翻訳記事:デジタル・ミーツ・アナログ

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GDC#22:デジタル・ミーツ・アナログ

2012/10/22 Soren Johnson
Game Developer誌2012年8月号に掲載された物の再掲

 

ビデオゲームとボードゲームが親戚だとすると、それはまるでヨーロッパの貴族階級の様なものだ。2つのフォーマットは相互に混ざり合い、間に引いた境界線はぼやけている。今や多くのデジタルゲームがボードゲームに似せて作られている。最近のモバイルゲーム、”Cabals”や”Hero Academy”を見てみよう。これらはデジタルゲームとしてのみ存在するのだが、どちらもボードゲームの外観を備えている。ターン制プレイ、駒になるデッキのシャッフル、タイルで区切られたゲーム盤、そして隠しデータの無い透明性を持ったルール。

他にも、主流のビデオゲームがボードゲームの要素を抽出して採用しているケースもある。例えば”Rage”におけるTCGメカニクスがそうだ。開発者は、プレイヤーがビデオゲームに馴染んでいるのと同じくらい、ボードゲームにも馴染んでいると期待したわけだ。カードやダイスを入れておけば、他のビデオゲームの習慣に従うのと同じくらいプレイヤーがデザインに親しめると。

同時に、デジタルとアナログの邂逅は後者をも変えつつある。とりわけiPadはボードゲーム業界に革命をもたらした。アナログゲームのデジタル移植がようやく上手く行く様になったからだ。iPadは多くの機能を備えている。高解像度のスクリーン、タッチ式インターフェース、そして(もしかしたら一番重要な)アプリ販売の強固なインフラ。ボードゲームのデジタル化に完璧な組み合わせだ。Days of Wonderの創業者エリック・オートモンは、このデバイスへの熱情をこう語った:

「iPadの美しさとは、それが存在する事を忘れてしまえる事だ。2人のプレイヤーの間にiPadを置くと、スクリーンがあまりに良く出来ているために、その下に電子機器があるという事をほとんど忘れてしまう。iPadの前に座って”Small World”をプレイしていると、それがiPadのゲームだという事はすぐに頭から抜け落ち、ただ”Small World”そのものに思えて来る。将来、あるゲームが「ボードゲーム」なのか「iPadゲーム」なのか、あるいは未来のデバイスのゲームなのかという質問は意味が無くなるだろう」

Days of Wonderの業績はモバイルによって急加速した。「乗車券」のiPhone版を発売した所、アナログ版の売れ行きが持続的に70%向上。同時にiPad版もトップ100アプリに常駐しており、$6.99という健全な値段で売れている。(iOS用ボードゲーム市場の健全さを表しているのがこの価格帯だ。99セントのゲームが氾濫する中で、「カタン」や”Samurai”は$4.99、「カルカソンヌ」に至っては発売後2年経っても$9.99という破格の値段で売れている!) 実際リリース以来、「乗車券」のデジタル版はアナログ版の販売を3:1で上回っている。そうなると疑問が出て来る。Days of Wondersはそもそもボードゲーム会社なのか、それともビデオゲーム会社なのか?

 

透明なゲーム

こうした成功により、デジタルボードゲームはビデオゲームデザインの議論においても無視できない存在になった。しかしボードゲームがますますデジタル化する中で、それはボードゲームとしての性質を残せるのだろうか? ボードゲームとは単に物理的コンポーネントを持ったゲームの事だろうか? 先に触れた”Cabals”や”Hero Academy”はデジタル版としてのみ存在する。これらはどうか? iOSの”Assassin’s Creed Recollections”はどうだろうか? これはリアルタイム版のM:tGだが、コンピュータがリアルタイムの相互作用を処理してくれなければ存在できないゲームだ。

物理的コンポーネントが必須でないとしたら、ボードゲームをボードゲームたらしめる物とは何だろう? なぜこのカテゴリに入るゲームとそうでないゲームがあるのか? 思うに、ボードゲームを定義する物は物理的コンポーネントではなく、完全なる透明性だ。ゲームの全てのルールが見える様になっているべきという哲学である。

