翻訳記事:勝つ為に戦う(9)

これは翻訳記事です

 

スポーツマンシップ

勝つ為に戦うと聞くと、 スポーツマンシップを顧みないという意味に取る人がいる。全く反対だ。一流のプレイヤー達は素晴らしいスポーツマンである。スポーツマンシップの条件の1つは負けても喚かない事だ。「勝つ為に戦う」では敗北を学びと成長の機会として捉えている。顔を真っ赤にして対戦相手に文句を付けたり、「実力の無い雑魚に負けた」と陰で呟いていてはそれは達成できない。

良いスポーツマンになるという事は、上品に勝ち、試合のエチケットを守るという事だ。試合の前には一礼や握手をしたり、「よろしく」と言ったり、とにかく相応しい振る舞いをする。勝って満足しても、礼儀と節度を守る。そうすると他の人々にも良い影響を与える。審判も人間だ。態度の悪いプレイヤーには細かい違反を指摘したくなる。他のプレイヤー、練習相手、チームの仲間、秘密情報の持ち主などもスポーツマンには良くしてくれるだろうが、錯乱者や馬鹿にはそうではなかろう。

ある者は言う。なぜ対戦相手に向かって「人種差別主義者」などの罵倒をぶつけてはいけないのか? 対戦相手の靴に唾を吐いたり、胸をどついたり、脅迫してはいけないのか? 結局のところ目的は、あらゆる合法的な手段を駆使して勝つ事だろう? そう言ったじゃないか? まず指摘しておきたいのだが、それらの手段は大会においてしばしば禁止されている。次に、それらは先に述べた友好の原則に反している。第三に、そもそもそれに戦略的なメリットは無い。私は馬鹿でございますと喧伝している様なものだし、悪い雰囲気が付いて回るに相違ない。

とは言え、実力者の中にもそういう汚い手を使うプレイヤーが少しはいる。大会の規則に違反しない範囲で他のプレイヤーを物理的に脅したり、罵倒や威嚇を浴びせたりする余地は存在する。事前にネット上でゴミの様な話を書き散らすのもおおむね合法だ。彼らはいじめっ子になるのが得意なのかも知れない。中にはそういう手が有効な相手もいるだろう。しかし総体としてその代償は余りに大き過ぎ、勝つ為の戦略としては支持しかねる。

対戦相手を怒らせたいなら、ほとんどの場合ゲーム内にその手段がある。相手を苛立たせたり挑発する様なプレイスタイルは色々ある。相手が防御一辺倒に構えて攻撃を待っていたら、こちらも防御に徹する。相手は計算が狂う。あるいは明らかに無意味な技を繰り出して余裕を見せつけ、相手を「挑発」する事もできる。これらはゲーム内でやる限り、全て善良かつ公正である。これはスポーツマンとしてどうこうという次元には関わって来ない。戦争に卑怯も何も無い。

対戦相手を脅したいならそうすれば良い。しかしもっと礼儀正しく、スポーツマンシップに則ってその目的を達する事もできる。最上の手段は大会で優勝する事だ。次の試合で当たる相手は震え出す。試合前にちらっと見やり、「お手柔らかに」と言ってやれば、相手は圧倒されて羽根の様に吹き飛ばされるだろう。試合を完全に支配しているプレイヤーは「恐怖のオーラ」をまとう。青白いオタクが対戦相手を恐怖させるという事態が起きる。彼は”PhantDan09″、あるいは他の名前でもいいが、有名な大会の優勝者だったのだ! 恐怖のオーラがあれば、本来はとても通用しないトリックが通し放題になる。何をやっても相手は裏を疑ってしまうからだ。恐怖のオーラの主が隙を晒している様に見えたら、もしかしたらそう見せかけているだけかも知れない。ちょっと様子を見よう……と思っている間に負ける。優れた戦いと勝利を通じてひとたび恐怖のオーラを身につけたら、大して効果のない口先の脅しを笑い飛ばせる様になる。

原文:http://www.sirlin.net/ptw

#28 アイスクリームタレット

1人用カードパズルゲーム。上から降って来るアイスクリームを並べて消す。山札が一巡する度にカードが増えて難しくなる。上まで埋まったら負け。

 

内容物

  • 1〜9のアイスクリームカード各4枚
  • クラッシュアイスカード4枚

 

始め方

  • 1〜6アイスクリームカード各4枚、合計24枚をよく切って山を積む。
  • 卓の上を片付け、横3枚×縦5枚のカードを並べられる場所を作る。

 

場の構造

カードを並べる事ができるのは3×5の空間。一番上まで積み上がると負け。

 

遊び方

  • 山からアイスクリームカードを1枚めくり、場の好きな列に置く。
  • アイスは「上から落ちて」来る。その列にアイスが無ければ一番下の段に、既にアイスがあればその上の段に置く。
  • 縦・横・斜めに同じ数字が3つ並ぶとそれらは消え、捨て札置き場に移動する。
    • 捨て札はいつでも参照できる。
  • 3つ以上の続き数字でも消える。例えば1・2・3など。
    • 端の数字同士は繋がらない。
    • 並び順は何でも良い。1・3・2と並んでいても消える。
    • 4つ以上の続き数字が並ぶと、それら全てが消える。例えば1・2・4が重なっている上に3を置くと4枚とも消える。
  • 複数のライン(例えば縦と横など)を同時に揃えた場合、それら全てが同時に消える。
  • クラッシュアイスは普通には消えず、縦・横・斜めに隣接するアイスが消えると巻き添えで消える。
  • 消えるとその上にあったアイスは下に落ちる。
  • 落ちた結果並びができればそれも消える。
  • アイスが5段目まで積み重なるとゲームオーバー。ただし置いた瞬間に消えればセーフ。

 

山が切れたら

  • 捨て札を集め、新たなカードを加えて切り、山を積み直して続行。
  • 2巡目:7のカード4枚を加える
  • 3巡目:クラッシュアイスカード4枚を加える
  • 4巡目:8のカード4枚を加える
  • 5巡目:9のカード4枚を加える

 

勝利条件

5巡目の山が切れた時、場にクラッシュアイスが無ければその時点で勝ち! クラッシュアイスが残っていれば、捨て札からクラッシュアイスを全て取り除いて山を積み直し、場のクラッシュアイスが全て無くなるまで続行。

 

スコアアタック

通常ルールを制覇したらスコアアタックに挑戦だ! 変更点は以下の通り。

  • 最終巡が終わってもクリアにならず、同じカード構成のまま山を積み直してゲームオーバーになるまで続行。終了時の得点を競う。
  • 最初からクラッシュアイス4枚が山に入っている。
  • 3巡目で8のカードを追加。
  • 9のカードは使わない。
  • 場からカードを一掃すると+1点(全消し)。
  • 4枚続きを作ると+1点。
  • 5枚続きを作ると+2点。
  • 2ライン同時消しで+2点。
  • 3ライン同時消しで+4点。
  • 連鎖消しで1回につき+2点

 

翻訳記事:勝つ為に戦う(8)

これは翻訳記事です

 

チートについて

勝つ為ならこうした手段も使うべきかとしばしば問われる:

「StarCraftでマップハックツールを使うのは? パケットインターセプターは? マクロで呪文を速く唱えるのは? あるいは単に対戦相手の向こうずねを蹴っ飛ばすのは?」

「勝つ為に戦う」の偉大な点の1つは、それが計測可能な自己研鑽の道である事だ。勝つ為に戦う道のりにおいて、我々は冷たく厳しい勝敗という道案内を得る。私は勝利も敗北も、正式な大会という文脈で捉えた場合のみ意味があると考えている。対戦相手の向こうずねを蹴り飛ばすのはゲームの範疇を超えているし、まともな大会なら決して許されない。

同様に、違法なダウンロードサイトから手に入れたサードパーティハックツールは決してまともな大会で合法化されない。これらは技術的には勝利の助けになるだろうが、私が述べている継続的な自己研鑽の道からは外れる。これらは大会のルールに反している。勝つ為には大会で合法なあらゆる手段を用いるべし。もしどこかの、参加者全員にマップハックツールの使用を認める様なおかしな大会に出るというならそうするがよい。しかしそれは通常ならざる別バージョンのゲームを遊んでいるという事だ。余計なルールを加えないのは皆で同じゲームを遊ぶためである。理性あるプレイヤーなら、いかなるゲームであれ「ゲーム外からのチート無し」を標準ルールの一部と見なすであろう。

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(7)

これは翻訳記事です

 

何を禁止すべきか?

