観て楽しいゲーム

格闘ゲームの興隆は試合を観て楽しむギャラリーに支えられている。多くの人が感嘆する事によって妙技は妙技としての価値を持つ。そして達人はただゲームが上手い人ではなく、何らかの実体的価値を持った存在となる。

観て楽しい事は重要だ。ゲームは遊んで楽しいだけでなく、楽しそうに見えなくてはならない。それでこそ技量を磨く気も起きようというものだ。以下に観て楽しいゲームの条件を挙げてみよう。

 

・誰が勝っているか分かりやすい

政治でも経済でも軍事でも芸能でも、人々の関心は結局一つの所に集約される。「誰が勝ったの?」だ。ゲーム全体において誰が勝ったかを示すのは当然として、途中の小競り合いで誰が勝ったか、誰が勝利を収めつつあるかを明白にしておくのも重要だ。この点、格闘ゲームの体力バーは優れたギミックである。誰がどれだけ勝利に近く、そのまま時間が経過したら誰が勝つのかを明示している。

 

・個別の事象がプレイヤーにとって喜ばしいかが示される

軍隊を指揮するゲームで自分の兵が倒れるのは良くない。相手の兵が倒れるのは良い。これは分かりやすい。そのプレイヤーが成功しているのか失敗しているのかが素人目にもよく分かる。自分の兵をわざと倒させて士気を高め反攻に移る、といったギミックを組み込んでしまうとこうした明瞭さが失われる。後ろから覗き込んでいる人間が発する質問はいつも同じだ。「上手く行ってる?」

 

・目標が明確

勝つ為には敵の基地を破壊せねばならない。その近くに砲兵陣地を築くため、まず丘を確保する。こういった形で最終勝利条件や目の前の課題が示されているべきである。覗き込んでいる人間が「何してんの?」と聞いたら、それは「どうやったら勝ちになるの?」という意味である。

 

・課題が難しそうに見える

十倍の兵力を持つ強国と戦う。数ドットの隙間しか無い弾幕をすり抜ける。0.2秒で複雑なコマンドを入力する。プレイヤーに与えられる課題は一見して難しそうであるべきだ。そういう無茶な課題をさも簡単そうにこなすから面白いのである。

 

・因果関係が明示される

兵を山上に配置したから負けたとか、迂闊にジャンプしたから蹴られたとか、隠れて背後を取ったから勝ったとか、失敗にも成功にも理由が明示されるべきである。人は「誰が勝ったの?」の次には「なんで勝ったの?」と聞くものだ。何か一つ理由を挙げてストーリーが作れる様になっている事が望ましい。

 

スパ帝国のゲームは観て楽しい事も目指している。ゲームプレイは一つの叙事詩であるべきだ。

メカニクスの語る哲学

Civilization 4のプレイヤーは、慣れて来るとある程度の常備軍を持つ事を覚える。「軍事力が足りないと隣国が攻めて来る」からだ。実際には十分な技量があれば外交努力のみで非武装のまま進める事も可能なのだが、その域まで到達している人はそう多くない。

また彼らは遠方の国よりも近隣の国を警戒する事、信仰を同じくする者を仲間と見なす事、大国を恐れ小国を侮る事を覚える。ゲームのどこかにそうしろと書いてあるわけではない。そうした行動は全てゲームメカニクスによって報奨される。プレイヤー自身がその様に振る舞う事を「発見」し、「上達」する事でそれらの考えを自家薬籠中の物にしていく。

ゲームメカニクスは報奨と懲罰を含む一連のシステムだ。報奨は命令よりも遥かに強力な命令である。ストーリーが正義のヒーローとして振る舞う事を求めていても、メカニクスが遭遇した生物を惨殺して所持品を奪う事を報奨していればプレイヤーはそれに従う。

世界をどう解釈し、どう考え、どう振る舞うべきか。どうすれば最も報われるのか。そうした世界観をゲームメカニクスは強烈に伝える。しかもプレイヤー自身の体験としてだ。これほど雄弁に哲学を語るメディアは他に存在しない。ゲーム作家は哲学者たりうる。

そしてスパ帝国にも背骨となる哲学がある。「考えれば良い結果が出る」というのがそれだ。

ギミック倉庫

種の段階に留まっているゲームギミックの案。

 

・狭まる戦場

へびすごろくで用いたギミック。最初は40マスあった盤面が毎ターン1つマスずつ減少し、最後にはかならず一方がもう一方に追いついて決着するという仕組み。ゲーム時間の上限を定めると同時に程よい緊張感をもたらす。他のゲームにも応用できそうである。例えば気候変動によって地球の生存圏が徐々に減って行く中で最終戦争を繰り広げ、最後まで生きていたプレイヤーが勝利とか。