この気付きは重要な含意を持つ。透明性が全てのボードゲームを繋ぐ糸だとしたら、透明性こそボードゲームが楽しい理由そのものという事になる。つまり、透明性はあらゆるゲームにおいて楽しさの源泉になり得るという事だ。それが自分のゲームにどんな役割を果たすか、開発者はよく理解しなくてはならない。

例えば、”Civilization”シリーズは本質的に巨大なボードゲームであり、計算と記録にコンピュータを使わなければプレイできないというだけである。ゲームメカニクスの大部分はプレイヤーに公開されており、都市が1ターンにどれだけの食料を産出するか、次の技術を開発するのに何ターンかかるかなど全て分かる。

あまり透明でない部分のひとつが戦闘システムだ。プレイヤーにとってはブラックボックスであるため、状況によっては戦車が槍兵に負ける事を心配しなくてはならない。Civ4はこの問題の解決に向けて一歩踏み出した。戦いの前に実際の勝率を表示する様にしたのだ。Civ5は更に一歩進み、予想ダメージをグラフィカルに表示する様になった。

これらの戦闘システムは、平均的プレイヤーにとってはやはりよく分からない代物だろう(言うまでもなく、ハードコアプレイヤーはリバースエンジニアリングで計算式を突き止めた)。しかし、それでもこうした改善は、戦闘結果を明らかにする事で透明性を指向しているのである。歴代開発チームは透明性がCivシリーズの重要な美徳だと分かっていた。これらの変更はファンに喜ばれた。

 

デジタルがアナログを打ち負かす時

デジタルとアナログの融合で面白いのは、デジタル化によって大幅に改善されたボードゲームが存在する事だ。まずデジタル化すればセットアップも記録作業もいらない。これによりゲーム時間は大幅に短くなり、今までに無い環境でも遊べる様になった。今や”Memoir ’44″がコーヒーショップで、他の客をぎょっとさせる事無しに遊べるのだ。

ボードゲームを何十回、何百回と遊べる様になると、ゲーム体験そのものが変わって来る。巨大な歴史シミュレーションカードゲーム”1960″は実物なら数回しか遊べないが、Web版なら1ゲームが1時間で終わる。1ゲームの短さとゲーム回数の多さは敗北の痛みを減らしてくれる。そうすればもっと実験的な戦略を試す事も可能になる。月に1回の遊ぶ機会を犠牲にしなくて済む訳だ。

しかし、こうした頻繁なプレイは新たな挑戦ももたらす。ゲームバランス上の問題はかつてない程素早く見つかる。2011年に出たマーティン・ワレスの”A Few Acres of Snow”はフレンチ・インディアン戦争を題材にしたウォーゲームだが、修正の必要な箇所が見つかり悪評を得てしまった。イギリス側に”Halifax Hammer”と呼ばれる支配戦略が存在したのだ。このゲームはWeb上で無料で遊べたため、リリース後すぐにこの戦略が生まれてしまった。水がひび割れを見つけるのはかくも早くなったのだ。

デジタルボードゲームには他にも利点がある。非同期プレイだ。ボードゲームをやろうとすると同じ場所に長時間、中断を挟まずに集まらなくてはならない。非同期プレイはこの問題を迂回する方策だ。プレイヤーはそれぞれ好きなペースでゲームを進める。プログラムは次のプレイヤーが手番を行うまで待ってくれる。

iOSゲームの”Ascension”は非同期フォーマットを正しく採用して成功した例だ。ゲーム自体は「ドミニオン」の焼き直しだが、Appストアにおいて多大な成功を収めた。変わった遊び方としてではなく、ゲームの中核要素として非同期プレイが実装され、複数のゲームを同時に進行させておく事が簡単にできる。全てのボードゲームが非同期プレイに適する(ターンごとに多くの決定を下せる)訳ではないが、適しているゲームはモバイルの世界に新たな可能性を求めるべきだろう。

 

分析する楽しみ

非同期プレイにせよシングルプレイにせよ、デジタル化はボードゲームにつきものの待ち時間を無くしてくれる。「ケイラス」や「プエルトリコ」など、全ての情報が公開されランダム性が少し入るというゲームがドイツにはよくある。これを効率主義のプレイヤーと一緒に遊ぶと大変だ。最適手を確信するまで延々時間をかけ、ゲームの進行そのものを大幅に遅らせてしまう。だが、手番の遅いプレイヤーを待つ事は苦痛だが、だからといって最適手を探す事自体がつまらない訳ではない。

はやく手番を終えろというプレッシャーの下で最適手を探すのは面白くないだろう。しかし複雑な状況において正しい手を探すのは、この種のゲームの面白さの源泉である。知っての通り、最適手探しはシングルプレイヤーゲームにおける熱い戦いでもある!