これは少々ややこしい問題だ。前の節ほど明瞭ではない。この世の全てを禁止せねば気が済まないプレイヤーが世の中には大勢いる。雑魚は自分を負かす戦術やテクニックは全て「せこい」と断じ、従って禁止すべきだと考える。実際のところ、本当に禁止すべきものは非常に少ないのだ。

大会で何が禁止されるべきかという本題に入る前に、まずゲームの流通形態に関して述べておきたい。これによって禁止すべき物も変わって来る。1つ目の形態は、ゲームがリリースされたらそれきりという物だ。プレイヤーは今あるゲームで遊ぶしかない。もう1つは後からパッチが1つか2つ出て、深刻なバグやバランス上の問題を修正してくれる物だ。この2つはどちらも今あるゲームで遊ぶしかないという点で、本質的に同じカテゴリに入る。そして私が若い頃にはこのカテゴリしか無かった。

オンラインゲームは新たな形態をもたらした。Blizzard(“StarCraft”、”Warcraft 3″、”Diablo”、”World of Warcraft”の開発元)は”battle.net”という無料のオンライン対戦サービスを自社ゲームに提供している。全ての対戦ゲームはこのサービスを通すので、Blizzardはゲームがどの様に遊ばれているかに関して膨大なデータを収集できる。ゲーム時間はどれくらいで、どの戦術が上手く行き、どのマップが遊ばれているか、などなど。この会社はゲームをリリースした後も数年間に渡ってパッチでバランスを調整し続ける。

いわゆるMMO、”EverQuest”や”World of Warcraft”などはゼロサムな競技ゲームではないが、こちらも定期的にパッチが当てられている。プレイヤーは毎月料金を支払っており、言わばゲームを改善する為の巨大なチームを財政的に支えているわけだ。

リリース後にパッチで根本的な改善を続けるという考え方自体は良い面がたくさんある。しかし同時に、バグがあったりバランスの調整できていないゲームをリリースして後から直せばよいという風潮も生んだ。この種のゲームのプレイヤーと、「変化しない」ゲームのプレイヤーとでは、ゲームの改善や禁止事項の導入に関しての態度が異なる。我々の様なゲーマーにとって、禁止事項の導入は緊急避難的な非常措置だ。オンラインゲーマーにとっては、ゲームバランスの変更は日常茶飯事である。バグの修正も同様だ。

この「定期的にパッチが出る」方式はプレイヤーの側に怠慢をもたらしてもいる。今あるルールで最大限に頑張ったとしてもあまり報われない。その戦術で勝ったとしてもどうせパッチで修正される。ゲームに足跡を残す事はできるとしても、勝ち続ける事はできないのだ。MMOでは更に悪く、アカウントを永久に削除されてしまう可能性がある。ルールの範囲内で開発者の意図せざるプレイをしたというだけの理由でだ。

 

禁止事項の規準

禁止事項は施行可能・定義可能・合理的でなくてはならない。

 

施行可能

そもそも検出が難しい戦術もある。検出が難しいものに対して罰を課す事はできない。例えば格闘ゲームにおいて、本来無敵でない技を無敵にする裏技があったとする。しかしそれが使われたかどうか、毎回検出するのはほぼ不可能だ。あるいはRTSで、ユニットのHPを少しだけ増やす裏技があったとする。しかし実際のゲームでそれが使われても検出はやはり不可能だ。もし大会に禁止事項を加えたいなら、それは容易に検出可能であるか、あるいはそもそも起きない様にしておかなくてはならない。

また格闘ゲームにおいて、本来そうでない技がガード不可能になってしまったとする。ただし1/60秒以内のタイミングで繰り出した場合だけだ。果たしてそのプレイヤーは「裏技」のタイミングで技を出したのか? あるいはその1/60秒後に出したのか? もしかしたら単なる幸運で裏技のタイミングになってしまったのかも知れない。これに罰を課せるだろうか? こんな規則を実施できるか想像してみよう:「原則として技Xは使ってよいが、1/60秒間だけXを使ってはいけないタイミングが存在する」

 

定義可能

禁止事項は「完全に定義可能」でなくてはならない。仮に格闘ゲームで、ある5つの技を繰り返し繰り返し使うのが最上の戦術だったとしよう。そしてその行動が「タブー」になり、プレイヤーが禁止を望んだとしよう。この場合、何を禁止すれば良いのかという明確な定義が無い。そのパターンを3回繰り返すのは可能か? 2回なら? 1回だけなら? 5つの技のうち最初の4つだけを繰り返したら? それは合法か? こうなるとゲームは誰が「タブー戦術」にギリギリまで近づけるかという競争になってしまう。そして恣意的な禁止の文言に抵触したらアウトだ。

あるいはまたFPSにおいて、「キャンプ」行為(同じ場所にずっと留まる)を禁止するという考え方がある。これに関してプレイヤー間の友好的な合意は必ずしも必要ではない。これは一応施行可能である。サーバー側でプレイヤーの位置を監視し、規則を破った者に罰を課せばよい。問題は「キャンプ」をどう定義するかである。仮に同じゾーンに3分以上留まる事がキャンプと見なされ、キャンプが実際に最上の戦術だったとしたら、今度は同じゾーンに2分59秒留まるのが最上の戦術になってしまう。これはもう滑りやすい坂と同じで、禁止されるキャンプ行為に非常に近いキャンプ的戦術が常に横行する。

完全に定義可能な要素の例もある。カードゲームのM:tGにおいて、あるカードが強力過ぎると分かったらそれが禁止される事がある。「このカードは使ってはいけない」というのは完全に定義可能である。誰かがそれを「ほどほどに使う」という心配は無い。格闘ゲームでは同じ動きを「ほどほどに繰り返す」事が可能だった。あるいはFPSで2分59秒だけ「ほどほどにキャンプする」事もできた。カードは分離可能な要素であって禁止は実行可能である。

 

合理的

ここに問題の全てがある。何かを禁止するのが合理的でなければ、そもそも施行可能性や定義可能性を考える必要自体が無い。競技ゲームにおける教訓とは、禁止を合理化できる理由はほとんど無いという事だ。

あるバグがプレイヤーに小さな有利を与えてしまったとしても、禁止の理由にはならない。実際これはよくある事だ。ほとんどのプレイヤーはバグを利用している事自体に気付かない。単にそれを「裏技」と考えている。ゲームに重大な影響を与えるバグでさえ必ずしも禁止すべきとは限らない。それによってゲーム性が変わるだろうが、ゲームというのは自己修復の性質があり、ほとんどの手段には対抗手段(しばしば他のバグ技)があるものだ。

“Street Fighter Alpha 2″(北米版ストZERO2)には立っている(しゃがんでいない)相手に対してだけ大ダメージを与えるオリジナルコンボがあった。開発者はそれを見てからしゃがみガードできると意図していたに違いないのだが、実は上手くやると相手はそれをガードできない。これはゲーム性に大きな影響をもたらした。立っているだけで危険なのだ。しかし、この技が普及した後でもなおゲームは素晴らしかった。一見すると、立ち上がって攻撃に行くのは危険過ぎる様に見える。しかし綿密な研究の結果、攻め手は相手のオリジナルコンボにそれを破る技を差し込める事が分かった。要するに、バグがあってもゲームは成立した。この画期的な戦術は発明者の名を取って”Valle CC”と呼ばれた。Alex Valleについては後に述べる。

他の例として、「スーパーパズルファイターIIX」を挙げる。これは落ちものパズルである。自分の領域に様々な色のブロックが降って来るので、同じ色を3つ並べて消し、相手の領域を埋める。相手の領域が一杯になれば勝ちだ。

パズルファイターにもゲーム性の変わるバグがあった。レインボージェムを使うと自分の側にあるブロック1色を全て消せる(並んでいなくても)。そしてブロックを相手の側に送り込める。本来、これは普通にブロックを並べて消した場合より相手に送るブロックがずっと少ない筈だった。つまりブロックを処理できる代わりに相手への攻撃は減るというトレードオフだった。ところがここにバグがあり、裏技で普通に消した場合より多くのブロックを相手に送り込めてしまった。レインボージェムは「その場凌ぎ」でなく、ゲームを終わらせる大岩と化してしまったのだ。相手がこの裏技を使った場合、同じ技を使わずに勝つのはほぼ不可能である。

