翻訳記事:「アグリコラ」–繁殖の空間すら無いゲーム

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2016/11/16 Cheng Lap

 
「アグリコラ」の様な言わずと知れた名作をわざわざ紹介する必要は無い気もするが、名作をどれも紹介しない事にすると原稿の種が無くなってしまうので不要とは知りつつ取り上げてみよう。それに世界にはまだまだこのゲームを遊んだ事の無い人が残っているだろうし、紹介した所で大多数はどうせ遊ばないにせよ、遊べばきっと面白いのだ。少なくとも私は好きだ。そういうわけで一度紹介する事にした。

アグリコラはドイツ製ゲームである。プレイヤーはドイツの農家になり、2〜3個の食料と2人(夫婦を表している)の人間と大きな空き地を持って始める。そして他のプレイヤーと共にそこら中を駆けずり回って天然資源を採取し、家人を養い、土地を耕し、我が身と我が家を整えて天下泰平を目指すのだ。6回目の収穫の後最も点数の高いプレイヤーが勝者になる。

そして忘れてはならないのだが、最初の時点では家の空間は2人が生活するのにやっとの狭さであり、公営住宅よりマシな点と言えば羊や豚をペットとして飼ってもいい事だけだ。

どうして家が狭いのを強調するのかと思うかもしれないが、これが非常に重要な点なのだ。遊べばすぐに分かるだろうが、このゲームでは「家族を増やす」行動が極めて重要である。というのも家族1人はラウンドごとの行動1回を表しており、家族成員が多ければ多いほど点数を上げやすく、少なければ低いままになりやすい。さらに家族の人数そのものも最後に1人3点で計算される。このため多くの人が認める通り、アグリコラとはいかに子孫を増やすかのゲームなのだ。一直線に5人まで増やすべきかはやや疑問の余地があるものの、少なくとも3人目の家族はできるだけ早く生んだ方が有利だという点は誰もが同意するはずだ。

しかしこのゲームでは子供は作りたければ作れるという代物ではない。何か特殊能力を使わない限り、最初の狭い家では「家族を増やす」アクションを使うことすらできず、大人しく他の活動に励むしかない。木を集め、部屋を増設し、家を3部屋なり4部屋なりに拡大して繁殖のための空間を用意して初めて繁殖アクションを使えるのだ。要するに開始時点では「子作り部屋すら無い」という事である。結婚して家を建ててようやく始まるという恐ろしく現実的な仕様だ。もし家を建てやすいゲーム展開になれば出生率は上がるし、何らかの原因で家を建てるのが困難になれば出生率も期待できない事になる。

それにも増して現実的な事に、ゲーム終盤の12〜13ラウンド(14ラウンドが最後)になると「空き部屋がなくても繁殖」というアクションが新たに出てくる。果たして年齢も限度に近づいて焦り始めたのかどうか、生活水準も顧みず、部屋があろうと無かろうと構わず、とにかく子供を生んでしまう。そして生まれて来た子供は自分の寝室すら無く誰かと雑魚寝である。実に悲劇的だが、これでもちゃんと3点になる。

 

しかもこれは人間に限った事ではない。ゲーム中に出てくる他の動物も同じなのだ。羊も牛も豚も、家の中でなく牧場で暮らしているとは言え、その牧場に十分な空間が無ければ繁殖できない。つまり空間が余っていなければ仔牛も生まれて来ない。どうせ生まれて来ても人間に食われるだけにせよ、居住空間が狭すぎると動物ですら子作りの気分にならず何も生まれないのである。

そればかりか植物すらこの運命から逃れられない。このゲームでは土地を耕して畑を作らなければ、作物の種を撒いて育てる事は不可能である。農地が無ければどうなるか? 残念、植物もまた繁殖できない。つまり何もかも土地問題に収斂していく。一見したところ点数を取り合う農業ゲームに見えるが、その本質は繁殖空間争奪ゲームである。人間だろうが動物だろうが植物だろうがみな同じなのだ。

これを遊び終えた時ひとつの真実に気付くだろう。どうして香港や台湾の出生率は一人っ子政策も無いのにこんなに低くなっているのか。政府はもっと子供が生まれれば良いと言うが、一体何をどう生むつもりだ? 部屋が無ければ繁殖アクションすら使えないと知っているか? ボードゲーマーですら気づいている事に税金泥棒どもは目をつぶり、自分は何も間違った事をしていないと嘯いているのだ。

 

原文はこちら:http://www.cup.com.hk/2016/11/16/chenglap-agricola-boardgame/

翻訳記事:「ナショナルエコノミー」–人口は力か重荷か

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香港のニュースサイトで取り上げられたナショナルエコノミーのレビュー記事。
2016/8/10 Cheng Lap

 

「ナショナルエコノミー」–人口は力か重荷か

経済ゲームが好きなプレイヤーはとても多い…まあ大抵はゲームの中で富が増えるのが楽しいからだが。こう言うと些かさもしい様に思えるが、そもそもそれが経済ゲーム人気の衰えない主な理由でもある。

ただし我々が目にする多くの経済ゲームは「雪だるま式」の経済だ。要するに、人口が多ければ多いほど生産力が伸びるし、生産力が伸びれば経済力もうなぎ上りというわけだ。

経済が好調なら人口ももっと増える。これは問題ない。では人が増えれば生産力が伸びて経済がもっと良くなるか? これはちょっと問題だ。というのも政府の人間はしょっちゅうこう言う。人口が増えれば生産力が増え、市場が大きくなり、とにかく人が多ければ多いほどいい。数は素晴らしい。だが忘れてはならない、たとえ政府高官だろうと原因と結果を取り違えるのはいつもの事だ。ある国の人口が多く、「うちの国は上手く行っている」と叫ぶのが仕事の高官がいて、彼が人口が多いのは素晴らしいと言っているとしよう。この場合本当に人口が多いのは良い事なのか? 彼自身も本当は知らないのだ。

大抵のゲームもこの調子だ。アグリコラだろうとストーンエイジだろうとエイジオブエンパイアだろうと、人口は多ければ多いほどいい。ただしこの「ナショナルエコノミー」というゲームだけは完全に別だ。

このゲームは一見すると簡略版アグリコラの様だ。多分デザイナーも参考にしたのだろう。最初は2人のワーカーで始まり、典型的なワーカープレイスメントの流れで、各プレイヤーが毎回1つ職場を使う。開始時に存在するのは基本職場だけで、鉱山(カードを引く)、大工(カードを出す)、学校(ワーカーを増やす)、これで終わりだ。もしアグリコラを遊んだ事があればこう思うだろう。ワーカーを増やす前にまず家を建てなきゃいけないんだよな? どういう前提条件が必要なんだ?

答えは「何もなし」だ。増やしたければ増やせ。実際このゲームのワーカーはモリモリ増える。中盤になると一度に2人とか3人増やす事すら可能だ。ワーカー1人は行動1回だから、増えれば増えるほど生産力もGDPも自然と大幅に上がる。始めたばかりの頃はこれがものすごく得に思える。何しろあっちのプレイヤーは2人しかワーカーがいないのにこっちは3人で、カードだって沢山引けるのだ。違うか?

この発想で行くと3人と言わず13億人ぐらいまでワーカーを増やしたくなるかも知れない。だが申し訳ない、社宅を建てない場合5人が限度だ。それにそもそも、実際に遊んだら5人にだって増やしたくないと思えるだろう。

なぜならこのゲームのワーカーは飯を食う、じゃなかった、給料を持っていくからだ。まあ運用上飯を食うのとそれほど違いは無いのだが。ゲーム開始時には各ワーカーは2ドルの給料を要求する。ワーカーが増えればそれだけ給料の支払いも増える。もし給料が払えるだけの金が無ければ自分の建物を売らなければならないし、売ってもまだ足りなければ高利貸しに泣きついて1ドル借りるごとに3ドル返す羽目になる。そういうわけで毎ラウンドきっちり給料を払える様にしておきたいのだ。

給料を払うためには金を稼がなくてはならないだろう。となるとこう思うはずだ。だったらワーカーに金を稼いで来させればいいじゃないか、それでそいつ自身の給料を賄ったらいいんじゃないか? 例えばストーンエイジでも狩人は自分が食べる分を狩った上に余剰食料も持ち帰ってくれる。ゲームってどれもそういうものだろう? ところがこのゲームは違うのだ。

というのもこのゲームでは、ワーカーは直接金を稼ぐ事ができない。彼らは製品を作るか、建物を作るかで、直接金を生み出す事はできないのだ。なので手元の金はあっという間に給料に消えてしまう。現物支給は? 駄目だ。ワーカーを使って製品を市場で売って金を作るしかない。ところが市場がまた有限だ。つまり、市場に存在する金が有限で、製品を売るのも早い者勝ちなのだ。誰かが内需市場の金を全て持ち去ってしまったら、いくら手元に製品があっても売る事のできない不良在庫と化す。例えば1万本のスプーンを作っても内需が1000本分しか無かったら9000本は使い道のないゴミという具合である。

そういうことだ。現実世界における生産力・生産量崇拝者の一味はこのゲームでは大いに苦しむ。売る先の無い生産力はただただ無駄になり金に変わらないのである。

内需市場が尽きる? でもそれでも給料は払わなくてはいけない。どうすればいいんだ? 心配無用、市場には金が補充されて来る。人口が多いと市場が多いという話を覚えているかな? 実はこれはある程度正しい。なぜならこのゲームでは、プレイヤーの払った給料が全て市場へと流れていくからだ。言い換えると、プレイヤーは自分のワーカーに給料を払い、彼らが製品を買える様にしているのだ。同じ金が不断に流動していく。これこそがこのゲームの最も優れた点だ。よく政府高官が経済が不調だ消費が弱いとこぼし、それと同時に賃金を下げて「競争力」を上げろと要求するが、彼らはこのゲームを遊んだ事が無いに違いない。消費する金は元を正せば稼いだ金であって、労働者に可処分所得が無ければ企業だって内需市場の恩恵を受けられないのだ。

