これは翻訳記事です
香港のニュースサイトで取り上げられたナショナルエコノミーのレビュー記事。
2016/8/10 Cheng Lap
「ナショナルエコノミー」–人口は力か重荷か
経済ゲームが好きなプレイヤーはとても多い…まあ大抵はゲームの中で富が増えるのが楽しいからだが。こう言うと些かさもしい様に思えるが、そもそもそれが経済ゲーム人気の衰えない主な理由でもある。
ただし我々が目にする多くの経済ゲームは「雪だるま式」の経済だ。要するに、人口が多ければ多いほど生産力が伸びるし、生産力が伸びれば経済力もうなぎ上りというわけだ。
経済が好調なら人口ももっと増える。これは問題ない。では人が増えれば生産力が伸びて経済がもっと良くなるか? これはちょっと問題だ。というのも政府の人間はしょっちゅうこう言う。人口が増えれば生産力が増え、市場が大きくなり、とにかく人が多ければ多いほどいい。数は素晴らしい。だが忘れてはならない、たとえ政府高官だろうと原因と結果を取り違えるのはいつもの事だ。ある国の人口が多く、「うちの国は上手く行っている」と叫ぶのが仕事の高官がいて、彼が人口が多いのは素晴らしいと言っているとしよう。この場合本当に人口が多いのは良い事なのか? 彼自身も本当は知らないのだ。
大抵のゲームもこの調子だ。アグリコラだろうとストーンエイジだろうとエイジオブエンパイアだろうと、人口は多ければ多いほどいい。ただしこの「ナショナルエコノミー」というゲームだけは完全に別だ。
このゲームは一見すると簡略版アグリコラの様だ。多分デザイナーも参考にしたのだろう。最初は2人のワーカーで始まり、典型的なワーカープレイスメントの流れで、各プレイヤーが毎回1つ職場を使う。開始時に存在するのは基本職場だけで、鉱山(カードを引く)、大工(カードを出す)、学校(ワーカーを増やす)、これで終わりだ。もしアグリコラを遊んだ事があればこう思うだろう。ワーカーを増やす前にまず家を建てなきゃいけないんだよな? どういう前提条件が必要なんだ?
答えは「何もなし」だ。増やしたければ増やせ。実際このゲームのワーカーはモリモリ増える。中盤になると一度に2人とか3人増やす事すら可能だ。ワーカー1人は行動1回だから、増えれば増えるほど生産力もGDPも自然と大幅に上がる。始めたばかりの頃はこれがものすごく得に思える。何しろあっちのプレイヤーは2人しかワーカーがいないのにこっちは3人で、カードだって沢山引けるのだ。違うか?
この発想で行くと3人と言わず13億人ぐらいまでワーカーを増やしたくなるかも知れない。だが申し訳ない、社宅を建てない場合5人が限度だ。それにそもそも、実際に遊んだら5人にだって増やしたくないと思えるだろう。
なぜならこのゲームのワーカーは飯を食う、じゃなかった、給料を持っていくからだ。まあ運用上飯を食うのとそれほど違いは無いのだが。ゲーム開始時には各ワーカーは2ドルの給料を要求する。ワーカーが増えればそれだけ給料の支払いも増える。もし給料が払えるだけの金が無ければ自分の建物を売らなければならないし、売ってもまだ足りなければ高利貸しに泣きついて1ドル借りるごとに3ドル返す羽目になる。そういうわけで毎ラウンドきっちり給料を払える様にしておきたいのだ。
給料を払うためには金を稼がなくてはならないだろう。となるとこう思うはずだ。だったらワーカーに金を稼いで来させればいいじゃないか、それでそいつ自身の給料を賄ったらいいんじゃないか? 例えばストーンエイジでも狩人は自分が食べる分を狩った上に余剰食料も持ち帰ってくれる。ゲームってどれもそういうものだろう? ところがこのゲームは違うのだ。
というのもこのゲームでは、ワーカーは直接金を稼ぐ事ができない。彼らは製品を作るか、建物を作るかで、直接金を生み出す事はできないのだ。なので手元の金はあっという間に給料に消えてしまう。現物支給は? 駄目だ。ワーカーを使って製品を市場で売って金を作るしかない。ところが市場がまた有限だ。つまり、市場に存在する金が有限で、製品を売るのも早い者勝ちなのだ。誰かが内需市場の金を全て持ち去ってしまったら、いくら手元に製品があっても売る事のできない不良在庫と化す。例えば1万本のスプーンを作っても内需が1000本分しか無かったら9000本は使い道のないゴミという具合である。