実物のボードゲームで遊んでいる場合、ゲーム進行を滞らせたくないが慌てて間違った手を選びたくもないという問題が出て来る。非同期プレイとシングルプレイはこの問題を解決し、プレイヤーに好きなだけ時間を与えている。iPad版「プエルトリコ」は1人で好きなペースで全ての決定を下せる様になり、エレガントなゲームとして輝いている。実際、近年の協力型ボードゲーム「パンデミック」や「ゴーストストーリー」の人気を見るに、ボードゲームの魂を持ったソリティア型ビデオゲームには十分な市場があるのではないか。

新たな知見により、物理的コンポーネントとボードゲームの本質とを分離する事の価値が明らかになって来た。ボードゲームの本質とは完全なる透明性である。そしてそれはほとんど全てのゲームジャンルや形式において美徳となるものだ。”Triple Town”のタイルの組み合わせ、「プラント vs. ゾンビ」における敵の決まった挙動、”Cut the Rope”における分かりやすい物理法則。これらはボードゲームとは似ても似つかないが、どれも透明性という美徳を備えているのだ。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=446

翻訳記事:シドのルール

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GDC#5:シドのルール

2009/3/1 Soren Johnson
Game Developer誌2009年1月号に掲載された物の再掲

 

多くのゲーム開発者は「良いゲームは面白い選択の連続である」というシドの格言を聞いた事があるだろう。実際、ダミオン・シューベルトが同じ雑誌でコラムを連載しているのだが、プレイヤーの選択に関する2008年10月の記事はこの格言で始まっている。だがシドはその他にもいくつかのゲームデザインに関するルールを編み出している。2000年から2007年にかけてFiraxis Gamesで働いていた時、彼がこれについて語るのを何度も耳にした。これらの知見は開発者にとってとても実践的な教えであり、論ずるに相応しいものと言えるだろう。

 

倍にするか半分に削れ

良いゲームが無から生まれる事は滅多に無い。だからこそ多くの開発者が反復的なデザイン方式を提唱するのだ。まず単純なプロトタイプを非常に早い段階で作り、繰り返し繰り返し手を加えて最終的に出荷できる製品に仕上げる。シドはこの過程を「面白探し」と呼んでおり、その成功率は開発ループを何回繰り返せるかにかかっている。アイディアを形にし、出来た物をテストし、フィードバックに基づいてそれを修正する。その繰り返しだ。サイクルの回数は有限であるため、小さな変更のために時間を無駄にする事はできない。ゲームプレイを修正する時は大きな変更を加えて、はっきりとした反応を呼び起こすべきだ。

あるユニットが弱過ぎたら、コストを5%減らすのでなく強さを倍にする。アップグレードの種類が多過ぎて混乱するのであれば、半分を取り除く。初代”Civilization”はゲームプレイのテンポが悪くなり、地べたを這う様になってしまった事がある。シドはマップサイズを半分にする事でこれを解決した。大事なのは新しい値が正しいかどうかではない。より多くのデザイン領域を囲い込む事が目標だ。

新しいゲームのデザイン空間を未踏破の世界として考えてみよう。地平線の向こうに何があるかはぼんやりとしか分からない。実験とテストをしてみなければ、どう予測しようと机上の空論でしかない。そして大きな変更を加える度に新たな土地が明らかになり、最終的な製品の着地点を決める判断材料が増える。

 

