これは翻訳記事です
GDC#5:シドのルール
2009/3/1 Soren Johnson
Game Developer誌2009年1月号に掲載された物の再掲
多くのゲーム開発者は「良いゲームは面白い選択の連続である」というシドの格言を聞いた事があるだろう。実際、ダミオン・シューベルトが同じ雑誌でコラムを連載しているのだが、プレイヤーの選択に関する2008年10月の記事はこの格言で始まっている。だがシドはその他にもいくつかのゲームデザインに関するルールを編み出している。2000年から2007年にかけてFiraxis Gamesで働いていた時、彼がこれについて語るのを何度も耳にした。これらの知見は開発者にとってとても実践的な教えであり、論ずるに相応しいものと言えるだろう。
倍にするか半分に削れ
良いゲームが無から生まれる事は滅多に無い。だからこそ多くの開発者が反復的なデザイン方式を提唱するのだ。まず単純なプロトタイプを非常に早い段階で作り、繰り返し繰り返し手を加えて最終的に出荷できる製品に仕上げる。シドはこの過程を「面白探し」と呼んでおり、その成功率は開発ループを何回繰り返せるかにかかっている。アイディアを形にし、出来た物をテストし、フィードバックに基づいてそれを修正する。その繰り返しだ。サイクルの回数は有限であるため、小さな変更のために時間を無駄にする事はできない。ゲームプレイを修正する時は大きな変更を加えて、はっきりとした反応を呼び起こすべきだ。
あるユニットが弱過ぎたら、コストを5%減らすのでなく強さを倍にする。アップグレードの種類が多過ぎて混乱するのであれば、半分を取り除く。初代”Civilization”はゲームプレイのテンポが悪くなり、地べたを這う様になってしまった事がある。シドはマップサイズを半分にする事でこれを解決した。大事なのは新しい値が正しいかどうかではない。より多くのデザイン領域を囲い込む事が目標だ。
新しいゲームのデザイン空間を未踏破の世界として考えてみよう。地平線の向こうに何があるかはぼんやりとしか分からない。実験とテストをしてみなければ、どう予測しようと机上の空論でしかない。そして大きな変更を加える度に新たな土地が明らかになり、最終的な製品の着地点を決める判断材料が増える。
1つの良いゲームは2つの素晴らしいゲームに勝る
シドはこれを「コバート・アクションの法則」と呼んでいる。90年代初頭に彼が作り、あまり売れなかったスパイゲームの名前から取った物だ。
「失敗だったのは、2つのゲームを一緒にしてそれが喧嘩してしまった事だ。建物に侵入して手がかりを集めたりするアクションゲームと、謎の陰謀に巻き込まれて黒幕を捜すアドベンチャーゲームとが共存していた。どちらもそれぞれ良いゲームだったが、両方一緒にすると喧嘩してしまうのだ。解決すべき謎が出て来る。そして次にアクションパートに入ってひとしきり暴れ、建物から出て来る。ここで「それでどういう謎を解こうとしてたんだっけ?」となってしまう。”Covert Action”はストーリーとアクションの調和に失敗した。アクションパートがかなり激しく、1回のミッションに10分かそこらのプレイ時間がかかる。出て来た時には何が進行していたのかすっかり忘れてしまっているのだ」
言い換えれば、どちらのパートもそれぞれに面白いゲームだったが、両方を同時に存在させる事でゲーム体験が損なわれてしまったのだ。プレイヤーはどちらかに集中する事ができなかった。このルールはもっと大きな論点に繋がる。全てのデザイン上の決定は他との相互関係において良し悪しが決まり、それぞれメリットとデメリットを伴うトレードオフである。戦略ゲームを作るという決定は戦術ゲームを作らないという決定である。それ自体としては「面白そう」なアイディアも、プレイヤーを本来あるべき体験から逸らしてしまうのでは駄目だ。実際、このルールは何故Civシリーズが戦術的バトルシステムを導入しないかという理由である。
しかし、複数のゲームが調和のもとに共存できる場合もある。シドの”Pirates!”は戦闘、航海、ダンスなどのミニゲームを上手く組み合わせた集合体だ。ただしこれらのゲームプレイはそれぞれ非常に短い。長くて数分だ。ゆえに海賊として生きるというメタゲームへの集中を失わずに済む。各々の小さな課題は長い冒険の中の一歩である。例えばスペインの都市を全て略奪するとか、生き別れの家族を救い出すとか。