 

・トークンを場から場へ移動

リソース管理ゲームは本質的にリソース移動ゲームである。「木材を消費する」という行為は「木材トークンを手元から廃材置き場に移す」という事である。「要塞を建設する」は「要塞トークンを共有プールから盤上に移動させる」のと同じである。となれば、場から場へトークンが渡り歩く仕組みをゲームにできるはずだ。例えば原材料トークンを工場の最初の工程に置き、作業が成功するごとに次の工程へ移し、最終的に出荷の場に置く。

 

・トークンの場そのものが移動

上のギミックを更に発展させてみよう。茶碗の中にコインが入っている。茶碗を移動させる。隣り合う茶碗から茶碗へコインを移す。つまりトークンの入れ物自体があちこちへ動き回るのである。

 

・板を積み重ねる

まず板を置く。板には3〜4ヶ所丸印がしてあり、そこに円柱を置く。そしてそれらの円柱を支えにしてその上にまた板を置く。その上にも円柱。その上にも板。こうして積み重ねて行って崩したら負け。物理的な遊びである。

 

・5面ダイス

鉛筆を転がす要領で五角柱のダイスを振る。7面、9面、11面、13面なども作れるだろう。底面を半球状にしておけば直立の心配も無い。

 

・劇団バトル座

迷宮に入りモンスターを惨殺する映像を撮影して売る冒険者集団のゲーム。派手な鎧は先行投資。わざとピンチになれば迫力の映像が撮れるぞ。

 

・憲法縛り

プレイヤーはそれぞれ君主になり、「令状無しで自由民を逮捕しない」とか「議会の承認無しに課税しない」とか「他国に先制攻撃を加えない」といった憲法で自らを縛る。規定ターンが経過した時、生存者の中で最も重い縛りを背負っていた君主が優勝。

汚い大人の遊び

“Gift”の底本はマルセル・モースの「贈与論」である。贈与は交換の遥か以前から存在し、人類の文化に深く根付いている。何かを贈ったり贈られたりする事は霊的な行為であり、「贈与の霊」がそれに伴って動いて行くのだ。

市場経済は対等な取引主体同士の「交換」を前提とするが、それは人類の性質のほんの一部に過ぎない。贈与はもっと偉大なのだ。親から子へ、師から生徒へ、前の世代から後の世代へ。上流から受け取り下流に渡す。それが人の営みである。

子供達にその事を伝えたい。この世に取引主体としてでなく、まず贈与主体として入って来て欲しい。学習は苦痛と知識の交換ではなく、前の世代からの贈り物だ。労働は時間と金の交換ではなく、君の能力を必要とする人への贈与だ。贈られる事と贈る事を通じてのみ人は命を繋いで行ける。今ある体は誰から貰った物か。

この様な思想に基づいて作られたのが”Gift”である。自分の持ち物を必要とする人に贈る事で得点を稼ぐ。この得点コインは精神的豊かさを表している。何かを贈る事で人は豊かになれるのだ。その事を伝える「贈り物」としてこのゲームを作った。

 

 

 

 

・・・が。汚いコアゲーマーどもは案の定他人の足を引っ張る事に熱中した。「いかに贈与するか」でなく「いかに贈与させないか」のゲームとして遊び始めたのである。他のプレイヤーが2枚持っている札を贈与すると、相手はそれを副露しなくてはならない。副露した札は贈与の材料としては使えない。このため2枚ある所への贈与は「刺す」「潰す」といった動詞が用いられ、贈与の集中砲火を受けたプレイヤーは悲鳴を上げる。世はまさに世紀末であった。

あともう1ゲームだけ…

ゲーム開発は円環のプロセスである。まず設計があり、次にプロトタイプを作り、そしてテスト。得られた結果をもとに設計を修正し、実装し、再びテスト。この繰り返しだ。

テストは開発の肝である。そのゲームを何回テストプレイしたかがバランスとリプレイ性に直結する。ブラウザ戦略ゲーム「すとすて」は3万回のテストプレイの末に完璧なバランスを獲得し、優れた知性が存分に暴れる事の出来る広大な演舞場となった。

テストの回数は可能な限り増やさねばならない。繰り返し繰り返し、様々な人に遊んでもらう。そこから得たフィードバックによって仕様を改善し続ける。コンセプトが凡庸なゲームも十分な回数のテストを経れば良作となる。