1つの良いゲームは2つの素晴らしいゲームに勝る

シドはこれを「コバート・アクションの法則」と呼んでいる。90年代初頭に彼が作り、あまり売れなかったスパイゲームの名前から取った物だ。

「失敗だったのは、2つのゲームを一緒にしてそれが喧嘩してしまった事だ。建物に侵入して手がかりを集めたりするアクションゲームと、謎の陰謀に巻き込まれて黒幕を捜すアドベンチャーゲームとが共存していた。どちらもそれぞれ良いゲームだったが、両方一緒にすると喧嘩してしまうのだ。解決すべき謎が出て来る。そして次にアクションパートに入ってひとしきり暴れ、建物から出て来る。ここで「それでどういう謎を解こうとしてたんだっけ?」となってしまう。”Covert Action”はストーリーとアクションの調和に失敗した。アクションパートがかなり激しく、1回のミッションに10分かそこらのプレイ時間がかかる。出て来た時には何が進行していたのかすっかり忘れてしまっているのだ」

言い換えれば、どちらのパートもそれぞれに面白いゲームだったが、両方を同時に存在させる事でゲーム体験が損なわれてしまったのだ。プレイヤーはどちらかに集中する事ができなかった。このルールはもっと大きな論点に繋がる。全てのデザイン上の決定は他との相互関係において良し悪しが決まり、それぞれメリットとデメリットを伴うトレードオフである。戦略ゲームを作るという決定は戦術ゲームを作らないという決定である。それ自体としては「面白そう」なアイディアも、プレイヤーを本来あるべき体験から逸らしてしまうのでは駄目だ。実際、このルールは何故Civシリーズが戦術的バトルシステムを導入しないかという理由である。

しかし、複数のゲームが調和のもとに共存できる場合もある。シドの”Pirates!”は戦闘、航海、ダンスなどのミニゲームを上手く組み合わせた集合体だ。ただしこれらのゲームプレイはそれぞれ非常に短い。長くて数分だ。ゆえに海賊として生きるというメタゲームへの集中を失わずに済む。各々の小さな課題は長い冒険の中の一歩である。例えばスペインの都市を全て略奪するとか、生き別れの家族を救い出すとか。

“X-Com”も複数のサブゲームを上手く組み合わせている。ターンベースの作戦級ウォーシムと、リアルタイムの戦略級資源管理ゲームである。”Pirates!”と同様、”X-Com”が上手く行くのは焦点を定めているからである。このゲームは軍隊を動かして異星人の侵略と戦うのが楽しいのだ。戦いはそれぞれ30分ほど。上位の戦略ゲームは各々の戦闘にどんな意味があるかを決める枠組みでしかない。資源管理を有利にするために戦うのではなく、戦いを有利にするために資源を管理しているわけだ。

 

資料収集はゲームが出来てから

歴代のベストセラー、「シムシティ」、”Grand Theft Auto”、”Civilization”、”Rollercoaster Tycoon”、「シムピープル」などは現実世界をテーマにしている。誰もが知っている物をゲームにする事で幅広い層に売り込めるのだ。しかし、現実の事象をゲームにするという試みは自然な、しかし危険な傾向を引き起こす。あらゆる細部と無駄な知識をゲームに詰め込み、開発者がそれについてどれだけ勉強したか示そうとするというものだ。こうなるとプレイヤーが最初から持っている知識だけではゲームができなくなり、現実世界のテーマが有益である理由自体が失われる。誰でも知っている通り、火薬は軍隊を強くし、警察署は犯罪を減らし、カージャックは違法である。シド曰く「プレイヤーが制作者と同じ本を読んでいる事を求めてはならない」のである。

ゲームには大きな教育効果を持ち得るが、多くの教育者達が考える様な方法によってではない。もちろん事実として間違っている事を入れるべきではないが、インタラクティブな体験の価値は単純なコンセプトの相互作用から生まれるのであり、データや数値を詰め込む事からではない。ナイル、ティグリス・ユーフラテス、インダスなど最初期の文明は川沿いに生じた。どのタイルが初期の農業において多くの食料を産出するかという単純なルールにより、”Civilization”はこれを非常に効果的に表現している。ゲームの中核部分が出来上がった後なら資料集めはとても有益だ。歴史シナリオー、フレーバーテキスト、詳細なグラフィックなどは細部を肉付けして深みを与えてくれる。新しいゲームを学ぶのは大仕事である。プレイヤーが最初から必要な知識を備えていると期待して、テーマの親しみやすさを放棄するべきではない。

 