“X-Com”も複数のサブゲームを上手く組み合わせている。ターンベースの作戦級ウォーシムと、リアルタイムの戦略級資源管理ゲームである。”Pirates!”と同様、”X-Com”が上手く行くのは焦点を定めているからである。このゲームは軍隊を動かして異星人の侵略と戦うのが楽しいのだ。戦いはそれぞれ30分ほど。上位の戦略ゲームは各々の戦闘にどんな意味があるかを決める枠組みでしかない。資源管理を有利にするために戦うのではなく、戦いを有利にするために資源を管理しているわけだ。
資料収集はゲームが出来てから
歴代のベストセラー、「シムシティ」、”Grand Theft Auto”、”Civilization”、”Rollercoaster Tycoon”、「シムピープル」などは現実世界をテーマにしている。誰もが知っている物をゲームにする事で幅広い層に売り込めるのだ。しかし、現実の事象をゲームにするという試みは自然な、しかし危険な傾向を引き起こす。あらゆる細部と無駄な知識をゲームに詰め込み、開発者がそれについてどれだけ勉強したか示そうとするというものだ。こうなるとプレイヤーが最初から持っている知識だけではゲームができなくなり、現実世界のテーマが有益である理由自体が失われる。誰でも知っている通り、火薬は軍隊を強くし、警察署は犯罪を減らし、カージャックは違法である。シド曰く「プレイヤーが制作者と同じ本を読んでいる事を求めてはならない」のである。
ゲームには大きな教育効果を持ち得るが、多くの教育者達が考える様な方法によってではない。もちろん事実として間違っている事を入れるべきではないが、インタラクティブな体験の価値は単純なコンセプトの相互作用から生まれるのであり、データや数値を詰め込む事からではない。ナイル、ティグリス・ユーフラテス、インダスなど最初期の文明は川沿いに生じた。どのタイルが初期の農業において多くの食料を産出するかという単純なルールにより、”Civilization”はこれを非常に効果的に表現している。ゲームの中核部分が出来上がった後なら資料集めはとても有益だ。歴史シナリオー、フレーバーテキスト、詳細なグラフィックなどは細部を肉付けして深みを与えてくれる。新しいゲームを学ぶのは大仕事である。プレイヤーが最初から必要な知識を備えていると期待して、テーマの親しみやすさを放棄するべきではない。
楽しむのはプレイヤー。開発者やコンピュータではない
ストーリーを基盤にしたゲームを作るのは楽しい。つい夢中になって、大げさな背景設定やら大量の固有名詞やら、珍しい子音やら「’」だらけの名前やらを詰め込んでしまう。また、複雑で精密なシミュレーションに基づくゲームは内部の計算式が隠されていると非常に分かりにくい。シドに言わせると、これらのゲームは開発者やコンピュータが楽しんでいるのであってプレイヤーが楽しんでいるのではないそうだ。
例えば”Civilization 4″の開発の際、試しに研究や生産物を指定できない代わりに大きな生産ボーナスが得られる政治体制というのを導入してみた。内部に隠されたシミュレーションモデルがあって、国民が何を生産したがるか決定しているのだ。このアルゴリズムを作るのは楽しかったし、ゲームを離れて興味深い議論ができた。だがプレイヤーは置いてけぼりである。楽しみをコンピュータがみんな持って行ってしまったからだ。そこでこの要素はカットされる事になった。
更に、ゲームに必要なのは意味のある選択肢だけではない。その選択が正しいと感じられる様なコミュニケーションも必要である。プレイヤーに選択肢を与えても、それがどういう結果になるのか理解できなければ楽しくない。RPGはしばしばこの部分で失敗している。例えばキャラクター作成時に職業やスキルを選ばされるが、そのゲームを1秒も遊んでいないのにその選択をしなくてはならないのである。戦闘システムが実際どうなっていてパラメータに何の意味があるか分からないのに、どうしたらバーバリアンと戦士とパラディンのどれが良いか選べるのだろうか? 選択肢が面白くなるためには、異なる結果を生むだけではなくちゃんと情報が与えられていなくてはならない。
シドは言う。プレイヤーは「常に王様」であるべきだと。我々開発者はプレイヤーの側に付いてなくてはならない。ゲーム世界におけるプレイヤーの役回りがどうなるか、その内部のメカニクスをプレイヤーがどう理解するか、常に慎重に考慮してデザイン上の決定を下すべきである。
原文:http://www.designer-notes.com/?p=119
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