ただし大前提としてまず給料が払えるだけの金がプレイヤーに無くてはいけない。そうでなければ市場に流す事も不可能だ。しかもこのゲームの金は徐々にインフレで価値が下がる…というかワーカーの給料が徐々に上がっていく。どんなに人を増やしても給料を払えなかったら人口イコール市場とは言えない。2ドル給料を払ったら2ドルの市場が生まれ、4ドルなら4ドル、8ドルなら8ドル。2ドルの給料を払ったら8ドルの市場が生まれるという事は絶対にあり得ないのだ。このゲームを遊んだら金というのは同一のものが流動しているのであって無から生まれるのではないと分かるだろう。

ではどうやって市場に出回る金を増やせばいいのだろうか? 外資である。このゲームではプレイヤーが作った建物は全て外国人投資家に売り払える。そして建物という資産に応じて金を払ってくれる。この金は市場の外から出てくる。そしてその金はまた市場へと流れ込み、売り払った建物は公共建築と化して誰でも使える様になる。

ゲームの最後に全ての資産の売値を合計したものが勝利点になる。人口を増やしたければ好きに増やせばいいが、他のゲームと違って一部の建物の効果を除き人口は全く点数にならない。それどころか、製品を作って売る事ができないのであればワーカーどもは全くの重荷である。無駄に人口が多くとも点数や生産力が伸びないばかりか、巨大な消耗と化して経済を食いつぶし、富の集積を全く不可能にしてしまう。もし毛主席がこのゲームを遊んだらワーカーを7人まで増やすだろう……そして勝利点がゼロかマイナスで終わるはずだ。

人が少なすぎれば利潤を最大化できない。しかし人が多すぎれば今度は利潤を食いつぶしてしまう。本当に必要なのは人口と経済のバランスの取れた発展だ。初見プレイヤーの多くは他のゲームと同様に人を無闇に増やし、そして手痛い教訓を得るだろう。

最初はワーカー増加による生産力が非常に魅力的に見える。そして皆が落とし穴にはまる。そしてゲーム中盤から後半になってワーカーが重荷になり始めた時こう聞く。人を減らす方法は無いのか? 答えは「無い」だ。家族計画も、自然災害も、大飢饉も、大粛清も、大虐殺も文化大革命もここには無い。一度人口を増やしたらずっと養わなくてはいけないのだ。経済発展がそれに追いつかなければ、人口が負債になるとはどういう事か身にしみて理解できるだろう。

本作は貨幣経済の概念を表現した数少ないゲームのひとつと言えよう。いつか誰かが人口が多ければ生産力も市場も大きくなると言い出したらこのゲームを勧めてやるといい。すぐに過ちに気付くはずだ。

 

原文はこちら:http://www.cup.com.hk/2016/08/10/chenglap-national-economy-board-game/

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翻訳記事:解析可能性

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解析可能性

対戦型の戦略ゲームを作るには解析可能性と戦い続けなくてはならない。簡単に理解できる程度にシンプルに、かつ単一の正解を見つけていつもそれを使う事ができない程度には複雑なシステムを作らなくてはならない。

 

純粋解法 vs 混合解法

ゲームに「純粋戦略」による解法がある場合と「混合戦略」による解法がある場合ではだいぶ違いがある。何故かを理解するために、まずはこの2つを定義しよう。

純粋戦略とはゲームのプレイ方法を完全に定めるものだ。全ての起こりうる局面に対してプレイヤーが打つべき手をまとめた指南である。もし何らかの純粋戦略がゲームにおける最善の方法であれば、それは純粋な解法である。ゲームの純粋解法を知っていればもはや意思決定は実質的に残っておらず、ゲームですらなくなる。単純に純粋解法の指南する所に従うだけでよいのだから。

混合戦略とは純粋戦略をいくつか組み合わせてそれぞれに確率を割り振ったものだ。この場合の指南は「相手がXをしたらYをしなさい」という形でなく、「相手がXをしたら30%の確率でYを、70%の確率でZをしなさい」となる。混合戦略がゲームの最善手である場合、それを混合解法と呼ぼう。

ゲームに混合解法があるのは純粋解法があるのと同じぐらい悪いと思うだろう。結局プレイヤーは何も意思決定をしておらず、複数の選択からランダムに選んでいるだけなのだから。ところが違う。混合解法があってもプレイヤーは色々やる事がある。そこでそもそも「最適」な手とは何を意味するかを掘り下げてみよう。

 

最適な方法

いくつかの混合戦略がある時、その中で最適なものを混合解法と呼ぶ。これは「ナッシュ均衡点」とも呼ばれる。混乱の元になるのは「最適」という語が2つの事を意味するからだ。日常語と数学用語でそれぞれ定義が違う。この記事では「最適」を常に数学用語の方で使っており、日常語の「一番よい方法」という意味ではない。数学用語での最適とは「最も相手に利用されにくい方法」である。

相手に利用されやすい方法とは何だろうか。例えばじゃんけんで100%グーだけを出していたら、それは非常に利用されやすい。相手は傾向に気付いてパーだけを100%出すようになる。相手はこちらの戦略を完全に利用し、こちらの勝率は0%に下がる。もしグーを出す確率を80%にしたら(そしてパーとチョキが10%ずつ)、それでもやはり悪いのだが先ほどよりはマシになる。相手は相変わらずパーを100%出せるがこちらの勝率は0%から10%に増える。

最も利用されにくい方法を採るならば全ての手を33%ずつの確率で出すべきだ。こうすれば相手はどういう戦略を取ろうとこちらを上回れない。これがじゃんけんの混合解法である。

 

最適は「最高」ではない

最適な方法は素晴らしく見えるだろうが、大会で優勝するのが目標ならばそれではやって行けない。例えばじゃんけんの大会に出場したとしよう。対戦相手はグーを100%出すという評判で、実際にそれをやって来た。ここで最適な方法を採るとそれぞれの手を33%ずつの確率で出す事になり、33%の確率で負けてしまう。一方別のプレイヤーはこの相手に100%パーをぶつける。「最適な」はずの方法はこれよりも負ける確率がずっと高く、早々に敗退してしまう。

最適な方法を採るという事は目の前にある利用可能な優位を捨て去るという事だ。相手が非常に利用しやすい戦略を用いているのにつけ込まないという事だ。大会での優勝を目指すにはお粗末なプレイングと言わざるを得ない。もちろんこれは極端な例だが、相手がグーを出す確率が40%や35%であっても同様の議論は成り立つ。

ではグー100%の相手にパー100%を数ラウンドにわたって繰り出し、その後相手が戦略を変えてきたらどうなるか?  今度は相手がこちらの戦略を利用するという事もあり得る。というのも、こちらも最適戦略から乖離しているからだ。なのだが、それでも最適から外れるというのはやる価値のある事である。相手が戦略を変えて対応して来るのが心配であれば、パー33%をいきなりパー100%にしてしまう必要はない。40%かそこらでも33%の場合よりは試合に勝てる確率が高いし、自分自身もそれほど脆弱ではなくなる。更に相手は a)こちらの戦略を観察し最適からの乖離を見つける b)それに対抗する戦略を正しく採用する の2点がどれほど得意だろうか? こちらの方が得意であるなら迷いなく相手の戦略を利用すべきだ。相手がゆっくり戦略を修正する間にこちらは素早く修正できるのだから。

 

ドンキースペース

ドンキースペースというのはフランク・ランツ氏の造語で、非最適なプレイングの概念的空間を表す。上の項で述べたように、優れたプレイヤーはドンキースペースにいる相手を利用するためにわざとドンキースペースに入る事がある。言い換えれば、自分も相手に利用されうる戦略を採用する。もし双方とも優れたプレイヤーであればドンキースペース内の様々な場所を踊りまわり、優位を求めて駆け引きをするだろう。

全体像をもう少し明らかにしておこう。上級者同士の戦いでは全員が最適なプレイをするのでドンキースペースで踊る余地など無いと思うかも知れないが、実際のゲームではそれはだいぶ非現実的だ。そもそも上級者でも最適から大きく外れている事はよくある。それに対戦相手の(全員ですらなく)誰か1人でも最適なプレイングやそれに近いことをしているというのは稀だ。優れた対戦ゲームでは最適な戦略を知るのは非常に難しい。もちろん大まかな指針はあるにせよ、特定の局面でどの選択肢をどれだけの確率で繰り出すべきかを完璧に把握するのは無理だ。あまりにも変数が多すぎる。人気があり非常に研究されたゲーム、例えばポーカーであっても、最適な戦略はまだ完璧には解明されておらず、プレイヤーは最適からかなり乖離している。ましてパンダンテやYomiではポーカー以上に難しいだろう。

重要なのは、他のプレイヤーが最適から外れていたら、たとえ自分が最適な戦略を知っていて混合解法を完璧に執行できるとしても、勝率を最大化するにはなお相手のプレイスタイルを観察してそれに合わせる必要があるという事だ。

そして混合解法を執行するのは他にも色々と困難な要素がある。たとえその解法が何かを知っていてもだ:

  1. 人間はランダムに何かをするのがとても苦手だ。だから例えば特定の選択肢を42.3%の確率で選ぶというのは非常に難しい。
  2. そしてランダムに選ぶ事に失敗すると、本人も気付かない癖がパターンとなって表れる。対戦相手はそれを見つけて利用できる。
  3. 安全な道を行くかリスクを取るかの決断で人間はどうしても性格が出てしまう。
  4. リアルタイムのゲームであれば、タイミングや操作精度(難しいコンボを出したり狙撃をしたり)の面で数学的最適に達しているプレイヤーは1人もいないだろう。