そこで問題になるのがテストにかかる時間だ。6時間かかるゲームをテストするには午後いっぱいを空けておかなくてはならない。10分で終わるゲームならその間に36回テストできる。短いゲームは現実的な時間の内に完璧に仕上げる事ができるが、長いゲームを完璧に仕上げるには雨だれが石を穿つ程の時間が必要だ。

良いゲーム、バランスの取れたリプレイ性の高いゲームを仕上げようと思ったら、1ゲームにかかる時間は極力短くせねばならない。長くても30分程度だ。とりわけ無用な時間食いは徹底的に排除しよう。山札のリシャッフルは他のギミックで代用できないか?裏返しのカードをめくって確認する手間は省けないか?必要以上に複雑な計算や手順をユーザーに押し付けていないか?

名作”Civilization”はその中毒性ゆえに「あともう1ターンだけ」という名言を生み出した。それと同等の魅力を持ち、かつ1プレイの短いゲームがあったとしたらどうだろうか?プレイヤーは一体何と呟くのだろうか?答えは同様のコンセプトを持つ戦略ゲーム「すとすて」にある。あるすとすてプレイヤーはこう呟いた。

「あともう1ゲームだけ」

自然は単純を好む。人は?

辞書は版を重ねるごとに厚くなる。ガジェットは新しくなるほど機能が増える。法律の条文は年々増える。ゲームは拡張版が出る度に複雑になる。

人工物には複雑化する性向が組み込まれているのだろうか?人間は身の回りの物全てを理解不能になるまで複雑化する生物なのか?

なぜ物事は複雑化するのか。この問いへの答えを一つ挙げてみよう。人工物にはデザインの選択肢がある。例えばカードゲームは手札を無くせば勝ちにもできるし、手札の柄を揃えれば勝ちにもできる。山から引くゲームにもできるし、最初に全て配ってしまうゲームにもできる。こうした選択肢の組み合わせパターンが無数にあり、実際に存在するのは無限に広がるデザイン空間の中の1つの点である。

1行しかルールが無いカードゲームの取りうる形は非常に限られている。カードをめくるとか、投げるとか、積むとか。その選択肢はせいぜい数百であろう。

これが2行になると格段に選択肢が増える。1行目に「カードを投げる」と書いてあったとしたら、2行目には「遠くまで飛ばせば勝ち」とか「的に当てれば勝ち」とか「長く空中にあれば勝ち」とか書く事ができる。そしてそれぞれが違った遊びである。要素数が増えれば組み合わせの数も増える。つまり

構成物は複雑さが増すほど取りうる形態のパターンが増える

という事である。nの複雑さを持つ構成物のデザイン選択肢は、n-1の複雑さを持つそれよりも常に多い。

次に、我々が構成物に変化を加える時の方法を考えてみよう。携帯電話を改造して乾燥機にする事は非常に難しい。変更を加えた後の物は、加える前の物に似ていなくてはならない。携帯電話を改良したら少し機能の増減した携帯電話になるのである。

改造とはあるデザイン選択肢から隣接する選択肢への移動である。ゆえに改造後の複雑さは改造前と同じか、少し減っているか、少し増えているかである。さてここで先の法則を参照しよう。複雑な構成物ほどデザイン選択肢は多い。という事は、複雑さを減らす改造案は少なく、それを増やす改造案は多いはずである。

ゲーム開発会議ではメンバーから次々にアイディアが飛び出す。そしてその大部分はルールを付け加えるものである。既存のルールを変更するアイディアはやや少なく、ルールを取り去るアイディアは非常に少ない。

任意のデザインに関して、その隣接するデザインを無作為に1つ選んだとすると、それは複雑さが増加している確率が高い。改造によって複雑さが増加する確率は減少する確率を常に上回る。平たく言うと、

弄れば弄るほど複雑になる

という事だ。そういう訳でスパ帝国はシンプルさを好んでいる。後からルールを拡張して複雑にするのは簡単だが、単純化するのは非常に骨が折れる。

ゲームは芸術か

否。ゲームプレイこそ芸術だ。

芸術は人間の技量と情熱の発露である。そこに込められた人間力と同じだけの重さを持つ。山の風景をスナップ写真に収めても芸術ではないが、それと全く同じ画像をドット打ちで作れば芸術である。

本気で修練すればゲームプレイは芸術となりうる。投ぜられた才能と努力の重さが見る人を震撼させるのである。ゲームそれ自体は芸術を描く為のカンヴァスである。以下に優れたカンヴァスの条件を挙げてみよう。