楽しむのはプレイヤー。開発者やコンピュータではない

ストーリーを基盤にしたゲームを作るのは楽しい。つい夢中になって、大げさな背景設定やら大量の固有名詞やら、珍しい子音やら「’」だらけの名前やらを詰め込んでしまう。また、複雑で精密なシミュレーションに基づくゲームは内部の計算式が隠されていると非常に分かりにくい。シドに言わせると、これらのゲームは開発者やコンピュータが楽しんでいるのであってプレイヤーが楽しんでいるのではないそうだ。

例えば”Civilization 4″の開発の際、試しに研究や生産物を指定できない代わりに大きな生産ボーナスが得られる政治体制というのを導入してみた。内部に隠されたシミュレーションモデルがあって、国民が何を生産したがるか決定しているのだ。このアルゴリズムを作るのは楽しかったし、ゲームを離れて興味深い議論ができた。だがプレイヤーは置いてけぼりである。楽しみをコンピュータがみんな持って行ってしまったからだ。そこでこの要素はカットされる事になった。

更に、ゲームに必要なのは意味のある選択肢だけではない。その選択が正しいと感じられる様なコミュニケーションも必要である。プレイヤーに選択肢を与えても、それがどういう結果になるのか理解できなければ楽しくない。RPGはしばしばこの部分で失敗している。例えばキャラクター作成時に職業やスキルを選ばされるが、そのゲームを1秒も遊んでいないのにその選択をしなくてはならないのである。戦闘システムが実際どうなっていてパラメータに何の意味があるか分からないのに、どうしたらバーバリアンと戦士とパラディンのどれが良いか選べるのだろうか? 選択肢が面白くなるためには、異なる結果を生むだけではなくちゃんと情報が与えられていなくてはならない。

シドは言う。プレイヤーは「常に王様」であるべきだと。我々開発者はプレイヤーの側に付いてなくてはならない。ゲーム世界におけるプレイヤーの役回りがどうなるか、その内部のメカニクスをプレイヤーがどう理解するか、常に慎重に考慮してデザイン上の決定を下すべきである。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=119

翻訳記事:なぜゲームを作るのか

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2007/9/27 Soren Johnson

Braidというサイトを運営するジョナサン・ブロウ氏が、最近オーストラリアのFreePlayカンファレンスで面白い事を言っていた。(動画) どうして我々ゲーム開発者は「何故ゲームを作るんだろう」と自分自身に問いかけないのか。出て来る疑問詞は「どうやって」ばかり。「どうやってゲーム業界に入ろう?」「どうやって販売元にこのゲームを見てもらおう?」という具合だと言う。面白い視点である。そして私は確信するのだが、殆どの開発者はこういう問いかけをした事が無い筈だ。

数ヶ月前、Spore開発チームの仲間であるクリス・ヘッカーが同じ様な質問を私にした。君のゲームデザインにはテーマがあるのか。何かプレイヤーに対して伝えたい考えや経験があるのか。私の答えは、同時にジョナサンの質問への答えでもある。即ち、私はプレイヤーに「常に正しい選択肢は無い」と感じて欲しいのだ。言い換えれば、プレイヤーには適応を試みて欲しい。与えられた環境を注視し、そこから成功への道を見つけ出すという事だ。Civ4で言えばこうである。首都のすぐ近くに大理石と石材があったら遺産建造に力を入れるだろう。ナポレオンとモンテスマがすぐ隣だったら、少なくとも一方とは仲良くした方が良いだろう。周囲がジャングルだらけなら鉄器に行こう。孤島スタートなら天文学に行こう。無論、こうした状況は複数まとまって押し寄せて来るので優先順位を付けねばならない。どの状況を利用し、どの状況を無視するべきか。

柔軟に適応する事は頑固でいる事よりも良い。自分の好きな戦略を環境に押し込むのでなく、環境に合わせて計画を立てるべきなのだ。ここを理解する事が重要だと私は信じている。何故か? それは私自身の哲学や世界観と結びついている。