2番は特に面白い。レヴィツキ(1997, 1998)によれば、人間は自分でも気付かないままにパターンを学習できる。それが何であるかを説明したり表現する事はできないが、それでも学習しているのだ。被験者は円を4つに区切ったそれぞれのエリアに数字が書かれたものを見せられ、特定の数字を含んでいるのはどれかボタンを押して答えた。被験者はテストを繰り返した。ただし、数字の場所がランダムでなく実は法則があるという事は伏せたままだ。配置には10の込み入ったルールがあった。テストが進めば進むほど反応速度は良くなり、かつパターンの存在には気付かないままだった。パターンを説明できれば100ドルあげますと言っても誰一人できなかった。しかも、配置パターンをこっそりランダムに変えてみたところ被験者の成績はすぐさま大幅に下がった。特に面白い事に、レヴィツキの同僚で実験内容を知っている心理学教授ですら、それらの配置パターンは「ランダム」だったと言い張ったのだ。人はパターンを学んで利用しつつ、パターンなど存在しないと思ってしまうのだ。

論点はこうだ。人は無意識に混合戦略を不完全に執行してしまう。そして自分でも気付かないままパターンにはまっている。対戦相手は自分でも気付かないままそれを発見して利用できる。混合戦略ゲームにおけるドンキースペース内のダンスとは、表層意識同士に加えて無意識同士の戦いでもある。そして前者においては何が最適であるかについてそもそも意見が異なっているのだ。

 

純粋解法は混合解法よりもゲームを早く腐らせる

よって、たとえゲームに混合解法があったとしても、対戦相手が何をやっているかには細心の注意を払わなくてはならない。相手が最適からどれだけ離れているかを検知しその戦略に対抗するのだ。これは非常に難しい。何しろ無意識を働かせてパターンを読み取るわけだから。

純粋解法のあるゲームでは相手が何をしているかに注意する必要は全くない。その解法を知っていれば相手が何をする傾向を持っていてどんな考えを抱いているかは全く関係ない。単に最適な道を辿れば良いだけであって、実質的なゲームプレイはもう残されていない。

もうひとつ重要なのは、混合解法と純粋解法のあるゲームがそれぞれどんな風に見えるかだ。両者ともプレイヤー達はまだ解法を見つけていないがそれに近づいているとしよう。どちらのゲームも時間が経つにつれてどんどん解析される。最適なプレイングに次第に近づいてゆく。純粋解法のあるゲームの場合、プレイングの技巧とはつまるところ定石の暗記になり対戦相手とは関係なくなる。例えばチェスの終盤、メイトまでの道筋が解明された局面などがそうだ(ちなみにチェス2では中央突破ルールがあるのでこの種の局面が発生しない様になっている)。チェスの序盤も似た様なものだ(これまたチェス2では違うが)。年月が経ちチェスの解明が進むにつれ、オープニングの教本は進歩し、それら定石を覚えて不利な中盤戦を迎えない様にするのが重要になって行った。

一方、混合解法へと近づいているゲーム、例えばポーカーとかパンダンテとかYomiでは、単なる定石の記憶に集約される事はない。対戦相手を観察して反応するのは相変わらず重要だ。そしてついに完全な混合解法の解明に至ったとしても(Yomiでは我々が生きている間には無理だろうが)、なお全てのプレイヤーがドンキースペース内にいる。上級プレイヤー達も全ての局面で全く混合解法通りにプレイできているわけではない。誰もが何らかの点でドンキースペースにおり、誰がどのぐらいの位置にいるかそれぞれ意見が分かれる。対戦はある意味でその論争を決着させる手段である。「この局面では42%の確率でガードすべきだろう」とある人が言い、別の人が60%だと主張する。そして対戦相手の「間違った」近似解を利用しようとする。そもそもそれを見つけられればの話だが。

ゲームデザインの観点から言えば、混合戦略型のゲームは解析可能性との戦いで本質的に有利である。たとえ解法が見つかっても面白いままでいる様にゲームを作るのは、最終的に定石の暗記だけで何も意思決定をしなくなる作り方よりもだいぶ安全なのだ。

 

純粋解法ゲーム制作 vs 混合解法ゲーム制作

先に説明した様に、純粋解法を持つゲームを作るのはいささか危険である。もちろん十分にゲームが奥深ければ、解法が見つかるまでには相当な時間がかかる。チェスや囲碁は何世紀も遊ばれているが完全な解法は見つかっていない。だが一方、純粋解法のあるゲームを作るという事はそういった古典と同様の耐久力が求められるという事でもある。例えばチェッカーは既に解法が見つけられてしまった。更にたとえチェスと同じくらい深いゲームを作ったとしても、そもそもチェス自体が定石の進歩とともに記憶のゲームと化している。対戦ゲームにとってはいささか不幸な運命と言わざるを得ない。

更に皮肉なのはこうだ。完全情報ゲーム(決断を下す全ての瞬間においてゲーム内の全ての情報が明らかになっている)でランダム性も無いというと「実力主義」に聞こえるだろう。もし実力の出るゲームが好きならば良さそうに見える。しかし実際は、これによってゲームに純粋解法が生まれる事を保障してしまい、ゲームの実力(その場の判断)よりも定石の記憶が最後にはずっと重要になる。不確定要素や、隠れた情報や、ランダム性が入っている方が実はずっと実力が出やすいのだ。

ゆえにゲームデザインでは、そうした不確定要素なり隠れた情報なりランダム性なりを採用する事をお勧めする。ランダム性というのはある種不名誉な烙印を押されているが、純粋解法によって解決されてしまうのを防ぐには有効な道具である。

 

KONGAI

私の作ったKongaiというゲームはその例だ。プレイヤーはターンごとに2つの決断を行い、そのどちらもダブルブラインドである。つまり相手も同時にその決断をして同時に公開する。これは解析可能性との戦いをずいぶん助けてくれる(完全情報ゲームでなくなる)し、そもそもこのゲームは何らかの隠れた要素が無いと非常に解決しやすくなってしまう。またポケモン(Kongaiの元になったゲーム)の様に命中率や追加効果発動率という形でランダム性を入れる事でも解析可能性に対抗している。こうした命中率のおかげで数手先を読むには非常に大きな可能性の分岐技を計算しなくてはならなくなったのだ。

Kongaiプレイヤーの中には最適解を計算するのが好きな人もいるが、その場合はまず単純な状況から始めなくてはいけない。特定のキャラクターの組み合わせ同士で、特定のアイテムを装備し、それぞれ最後の1人まで追い詰められて交代や横入りができず、HPも残り僅かという状況だ。この小さな局面ですら数十ページにわたる分析でようやく正しいプレイングが計算できるのである。ゲーム全体に同じ計算を適用するのはほとんど不可能だろう。

 

結論

対戦ゲームはできるだけ解析不可能でありつつ、同時にプレイヤーに理解可能でなくてはいけない。純粋解法のあるゲームは実力主義に見えるが、時間が経つにつれて単なる定石の暗記へと縮小していく。ところが混合解法のあるゲームはずっと長い期間にわたって戦略的な面白みを維持する。

混合戦略型のゲームを作るには不確定要素や隠れた情報やランダム性を入れる事だ。ターン制でなくリアルタイムであればこの点では有利だろう。

 

原文:http://www.sirlin.net/articles/solvability

翻訳記事:勝つ為に戦う(33)

参考文献

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http://www.zileas.com/strategies/ (消滅)

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http://www.angelfire.com/games/SBChess/Morphy/MorphyStaunton.html (消滅)

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Sirlin, David. Sirlin.net. 2004.
http://www.sirlin.net

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(孫子兵法)

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Thomson, Leonore. Personality Type: An Owner’s Manual. Boston: Shambhala Publications, Inc., 1998.

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(32)

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最後に

ゲームで勝つ為の考察は現実の生活にも応用できるのだろうか? 否。それは別問題だ。ただ、よほど愚かでなければ対戦ゲームからも人生の知恵を何かしら学ぶだろう。ゲームは訓練と、練習と、修養が必要だ。好きな事なら打ち込むのもずっと楽だろう。ゲームは最悪の状況でも冷静でいる事を教えてくれる。そして命ある限り決してあきらめない事を。誰かを責めるより失敗から学ぶ事を教えてくれる。それが本当に成長するただ一つの道だからだ。そして継続的な成長だけが生き残る道だと教えてくれる。

対戦ゲームは表現手段でもある。ゲームの中と外で生き方を変えるのは難しい。プレイヤーは普段生活の中でやっている様に情報を処理し、決断を下し、同じような側面を重視し、同じような技能に長ける。実際私を含めて、多くのプレイヤーが自分が何者であるかをゲーム内での表現を通じて知る。世界には様々な表現形態があるが、その中で対戦ゲームが優れているのは自分の世界観と他者の世界観をぶつけ合うという点だ。真偽が問われる事の無いおかしな理論を拵えるのは簡単だ。だが対戦ゲームでは戦場に突っ込んで泥まみれになり、そうしたアイディアが通用するかを試してみなくてはならない。もしあなたが変わり者の天才であれば一切の疑義なしにそれを証明できる。ただの混乱した喚き屋ならその通り証明され、他者から教訓を学んで今後に生かす機会を与えられる。

更に対戦ゲームは結果への集中を教えてくれる。自分では優れたプレイヤーだと思っていても、コミュニティは勝者こそが勝つ力を持っていると判断する。重要なのは結果だけだ。それを受け入れなくてはいけない。練習すれば誰もが最高のプレイヤーに「なりうる」だろう、練習する機会さえあれば、あれさえあればこれさえあれば。そうした全てが金メダルの前では無意味だ。実際にその仕事をやりのけた者の手に金メダルは渡る。これはどんな事業、挑戦であっても同じだろう。未完成の巨大なプロジェクトや製品は結果を出した物に比べれば僅かな価値しかない。素晴らしい半分書きかけの本は実際に出版された本に劣る。より良い生活を夢見ているのは、実際に動いて人生を変えるのに比べて価値がない。