・良い技量に良い結果。勝敗やスコアなど結果の良し悪しは技量と連動しなくてはならず、技量以外の要素によって動いてはならない。偶然の要素は入っていても構わないが、「技量が高ければ良い結果を出す確率が高い」という形で相関しているべし。

・勝利は盗めず買えもしない。さもしいトリックによって簡単に優位になれたり、金をつぎ込めば強くなれるゲームは芸術のカンヴァスたり得ない。我々は精巧な銅像には感動するが金塊には感動しない。

・凄い技はそう見える。優れた采配なり絶妙の足払いなりは、素人目にも妙技として映らねばならない。

・自分にもできると思わせる。本当の妙技は「凄そうに見える」と同時に「さも簡単そうにやっている」。それを見た人が自分でもやってみようと思う。そしてその難しさ、妙技を会得するまでの道程の長さに震撼する。

 

ゲーマーは新しい芸術家になる。そのカンヴァスを提供するのがスパ帝国の目標である。

ぷにぅめくりは何をめくっているのか

*追記:ぷにぅめくりは狐めくりに改称しました

先の記事で述べた様に、ここで作っている物は世界観が貧弱だ。Q.E.D.の様なアブストラクトゲームはともかく、他はきちんとテーマを設定していこう。

ぷにぅめくりは外れ札を押し付け合うゲームである。外れである事を見破れば勝ち、間違って当たり札を拒絶してしまうと負け。2種類しか札の無いシンプルなゲームである。さて当たりと外れはそれぞれ何なのか。

案1:花束と爆弾

札は小包を表す。相手にそれを宅配便で送る。爆弾だと見破られて通報されれば逮捕。誤通報なら相手が土下座。

 

案2:人間と人狼

プレイヤーはそれぞれ村を運営する。厄介者の人狼を押し付け合う。人か狼か判明しないまま吊るすかどうかを判断する。狼を殺せば勝ち。無辜の人を殺すと負け。

 

案3:アイスティーと睡眠薬入りアイスティー

札は飲み物を表す。お待たせ!と言って相手にそれを勧める。見破られるとグラスをすり替えられて一転攻勢。

 

追記

案4:真物と贋作の掛け軸

二人の自称目利きが審美眼を競う。二人とも物の真贋など本当は全く分からない。骨董品屋から適当に1枚買い、後でこっそり鑑定士の所に持って行く。その後自分の物にするか相手に譲るかを決める。受け取ったらこっそり鑑定士の所に持って行く。偽物を掴まされたと分かっても後から文句を言う事はできない。最初に分からなかったのがバレてしまうからだ。その場で偽物だと宣言すれば、鑑定士を呼んで白黒を付けて貰う事になる。最後までめくり切った場合も鑑定士を呼んで勝敗判定。

「素人目には判別の難しい極めて精巧な贋作」という設定だが「偽物」と大書きしてあるというカードデザイン。

 

さらに追記

案5:狐の嫁入り

二人の大名が交互に女を見つけて自分の側室に加えるか相手に譲るかを選ぶ。人に化けた狐が3枚入っている。よくよく検分するか殺してみなければ正体は分からない。譲られた方は貰い受けるかその場で斬り殺すかを選ぶ。貰い受けた後で狐と分かっても抗弁はできない。その場で殺した場合、人であれば負け、狐であれば勝ち。

 

良い案があれば是非コメントで。

メカニクス?任せろ!世界観?えーと…

スパ帝国はこれまで13個のゲームを作った。2つはボツになったが、他は全て面白い。正確に言うと、メカニクスは面白い。バランスが取れていて、運と技量が程よく混ざり、意思決定が楽しい。ゲームが「どう動くか」は及第である。

問題は世界観だ。テーマ、つまりゲームが「どう見えるか」。この部分が極めて貧弱である。例えばぷにぅめくり。( ・3・)ぷにぅと(  ;´。 `;)ふぁぼはそれぞれ当たり札と外れ札を表すプレイスホルダーに過ぎず、広い訴求力を持つゲームに仕上げるなら奴隷と王なり小包と爆弾なり何らかの世界観が必要なのだ。スパ帝国はこの部分で落第である。

現在はプロトタイピングとテストプレイで面白いゲームを選抜している段階だが、将来的にはそのメカニクスが何を表すのかを描き出さなくてはならない。ダイスを2個振る攻撃はビームガンなのか炎の魔法なのか。ユーザにとって馴染み深く、かつ独特で魅力的な世界を提示しなくてはならぬ。

力を貸してくれ。