しかし裏技を知っているプレイヤー同士で戦うと、ゲームは相変わらず面白い。自分のレインボージェム技で相手の技を打ち消せるからだ。各プレイヤーは落ちて来るブロック25個ごとにレインボージェムを手に入れるので、双方ともだいたい同じタイミングでそれを手にすると予測できる。あるいは相手のレインボージェム技に合わせて大量のブロックを普通に消す事もできる。こうすると相手の攻撃をいくらか相殺し、残りが降って来るので自分の領域がかなり埋まる。そしてパズルファイターの場合、自分の側に沢山ブロックがあればそれだけ相手に撃ち込む弾丸が増えるのだ。狡猾なプレイヤーは相手にレインボージェムを撃たせ、蓄えた弾丸で逆転勝利を狙う。結局の所、バグはゲームを変えたが壊しはしなかった。明らかにこれは禁止する必要が無い。

バグや戦術がゲームを壊しているかどうか、どうやったら分かるだろうか? 簡単な方法は、それがゲームを壊していないという前提でひたすら遊んでみる事だ。99%の場合において、その戦術が優れていればいるほど、対抗戦術やより優れた戦術が見つかるものだ。熟慮を経ない禁止は雑魚のする事である。雑魚はValle CCやレインボージェム技に対抗する術を探さない。また禁止事項を入れると、本来そのままで成立していたゲームに人工的なルールを加える事になってしまう。更に1つ何かを禁止すると、次から次へと雪崩の様に禁止事項が持ち上がる。もしゲームを壊す様な戦術を見つけたら、それで大会に出て勝つ事をお勧めする。結果、ゲームがその戦術だけに収斂してしまう様なら禁止を検討すべきである。実際にそうやって勝ち、その戦術がゲームを壊していると証明できた例を私は知らない。

ゲーム開発者に一言。リリース後にバグを修正できるならすべきである。しかし、プレイヤーは「不公平な」戦術を使う感覚を楽しんでいる。それだけで大会に勝ててしまうほど強くなければ、「不公平な」だからと言ってそれを取り上げるのは間違いかも知れない。

 

即座に禁止すべき不具合

繰り返しテストせずとも即座に禁止すべき事項もある。例えばゲームをクラッシュさせたり、対戦相手の画面を真っ白にしたり、キャラクターやユニットや資源が消えたりする様な不具合である。ゲームを続行不能にする、あるいはゲームが成立しなくなる大きな不具合は禁止に値する。また全てのプレイヤーに使えない不具合も同様だ。2人プレイ用ゲームにはしばしば、2P側でしか使えないバグ技が存在する。この種の戦術は禁止すべきである。たとえそれほど強力でなかったとしても、全てのプレイヤーがアクセスできないというだけで十分な理由になる。

 

「強過ぎる!」

非常に極端で珍しいケースとして、「強過ぎる」要素が禁止される事もある。プレイヤーからの禁止要望はこれが一番多く、そしてその殆どが馬鹿馬鹿しい。ある戦術が「強過ぎる」から禁止するというのは全く理にかなっていない。それはゲームを「2番目に強い」戦術へと収斂させるだけだ。それでゲームが良くなるとは限らず、往々にしてむしろ悪くなる。

「強過ぎる」要素を禁止すべきは、それがあまりに甚だしく、ゲームから他の戦術を全て追放してしまう様な場合である。非常に珍しいケースだが、「最も強い」に留まらず「他の全てより10倍強い」要素を排除するとゲームが改善される事もある。これは非常に珍しいという事を強調しておきたい。大抵の場合は、禁止を求めるプレイヤーがそれ以外の戦術をちゃんと理解していないだけである。本当に強過ぎるならそれを使って大会を連覇すべきだ。ごく稀に本当にそれが正しく、1つの要素(バグにせよ仕様にせよ)に収斂してしまうほどゲームが浅いという事もある。その場合、最善の対処はそのゲームを放棄して他のゲームを遊ぶ事だ。世の中には良いゲームが沢山ある。

極端に稀なケースとして、強過ぎるという主張が正しく、かつゲーム自体は救うに値し、かつその超強力な戦術を除けばゲームが10倍も良くなる場合もある。その時初めて禁止は考慮に値する。その場合でさえ、研究が進み、上級者と大会運営にその戦術が禁止されるべきだという理解が広まる時間は必要だ。公式の禁止の前に「暗黙の禁止」が導入される事もある。以下に例を挙げよう。

 

「X」の2例

(訳注:この本は2006年に書かれている)

「スーパーストリートファイターIIX」、あるいは「X」は格闘ゲームにおける禁止事項の良い例だ。本書執筆現在、このアーケードゲームは稼働開始から10年経ってもまだ大会が開かれている。実際、東京だけで週に1〜2回の大会が開かれているのだ。このゲームは非常に成熟している。そしてバランスに関する10年間のデータがある。

ストリートファイターにはしばしば特定のコマンドを入力すると使える「隠しキャラ」が存在する。強いキャラの時もあれば弱い時もある。時には隠しキャラがゲームで一番強いという事もあり、初代「マーヴル VS. カプコン」がそうだった。凄い。そういうゲームなのだ。それに慣れよう。ところが「X」は隠しキャラを導入した最初のストリートファイターシリーズであった。そしてそのキャラは恐ろしく強い「豪鬼」だった。ほとんどのキャラクターは豪鬼に勝てなかった。「勝つのが難しい」のではない。絶対に、絶対に、絶対に勝てないのだ。豪鬼は「壊れて」いた。このゲームは斬空波動拳をきちんと扱える様にできてはいない。豪鬼はただの最強ではなく、他のキャラクターより少なくとも10倍は強かった。これは非常事態だ。アメリカの上級プレイヤーは即座にこれに気付き、このままでは全ての大会が豪鬼同キャラ対戦のみになると予期した。かくして豪鬼はほぼ異論無く禁止キャラとなった。私はこれは正しい決断だったと思う。

ところが日本では、豪鬼が大会で公式に禁止される事は無かった! こちらでは「暗黙の禁止」が導入された。つまり豪鬼は強過ぎてゲームを壊すのでので使ってはいけないという暗黙の了解である。プレイヤー達は非公式にそう合意した。中には大会で豪鬼を使う者もごく少数ながらいたが、上級プレイヤーの中にはいなかった。それをやるのは下手なプレイヤーだけで、神キャラクターを使って負けるのである。これは屈辱だ。そして観ている者は満足だ。これはアメリカにおける「公式の禁止」とは違う、興味深いやり方だ。

ここまでは良い。しかし日本ではもう1人のキャラクターについて「暗黙の禁止」が導入されかかっている。私はこの例を境界線として提示する。「強過ぎる」から禁止するという事に関して、これはちょうど合理と非合理の境界線上にある。これより弱いものは禁止に値しない。それゆえ、この例は何がゲームにおいて許されるかという指標になる。

問題のキャラクターは「Sサガット」である。Sサガットも豪鬼と同様の隠しキャラ(あまり隠れていないが)である。Sサガットは豪鬼とは違い、斬空波動拳の様な壊れた技は持っていない。Sサガットはしばしばゲームにおける最強のキャラとされる(豪鬼はもちろん除く)。だがトッププレイヤーの間でもその点については議論がある。恐らくどんな上級者もSサガットを上位3キャラ以内に位置づけるだろうが、それが最強だという広範な合意は無い。では何故、それを禁止しようなどと思うのか? 対策を知らない雑魚の集団が反射的に禁止を叫んでいるのだろうか。

そうではない。日本のトッププレイヤーの間には、Sサガットを使わないという暗黙の了解がある様だ。何故なら、Sサガットがいない方がゲームの多様性が大きく広がるからだ。Sサガットは基準によっては2番目に強いキャラクターに過ぎないが、全キャラクターの半数を簡単に封殺できてしまう。それらのキャラクターはSサガットと戦うのが精一杯で、勝つのは殆ど無理だ。同格の上位キャラクターならばSサガットと戦ってもきちんと試合が成立する。そしてほぼ全てのキャラクターは、Sサガット以外の上位キャラクターに対して勝利の目があるのだ。つまりSサガットを大会で使用可能にすると、春麗やケンなど多くのキャラクターが事実上使用不可能になってしまう。

ゲームの黎明期にこうした禁止を申し立てたとしても、それは正当化できないだろう。大会によって更にテストするのが妥当だ。しかしこのゲームは10年もテストした。大会がSサガット同キャラ対戦だけで埋め尽くされてはいない。しかしSサガットを倒せないキャラクターは明らかになり、それらはアメリカでは滅多に使われなくなった。一方日本では使われており研究が進んでいる。日本ではSサガットが暗黙裏に禁止されているからだ。これによる多様性の増加はSサガットの欠落を補って余りある様に見える。禁止は妥当だろうか? 正直な所、完全にそうだとは確信できない。しかし合理的判断の範疇には収まっていると思う。判断の基盤となるデータが10年分もあるのだから。

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(6)

これは翻訳記事です

 

勝つ為にどこまでやるべきか?