「勝つ為に戦う」の生活への応用は単純直截とは行かない。ゲームのどの側面が生活と異なり、どの側面が同じかは自分で考えなくてはならない。それは自分自身で下す決断である。本当に勝つ為に戦うならば、その道は険しく、そして他のどんな人生の道にも劣らず充実しているだろう。

それでは良いゲームを。幸運を祈る。

 

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(31)

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権力を振るう

 

どれだけの時間が与えられるかは決められない。決められるのはその時間で何をするかだ。
—指輪物語 ガンダルフの格言……を少し改竄

 

権力を持った後、一つの道は圧制者と化して君臨する事だ。そうする事は全く可能だ。怪しいルール裁定や不正調査にいつも当事者として顔を出す胡散臭い存在。トラッシュトークで対戦相手をやり込める、下品で不快な存在。そういう悪役になれる。そしてそうするプレイヤーもいる。世界の片隅で手にした権力に酔った者もいれば、最初からそういう人間もいる。対戦ゲームのコミュニティは大会に勝つ能力ばかりを評価するので他の問題には寛容だ。憎まれつつも欠かせない存在になるかも知れない。大会の審判は何かにつけて人生の邪魔をするだろうが、この道を選んだ者はそういう悪名すら楽しんでしまうだろう。

ただ忘れがちなのは、コミュニティにいる期間は暴君でいられる期間より大抵ずっと長いという事だ。ここに来るまでに多くのプレイヤーに出会い、友達や仲間を得て、ゲームという共通の関心で繋がっているはずだ。連勝が終わっても関係は終わらない。新しい王に取って代わられた後、果たしてどういう者として記憶されているだろうか?

 

我が名はオジマンディアス、王中の王なり。我が偉業の前に戦慄せよ!

—英国の詩人、パーシー・ビッシュ・シェリー

 

シェリーの詩はある旅行者が砂地の真ん中に朽ち果てた台座を見つけた所を描いている。この王の偉業は長い間忘れ去られていたが、怒りと傲慢さは残っていた。偶然にも”Ozy”はギリシャ語の”ozium”から来ており、「息」とか「空気」を表す。 “Mandias”はギリシャ語の”mandate”で「支配する」という意味である。つまりオジマンディアスは「空気の支配者」あるいは「虚無の支配者」という事なのだ。ゲームコミュニティでの権力に酔い潰れる前に少しこの事を考えておこう。

 

善と悪

強いプレイヤーの行動を善とか悪と断ずるのは想像以上に難しい。2つの例を考えよう。殺戮者と教師である。

 

殺戮者

これはストリートファイターの伝説的なプレイヤー、トーマス・オサキの場合である。私自身は全盛期の彼と実際に対戦した事は無いのだが知り合いではある。彼の黄金期の活動について多少不正確な記述があっても許してくれる事を願う。

全盛期の彼は北カリフォルニアのストリートファイター界を支配していた。彼の「勝つ為に戦う」姿勢は広く知られていた。彼は決して「カジュアルな試合」をやらないと言われており、常に全力で、どの試合にも何かが賭かっていたり真剣な大会であるかの様に打ち込んだという。そして誰に対してもそうだった。ゲームの技量など全く無い9歳の女の子が相手でもだ。ひたすら前ステップから投げだけを浴びせ続けていた。彼は情けというものが無かったのか? そんなに嫌な奴だったのか? 私自身はトーマスは意地悪なわけではなかったと思う。単に高い所を目指していたのだ。彼は卓越の高いハードルを設け、一切妥協せずに自己鍛錬の道を歩み、どんな時でも凡庸さを受け入れたり半端な力で戦ったりはしなかったのだ。同輩達は最高のプレイを大会以外でもいつでも見られるという素晴らしい機会に恵まれた。

それで9歳の女の子はどうなのか? 多分、そもそもその対戦台に来たのが場違いだったのだろう。トーマスから見て、その子を台から早くどかした方が「正当な」対戦者が座れるという事だったのかも知れない。

 

シャドウとヴォーロン

教師の項に移る前に、TVドラマ「バビロン5」のシャドウとヴォーロンのたとえ話をしよう。このスペースオペラでは、シャドウとヴォーロンという2つの 「古代種族」が若い種族の取り扱いを巡って対立する。シャドウは混沌と不穏をもたらす。種族と種族の間に戦争を引き起こし、「同盟者」を裏切る。そしてほとんど無敵の不気味な黒い宇宙船に乗り、誘拐した超能力者に操縦させて理由もなく攻撃を仕掛ける。明らかに悪い奴らだ。

一方ヴォーロンは外交的で面倒見がよい。彼らは普段は介入せず、若い種族が自力で発展するのを見守る。ただし種族同士が手を組む為の決定的な瞬間で助けに入る。実を言えば、ヴォーロンは生命誕生の昔にあるDNAを撒いておき、時が来たら若い種族が彼らを神と見なす様に按配していたのだ。そうすれば彼らの言う事に耳を傾け、団結してシャドウの軍勢に立ち向かえる。ヴォーロンは善い人達だ。

本当にそうだろうか? 実はシャドウもヴォーロンと目的は同じだったのだ。若い種族が強く賢くなる事を目指していた。彼らは数十億年に一度現れて破壊を引き起こし、弱い種族を銀河から消し去る事で強い種族の為の空き地を作っていた。弱者を守るのは情緒的に美しいが、長い目で見れば種族の生存を脅かすと彼らは論ずる。ヴォーロンも目指す先は同じだが、それを教育と援助と平和によって実現しようとしている。

シャドウに対してはこんな批判も成り立つだろう。彼らは自分の独善的な信念を全員に押し付けている。 対戦ゲームではこれは何に当たるだろうか。実は2つの決定的な違いがある。まず、殺戮者プレイヤーは別に自分の信念を全員に押し付けているわけではない。そのゲームをやる人間にだけ適用している。地球人はシャドウの信念を無視して済ませる事はできないが、別に誰も対戦ゲームをやる事を強制されてはいない。とりわけ殺戮者のいる特定のゲームをやる様には全く強制されない。その領域へ踏み込んだのは本人の選択だ。次に、そもそも対戦ゲームの本質というのは、一方のプレイヤー(勝者)がもう一方のプレイヤー(敗者)にそのゲームをどう戦うべきかという信念を押し付ける事だ。銀河の政治においては信念を押し付けるのは不当だろうが、対戦ゲームはそもそもそういう物だ。殺戮者が勝敗こそ全てと考え、それを押し付けて来るのが嫌だという人は対戦ゲームに向いていない。止めるかその価値観を受け入れるべきだ。

シャドウのやり方は乱暴に見えるが、私がいつも言っているのはアメリカと日本のストリートファイタープレイヤーの邂逅だ。一般的に日本の方が対戦レベルは高い(理由についてはここでは踏み込まない)。日本プレイヤーの様なとんでもなく強い相手に直面した時、自分のコミュニティが弱者を切り捨てて強さを追求する仕組みになっていた方が良かったと思うのではないか? 面倒見の良い幼稚園方式は市民的美徳を備えているだろうが、日本のプレイヤー(あるいは他の強豪)と戦うには軍人の美徳だけが頼りだ。

とはいえヴォーロンのやり方も魅力的だ。誰しも自分のやり方があるし、善の旗の下に集って悪と戦いたいものだ。一人前の戦士になる前に揺籠が必要なプレイヤーもいるだろう。ゲームコミュニティ全体として見れば、新規プレイヤーを正しい方向に導く教師は必要である。そしてもちろんそうした教師がプレイヤーの総数を増やしてくれるという利益もあるし、技能の向上も利益だ。弱いプレイヤーをただ殺戮するのでなく指導する事で全体のレベルが向上し、それが徐々に向上への圧力になる。

ではどちらが正しいのか? シャドウと違い私は信念を押し付ける気は無い(少なくともこの問題に関しては)。これは各々の選択だ。私はどちらのやり方も正当だと思うし、多分ゲームコミュニティはどちらのタイプもいて初めて十全になるのだろう。だがこれは言っておく。シャドウのやり方を取れば自分自身も強くなる。ヴォーロンのやり方は弱くなる。教育は美徳であるが、教師には代価が伴うのだ。

 

教師

教師はゲームの基礎と細かい綾の両方に通じていなくてはならない。よくある間違いを観察し、批評する機会は多いだろう。だが残念なことに、批評者に金メダルは無い。あるのは勝者にだけだ。もちろん指導した後進の成功を見て満足するという報酬はあるだろうが。

教師の道には障害が多い。まず、弱いプレイヤーを助ける為に時間を使うという事は、強いプレイヤーとの戦いにそれだけ時間を使えないという事だ。次に、弱いプレイヤーにしか通じないテクニックを使う悪い癖が身についてしまう。そしてもっと悪いことに、殺戮者と違い「常に全力を出し切る」事で自分を鍛える機会が無い。教師は生徒に反撃と理解のチャンスを与えるために手加減をしなくてはならないからだ。以前の章で、強いプレイヤーはそもそも使う機会を与えてくれない様なテクニックを弱いプレイヤーに対して練習するという話をしたのを思い出して欲しい。教師はこの弱いプレイヤーの役をしなくてはならないのだ。

その間、殺戮者は自分の限界に挑み続け決して手抜きをしない。全ての瞬間に全力を出し切るのだ。弱い対戦相手は戦術の訓練にもならないだろうが、それでも常に100%の集中を保つという、大会においては重要な技能の訓練になる。

