インディーズはこの部分で大きな優位がある。情報が漏洩する事よりも、無名で終わる事の方が彼らには恐ろしい。ゆえに最近のインディーズ(“Spelunky”、”Desktop Dungeons”、”The Wager”)の多くはゲームの初期バージョンを公表し、宣伝と同時にフィードバック集めを行っている。

“Frozen Synapse”、”Minecraft”、”Spy Party”など、アルファ版へのアクセス権を販売する事で収入を得ているゲームすら存在する。この選択肢により、開発者はゲームを立ち上げつつそれがどう遊ばれるか観察できる。インディーズが困難な戦いを勝ち抜くための重要な選択肢だ。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=391

翻訳記事:ゲームの終わり?

これは翻訳記事です

GDC#18:ゲームの終わり?

2011/8/7 Soren Johnson
Game Developer誌2011年5月号に掲載された物の再掲

 

2010年3月のGDCにおける講演で、ngcomoの創始者ネイル・ヤングは語った。欧米における基本プレイ無料(F2P)ゲームの出現は「(開発者にとって)業界始まって以来の重要な移行と好機」だと。その後、多くの開発者が次から次にこの移行を果たした。

6月、Turbineは利益の出ている月額制MMO”Lord of the Rings Online”をF2Pに変更すると発表した。同社のMMO、”Dungeon and Dragons Online”における同様の変更が成功し、収益が5倍になったのを受けてである。11月、EAは”Battlefield Play4Free”を発表。F2Pでクライアントダウンロード方式のFPSであり、”Battlefield 2″エンジンを基盤に作られている。同じく二次大戦を舞台にした”Battlefield Heros”の成功を上回ろうという目論見だ。今年2月、人気F2P戦略ゲーム”League of Legends”の開発元Riot Gamesが中国の巨大ゲーム企業Tencentに4億ドルで買収された。これによりF2P方式の巨大な収益可能性が明らかになったのである。

実際、人気シリーズでF2P化が検討されない物はほとんどない。F2Pの収益可能性はあまりに大きく、もはや無視できない存在だ。3月、バンクオブアメリカ・メリルリンチのコンファレンスにて、Activisionの最高財務責任者トーマス・ティップルは語った。恐ろしい事に、”Starcraft 2″は経済的に見ると割に合わないプロジェクトだったという。このゲームは非常によく売れ、総売上は2億5000万ドルを超える。にもかかわらず、継続的な収入をもたらさない事と開発費の高さから、これでも十分なリターンとは言えないのである。結局、Activisionの様な上場企業は最大の利益を生むプロジェクトに金を投じなくてはならない。そしてF2Pゲームの存在感はますます大きくなり、売り切り型ゲームはますます小さく見えて来る。

ネイル・ヤングのngmoco自体、会社の優先事項がどう変わったかという興味深い実例である。このスマートフォン向けゲーム会社の最初のヒット作はiPhoneの”Rolando”であり、黎明期の会社に大きな収入をもたらした。しかしすぐに気付いたのである。売り切りのゲームもそれなりに儲かるが、最も利益をもたらしているのはゲーム内購入付きのF2Pゲームであると。同社の王国建設ゲーム”We Rule”はリリースから1ヶ月も経たずに、最も収益の高い「無料」iOSゲームになった。

F2Pこそ唯一の成長戦略と信じ、ngmocoは売り切り型のゲームをどんどん開発中止にした。収益の約束された”Roland 3″すらもだ。F2Pに適するゲームが最優先だった。ヤングいわく「F2Pにできないゲームはリリースしない」そうである。この戦略は功を奏し、2010年に日本のDeNAがこの若い会社を4億ドルで買収するに至った。

 

新たなデザイン

今日のゲームデザイナーはこの類の命令を上司から始終聞かされる。しかし、F2Pに適する様にゲームをデザインするのはそう簡単な過程ではない。実際、売り切り型ゲームのデザインはこれよりずっと簡単な仕事だ。プレイヤーの体験を可能な限り楽しくするという一つの事に集中すれば良いのだから。これに対し、F2Pゲームはプレイヤーを引きつけて離さない程度に楽しく、かつ課金させる程度に出し惜しみしなくてはならない。

私の作ったフェイスブックゲームである”Dragon Age Legends”を含め、スタミナ方式は多くのゲームに採用された定番モデルである。この方式では戦いを始めるなど、様々な行動がそれぞれ一定のスタミナを消費する。スタミナを使い切ると回復するまでそれらの行動は不可能になる。回復量はふつう5分に1ポイントだ。