他のソフトウェアと同様、ビデオゲームにもバグがある。非電源ゲームでさえ、デザイナーの予期しない相互作用が見つかる事もある。もし上級者が勝つ為にあらゆる事をするとしたら、こうした不具合も利用するだろうか? 答えはイエスだ。プレイヤーはデザイナーの意図を酌んだりしない。どの技が「フェア」でどの技がそうでないか、どの技が仕様でどの技が不具合かなど一切気にしない。気にするだけ無駄だ。プレイヤーが気にするのは、どの技が勝利に繋がりどの技がそうでないかだけである。

不可解な事に、世の中にはプレイヤーがデザイナーの意図を神聖視してくれると思っている様なゲームもある。そして実装上のルールとは別に、意図された通りのプレイをしてくれると期待している。これは根本的に間違った考え方だ。そしてそういう間違いをしているMMOは非常に多い。”World of Warcraft”を例に挙げよう。プレイヤーは街中で屋根に上がる事ができる。またプレイヤーは街中で他のプレイヤーと戦う事ができる。しかし屋根の上にいる時に他のプレイヤーと戦ってはいけないのである。やろうとすると警告を受ける。実はこれは2005年11月3日21:44(PST)までは合法であり、その後違法と見なされる様になったのだ。またプレイヤーは同じモンスターを毎日毎日倒し続ける「ファーミング」でゲーム内通貨を稼ぐ事ができるが、「やりすぎ」てはいけない。一線を越えるとファーマーと見なされアカウント削除の目に遭う。更にモンスターの視線を遮るとなかなか追って来れなくなり、その隙に仲間に倒してもらう事ができる。これは上手なプレイか、それともアカウント停止案件か? アカウント停止案件である。モンスターに追われた時、湖に飛び込んで向こうが諦めるまでやり過ごす事ができる。これは上手なプレイか、それともアカウント停止案件か? こちらは上手なプレイである。こうした恣意的なルールの網は「雑魚」の作るお手製ルールと大して変わらない。

私はこの点に関して注意を喚起しておきたい。良い競技ゲームはこの様な物であってはいけない。合理的ゲームはルールをきちんと組み込み、違法な行動はそもそもできない様にしておくべきである。合理的なゲームであっても、大会ではしばしば特別ルールが用いられるが、その場合でもルールは可能な限り短く明瞭なリストにまとめる。世の中には「楽しみ」のためだけのゲームもある。そういうゲームは「勝つ」事が許されなかったり、まともな大会を開く事が不可能である。ゲームとしては楽しいだろうが、この本で扱う範囲からは外れる。

それではプレイヤーは勝つ為にどこまでやるべきか? プレイヤーは、大会において合法な行動全てを駆使して勝利の可能性を最大にすべきである。どの行動が大会で禁止されるべきかという問題はまた後の節で論じる。ここでは次の様に結論しておく:大会でやって良い事はゲームの内である。以上。誰かがバグを利用すると、他のプレイヤーが「チート」だとか「卑怯」だと文句を付けるが、これは本人は全く悪くない。彼は使える手段全てを駆使して勝利を目指しているのであり、パンチを引っ込める義務は無い。苦言は大会の運営(あるいはプレイヤーコミュニティ)に対して向けるべきである。問題は大会でその行動が許されるかどうかだ。ここを間違えているプレイヤーは非常に多い。

原文:http://www.sirlin.net/ptw

メックアリーナ2013 追加・変更点

月刊スパ帝国3月号の付録「メックアリーナ2013」一体何が新しくなったのか? 2012年8月号の「メックアリーナ」から何が変わったのか? 以下にまとめてみよう。

 

用語・インターフェースを改善

「ストライク」「アウト」は「装甲」「HP」に改称。全ての数値が「多いほど良い」物になりスコアカードが見やすくなった。またカードのレイアウトを整理し、質問が多かった部分に関して文言を改めている。ルール説明書も図解が増え、インストラクションが容易になった。

 

ルールを整理・調整

前作で処理のややこしかったルールを整理。武器の連続使用制限はスタンした場合でも「同じ武器を続けて使えない」に統一した。「転倒」のルールは廃止し、似た挙動の一般的な武器に置き換え。更にステールメイト防止のため、装甲を削り切られると1ターン動けなくなるルールを追加。まれに装甲が極端に低下する状況も起きるため、新たな戦術の可能性が開けた。

 

新機体を4つ追加

今までに無いメカニクスの機体を4つ追加。特定の順番で武器を使う事で性能が強化されるコンボシステムを取り入れた「レオ」と「ネルヴァ」、使った武器が発熱し「冷却」を必要とする「コカリアス」、自爆の危険を伴う極大威力の武器を装備した「ウラヌス」である。全て無用な複雑さは避けつつ、シーズン2に相応しいテクニカルな機体となっている。使い手の技量が更に試されるぞ!

 

既存機体を調整

既存の機体のうち、ルール上の挙動が複雑だった物を再調整。「イェーガー・スナイパー」はスナイパーガンの選択的挙動を廃止。「ヴォルガ」は気力上限の例外処理を廃止すると共に、戦闘力の低下を埋め合わせるため必殺技を更に強化! 「オスカー」は「転倒」と連続行動を大幅に整理し、コンセプトはそのままに、より洗練されたスピードファイターとして生まれ変わった。全てハンドリングの煩雑さを取り除きつつ、戦略性はより増している。なおイェーガー系の派生機3体はイェーガーとの大きな違いが無いため欠番となった。

 

イラストを新たに描き下ろし

そして(ほぼ)全機体、前作と同じイラストレーターによりフルカラーで新たに描き起こされた! 再び魂を吹き込まれた闘うマシンが戦場を駆ける! 唸れ巨砲! 震えよ大地!

全てが新しい「メックアリーナ2013」は月刊スパ帝国3月号に附属!

注文はストアから。

翻訳記事:勝つ為に戦う(5)

これは翻訳記事です

 

敗北から学ぶ

敗北はゲームの一部である。一度も負けた事が無いとすれば、それは一度も試された事が無いという事だ。それでは成長しない。敗北は学びに繋がる機会である。だが敗北は苦しい。感情が論理的考えを押しのけてしまう事もある。以下に列挙するのは「負け犬」になる姿勢だ。これらを口にする様になったら赤信号である。

 

「少なくとも俺は正々堂々戦った」言い換えれば「あいつはせこい!」

これは圧倒的に多い負け犬の遠吠えである。これについては先に詳述した。負け犬は空想上の倫理的優位を拵えるため、自分の「正々堂々」にしがみつく。どの行動ができてどの行動はできないかを決める個人的な戒律だ。言うまでもなく、どの行動が可能かはゲーム自体が決める事であり、上乗せの戒律は無駄で余計で勝利の邪魔だ。負け犬は対戦相手が彼の戒律を破ったかどで文句を言う事もある。彼は常に、世界中が自分の戒律に同意し、それを破るのは邪悪なアウトカーストだけだと信じている。こうした「正々堂々」への宗教的情熱に理由を見出すのは難しい。ある種のプレイヤーは何が何でも「勝者」でいたがるものだ。敗北の海のただ中にあってさえ、彼は自分の戒律を奇妙に歪めて自分を何とか「勝者」に分類するだろう。

 

「負けたけど相手は弱い」

これは最もおかしな抗議だ。自分より弱いと思っている相手に負けると、「相手は弱い」という言い訳が用いられる。彼は自分が非常に優れたプレイヤーで、この様な雑兵に負けたくらいでは何も証明されないと言っているのだ。彼は往々にして相手の「弱いプレイヤー」が持っている弱点を数え上げ、「ワンパターンだ」とか「読み合いが弱い」といった台詞を吐く。しかし相手を貶めれば貶めるほど、彼自身もっと惨めになる。相手がワンパターンな戦術に頼っているとしたら、それを打ち破れなかった自分はどうなのだ?