殺戮者か教師か、どちらでも好きな方を選ぶがよい。誰しも優しい教師の方を庇うが、冷たい殺戮者にも相応の美徳がある事を知って欲しい。殺戮者こそ技能の限界を広げる存在であり、不人気ではあっても極めて重要な貢献をしているのだ。

 

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翻訳記事:勝つ為に戦う(30)

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栄光は束の間

名誉もゲームも移ろいやすい。「最近はどんな活躍をしたの?」と大衆は問う。脚光を浴び続けるには勝ち続けなくてはならない。それは大変な事業だ。過去に勝てたからといって、これからの勝ちが神に下賜されるわけではない。そうしている間に他の者たちが努力と成長を続け、いつか「よりその座に相応しい」者となって現れる。

 

頂点に立てば、取って代わろうとする者が列を成して待ち構えているものだ。

—初代ストリートファイターのボスキャラクター、サガット リュウに称号を明け渡す際に

 

おそらくこれまで、どうやって上達し他のプレイヤーを倒すかに心血を注いできたのだろう。だが競争相手は今いるプレイヤー達だけではない。新参プレイヤーや、今はまだ始めてすらいない未来のプレイヤーもいつかは頂点の座を脅かしに来る。もちろん知識や経験の面では遥かに優位だろうが、向こうは若さという武器がある。いつかは体力や集中力で敵わなくなる。少なくとも、敵わない相手が出て来る。テニスであれチェスであれ、ベテランが若手に倒される瞬間というものがやって来る。好むと好まざるとにかかわらず。そして新参ならではの強みというのもある。定石を知らない為に、また若さゆえの反骨で型にとらわれない思考ができるのだ。

そう、今の同輩に倒されないとしても、いつか老人は衰え未来の世代に追い越される。ちなみにゲームによっては25歳で「老人」扱いだ!

 

 

詩人ディラン・トマスの助言に従うか?

 

穏やかな夜に身を任せるな。
老いても怒りを燃やせ、終わりゆく日に。
怒れ、怒れ、消えゆく光に。

 

迫り来るのは老いと競争相手だけではない。ゲームと生活の両立が深刻な問題になって来る。どれほど天性の才能があろうと、ゲームで勝ち続けるには時間と思考力を注ぎ続けなくてはならない。人生には沢山の脇道がある。恋人、配偶者、子供、親戚、仕事、付き合い、そして他の趣味。それだけでなく、もう「ゲームへの愛」が失せてしまう事もある。好きでもないゲームで頂点に居続けようとするのは困難にして危険である。そのゲームが好きな者達はずっと楽にやり続け、上達し、時間と思考力を注ぎ込める。それと張り合っていられるとしても、人生の大部分を好きでもない事に費やすのはそれ自体が問題であるし、そのうち破綻する。

いくつかの競技はこの点で恵まれている。例えば非常に得意になった分野がたまたまバスケットボールであれば、もう鉛筆工場で働く心配はしなくていい。プロバスケットボール業と広告とですぐに金が唸り始める。運気が列を成して待っていてくれる。こういう場合は本当に幸せだ。

対戦ゲームのプレイヤーはそこまで幸せではない。残念ながらこれを書いている時点で、ゲーム大会はまだまだ黎明期に過ぎず、「プロゲーマーになる」という夢は限られたゲームの限られた人間にしか現実的でない。いくつかの団体が状況を変えようとしているし、それに私も喜んで協力したいが、まだ現実問題としてそうなってはいないのだ。いつか我々の社会が肉体スポーツより頭脳スポーツの方に重きを置く様になる事を私は願ってやまない。

殆どのゲームにおいてプロになるのが現実的でない以上、ゲームの世界で頂点に君臨し続けるのに必要な努力と、仕事や生活とが両立しなくなるのは非常にあり得る事だ。その座に居られる内に楽しんでおこう。

(訳注:原著Playing to Winが出版されたのは2006年)

 

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翻訳記事:勝つ為に戦う(29)

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最上級プレイヤー向けガイド

最強になったら

選んだゲームで文字通り最強になったら、あるいは最強の中の一人になったら、もうこれ以上の助言は無用だろう。というより私が助言を乞いたい。ただ、この後に直面するだろう問題について少しばかり忠告をしておきたい。

  1. 自分が権力を持っていると自覚すること。同じゲームを遊んでいる人々という世界の中の小さな部分に過ぎないとしても。
  2. それが束の間の栄光に過ぎないと理解すること。後から後から取って代わろうとする挑戦者が現れる。戦って守り切るか大人しく明け渡すかだ。
  3. 権力を持っている内に何をするか決めること。どんな良い事や悪い事ができるだろうか? いやそもそも何が良くて何が悪いか誰が決めるのか? コミュニティに対して責任があるとしたらどんな責任だろうか?

 

今や権力と共に

You got the touch,
you got the power!
スタン・ブッシュ “The Touch”
トランスフォーマー・ザ・ムービー サウンドトラックより

「理論上」最強のプレイヤーには悪いが誰も興味がない。ここで扱うのは正式な試合で腕前を証明した本物の最強プレイヤーだ。すべての挑戦を受けて立ち、公衆の前でそのゲームの強さを見せつけた者達だ。彼らは権力を持っている。

対戦ゲームのコミュニティは自然に階級が構成される。最強のプレイヤー達が頂点のエリートクラブを作る。また他のリーダー達も一緒にいる場合がある。大会運営者、ウェブサイト管理者、プレイヤー団体の代表などだ。だが常に確かなのは、最上級のプレイヤー達がこうした非公式のクラブに集まり、その下の大衆に大きな影響を及ぼすという事である。

このプレイヤー達がどう遊ぶのが良い、どう遊ぶのが正しいと言えば大衆は耳を傾ける。彼らがゲームなり大会なりにルール変更や禁則が必要だと言えば、支持者を動員して実際に影響を及ぼせる(ゲーム以外の問題についての意見は的外れかも知れないが、どちらにせよそのメッセージを聞かせるだけの影響力を持っている)。彼らは悪の親玉かも知れないしヒーロー扱いかも知れないが、どちらにせよゲーム内の技量については誰にも文句を言わせない。最上級のエキスパートは雑魚の喚きに耳を貸す必要などない。彼らは力を、勝つための力を持っているのだから。それこそまともな対戦ゲームコミュニティにおける最終判決なのだ。

勘違いした雑魚が挑戦状を叩きつけて来たり、あるいは純粋に熱心な初心者が対戦を申し込んで来たら、彼らの運命はあなたの手の内にある。情け容赦なく叩き潰してもいい。指導して育ててもいい。バレない様に、あるいはあからさまにわざと負ける事もできる。自由にできるのはゲームの結果だけではない。ある程度まで、相手がそのゲームについて、自分について、そして対戦ゲーム一般についてどんな印象を抱くか操作できるのだ。

 

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翻訳記事:勝つ為に戦う(28)

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最強の条件

ここまで数年をかけて最強のプレイヤーが備えるべき条件を考察して来た。では無敵のプレイヤーにただ一つの典型があるのだろうか? それとも勝利への道は複数あるのだろうか? 全ての競技ゲームは基本的に同じ性質を求めるのか、それともゲームごとに大きく異なるのか? これは大きな問題であり、本書の範疇を超えるのだが、ひとまずそれに触れてみよう。

ビジョナリー・カンパニー」という本では似たような問題を提起している。業界で最高の会社を作るにはどんな条件が必要か? もしこの本がただ単にナンバーワンの会社だけを集めて比較していたら、「どこも従業員と社屋を持っている」という様な共通点を見つけるだけであったろう。「社屋を発見する」のを避けるため、ビジョナリー・カンパニーでは様々な業界のトップ企業と二番手企業をそれぞれ比較している。トップと二番手は多くの共通点を持っていたが、問いの本質はどのトップも持っていてどの二番手も持っていない様な性質の組み合わせが存在するかどうかだ。そこで私は最高のプレイヤーとそのすぐ下とを分けるものが何かを割り出すことにした。

まず最も重要だと思う性質をリストにまとめ、様々なゲームのトッププレイヤーを観察し、どれが二番手たちとの差であるかを考えた。これは非常に個人的、非科学的、かつ私の知っているゲームに偏っており、あくまで参考に止めて欲しいのだが、それでも私はこれに価値があると信じている。

まずこれが私の最初に考えた金メダリストの持つ性質である:

  • 大会への慣れ
  • ゲームの深い知識
  • ゲームが好き
  • 精神的強さ
  • 勝敗と成長への心的態度
  • 技術(大抵は操作精度)
  • 柔軟性
  • 同じジャンルの知識や技能
  • 読み
  • 状況判断

 

大会への慣れとゲームの深い知識

門外漢からすると、どの性質も競争に重要そうに見える。繰り返しになるが、そのうち幾つかは上級プレイヤーと最高のプレイヤーの差ではないのだ。例えば大会への慣れは上級者ならトップ10に入るのにすら前提条件として必要なものだ。ゲームの深い知識も確かに上級者とその他大勢の差ではあろうが、最も知識の多いプレイヤーが最強である様なゲームは見た事がない。

 

ゲームが好き

ゲームが好きである事はかなり正解に近そうだ。トッププレイヤーは他のトップ10に比べて純粋にそのゲームが好きである事が多い。そのゲームが好きであればトップはより長くトップに留まれるだろう。しかしそのゲームが大好きだけれど下手なプレイヤーも多数おり、トップの決定的な要因とは言い難い。

 

精神的強さ

メンタルの強さはかなりの有力候補だ。そもそも定義上、トッププレイヤーとは数時間に及ぶ大会を戦い抜くだけの集中力と意志力を持った人間である。言うだけなら簡単だが、これを実際にやるのは非常に難しいという事を強調しておきたい。自分ならと思うかも知れないがそれなら私だってそれなりのものだ。それだけ自信があっても、いざ大会になると次のラウンドで負けて終わるかもと考えてしまい、勝ったらその次に当たる筈のスタープレイヤーの方には考えが行かないものだ。そういう考えは最悪であるし、精神の弱さでトップ10に止まっているプレイヤーもいるだろう。しかしそれよりもっと重要な要素がありそうだ。