もし20世紀を1つのテーマで表すとしたら、「イデオロギーの行き詰まりと失敗」だろう。マスメディアの発達により、かつては想像すらできなかった様々な方法で思想が人々に影響を与えるようになった。独善的な指導者が反対する者に絶対悪のレッテルを貼り、強者が弱者を恐怖で支配する。そんな事が思想によって正当化され、繰り返し繰り返し行われて来た。ナチスの強制収容所。ソ連の労働収容所。中国の文革。アメリカのマッカーシズム。20世紀は山ほどの思想で満ちあふれ、思想が冷酷な独裁者を誕生させた。認めたくない事だが、独裁者達はその思想を盲信する一般大衆の支持を受けて生まれたのだ。ヒトラーはまず選挙で権力の座に着いた。(「大衆は小さな嘘より大きな嘘に騙され易い」)スターリンには多数の擁護者が世界中にいた。(「一人の死は悲劇、百万の死は統計」)どちらも今では大量殺人者と見なされている。

私はイデオロギーというものを軽蔑している。この世にはただ1つの解決策があり、世界の問題はすべてそれで対応できるという考えに行き着いてしまうからだ。ただ1つしか解決策が無いという事は他は全て間違いだ。間違っている者は粛清だ。結局こうなってしまう。イデオロギーは思想を人々よりも重要な物としてしまう。これこそ恐怖と圧政の始まりだ。人々は思想などよりずっと大切だ。そうだ、人々は何よりも大切な、かけがえの無い存在なのだ。

Civ4がこの問題に正面からぶつかって行ったとは考えていない。しかし私のこの人生哲学は、ゲームの深層部分に確かに潜んでいる。例えば政治体制システムを見てみよう。民主主義や共産主義といった大まかなレッテルしか無かった以前のCivシリーズとは違い、Civ4では自分の好きな政治をカスタマイズできる。国有化経済と言論の自由を組み合わせる事もできる。警察国家と自由市場も可。極端な話、奴隷制と普通選挙を合わせる事さえ許されている。イデオロギーはレッテル貼りが大好きだ。そうやって反対者を非人間的な何かに変えてぼやかしてしまう。冷戦期の両陣営は「共産主義者」「資本主義者」という言葉を好き勝手に使い、自分達と相手とは違うのだと主張した。しかしアメリカ政府はこの1世紀、徐々に共産主義的な政策を採用して来たのだ。アメリカ。社会保障と、医療保険と、福祉と、最低賃金と、労働組合を持ったこの国が、ベトナムを共産主義から守る為に戦った? もし1907年にタイムスリップして、典型的な反共・反労組の事業家を2007年のアメリカに連れて来たらどうだろうか? 彼は今のアメリカを見て、最終的に共産主義が勝った物と思うのではないか? レッテルは人々を分離し支配する道具だ。その向こうにある社会の現実を見る事を、私はこの政治体制システムを通じて伝えたかった。ラシュモア山の解禁技術がファシズムなのはミスではない。自然の山に国家指導者の巨大な像を彫るのはファシストのやる事だ。たとえアメリカがファシズムの国でないとしても。我々が自分達を民主主義者とか資本主義者と定義したとしても、それでアメリカが世界に害を撒いている事が咎められなくなるわけではない。我々の政策が人々を、現実に存在する人々を傷つけているとすれば。

もちろん、頑固な考え方を変えさせるのがゲームを作る唯一の理由ではない。しかしジョナサンの質問に対してこれ以上の回答は思い浮かばない。もし今後私の理想の戦略ゲームを拵えるとしたら、この哲学はデザインの中心にはっきりと現れている筈だ。やる事にはちゃんと理由がある。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=57

以前Civ4 Wikiに投稿した物の再掲。

翻訳記事:ゼロサムを超えて

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GDC#21:ゼロサムを超えて

2012/7/24 Soren Johnson
Game Developer誌2012年4月号に掲載された物の再掲

 

ゼロサムゲームとは誰かの得が誰かの損になるゲームである。損と得は釣り合っている。例えばポーカーで賭け金を勝ち取る様な具合だ。厳密なゲーム理論の定義から言えば、多くの競争ゲームは実際にはゼロサムではない。例えばアメリカンフットボールでフィールドゴールを決めても、相手から3点を奪って来るわけではない。