この傾向は取り除かねばならない。恐らく相手を責めるのはプライドのゆえだろうが、失敗から学ぶ機会を奪ってしまう(それに他のプレイヤーにも嫌われる。気にしないかも知れないが)。原則として、勝つだけの力量を持ったプレイヤーには相応の敬意を払わなくてはならない。プレイスタイルにどんな瑕疵があろうとだ。認めたくないかも知れないが、こうした「弱い相手」はしばしば実際には自分より強いのだ。相手が自分より弱いなら勝たせてはいけない。自分の失敗から学び、ライバルに追いつくべし。どちらにせよ問題は自分自身の中にある。相手のせいではない。

 

「俺は弱いよ、やるまでもなかろうよ」

今度は逆のパターンである。自信がありすぎるのではなく無さすぎるのだ。この台詞は負けた後の悲しさからしばしば出て来る。それはまだ良い。その場に留まって挑戦を続けるべし。問題なのは、試合の前や最中にこれを言う場合だ。自己評価の低さは自分を本当に弱めかねない。中には過去の敗北や、生活上の不運を引きずってしまう者もいる。そしてゲームに対しても負け犬根性で挑む。客観的に見れば試合において有利になっている場合ですらだ(例えばM:tGで良いデッキを持って来たとか、格闘ゲームで相性の良いキャラクターを選んだ場合が相当する)。この種のプレイヤーはそうした雑念を振り払い、今目の前にある試合に集中せねばならない。選んだキャラクターなり陣営なりデッキなり、あるいはゲームの技量なり知識なり、何らかの優位を持っているならそれに集中すべきである。そして優位性を持っていないなら、それこそもっと頑張らなくてはならない。冷静にならなくてはならない。逆境に打ち勝たねばならない。そして目にもの見せてやれ。自分を信じなければゲームには勝てない。信じれば勝てる。

 

「糞ゲー/運ゲー/つまんねー」

公正を期す為に言っておくが、世の中には本当に糞なゲームや偶然性が強過ぎるゲームやつまらないゲームもある。その場合はさっさとそのゲームを止めて時間を無駄にせぬ方がよい。しかしこの種の抗議はしばしば完璧なゲームに対しても向けられる。「糞ゲー」に見えるのは、そのゲームを素晴らしい物にしている本質が見えていないだけかも知れない。

「運ゲー」は少々話が複雑だ。ゲームの偶然性が強ければ、それだけ競技性が失われる可能性がある。しかし偶然性はゲームに「楽しさ」ももたらす。通常、この抗議への回答は1つしか無い。同じプレイヤーが安定して勝ち続けるかどうかを見よ。例えばM:tGは偶然性が強過ぎるという議論もある。しかし国際大会で入賞するのはいつも同じ顔ぶれだ。本書執筆時点での世界最強プレイヤー、Kai Buddeは大会に毎回出て来る。使うデッキは他のチームメイトと全く同じである。それでもKaiが勝つ。どうやらこのゲームはそれほど「運ゲー」ではないようだ。

ポーカーにも同じ事が言える。個々の手は偶然による所が大きいが、大会で優勝して賭け金をさらって行くのはいつも同じ面々だ。

(訳注:北米で最も人気のあるポーカーのルールは、日本で普及しているルールに比べ実力に左右される割合が大きい)

「つまんねー」というコメントは頭を使わない。これは基本的に、負けた責任をゲームの欠陥のせいにしているだけだ。無論ゲーム自体が欠陥を抱えている場合もある。しかしこのフレーズを使っていると、負けた言い訳をしてそこから学ばないという事も覚えておこう。

こうした負け犬根性に陥らない様に気をつけよう。負けたのは自分の責任だ。被害者ぶるのは負け犬の道である。勝つのは負けを受け止め、自分を磨こうとする者だ。

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(4)

これは翻訳記事です

 

雑魚病

ここまでは当たり前の、ありふれた事ばかり論じて来た。長い道のりは最初の一歩が最も難しい。ゆえにまずはぬるま湯に浸かって貰った。ここからは違う。ここから先は勝負の冷たく厳しい真実に向き合わねばならない。ここが最も難しい所だ。不安な気持ちになるかも知れない。心の防衛機能によって、この本は間違っていると感じるかも知れない。だが保証する。この部分において、私は聖なる真実を直接告げる。

 

雑魚とは何か

「雑魚」という言葉は様々な意味を持つ。そのうちの1つは何か(例えばゲーム)があまり上手でない人間の事だ。この定義に従えば、我々はみな雑魚として始まる。それを恥じる事は全く無い。だが私はそれとは違う意味で「雑魚」という言葉を使う。雑魚とは、自分で作った規則に縛られて満足に戦えないプレイヤーの事だ。雑魚の作った規則などゲームは関知しない。雑魚は「勝つ為に戦う」事をしない。

誰も皆、最初は弱いプレイヤーとして始まる。自分のしている事を理解するまでには十分な練習が必要だ。だがここに重大な誤解がある。ただゲームを続けて「練習」するだけで、誰でもトッププレイヤーになれるという誤解だ。現実には、「雑魚」はまず多くの心理的障壁を乗り越えなければ先へ進めない。雑魚は戦う前に負けている。いやゲームを選ぶ前に負けている。何が問題なのか? 「勝つ為に戦う」事をしないからだ。

雑魚はこの言明に反発するだろう。自分はちゃんと勝とうとしている。しかし違う。雑魚は複雑な、虚構の規則を自分に課し、まともに競技に参加する事さえできていない。無論これらのお手製ルールはゲームによって異なるが、雑魚の性質は一緒だ。私がキャリアを築いた格闘ゲーム、ストリートファイターを例に取って説明しよう。

ストリートファイターにおいて、雑魚は様々な戦術や状況を「せこい」と断ずる。「せこい」は雑魚のお題目だ。投げを仕掛けるのはせこいと言われる。投げとは特殊な攻撃で、相手を掴んでダメージを与えるものだ。他の攻撃はガードしていると防げるのだが、投げは防げない。そもそも投げが存在するのは、ずっとしゃがんでガードしている相手にもダメージを与えられる様にする為だ。ゲームが成立する為には基幹部分に投げが組み込まれていなくてはならない。投げは理由があって存在している。しかし雑魚は自前の原則を築き上げ、ガードしている間はいかなる攻撃も完全に防げるべきだと考える。雑魚はガードを無限のマジックシールドだと思っているのだ。何故か? 考えるだけ無駄だ。そもそもの始めから馬鹿馬鹿しい概念なのだ。

いわゆる雑魚が、対戦相手を5回続けて投げる光景にはまずお目にかかれない。何故だろうか? それが勝利の確率を高める戦略上の最適手だったとしても? ここで最初の衝突に出会う。雑魚は自分の作り上げた心理的規則の範囲内で「勝つ為に戦う」のだ。これらの規則は信じ難いほど恣意的である。もし相手が遠くから飛び道具を浴びせ続け、距離を保って近づかせなかったら? せこい。立て続けに投げを浴びせたら? それもせこい。これは先ほどの例である。あるいは50秒ほど何もせずにひたすらガードしていたら? せこい。最終的に勝ちをもたらす行動はどれもこれも「せこい」と言われる候補である。ストリートファイターは単なる一例に過ぎず、どの競技ゲームでも同じ事が言える。

同じ行動を繰り返し繰り返し繰り返し浴びせる戦術というのは雑魚からの抗議を呼び起こす。そしてそれこそ話の核心である。雑魚はどうしてこんなに見え透いた戦術を打ち破れないのか? その行動への対抗手段を知らないほど下手なのか? あるいはその行動が何らかの理由によりほとんど対抗不可能なのか? もしそうなら、あえてそれを使わない方がよほど馬鹿らしいのではないか? 「勝つ為に戦う」とは勝率を高める行動なら何でもするという事だ。これに気付くのが最強への道の第一歩である。「勝つ為に戦う」ではその様に定義している。ゲームは「正々堂々」とか「せこい」といった規則に一切関知しない。ゲームにあるのは勝ちと負けだけだ。

雑魚は往々にして、全てを犠牲にして勝ちを求めるスタイルは「退屈」だとか「面白くない」とわめく。雑魚が何を目標にしているのかは知らないが、少なくとも本気で勝つ事を目標にしていないのは明らかだ。こちらは違う。勝つという目標は善であり正義であり真実である。誰にもそれを否定させてはいけない。否定する者は力でねじ伏せよ。つまり対戦して勝つのだ。