 

勝敗と成長への心的態度

これは少し込み入っている。一見するとトッププレイヤーの中にもとんでもなく態度が悪いのがいる。相手への敬意に欠ける鼻持ちならない王者が大勢いる。しかし、常にそうだったわけではない。そうした王者も山登りの途中ではずっと態度が良かったのだ。どうやら権力は腐敗するらしい。最初から態度が悪かったプレイヤーは壁を越えるのに苦労する。してみると、心的態度はトップの条件に含まれている様だ。確かにひどい態度を全てのレベルで見かけるだろうし、下手糞な紳士もいるだろうけれど。

 

技術

理論上、枯れたゲーム(歴史が古く新たな発見が殆ど無い様なゲーム)では技術は決定的な差である様に思われる。ところが実際には違う。もちろん難しい操作ができる事は決して悪くないし、優れたプレイヤー達は操作の面でも優れている。しかし最高のプレイヤーは最高の操作技術者ではない。となるともっと重要な部分がある様だ。

 

柔軟性

柔軟性は色々と多義な単語である。まずその逆、計画性を考えてみよう。例えばゲームの「システム」がどう動いているかに強い関心を持つプレイヤーがいる。彼らはルールに非常に詳しく、そのルールが引き起こす結果も、どういう状況を引き起こしたいかもよく知っている。そしてそういう計画を立てる。彼らは特定の状況で、例えば相手が5つの合理的な選択肢を持っていると解明する。そこでリスクを最小に、リターンを最大にする対処法を見つける。その最善というのは例えば、選択肢1と2には引き分けで、3と4には小さな有利、5には大きく有利かも知れない。計画的なプレイヤーはその状況での損得を全て勘定し、どうやってその状況に持ち込むか「解法」を見つける。一度、あるプレイヤーが人気のゲームのよくある対戦カードで誰にも負けないと豪語していた。何故かと聞くと、「アルゴリズムを知っているから」だと言う。「アルゴリズムを知っている」は私の座右の銘だったし散々それでからかわれた。計画的プレイヤーにはまことに似つかわしいモットーだろう。

ところが驚いた事に、この性質は本当のトップにはあまり見られない。てっきりゲームシステムを深く理解して全ての読み合いにおける最適解を知っているプレイヤーがトップへ行くのだろうと思っていたのだが。もしかすると計画的なタイプというのがそもそも稀で、人口に占める割合と同様にトッププレイヤーに占める割合も少ないのかも知れない。あるいはそもそも、計画性が柔軟性に比べて劣るのかも知れない。トップの条件は何かと聞いて回ったところ、多くのプレイヤーが柔軟性を3位以内に含めた。そもそもそれは回答リストに入れていなかったのにだ。何人かは柔軟性こそプレイヤーの強さを測る主たる指標だと言った。そのプレイヤーは素早く新しい状況に適応できるか? もし柔軟なプレイヤーが先の状況(相手に5つの選択肢)に置かれたらどう反応するか? 状況の全体像を把握する必要すら無い。相手は選択肢5を選ぶと読むし、断じてそれは正しいのだ。

柔軟性に関してこんな逸話がある。格闘ゲーム史において”B3″大会は金字塔である。ほとんど無敵だった2人のプレイヤー、ジョン・チョイとアレックス・ヴァイエがストリートファイターZERO 2で初めて対戦したのだ。どちらも破竹の勢いでコマを進め決勝で激突した。この時ヴァイエは新しいテクニックを初めて披露した。大会の決勝まで温存していたのだ。良い武器を隠し持っておこうとすると100回に99回はその前に負けるのだが、この時はまさにフィクションの様な凄まじい状況が現実になった。ヴァイエの使ったテクニックは素人目には分かりにくいが、結局このゲームにおける最強の手段となり、戦い方そのものを根本的に変えてしまった。”Valle CC”という名のこのテクニックは単なる小手先の技ではなく、最強にして、ゲームを変える最大の発見だったのだ。

この前代未聞の環境でチョイはどうしたか? 殆どのプレイヤーなら何をやられているかも分からないまま全敗していたろう。チョイも全てを見破ったわけではなかったが、ルールが突然変わってしまった事には気づいていた。結局は敗れてしまったのだが、公平を期すために言っておこう。チョイは戦い方を変え、相手のテクニックをどんどん食らわない様になった。そしてついに同じテクニックをヴァイエにやり返した! ヴァイエは多くのラウンドを取ったが優位はどんどん薄れていった。観衆はチョイが食らいつき、流れを変えつつある事に非常に驚いた。決勝戦は理論上最多のゲーム数に達した。第14ゲーム、最終ラウンドの残り体力1ドットまでもつれ込んだのだ。紙一重の差でチョイは負けた。そして今日でも、この試合は格闘ゲームにおける柔軟性の最も素晴らしい発露とされる。チョイはたとえ計画を練っていてもほとんど役に立たなかったろう。柔軟性はほとんどの人が最強とそれ以外を分ける稀な性質だと考えている。もちろんヴァイエについても間違った印象を持って欲しくはない。彼は堂々たるナンバーワンであり、あまり計画的とは言えず、何度も何度も柔軟性の面で強さを発揮しているのだ。

 

同じジャンルの知識や技能

トップの条件が同じジャンルの他のゲームというのは少し妙だろう。1つの分野で数多のライバルに勝ち続けている者がどうして他のゲームにも同じだけの時間と情熱を注げるのか? たとえそれが同じようなゲームであっても? 確かに全ての金メダリストがこの性質を持っているわけではないが、そういう人は驚くほど多い。とはいえ私の意見ではこれは優秀さの原因というより結果だろう。つまり競技ゲームの中核には個々のゲームを越えた共通部分があるという事だ。最強のプレイヤーはその中核部分に適応し、別のゲームにもそれを持って行ける。更に言えばトッププレイヤーは計画的であるよりも柔軟であり、ゲームシステムの深い理解が無くとも上手いのだ。似たようなゲームを始めると最初はよろよろ、基本だけを学び、すぐにもっと知識のあるプレイヤーが仕掛けるとっておきのテクニックをかわせる様になる。

 

読み

「読み」と柔軟性はしばしば車の両輪だ。計画的なプレイヤーはよく研究した特定の状況で読み合いに勝つ。どういう行動が合理的でどれだけの結果になるかを知り、知識に基づいて次に相手のする事を予測する。ところが柔軟なプレイヤーはもっと直截にいきなり「相手が何をするか分かる」のだ。こういう非科学的な言い方は心苦しいのだが、どうもこれは神秘的、右脳的な働きで説明が難しい様である。ともかく確実なのは、トップ10ともなると明白に読みが上手いという事だ。実際に見ないと信じられないかも知れないがともかく騙されたと思って聞いて欲しい。私は何度も何度も何度も目にしたのだ。ある種のプレイヤーはただ単にほぼ毎回「読み勝つ」のだ。私はずっと読みこそがトップとその他を分ける最も重要な要素だと思っている。これこそがトップにありそのすぐ下に無い明白な要素だからだ。読みの力を恐れられ噂を立てられるプレイヤーがいつも8位に留まる所など見たことが無い。そういう噂が立つのは最強の中の最強、トッププレイヤーだけだ。

ゲームには読みが重要なものもそうでないものもある。ポーカーは重要な部類だろう。だが格闘ゲームの中には、他の格闘ゲームに比べて読みが10倍も重要なものがある。バーチャファイターだ。このゲームは非常に複雑なじゃんけんで出来ている。テンポの速さゆえに読みのウエイトが極めて大きく、何か大きな手がかりでも無い限りまともに相手の行動を予測している時間はない。

バーチャファイターはプレイヤーを読み合いの猛連射に叩き込む。相互作用、つまり1秒あたりの読み合いの数が極めて多いために読みの達人が頂点に立つ。計画的なプレイヤーもシステムの理解によって強くなれるだろうが、無敵のプレイヤーにとって最も重要なのが読みである事は論を待たない。バーチャファイターは単に誰が一番読み合いに強いか判定しているだけなのだろうか? それとも他のゲームにも増してプレイヤーの読み合いスキルを鍛えているのだろうか? 答えは判然としないだろうが恐らく両方だろう。

日本にこんな親指ゲームがある。全てのプレイヤーは両方の手を揃えて出す。1人が「1、2の」に続いて(タイミングを合わせるため)数字を言う。そして例えば「2!」と言ったら全てのプレイヤーが一斉に親指を1本か2本上げる。あるいは両方とも伏せておく。自分自身も含めて何本の親指が上がっているかを当てるのだ。間違っていたら次のプレイヤーの番になる。当たっていたら片手を下げて回してもう一度だ。両方の手を下げたプレイヤーの勝ちである。ただし例外として、「0」と言って当てたら即座に勝ちになる。

この日本の親指ゲームは完全に読み合いだけである。どうしてあるプレイヤーが他のプレイヤーより強いのか論理的に説明は付かない。そして格闘ゲームプレイヤーの集まりでこれをやると、いつもバーチャファイターのプレイヤーが勝つ。読みは説明し難い見えざる力だが、本当に存在するのだ。そして真の強者だけがそれを持っている。

 

状況判断

「状況判断」とか「価値評価」というのは色々な駒なり、技なり、戦術なり戦略なりの相対的な価値を判断する能力である。これは恐らく競技ゲームで最も重要な部分だろう。読みが敵を知る事ならば、状況判断はゲームを知る事だ。

ある意味で、この技能は定義上全ての競技ゲームの本質である。ゲームとは意思決定を下すものであり、局面や駒の価値を知らなければどうしようもない。状況判断というのはあまりに漠然としていてこの位置に置くのは異論もあろうが、私の知るトッププレイヤー達を見る限りこれは1つの技能なのだ。