そういうことだ。現実世界における生産力・生産量崇拝者の一味はこのゲームでは大いに苦しむ。売る先の無い生産力はただただ無駄になり金に変わらないのである。
内需市場が尽きる? でもそれでも給料は払わなくてはいけない。どうすればいいんだ? 心配無用、市場には金が補充されて来る。人口が多いと市場が多いという話を覚えているかな? 実はこれはある程度正しい。なぜならこのゲームでは、プレイヤーの払った給料が全て市場へと流れていくからだ。言い換えると、プレイヤーは自分のワーカーに給料を払い、彼らが製品を買える様にしているのだ。同じ金が不断に流動していく。これこそがこのゲームの最も優れた点だ。よく政府高官が経済が不調だ消費が弱いとこぼし、それと同時に賃金を下げて「競争力」を上げろと要求するが、彼らはこのゲームを遊んだ事が無いに違いない。消費する金は元を正せば稼いだ金であって、労働者に可処分所得が無ければ企業だって内需市場の恩恵を受けられないのだ。
ただし大前提としてまず給料が払えるだけの金がプレイヤーに無くてはいけない。そうでなければ市場に流す事も不可能だ。しかもこのゲームの金は徐々にインフレで価値が下がる…というかワーカーの給料が徐々に上がっていく。どんなに人を増やしても給料を払えなかったら人口イコール市場とは言えない。2ドル給料を払ったら2ドルの市場が生まれ、4ドルなら4ドル、8ドルなら8ドル。2ドルの給料を払ったら8ドルの市場が生まれるという事は絶対にあり得ないのだ。このゲームを遊んだら金というのは同一のものが流動しているのであって無から生まれるのではないと分かるだろう。
ではどうやって市場に出回る金を増やせばいいのだろうか? 外資である。このゲームではプレイヤーが作った建物は全て外国人投資家に売り払える。そして建物という資産に応じて金を払ってくれる。この金は市場の外から出てくる。そしてその金はまた市場へと流れ込み、売り払った建物は公共建築と化して誰でも使える様になる。
ゲームの最後に全ての資産の売値を合計したものが勝利点になる。人口を増やしたければ好きに増やせばいいが、他のゲームと違って一部の建物の効果を除き人口は全く点数にならない。それどころか、製品を作って売る事ができないのであればワーカーどもは全くの重荷である。無駄に人口が多くとも点数や生産力が伸びないばかりか、巨大な消耗と化して経済を食いつぶし、富の集積を全く不可能にしてしまう。もし毛主席がこのゲームを遊んだらワーカーを7人まで増やすだろう……そして勝利点がゼロかマイナスで終わるはずだ。
人が少なすぎれば利潤を最大化できない。しかし人が多すぎれば今度は利潤を食いつぶしてしまう。本当に必要なのは人口と経済のバランスの取れた発展だ。初見プレイヤーの多くは他のゲームと同様に人を無闇に増やし、そして手痛い教訓を得るだろう。
最初はワーカー増加による生産力が非常に魅力的に見える。そして皆が落とし穴にはまる。そしてゲーム中盤から後半になってワーカーが重荷になり始めた時こう聞く。人を減らす方法は無いのか? 答えは「無い」だ。家族計画も、自然災害も、大飢饉も、大粛清も、大虐殺も文化大革命もここには無い。一度人口を増やしたらずっと養わなくてはいけないのだ。経済発展がそれに追いつかなければ、人口が負債になるとはどういう事か身にしみて理解できるだろう。
本作は貨幣経済の概念を表現した数少ないゲームのひとつと言えよう。いつか誰かが人口が多ければ生産力も市場も大きくなると言い出したらこのゲームを勧めてやるといい。すぐに過ちに気付くはずだ。
原文はこちら:http://www.cup.com.hk/2016/08/10/chenglap-national-economy-board-game/
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