2つの組を想定しよう。良いプレイヤーの組と雑魚の組である。雑魚は「楽しみ」の為に遊び、ゲームの深淵を探求しようとはしない。最も効果的な戦術を見つけてそれを無慈悲に振るうという事をしない。良いプレイヤーはそれをする。良いプレイヤーは信じ難いほど強力な戦術やパターンを見つける。そして攻略を進めるに連れ、それへの対抗手段を見つけねばならなくなる。最初は対抗不可能に見えた戦術も、往々にしていつかは対抗手段が発明される。無論それを見つけるのは非常に難しい。対抗手段を知っていれば相手はその戦術を使えなくなるが、今度は対抗手段への対抗手段を使える様になる。そして対抗手段を使うのを躊躇うと、相手は再び最初の強力な戦術を通さんとして来る。この考え方については後に詳述しよう。

良いプレイヤーはどんどん上達する。彼らは「せこい」技を見つけて濫用した。そしてせこい技を止める術を知った。そして止める術を止めてせこい技を通す術を知った。そして競技ゲームにおいては非常に一般的なのだが、後から多くの戦術が発見される事で最初のせこい技がフェアに見えて来る。格闘ゲームではしばしば1人のキャラクターが非常に強い戦術を持っている。不公平に見える。よろしい、そのまま持たせておくべきである。時が経つに連れ、他のキャラクターはそれより更に強く不公平な戦術を持っている事が明らかになる。プレイヤーは双方とも試合の流れを引き寄せんとする。チェスのグランドマスターが対戦相手にとって都合の悪い状況を作り出そうとするのと同じだ。

ここで雑魚組の方に戻ってみよう。彼らは先に述べた奥深さについて何も知らない。彼らの主張とは、戦略も何も無く無闇にボタンを連打する方が「楽しい」というものだ。表面的にはこの主張は正しい様に思える。彼らの試合は「激しく、動きがある」からだ。上級者の試合はもっと抑制され洗練されている。だがよくよく吟味すれば、上級者は雑魚には想像もつかないレベルにおいて莫大な「楽しさ」を見出している事が分かる。暴れ回って曲芸をでっち上げる楽しみなど、相手の心理を読み切って全ての行動に対処する楽しみには及びもつかない。

この2つの組が出会ったら何が起きるだろうか? 上級者が雑魚を徹底的に打ちのめす。雑魚が見た事も無い様な、あるいは本気で対抗を迫られた事の無い様な戦術を次々に繰り出す。これは即ち、雑魚は上級者と同じゲームで遊んでいなかったという事である。上級者は本物のゲームを遊んでいた。雑魚は自前の不文律に従ってハウスルールで遊んでいた。

雑魚にはまだ縋る先がある。「実力」について繰り返し語り、自分がどれほど実力を有していて、他のプレイヤー(自分が負けた相手を含む)がそうでないかを論ずる。混乱のもとは何が「実力」かという点である。ストリートファイターの場合、雑魚は往々にしてコンボを実力の指標にする。コンボとは最初の攻撃が当たれば残りもガードできない一連の攻撃である。コンボは極めて精密で難しい。また雑魚によれば単発の必殺技もまた「実力」を要する。ストリートファイターの「昇龍拳」はスティックを前、下、斜め下に動かしてパンチボタンを押すと出る。この操作はコンマ数秒の内に完了しなくてはならない。ある程度誤差も許されるとは言え、かなり正確な入力が必要だ。雑魚に聞けば昇龍拳を出せるのは「実力」だと言うだろう。

(訳注:この本が書かれたのは2006年。ストリートファイターIIは必殺技入力の誤差があまり許されずかなり難しかった。ストリートファイターIVでは簡単になっている)

プレイ自体は上手い雑魚と対戦した事がある。つまりゲームのルールはよく知っており、キャラクター対策もできていて、殆どの局面では正しい判断をしていた。だが心理的規則の網が彼を絡めとり、「勝つ為に戦う」事を阻んでいた。彼が次々に昇龍拳を繰り出す一方、私は「簡単な」技で彼を沈めた。彼は抗議した。「馬鹿の一つ覚えか? 投げばっかりじゃないか」私は彼にアドバイスした。「勝つ為に戦え。難しい技を出すのは目標じゃない」これは彼の雑魚人生において大きな転機だったと思う。彼は敗北から目をそらし、心理的な檻の中で暮らし続ける事もできた。しかし敗北を分析し、自分に課している規則を取払い、次のレベルへと進む事もできた筈だ。

難しい技を沢山出したプレイヤーに賞を出す様な大会には未だ参加した事が無い。また「革新的な」プレイに賞が出るのも見た事が無い(尤もチェスの大会にはしばしば技能賞があり、天才的な一手に賞を出すが)。多くの雑魚が「革新」に囚われている。彼らは言う。「あいつが使うのはみんな既にある戦術だ、大した事ないよ」あるいは「このテクニックを考えたのはXだ。Yはそれは真似しただけだ」よろしい、YはXより100倍も上手いかも知れない。それでも雑魚には知った事ではないのだ。もしYが大会で優勝し、Xは忘れられた歴史となったら彼らは何と言うか? 無論「Yには実力が無い」と言うに決まっている。

革新的な手法を生み出せばプレイヤーコミュニティでの地位は上がるだろう。しかしそれが最終目標ではない。革新は勝利への手段のひとつに過ぎない。最終目標は可能な限り上手くなる事だ。最終目標は勝つ事だ。

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(3)

これは翻訳記事です

 

最初の一歩

ゲームに勝つ事を論ずる前に、まずゲームの遊び方をきちんと心得ているか確認しよう。やるべきゲームを一本持っていて、それを遊ぶ環境があり、対戦相手がいて、基礎的なテクニックはどこで身につけられるかを知っている必要がある。

 

ゲームの選択

まずゲームを選ぼう。恐らく既に思い描いているゲームがあり、それ以外のゲームで勝とうとは考えもしないだろう。ゲームはそれぞれ異なる技巧を要する。初心者には、そしてしばしば中級者にすら、そのゲームが本当はどんな技巧を求めているのかはっきりとは分からない事がある。言うまでもなく、自分に合ったゲームで勝ちを求めるのが最善である。

私が推薦するのは全てのプレイヤーが平等な条件で開始できるゲームである。例えば格闘ゲームは異なるキャラクターでゲームを始められるが、全てのプレイヤーはどのキャラクターでも自由に選べる。M:tGはトーナメントにそれぞれ異なるデッキを持って行けるが、デッキを組む段階では皆同じカードプールにアクセスできる(トーナメント級になればそれが当然だ)。それゆえ全員がどんなデッキでも作れる。しかし「レベルアップ」を基盤にしたゲームの場合、例えばMMOなどは、「対戦」が始まる前に既に優位に立っているプレイヤーがいる。そしてそれは相手より多くの時間をゲームに費やしたというだけの理由に基づくのだ。こうした恣意的な優位性を含むゲームは避け、プレイヤースキルのみが勝敗を決するゲームを選ぶとよい。

どれもこれも選んではいけない。出会う全てのゲームで「勝つ為に戦う」事ができると信じるのは結構だが現実を見よう。選ぶゲームは1つか2つが限度だ。とてつもなく自由時間があってゲームが上手いのでない限り。例えば、FPSタイトルの1つを重点的に攻略している間に、他のFPSタイトルでも息抜きに遊んだりするだろう。ガールフレンドとたまにスクラブルで遊ぶ。友達とポーカーをする。集まりに出ればM:tGも遊ぶ。本気でそれら全てに勝とうとするとフルタイムの仕事になってしまう。スクラブルに国際大会がある事は知っているか? ポーカーにもワールドツアーがあるし、M:tGにもプロツアーがある。そしてそれぞれに世界クラスのプレイヤーがゴロゴロいる。頂点を争うのは1つのゲームですら大仕事だ。

それぞれのゲームにどれだけ生活を費やせるか認識しよう。そしてそれに満足しよう。私が本気でやっているゲームはほんのいくつかだけである。それ以外のゲームは空いた時間で気軽に楽しんでいる。例えば私はチェスの本を読み、ずいぶん前から時々指している。だが総体として私はひどいプレイヤーだ。チェスの試合中、私は(ゲームとしての範囲で)勝つ為にあらゆる事をするのだが、長期的視野に立って自分の技量を磨くという事をしない。チェスコミュニティにも入っていないし、上級者に指事もしていない。それにインターネットで大勢と対戦する事も無い。試合の最中だけ「勝つ為に戦う」のである。よって全体として、私とチェスとの関わりはたまに遊ぶ楽しみ以上のものではない。チェス界に君臨しようという真剣な努力ではないのだ。私はそれで満足している。現実問題としてそういくつもの世界に君臨などできない。