スタミナが満タンの場合、使い切るまでに4〜5回の戦闘が可能である。この時点でプレイヤーには2つの選択肢がある。スタミナが自然回復するまで2時間かそこら待つか、リアルマネーでスタミナ回復アイテムを買うかである。スタミナがある限り、無課金プレイヤーも完全なゲーム体験が得られるのだ(“Legends”の戦闘は課金によって変化しない)。しかしスタミナが切れたら辛抱強く待たなくてはならない。

売り切り型ゲームで故意にプレイヤーに辛抱を強いるメカニクスはまれである。というより、それは悪いデザインの証なのだ。F2Pは伝統的なゲームデザインの常識をひっくり返す。実際、これは開発者の間に不安をもたらしている。そもそもゲームを作ろうと思った理由、プレイヤーにできる限りの楽しみを提供したいという動機が危機に晒されているのではないか。独立系デザイナー/プログラマーのクリス・ヘッカーは自身の憂慮を語った:

「私がF2Pに感じている問題は、ビジネスモデルはそれを採用する事で何を犠牲にするのか滅多に語らないという事だ。アイテム課金はゲームデザインを歪める。良い悪いではなく、確実にゲームデザインを別の物にするのだ。アイテム課金の収益性があまりに高く、多くの会社が大型タイトルをこれに移行させるとしたら遺憾の極みだ。ゲームという芸術には探索すべきデザインの余地が大量にある。その多くはF2Pに向いていない。1回買い切りの「完全な」ゲームが失われてしまわない事を切に願う。私が頑固な年寄りだからではない(頑固な年寄りだけれども)。探索されるべきデザイン空間がまだたくさんあるからだ」

 

新たな希望

“League of Legends”は去年最も成功した戦略ゲームのひとつである。そしてヘッカーの、売り切り型ゲームによるデザイン空間の探索が失われてしまうのではという懸念が正しい事を証明するケーススタディだ。このゲームはF2Pを正しくデザインした例としてよく引き合いに出される。人気と商業的成功(4億ドルで買収された)に加え、批評家からも賞賛され”Game Developers Choice Online Awards”を受賞。そして一番重要なのは、このゲームのビジネスモデルがコアゲーマーに受け入れられた事である。ふつうコアゲーマーはアイテム課金を色眼鏡で見るものだ。

“League of Legends”は競技性の高いチーム対戦ゲームであり、一方の陣営に優位を与えるアイテム課金は欧米のゲーマーの大多数には全く受け入れ難い。そこでこのゲームは戦いに長い時間を投じたプレイヤーに報奨を与える仕組みになっている。

メタ経済においては二重通貨システムが採用されている。これはF2Pゲームにはよくある方式で、プレイによって得られる時間通貨(IP)とリアルマネーで買う現金通貨(RP)が並立する。プレイヤーの能力を高めるアイテム(ルーン)は時間通貨(IP)でのみ購入でき、IPを稼ぎ続ける様に強く誘引する。プレイヤーの外観を変える装飾アイテムは現金通貨(RP)でのみ購入できる。こちらは単に見栄の為の支出だ。

またRPで一時的なブーストを買う事もでき、IPを稼ぐ効率が向上する。この課金方式は時間か金かという質問をプレイヤーに投げかける。少し金を出して早くルーンを取れるようにしてもよいし、何試合か余計に戦う事で必要なIPを溜めてもよい。

しかし最も重要な課金はキャラクターの解禁である。”League of Legends”は”Warcraft 3″の人気Mod”Defense of the Ancients”が元になっているのだが、このModでは軍隊を動かせず1人のヒーローだけを動かす。そしてヒーローの組み合わせが奥深さを生み出すのだ。現在のバージョンでは103種類のヒーローがいる。LoLの方も同様の「チャンピオン」というのがいて、2012年3月現在72種類である。

しかし72種類が全ていつでも使えるわけではない。毎週10種類前後のローテーションが組まれ、その時その時で使えるチャンピオンが違うのである。このサイクルは、特定のチャンピオンを使い慣れたプレイヤーを慌てさせる。今や新たなチャンピオンの使い方を学ばねばならないのだ。新たなスキルと能力を楽しんでしまうプレイヤーもいるが、多くは使い慣れたチャンピオンで勝ち続けようとする。

