翻訳記事:勝つ為に戦う(2)

これは翻訳記事です

 

概要

私がここにいるのは勝つ事を教えるためである。

「勝つ為に戦う」はあらゆる競技ゲームにおいて最も重要な、そして最も誤解されている概念である。皮肉な事に、これから述べる事を既に理解している人でなければ、それを信じる事はできないだろう。実際、もし本書を過去の私に送りつけたら、その私自身これを理解しかねるに違いない。恐らくこの概念は経験を通じて習得するしか無いのだろう。それでも私は、読者のうちにこの本から学んでくれる人がいる事を望んでいる。

 

人類は他者の経験から学ぶという独自の能力を持ちながら、それを嫌がる事においても一流である。

 

—ダグラス・アダムズ「これが見納め」

 

なぜゲームに勝つべきか

ゼロサム競技ゲームの偉大さとは、成功の度合いを計る客観的な基準を提供してくれる事だ。最強を目指すならば自己研鑽の長い道のりを歩まねばならない。その途上、より多く勝つ事ができる様になれば(つまり上級者を安定して倒せる様になれば)前に進んでいる事が分かる。そうでなければ進んでいない。人生の他の側面において、例えば家庭生活とか仕事の面で、物事が前進しているかどうか計測できるだろうか? 果たして自分は成長しているのか? これに答えるには、何が「ゲーム」に含まれて何がそうでないのか正確に知っていなくてはならない。職業人としての成功に含まれる要素とは何だろうか? これは答えるのが難しい。自前で基準を拵えてそれに答えたとしても、他の人々はその基準に同意せぬかも知れない。そうした意見を無視して全て自分で基準を作ったらどうなるか? 恐らく無意識に、自分が上手くやっている(もしくはやっていない)事にするため、手前勝手に成功の基準を作り上げるに違いない。これでは単なる前向きさのテストだ。

ゲームは人生とは違う。ゲームの本質とは全てのプレイヤーに合意されたルールの集合である。ルールに同意しなければ、そのゲームを遊んでいる事にはならない。ルールは何がゲームに含まれ、何が含まれないかを定義する。ルールはどの行動が合法でどの行動が違法かを定義する。ルールはどうすれば勝ちで、どうすれば負けで、どうすれば引き分けかを定義する。ゲームの定義を書き換えて負けを勝ちと言い募るインチキは存在しない。ゲームは再定義を必要としない。負けは負けである。

勝ちを求める道程を進むうち、ただ相手を倒すだけでは駄目だと気付く筈だ。長い目で見れば、常に自分を鍛える事を目指さなくてはならない。そうでなければいつか追い越される。戦いは自分と相手の間で起きている様に見えるが、勝つ為の最上の方法は相手を倒す事ではない。勝つ技法、ゲームの技法を手にし、それを卓上に提示する事だ。これらの技法は自分自身の中で磨かれる。そして戦いを通じてのみ表せる。

 

戦ってみるまで、どんな男かは分からんさ

—「マトリックス:リローデッド」のセラフ

 

本当に勝ちたいか?

先に進む前に、そもそも自分は本当に勝とうとしているかを考えてみよう。殆どの人は勝とうとしていると答えるが、勝ちたがる事と勝つ事は別物だと分かっていない。勝つ為には犠牲を要する。長期にわたる努力を要する。鍛錬と、時間を要する。誰もが最強になれるわけではないし、そうなるべきでもない。競技ゲームで優勝するだけが人生ではない。人生における関心が他にあるなら、この本を読み続けても不安になるだけだろう。ここで閉じてしまった方が良い。「勝ちたいな」という程度なのか、勝つ事を心から求め相応の犠牲を払う用意があるのか、よく考えよう。一流の料理人になる。良い母親になる。医者に、政治家に、音楽家になる。これらは皆崇高な目標だ。時間も努力も有限であり、それらを求めるならゲームに勝つといったつまらない問題に関わっている事はできないだろう。私は勝つ為に戦う事を勧めているのではない。そうしたい人にやり方を教えるだけだ。

ゲームを「楽しむため」に遊ぶという人もいる。この問題は本書では扱わない。私は勝つ為に戦う道のりの先にはカジュアルな「楽しみ」以上の物があると信じているが、そこを議論しても始まらない。「楽しみ」は主観的な問題だ。定義はできぬ。しかし「勝ち」は定義できる。これが我々の強みである。勝ちは明確で絶対なのだ。勝つ為に戦っている限り、完全に明瞭な目標と、客観的な成長の指標が得られる。料理の達人がいたとして、その分野で世界一だとどうしたら分かるだろうか? それを偏見無しに言える者がいるだろうか? 競技ゲームでは事情が違う。全ての対戦相手を安定して倒せるかどうか、それだけだ。

勝ちの原則は全てのゼロサム競技ゲームに適用される。どんなゲームであろうと、成長できる環境を作らねばならない。多くの対戦相手と戦って練習すべし。自らを縛り勝利を阻む自前のルールを取り払うべし。精神面を鍛え、相手の行動を読むべし。コミュニティに入って他のプレイヤーと交流すべし。チェスだろうと、テニスだろうと、Quakeだろうと、マリオカートだろうとストリートファイターだろうとポーカーだろうと、やる事は全て同じだ。

 

対話としてのゲーム

競技としてゲームを遊ぶのはどういう事だろうか。私にとっては討論の様なものだ。私は私の論点を押し、相手は別の論点を押す。「この一連の動きこそ最適手だ」と言うと、相手が反駁する。「これを計算に入れたら違うだろう?」現実の討論は非常に主観的なものだが、ゲームにおいては誰が勝者か完全に明らかだ。

本当の戦いはプレイヤーとプレイヤーの間で起きる。ゲームはその媒体、討論における言語である。ゲームに十分な深みがあれば複雑な思考を論ずる事もできる。熟練した論者は言葉のニュアンスやトリックを駆使して相手を罠にかけるが、言葉はあくまで彼の道具である。ひとたび討論のいろはを学べば他の言語にもそれを応用できる。討論の本質を学ばずに、言葉のニュアンスにばかりかまけてしまう事もあり得よう。熟練者同士の討論は相手を理解し、何を言わんとするか予測し、素早く反論を加える技を含んでいる。欺瞞や図々しさ、リスクを取ったり保守に回ったりするのもゲームのうちだ。討論のやり方(勝つ為の戦い方)を覚えれば、その後で種々な言語(ゲーム)を学ぶのは割合簡単である。

数節前にゲームの「楽しみ」については扱わないと宣言したが、ここで変化球にも慣れておいて貰いたい。優れた討論の「楽しみ」とは、少なくとも私にとっては、何らかの論点で相手を攻撃し、相手がそれに強烈な反撃を加え、そしてそれに耐え切った時である。もし相手を何十もの手段で自由に攻撃できるとしたら討論とは言えない。逆に開始早々相手に押し切られてしまったら、相手の技量を感じる事はできるだろうがこれまた討論とは言えない。双方が相手の論点に反駁し、意味のある討論を展開する事でのみ、本当に面白い勝負ができる。私はこれを「楽しみ」と呼ぶ。

原文:http://www.sirlin.net/ptw