とは言え、私は他のゲームに比べれば結構な精神力をチェスに注ぎ込んで来た。以前は週に何回か”Boggle”を遊んでいたのだが、勝とうとするのはやっている最中だけで、ゲームが終わったら何も自己研鑽をしなかった。それで良いのである。同じ時間を”Boggle”の修練に費やすより、真剣に遊んでいる他のゲームに費やす方が良いからだ。

閑話休題。ゲーム選びの話に戻ろう。考えるべきもう1つの要素は、上級者が遊んでもきちんとゲームが成立するかどうかである。上達するに従ってつまらなくなるゲームは沢山ある。その一方で、上達してもあまり、あるいは全く悪化しないゲームも沢山ある。チェスの様な歴史あるゲームを選ぶのであれば上級者同士でも真剣勝負が成立していると期待できよう。しかし新しいゲームはギャンブルだ。今はこの問題は大した事が無い様に思えるかもしれないが、上達してもゲームが壊れないかどうかというのは非常に重要だ。思うに、ほとんどのゲームの真剣なプレイヤーは、ゲームが壊れていかなる戦略も必要としなくなる瞬間を経験しているのではないか。それは往々にして、対抗手段の無い強力な戦術が発見され、一切の戦略的思考が失われてしまった時である。これも私に言わせれば大抵はプレイヤーが間違っている。対抗戦術や更に優れた戦術がまだ発見されていないだけだ。ゲームにはまだ深みが残っている。しかし時には、プレイヤーが正しく本当にもう深みが残っていない事もある。そして困った事にこの二つは区別し難い。ゲームが上達に従って壊れて来た時、それでも続けて更に深みを探すか、それとももっと良いゲームに移るか。これは難しい決断だ。

今からこういう事を心配するのは行き過ぎかも知れぬ。しかし覚えておいて欲しい。歴史あるゲームを選んだのでない場合、いつかこの問題に直面する可能性がある。

 

環境

ゲームを遊ぶ為の環境作りは極めて重要だ。つわものは炎の中で築かれる。無より出ずるにあらざるなり。まずはそのゲーム自体への物理的なアクセスと、大勢の対戦相手へのアクセスが必要だ。友達が同じゲームをやっていれば、あるいはそのゲームのプレイヤーと友達になれば助けるところ大である。最強への道を本気で歩むなら、いつかはプレイヤーコミュニティに深く関わる事になるだろう。参加するのは早いほど良い。ゲームについての知識、トーナメントやイベントの情報など得る物が多い。コミュニティの中核へと入るに連れ、ゲームの秘密を知る者、そして最強のプレイヤーとの出会いが待っている。

ゲームへの物理的アクセスの重要性はいくら強調しても足りない。それがアーケードゲームであれば、家か職場か学校の近くに台が無くてはならない。この本が出版される頃には「アーケード」とは何か歴史の本で調べる様になっているかも知れないが。PCゲームであればネットに繋がったPCが必要だ。ポーカーならばそれを遊べるカードハウスが近くに必要である。もしそのゲームがインターネットで通信対戦できるなら、潜在的には非常に幅広い対戦相手がいる事になる。ちゃんと相手にしてもらえるなら、だが。直接顔を合わせて遊ぶゲームであれば、そのゲームの達人と同じ町に住んでいるのが望ましい。それが不可能な場合、そうした上級者と対戦できるプレイヤーは自分よりも有利になっている事を認識せねばならぬ。今住んでいる所に上級者がいなければ、他のゲームで勝つ事を目指した方が良いかもしれない。

ゲームに時間を注ぎ込めるライフスタイルも必要だ。ゲームを遊ぶ為の経済力と精神力も要る。そしてそれらは莫大だ。ゆえに「楽しい」と感じるゲーム、あるいは少なくとも対戦や練習が楽しいと思えるゲームを選ぼう。「苦行」の様に感じられるゲームを中心に生活を組み立てるのは間違っている。ゲームを中心に生活を組み立てる事自体が間違っているという意見もあろうが、とりあえず聞かないふりをしておく。その方が勝つ事に集中できる。

 

基礎テクニック

最初の目標はゲームのルールを覚え、基本動作の出し方を学び、どういう行動が合法で、どうしたら勝ちでどうしたら負けか知る事だ。またこの段階で他のプレイヤーが使っている用語を覚え、動かし方に慣れておかねばならない。ゲームによっては初心者が慣れるまでに結構な時間を要するものもある。

これらの課題は上級者に教わらなくても自分でできる。ルールブックやFAQを読み、とにかくプレイしてみればよい。もちろん上級者に師事すれば(この段階では対戦相手にはなれないが)助けるところ大であろう。ゲーム用語や基礎を教わったり、あるいはそれをもう知っていれば、ゲームが「実際に」どうプレイされているかを聞ける。この段階では上級者同士の対戦を見るのも有益だ。直接の観戦でも録画でもよい。しかし自分で上級者と戦っても圧倒されて終わりである。何が役に立つかは成長の度合いによって変わる。上級者や中級者の対戦には普通に出て来る「基本戦術」もこれから学ぶべき課題かも知れない。それ以外にも色々、現状では分からない要素が沢山あるだろう。

これらの課題をこなして基本を学んだら、次は自分なりの基本戦術を身につける。効果的で、簡単に使える動きを覚えて当座の勝ちに繋げよう。今までに無い戦術を編み出すのが目標ではない。効果的であればよいのだ。少なくとも相手が非常に下手だった場合に、どうやってその試合を取れば良いかは分かるようにしておく。ゲームによって基本戦術の内実は異なる。またゲームによっては、実戦の混沌を離れた所で入力の練習をする必要がある。最も基本的な戦術ですら膨大な練習が必要であれば、制御された環境の中でできるだけ早くそれを身につけよう。ただしあまりに長くラボの中に籠っていてはいけない。いつかは実戦へと身を投ずる必要がある。

プレイヤーの中には、この段階ですら上級者としか戦いたがらない者もいる。私自身はどちらかと言えば平均や下位のプレイヤーを相手に攻撃の練習をする方が好きである。だが最も重要なのはとにかく数をこなす事だ。相手の技量に関係なく、とにかく試合をしてゲームに慣れるべし。

上級者と対戦したら、おそらくボロボロに負けてしまうだろう。上級者は「何をしてはいけないか」を教えてくれる。これをやる。凄まじい反撃を喰らう。あれをやる。負ける。上級者との対戦はどの行動が「危険」で「悪手」であるか教えてくれる。そしてそういった「負ける行動」はできるだけ減らさねばならない。勿論、負ける行動をレパートリーから削って行けば試合運びはより安全になるだろうが、それだけではなく勝つ為の行動もしなくてはならない! 上級者との戦いでは早々に負けない為の技術を身につけるだろうが、勝つ事はいかにして学ぶか? 上級者がやって来る事を見よう。それらは恐らく非常に効果的な勝ち手段なのだ。悪手を打ったら、どんな反撃が来るかしっかり見ておこう。上級者がどうやってゲームを終わらせるか見ておこう。

私の友達の中には上級者としか戦わないと誓っている者もいる。それで学ぶ物も確かにある。しかしひとたび上級者のやり口を覚えたら、今度はそれを上級者自身を相手に練習するというのは非常に難しい。勝つ為の筋肉を鍛える機会は滅多に現れない。この段階になったらもう少し対戦相手のレベルを落とそう。弱い相手ならばゲームを終わらせる戦術を試す機会は沢山ある。攻撃パターンを一から十まで全部試せる。試合の畳み方を練習できる。往々にして、攻撃パターンの後は自分が無防備になるが、この隙を晒さなくなるまで練習しよう。そして本当に隙を無くせたかどうか、上級者を相手に試してみよう。

基本的な考え方は、それほど強くない練習相手を利用して「勝つ為の戦術」を集中的に実践するという事だ。上級者は滅多に勝つ機会を与えてくれない。しかしひとたび隙が生まれたら、そこにつけ込んで勝利を物にせねばならない。相手が致命的なミスを見せたら、冷静に試合の支配権を奪い勝利を導かねばならない。この動作は自然なものであって、何千回も練習した末に身に付くのである。上級者相手の実戦で勝ちのチャンスが到来した時、「理論上この試合には勝てるだろう、確か教科書にはXをやれば良いと書いてあった」などと考えている暇はない。試合の支配権を奪うのは単純に、素早く、直感的に行う必要がある。あまり強くないプレイヤーを相手に幾度と無くやって来た様に。