トッププレイヤー達はしばしば、他のプレイヤーに理解できないおかしな行動を取る。ここで価値判断の正規分布曲線を描いてみよう。つまり、大半のプレイヤーは分布の真ん中あたりにいて、何が良くて何が有効かの共通認識を持っている。これがゲームにおける「常識」とか「定石」だ。しかし曲線の端には異なる認識を持ったプレイヤーがいる。彼らから見て、定石のいくつかは強豪相手には通用せず無価値である。逆に無価値と思われている技や戦術も、強豪は極めて限定された上手い使い方を見つけて活用する。要するに、彼らはより高いレベルでゲームを理解している。論理的で明確な分析か、説明不可能な直感かはさておき、ゲームを異なる眼で見て異なる相対価値を見出しているのだ。時にはゲームの定石が間違っている事もある。大勢のプレイヤーが正着と考えている事の方が間違いで、本当に優れたプレイヤーだけがその鋳型から抜け出せるのだ。そしてしばしば、どうしてある要素をそんなに重視するのか論理的に説明し切れない事がある。どうやらある答えにたどり着く頭のプロセスと、それを他の人々に説明するプロセスは根本的に異なるらしい。達人の技は見て盗む方が、どうしてそうするのか聞くより有益な様だ。

この部分が具体化したのが、私が新しいゲームに挑戦しようと思った時だ。そのゲームに詳しく、しかもかなり上手い知り合いがいたのでアドバイスを求めようと考えた。どうやって上手くなったらいい? だが結局は聞かなかった。なぜか躊躇したのだ。最初これは私の性格上の問題で、彼に頭を下げるのが理由もなく嫌だったからだと思った。だが本当の理由は別にあった。私は彼の状況判断力を信じていなかったのだ。別にこのゲームについて何かを知っていて彼の考えと衝突しそうだったわけではない。そもそもほとんど何も知らなかった。私が知っていたのは彼の性格と、他のゲームでのスタイルや戦績である。彼はいつも明確な、はっきり言語化された論陣を張ってこれこれの戦術なりキャラクターなりが良いの悪いのと主張した。何しろ証拠と論理に基づいているので反駁は難しかった。だがそれでも、ひとたび大会が開かれるとどのキャラクターや戦術が良いかは全く違う結果になったのだ。

そして気づいた。私の知るトッププレイヤー達は判断力がそれぞれ非常に高かった。例えば格闘ゲームで低く評価されているキャラクターや、誰にも上手く扱えない様なキャラクターを選ぶことがあった。彼らはおかしな事をやっているが、それは何が本当に良いか他に誰も気づいていないからだった。おかしな要素を自分で発見する「先駆者」である事は少なかったが、それを目にした時に価値を見出し、同輩に先んじて取り入れる力があった。

金メダリストの条件として判断力を読みよりも高い位置に置いた理由はこうだ。ほとんどのゲームでは読み合いの機会が沢山あるが、そもそもゲームの中で行う全ての事は判断力の測定である。

ここで判断力を2種類に分けよう。計画的なものと柔軟なものだ。チェスを例に取ると、いわゆる「古くからの知恵」で駒の価値はこう見積もられている:ポーンは1点、ナイトとビショップは3点、ルークは5点、クイーンは9点、キングは無限大の価値がある。だがこの知恵は果たしてどれぐらい正しいのか? 恐らく全てを勘案するとビショップはナイトよりほんの少し大事だろう。もっと言えばポーンの本当の価値はどれぐらいだろう? チェス理論の大きな進歩のひとつに、チェスはポーンの戦いだという発見がある。ポーンの陣形が開いているか閉じているかで盤面展開は非常に異なる。

ポーンはチェスの魂なり。

—哲学者、音楽家にして1750年の非公式チェス世界王者

 

この種の判断力はゲームシステムの深い理解と、最終結果を決めるのにどの部分が重要であるかの発見から生まれる。計画的なプレイヤーは往々にしてこういう語法で物を考える。

もう一方の判断力はもっと個別の問題に注目する。どの一般原則が正しいかではなく、今この状況におけるそれぞれの手の相対価値を考える力だ。そう、確かにビショップは原則としてナイトと等価だろうが、ある状況ではビショプに巨大な価値がありナイトは無価値かも知れない。この種の判断力に優れたプレイヤーは根底のゲームシステムや理論を研究しなくとも、与えられた局面で何が良く何が悪いかが立ち所に分かってしまうのだ。

バーチャファイターが読みスキルの測定であったのと同様、M:tGは状況判断力の測定である。プレイヤーは何十万種ものカードを組み合わせて60枚(またはフォーマットによっては40枚)のデッキを作る。一見強そうだが実は弱いカードもある。弱そうに見えて強いカードもある。ほぼどんな状況でも他より強いカードもあるが、限られた状況では遥かに弱かったりもする。信じられないほど強いがそれを使ってデッキが作れない様なカードもある。弱いカードだが最強のデッキで使われるという事もある。デッキの残りの部分が非常に強く、かつどうしても特定の機能を必要としていて、その機能を持っているのが弱いカードであっても入れざるを得ないという場合だ。

最も難しい教訓、つまりM:tGのプレイヤーが繰り返し繰り返し躓く部分というのは恐らくこれだろう:素晴らしいカードを組み合わせて素晴らしいデッキを作ったとしても勝てるとは限らない。もっと良いデッキが他にあるかも知れないのだ。素晴らしいデッキが組めるとワクワクするだろうが、「素晴らしいデッキ」というのは何も無いところに浮かんでいるわけではない。往々にして、それと全く違う事をする全く違うデッキがどこかにあり、そしてずっと強かったりする。もちろん自分で組んだ方のデッキが悪いわけではないのだが、もっと良いデッキを使わない機会費用はあまりに高い。要するに問題はデッキ同士の相対価値であって絶対価値ではない。そしてこの教訓を得て実際にカードプール中で「最強」のデッキを見つけたとしても、それを使うのはやはり下策だったりもする。「メタゲーム」の判断もしなくてはいけないからだ。出ようとする大会の他の参加者がどんなデッキを選ぶかという全体像である。もしかすると「最強」のデッキの事はみんな知っていて、それへの対策だけに特化したデッキを持ってくるかも知れない。だがそれでも「最強」のデッキが結局は勝って散々罵声を浴びるかも知れない。つまり結局はそれぞれの相対価値の判断という事だ。

いわゆる「リミテッド」(シールドとドラフト)形式では臨機応変に価値を判断して使うカードを選ばなくてはならない。リミテッド戦ではどのデッキが良いかという定石はあてにならず、プレイヤーによってはこちらの方が判断力がより問われるとして評価する向きもある。

M:tGは面白い事例である。あまりに運の要素が大きいと文句を言うプレイヤーもいるが、それでも強いプレイヤーは大会で勝ち続けている。ドイツのカイ・ブッディが現在のところ世界最強であるが、その最大の要因は彼の状況判断力が抜きん出ているからだろう。特に後者の、個別の状況ごとの柔軟な判断力だ。野生の雑種犬が素晴らしいカードでマーフォークの物あさりが良いカードである事は誰もが知っている。ではどちらがより良いのか? こういう問題はフォーラムやチャットルームで果てしなく議論されている。だがもっと重要なのは、特定の局面でどちらにより価値があるかという事だ。双方の残りライフ、残り時間、手札の枚数、手札の中身(何枚かは腐っているかも知れない)、既にプレイされた他のカードその他諸々の条件を考えなくてはならない。では、込み入った局面で自分の雑種犬と相手のマーフォークを相打ちにする選択肢があるとして、それが良い手かどうか誰に分かるのだろうか? 答えはこうだ。カイ・ブッディなら分かる。

 

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翻訳記事:勝つ為に戦う(27)

これは翻訳記事です

 

勝つ為に戦わない

この回では逆の視点から見てみよう。いつも「勝つ為に戦う」のは非生産的だ。長い期間に渡って勝ち続けるのであれば、全ての試合を大会の決勝の如く戦うのは不可能だ。そんな事をしていたら基本的な研究もできないし、特定状況下での変わった戦い方も知らずにいる事になる。そうして結局は次善の戦術に甘んずる。

 

研究

勝つ為の戦いと学ぶ為の戦いはしばしば異なる。今この試合の勝率を最大にするためには、新しい戦術や対策やパターンを試して無用な危険を冒す事はできない。回り道をせずに戦うのは試合に勝つ最善の道だ。だがそれは貴重な経験を得て戦術の引き出しを増やす機会を逸する道でもある。

ストリートファイターで簡単な例を挙げよう。コンマ数秒後に相手が超必殺技を出す事が読めたとする。このラウンドを取る一番賢明な方法は、そのままガードする事だ。だがそれでは学べない事もある。その必殺技はそもそもどれぐらい判定が強いのか? こっちが先に蹴りを出せば止められるのか? それとも必殺技が出る時の「暗転」を待ってから1フレーム(1/60秒)後に無敵の昇龍拳を出すべきか? 相手の方が先に無敵が切れてこっちの技が当たるかも知れないし、向こうの技が常に勝つのかも知れない。この情報があれば、体力が残り1ドットで相手が超必殺技の削り勝ちを狙った時に非常に役に立つ。大会ではそういう局面がよくあるのだ。どういう選択肢があるか知っている方が良い。

「カジュアル」な試合ではよく、私は安全な選択肢を捨ててその技にどんな返しがあるか試してみる。たとえそれが駄目で試合に負けても、得た知識の価値がそれに勝る。もう同じ間違いは(多分)しないからだ。勝つ為に戦いたいなら、全ての瞬間における全ての選択肢を知らねばならない。それには多くを犠牲にして実験をしなくてはいけない。