そこでLoLはプレイヤーにチャンピオンを永久に解禁する選択肢を与える。IPでもRPでもこれは支払える。定番のスタミナ方式と同様、キャラクター解禁はプレイヤーが辛抱できない場合に課金する仕組みだ。数週間待ってまた使い慣れたチャンピオンの番になるのを待ってもよいし、数日間戦って解禁に必要なIPを貯めてもよいし、はたまた少し金を投じてお気に入りのチャンピオンを取り戻してもよい。このモデルはゲーマーと開発元の両方にとって上手く働いた。プレイヤーは素晴らしいゲームを無料でできるし、開発元はせっかちなプレイヤーのお陰で収益が得られる。

一方売り切り型ゲームはこういうデザインが不可能だ。プレイヤーの使えるキャラクターが週ごとにそれぞれ限定されているというのは無理である。実際、売り切り型戦略ゲーム”Command and Conquer 4″は何度もセッションをこなさなければユニット作成を解禁できない事で批判を受けている。LoLはチャンピオンをまとめて解禁すれば売り切り型モデルに移行できるだろうが、売り切り型モデルはそう簡単にF2Pに移行できるとは限らない。

例えば”StarCraft 2″はどうやったらF2Pゲームになれるのだろうか。このシリーズは無駄の無いエレガントなルールの塊であり、余計な要素や無駄な選択肢はデザインを曇らせるものとして排除されている。実際、続編でユニットが何種類か追加されたが、Blizzardはその分古いものを廃止してユニットの種類を各種族12個に保っている。また1との差別化の為に4つめの種族が必要であるとの声は聞かれない。

“StarCraft 2″はLoLのモデルを踏襲できるのか? 例えばテランは無料でプレイできるがザーグとプロトスは課金とか。この方式は全く駄目だろう。ビジネスとしても繰り返し購入する機会が限られているし、デザインとしても90%のプレイヤーがテランを使っているのではバランスが崩れてしまう。もっと積極的な策、例えば戦闘中にシージタンクが購入できるなどは公平な勝負というコンセプトに反するだろう。これは戦略ゲームの中核だ。

 

古い教訓

もしActivisionが”StarCraft 2″は経済的に割に合わない判断するなら、この種の精密で複雑なデザインは消え去ってしまうのだろうか? アイテム課金方式は欧米のビデオゲーム業界ではまだ新しい試みだが、アナログゲームの世界では以前からあった。”Magic: The Gathering”および他のTCGは90年代において少額課金モデルの力を見せつけた。プレイヤーは同じゲームの中で何年にも渡り、繰り返し物を買うのである。TCGメーカーは我々よりも先に、ビジネスとゲームデザインが渾然一体となる世界と渡り合っていたのである。

だがTCGの大成功(M:tGの売り上げは年間2億ドルで非TCGを遥かに上回る)にもかかわらず、売り切り型の「完全な」アナログゲームは死滅していない。実際、カードゲームとボードゲームの業界はかつて無いほどの多様性と革新に溢れている。

事実、去年最も成功した2つのカードゲームはM:tGのメカニクスを用いて売り切り型ゲームに仕上げ、商業的にも評判の面でも成功を収めた。「ドミニオン」はTCGのメタゲーム、デッキを作ってプレイする過程を伝統的なカードゲームの形式に落とし込んだ。「世界の七不思議」はTCGのドラフト方式をゲームにしたもので、カードをプレイする度に1枚ドラフトして来る。

これらの売り切り型ゲームはM:tGの影から生まれた物であり、少額課金型ゲームとの共存が可能だと証明している。実際、これらはM:tGのゲームプレイの一部を新たな層に広げたのだ。誰もが決して完結しないカードゲームの一部を買う事に乗り気なわけではない。多くのゲーマーはTCGをやるだけの財力が無いだろう。多くのゲーマーがF2Pゲームに課金する財力が無いのと同じ様に。

もし全てのゲームがアイテム課金に移行したら、そうでないゲーム体験を求めるプレイヤーが大勢取り残されるだろう。アイテム課金はゲームデザインを歪め、繰り返しの購入へとプレイヤーを駆り立てる。しかしそれによって大量のデザイン空間が埋めるべき空白として残される。それは小規模なパブリッシャーと開発元にとって大きな参入チャンスになるだろう。売り切り型ゲームは開発費を慎重に抑えれば十分利益を出せる。そしてその利益は大規模パブリッシャーがデザイン空間を放棄すればするほど高まるのである。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=372