上級者は驕りを削いでくれる。「その動きは危険だ。そのトリックにはかからん。それではこちらの攻撃は止まらんよ」と伝えて来る。また上級者はどうやって試合に勝つかも教えてくれる。しかし試合に勝つ練習は滅多にさせてくれない。初心者はこれと逆に、それが習性になるまで勝つ練習をさせてくれる。そうしたら再び上級者との戦いに戻るべきだ。

遠からず、初心者はおろか中級者さえ用無しになる時が来る。彼らはこちらがミスをしてもどうやって反撃するかを正しく知らない。それゆえ悪手を増長させる。まがい物のトリックにも引っかかる。それは上級者に通用しない。もっと悪い事に、彼らはしばしば自爆する。初心者や中級者を相手に安全な立ち回りをずっと続けると、いつかはミスをやらかしてこちらに勝利を進呈して来る。それはつまり、引き分けを志向する保守的な引き延ばし作戦こそ勝利への道なりと教えているのだ。だが上級者を相手にした時、絶対にミスをしてくれなかったらどうする? 相手が強く、自爆を待つのでなくこちらから攻めて行かなければならないとしたらどうする? こうした理由により、ある段階になったら上級者との対戦に集中しなくてはならないのだ。

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(2)

これは翻訳記事です

 

概要

私がここにいるのは勝つ事を教えるためである。

「勝つ為に戦う」はあらゆる競技ゲームにおいて最も重要な、そして最も誤解されている概念である。皮肉な事に、これから述べる事を既に理解している人でなければ、それを信じる事はできないだろう。実際、もし本書を過去の私に送りつけたら、その私自身これを理解しかねるに違いない。恐らくこの概念は経験を通じて習得するしか無いのだろう。それでも私は、読者のうちにこの本から学んでくれる人がいる事を望んでいる。

 

人類は他者の経験から学ぶという独自の能力を持ちながら、それを嫌がる事においても一流である。

 

—ダグラス・アダムズ「これが見納め」

 

なぜゲームに勝つべきか

ゼロサム競技ゲームの偉大さとは、成功の度合いを計る客観的な基準を提供してくれる事だ。最強を目指すならば自己研鑽の長い道のりを歩まねばならない。その途上、より多く勝つ事ができる様になれば(つまり上級者を安定して倒せる様になれば)前に進んでいる事が分かる。そうでなければ進んでいない。人生の他の側面において、例えば家庭生活とか仕事の面で、物事が前進しているかどうか計測できるだろうか? 果たして自分は成長しているのか? これに答えるには、何が「ゲーム」に含まれて何がそうでないのか正確に知っていなくてはならない。職業人としての成功に含まれる要素とは何だろうか? これは答えるのが難しい。自前で基準を拵えてそれに答えたとしても、他の人々はその基準に同意せぬかも知れない。そうした意見を無視して全て自分で基準を作ったらどうなるか? 恐らく無意識に、自分が上手くやっている(もしくはやっていない)事にするため、手前勝手に成功の基準を作り上げるに違いない。これでは単なる前向きさのテストだ。

ゲームは人生とは違う。ゲームの本質とは全てのプレイヤーに合意されたルールの集合である。ルールに同意しなければ、そのゲームを遊んでいる事にはならない。ルールは何がゲームに含まれ、何が含まれないかを定義する。ルールはどの行動が合法でどの行動が違法かを定義する。ルールはどうすれば勝ちで、どうすれば負けで、どうすれば引き分けかを定義する。ゲームの定義を書き換えて負けを勝ちと言い募るインチキは存在しない。ゲームは再定義を必要としない。負けは負けである。

勝ちを求める道程を進むうち、ただ相手を倒すだけでは駄目だと気付く筈だ。長い目で見れば、常に自分を鍛える事を目指さなくてはならない。そうでなければいつか追い越される。戦いは自分と相手の間で起きている様に見えるが、勝つ為の最上の方法は相手を倒す事ではない。勝つ技法、ゲームの技法を手にし、それを卓上に提示する事だ。これらの技法は自分自身の中で磨かれる。そして戦いを通じてのみ表せる。

 

戦ってみるまで、どんな男かは分からんさ

—「マトリックス:リローデッド」のセラフ

 

本当に勝ちたいか?

先に進む前に、そもそも自分は本当に勝とうとしているかを考えてみよう。殆どの人は勝とうとしていると答えるが、勝ちたがる事と勝つ事は別物だと分かっていない。勝つ為には犠牲を要する。長期にわたる努力を要する。鍛錬と、時間を要する。誰もが最強になれるわけではないし、そうなるべきでもない。競技ゲームで優勝するだけが人生ではない。人生における関心が他にあるなら、この本を読み続けても不安になるだけだろう。ここで閉じてしまった方が良い。「勝ちたいな」という程度なのか、勝つ事を心から求め相応の犠牲を払う用意があるのか、よく考えよう。一流の料理人になる。良い母親になる。医者に、政治家に、音楽家になる。これらは皆崇高な目標だ。時間も努力も有限であり、それらを求めるならゲームに勝つといったつまらない問題に関わっている事はできないだろう。私は勝つ為に戦う事を勧めているのではない。そうしたい人にやり方を教えるだけだ。

ゲームを「楽しむため」に遊ぶという人もいる。この問題は本書では扱わない。私は勝つ為に戦う道のりの先にはカジュアルな「楽しみ」以上の物があると信じているが、そこを議論しても始まらない。「楽しみ」は主観的な問題だ。定義はできぬ。しかし「勝ち」は定義できる。これが我々の強みである。勝ちは明確で絶対なのだ。勝つ為に戦っている限り、完全に明瞭な目標と、客観的な成長の指標が得られる。料理の達人がいたとして、その分野で世界一だとどうしたら分かるだろうか? それを偏見無しに言える者がいるだろうか? 競技ゲームでは事情が違う。全ての対戦相手を安定して倒せるかどうか、それだけだ。

勝ちの原則は全てのゼロサム競技ゲームに適用される。どんなゲームであろうと、成長できる環境を作らねばならない。多くの対戦相手と戦って練習すべし。自らを縛り勝利を阻む自前のルールを取り払うべし。精神面を鍛え、相手の行動を読むべし。コミュニティに入って他のプレイヤーと交流すべし。チェスだろうと、テニスだろうと、Quakeだろうと、マリオカートだろうとストリートファイターだろうとポーカーだろうと、やる事は全て同じだ。

 

対話としてのゲーム

競技としてゲームを遊ぶのはどういう事だろうか。私にとっては討論の様なものだ。私は私の論点を押し、相手は別の論点を押す。「この一連の動きこそ最適手だ」と言うと、相手が反駁する。「これを計算に入れたら違うだろう?」現実の討論は非常に主観的なものだが、ゲームにおいては誰が勝者か完全に明らかだ。

本当の戦いはプレイヤーとプレイヤーの間で起きる。ゲームはその媒体、討論における言語である。ゲームに十分な深みがあれば複雑な思考を論ずる事もできる。熟練した論者は言葉のニュアンスやトリックを駆使して相手を罠にかけるが、言葉はあくまで彼の道具である。ひとたび討論のいろはを学べば他の言語にもそれを応用できる。討論の本質を学ばずに、言葉のニュアンスにばかりかまけてしまう事もあり得よう。熟練者同士の討論は相手を理解し、何を言わんとするか予測し、素早く反論を加える技を含んでいる。欺瞞や図々しさ、リスクを取ったり保守に回ったりするのもゲームのうちだ。討論のやり方(勝つ為の戦い方)を覚えれば、その後で種々な言語(ゲーム)を学ぶのは割合簡単である。

数節前にゲームの「楽しみ」については扱わないと宣言したが、ここで変化球にも慣れておいて貰いたい。優れた討論の「楽しみ」とは、少なくとも私にとっては、何らかの論点で相手を攻撃し、相手がそれに強烈な反撃を加え、そしてそれに耐え切った時である。もし相手を何十もの手段で自由に攻撃できるとしたら討論とは言えない。逆に開始早々相手に押し切られてしまったら、相手の技量を感じる事はできるだろうがこれまた討論とは言えない。双方が相手の論点に反駁し、意味のある討論を展開する事でのみ、本当に面白い勝負ができる。私はこれを「楽しみ」と呼ぶ。

原文:http://www.sirlin.net/ptw