もちろん大抵のゲームで事情は同じだ。StarCraftでコルセア6体はミュータリスク12体に勝てるのか? Unreal Tournamentでショックライフルコンボは接近戦でも使えるのか? 実際にやってみなくては分からないのだ。

 

弱い戦術を磨く

ゲームが出たばかりの頃は、どんな戦略なり戦術なりが実際に強いのかまだ分からない。それでも全部分かったと豪語するプレイヤーは多いものだが。確かにその時点で他のプレイヤーより良い戦術を知っているのだろうが、対戦は進化する。新たな発見とともに古い戦術は時代遅れになる。大抵はまったく違う戦術が見つかり、古い物はプレイヤーの面汚しと化す。またしばしば、古い「最強」戦術への対策が見つかることもある。格闘ゲームでも、どのキャラクターが最強かという探索がある。発売後数ヶ月、時には数年も経ってから弱キャラと思われていたXがとんでもないバグYを利用して無敵になるという事もある。

これが勝つ為の戦いとどう関係するのか? 「勝つ為に戦う」ハードコアプレイヤーは1人のキャラクターを選び、強力な戦術を選び、それを極限まで磨き上げる。そしてそのキャラクターがその戦術を使うための全ての技を身につける。例えば初代マーヴルvsカプコンでロックマンを選び「ロックボール鳥籠」を練習する。これはロックマンが「ロックボール」というサッカーボールを作り出し、画面端へ斜めに蹴り上げ、それに続いて地上と空中へ1発ずつ弾を撃つというパターンだ。この3つの飛び道具で画面全体を支配する。そして相手がそれに対処している間にまたボールを作り出して同じ事を繰り返す。

真剣なロックマン使いなら春麗用のロックボール、ヴェノム用のロックボール、と色々なバリエーションを研究するだろう。他のプレイヤーがロックボールの有用性を減ずる対策を見つけたら、対策への対策を見つけて同じパターンを押し通す。これはまさに「勝つ為に戦う」様に見えるが、結局最後は僅かな勝利に甘んずる。そうやって修練した戦術は実は、悪くはないけれども他のキャラクターの1/10も良くない事が判明する。

私が考えるゲームとは、幾何学的な丘や山に満ちた風景である。それぞれの山は戦術や戦略やキャラクターを表し、高いほど強い。時が経つに連れてプレイヤーはこの地を探索し、多くの丘や山を見つけ、見つかった範囲でできる限り高い場所へ登ろうとする。プレイヤーは山の高さを盛る事はできない。ただそこにあるのを見つけるだけだ。尤もこれはやや観念的な区別であるが。問題は、新たな山(例えばロックボール)の麓にたどり着いた時、その頂上が実はそれほど高くないとしてもまず気づかないという事だ。そこを登るのは険しい道かも知れない(沢山の練習)。だが登ってみると、向こうに見える巨峰に比べたらこちらの戦術は低い山なのだ。つまり局地最適解にたどり着いてしまったのであり、もっと他の山を探している方が良かったという事だ。

言い換えると、勝つ為の戦いには探索も含まれる。ゲームの中の色々な要素を試してどれが合っているか、他のプレイヤーは何が得意か、そして最後には何が一番有効かを研究する。ロックボールに磨きをかけている(そして一番勝っている)時、本当に勝つために戦うならば別のキャラクターも試してみるべきだ。不慣れで、扱い方が何も分からないけれど、実は最後になってロックマンより10倍も上手く扱えることが判明するようなキャラクターを。

探せば見つかるわけではない。しかし探す者にしか見つけられない。

—スーフィ教の諺

 

秘密の物語を学ぶ

大会ではしばしば決定的な瞬間が訪れる。極めて珍しい状況が生まれ、どうするか咄嗟に判断しなければならない事態だ。大会では最高のプレイヤー同士が己の戦い方をぶつけ合う。各々自分の得意技を持ち、相手の得意技に即座に対策を見つけねばならない。これは最早単なる楽しみの為ではなく、「本物」の戦いだ。こうした極限の緊張の中で、今までに無い状況で今までに無い解法が生まれるのだ。

こうした珍しい状況になった時、果たして準備はできているか? どんな選択肢がありどんな危険があるか分かっているか? 「秘密の物語」、あるいは珍しい状況における相互作用について知っているかどうかはしばしば勝敗を分けるのだ。

秘密の物語をどうやって学ぶか。例えば大会に向けて準備し、練習し、勝つ為に戦っているとしよう。何を練習しているだろうか? ほとんどの試合で必要になる事が分かっている要素だろう。相手として出て来る事が分かっている物への対策だろう。要するに「真ん中の道」を通って練習しているわけだ。大会への意識的な準備と「珍しい状況」への対応とは正反対だ。その練習に弱キャラへの対策は含まれているか? 大会で使う気の無いキャラクターの練習はしているか? 恐らくはしていないだろう。だがもしどこからか謎めいた挑戦者が現れ、その「弱キャラ」を使って実はそれが強い事を見せたらどうなる? そして練習しなかったキャラクターこそが唯一の対抗手段だったら? 残念、そこまでは探索していなかった。「勝つ為に」戦っていたからだ。

業という考え方に従えば、ゲームへの愛は何かしらの良い結果を引き起こす。そのゲームを愛する者は好きだから遊ぶ。そして色々最適でない事をやってみる。変なキャラクターを選んだり、変な戦術を使って他の変な戦術とぶつかり合わせる。そして秘密の知識を得ていく。勝つ為だけに戦っている者はそんな回り道ができない。ゲームをしている一分一秒が今の山を登る努力であり、局地最適へと達する道のりである。それはもしかしたら、流行りのキャラクターで流行りの戦術を使う以外の事をしてみる気にならない程度にしかそのゲームが好きでないからかも知れない。

私は2001年8月9〜11日にあったスーパーストリートファイターIIXの大会に向けて猛練習をした。その大会ではダルシムだけを使おうと決め、色々な相手にダルシムの練習をした。幸い私はこのゲームが好きだったお陰で、「お遊び」で本田やリュウも使い、「本気」のベガも時々やった。それでも重点はやはりダルシムだった。

いざ大会当日。事態は思わぬ方向に推移した。私のダルシムは勝ち残り、ある日本の有名なホーク使いに当たった。ホークは弱キャラとして有名である。とりわけダルシムに対しては不利だ。だが相手は「弱キャラ」で魔術を見せる事のできるプレイヤーの好例だった。1ゲーム目で私のダルシムは惨敗を喫し、作戦を変えなくてはならなくなった。(訳注:北米の大会は大抵複数ゲームの先取である) そこで思いついたのが「お遊び」で使っていた本田だ。本田ならラウンドの間中しゃがんだままホークをやり過ごせる。相手が近づいて来れば頭突きで押し返し、またしゃがみ続ける。そして結局、この大会本番における頑固さと寒さの見本市は結果を出した。私はその日本のプレイヤーを、誰も予想していなかった様な組み合わせで倒したのだ。私はその後別の日本のプレイヤーにまた別のおかしな組み合わせで負けるのだが、これは別の話である。

この話の教訓は、勝つ為の戦いはしばしば結果に結びつかないという事だ。ゲームを愛し、好きだから遊ぶ者は、大会で使える珍しい綾を学んでしまう。もちろん役に立たない事もあるだろうが、「好きだから遊ぶ」プレイヤーは気にしない。楽しければいいのだ。そうやって知識を集める事自体が楽しいのだ。「勝つ為に戦う」プレイヤーはしばしば特定の戦術・戦略・キャラクターに囚われてしまい、ある日突然それが時代遅れになって呆然とする。これに対し、戻ったり回り道をしたりできるプレイヤーは新しい山を見つけるなり、他の山に登ろうとしたりする。そしてその山が実は10倍も高かったという落ちが付く。

 

個人的アドバイス

2003年、私はXにはもっと高いキャラクターの山がある事に気付いた。私の得手不得手と大会で負ける相手から予測したメタゲームに基づき、今度はバルログを使い始めた。いくつかの大会でバルログを使い、1回負けると使いなれたベガに切り替えた。こうしたバルログの練習が実を結んだのが2004年の第9回東海岸大会だ。1回だけベガを使った他は全てバルログで通して優勝した。しかも決勝戦では1ラウンドも負けずに8ラウンドを取ったのだ。

 

日本での覚書

上の章を書いた数ヶ月後、アメリカチームのX担当として日本の大会に遠征した。Capcom vs. SNK 2も少しやった。そこで興味を惹かれたのが、日本のプレイヤーは1人のキャラクター(あるいはCvS2なら1つのチーム)だけをずっと使い続けるという事だ。というのも大会レギュレーションがキャラクターの途中変更を許していないからだ。アメリカでは試合ごとにキャラクターを変えられるのが通例で、2〜4人のキャラクターを練習しておく方が良かったのだ。

日本のプレイヤーが見せてくれたのは、1人のキャラクターを磨き続ける事で不可能を可能にできるという事だ。私がやったどちらのストリートファイターでも、「弱キャラ」に全てを賭けたプレイヤー達が、実はそれらの山は想像したより遥かに高い事を見せてくれた。こう聞くと、色々な山に登ってみるという論点は怪しいと思うかも知れないが、その大会のCvS2部門を制したのは結局皆がよく知る「壊れキャラ」の使い手だった(ちなみにAグルーヴの前転キャンセルを使うブランカ・さくら・ベガ)。その優勝者というのがときどである。彼はまた前述の2001年大会でもCvS2部門を制している。彼は結局これまでの論述が正しい事を証明したのだ。ゲーム内で最も高い山を見つけ、全てを費やしてそれを完璧に登った。残念ながら彼は信じがたいほど寒いプレイヤーでもあったが、とは言えアメリカと日本の全国大会を制した寒いプレイヤーなのだ!

原文:http://www.sirlin.net/ptw