しかしもう少し緩く定義すると、「ゼロサム」方式とは相手を困らせるのと自分を助けるのが等価であるという意味になる。”StarCraft”の様な典型的なRTSでは、ラッシュ戦術はブーム戦術と同じくらい有用だ。前者は敵の経済を速やかに破壊する事を目的とし、後者は自分の経済を建設する事を目的としている。相手の最初のユニットをすぐに倒してしまえれば、自分の軍隊の研究がどこまで進むかはそれほど問題ではなくなる。

つまり相手を妨害するのと自分を強めるのと、両方の戦術を同等に報奨するゲームはゼロサム方式である。多くのチームスポーツ(バスケット、サッカー、アメフトなどなど)はこの性質を持っている。防御によって相手の得点を阻むのは、攻撃によって得点を狙うのと同様に重要だ。

競争型のゲームはこの土壌にしっかりと根を張っている。格闘ゲームでは自分の体力を守るのも相手の体力を削るのも両方大事である。戦略ゲームは自分の計画を通すと同時に相手の計画を潰さなくてはならない。FPSはできるだけ多くの敵を殺すと同時に、フラグやチェックポイントなどの目標も達成しなくてはならない。

実際、競争ゲームをデザインするとなるとゼロサム方式がデフォルトになっている様だ。しかし、そればかりが増殖した結果様々な問題が起きている。ゼロサム方式というのは本当の所、せいぜい良くて必要悪でしかない。そして悪ければ、多くの潜在顧客を引き離してしまう間違ったアプローチなのだ。

 

ゼロサムの問題点

ゼロサム方式の問題点は、誰かがババを引かなくてはならない事だ。「ストリートファイター」で凄まじいコンボを食らう。”Age of Empire”で建物を粉々に破壊される。”Team Fortress”で何度も何度も死んではリスポーンする。誰かの楽しみは他の誰かの痛みなのだ。

本当は誰かの痛みなど必要ない。プレイヤー間の相互作用の頻度と大きさを決めるのはゲームのルールである。つまりプレイヤー同士がどのように関わり合うか、決めるのはデザイナーの裁量である。実際、相互作用が全く無くとも競争ゲームは成立する。ゴルフやボウリングの様な並列型スポーツを考えてみよう。あるいはハイスコアを競うオンラインゲーム、”Bejeweled Blitz”や”Burnout Paradise”を。

最も重要な区別は、プレイヤーがプレイ中に進捗を失うか、それとも以後の進捗を阻まれるだけかという点だ。前者の場合、ゲームメカニクスにはゼロサムの感覚がある。自分の進捗を失うのはたいてい苦痛であるし、往々にして負けに至る道でもある。一方「乗車券」や「カタン」に代表されるドイツゲームの大きな特徴は、そうした直接的でゼロサムな対立を避けていることだ。進捗を破壊しない、限定された間接的な相互作用が人気を呼んでいる。

例えば「アグリコラ」や「ケイラス」の様なワーカープレイスメントゲームの場合、プレイヤーがそれぞれ能力を選ぶ事でターンが進行する。誰かが選んだ物はもう選べない。そこで誰が良い役回りにありつくかという競争が生まれる訳だ。もし対戦相手が食料を欲していると分かったら、自分で食料生産の仕事を選ぶことで相手にダメージを与えられる。だがこれは”Age of Empires”で敵の農地を焼いて農民を殺すのとは質的に異なっているのだ。

前者の場合、進捗の遅れは一時的な物である。後者の場合、感情的にも苦痛だし再起のチャンスはほとんどない。実際、「アグリコラ」の様なゲームで他のプレイヤーの邪魔ばかりしていると自分の墓穴を掘ってしまう。アクションは貴重であり、機会費用は大きい。逆にRTSで早期に敵を痛めつける事には殆どデメリットが無い。敵の経済を一掃してしまえば、それだけ自分の経済を大きくする時間が稼げるのだ。

RTSは早期攻撃を報奨する。そうでない様に調整するのは恐ろしく困難だ。そして実際、RTSはゼロサム方式の呪いに苦しんでいる。そのせいでラッシュが有利になってしまうのだ。多くのプレイヤーが「早期戦争無し」のハウスルールを作ってわざわざゲームを再調整している。破壊的な侵略を防止して、終盤に向けての建設ができるようにしている訳だ。

更に、RTSの試合は爆煙でなくすすり泣きで幕を閉じる。勝利条件が敵の全滅であるため、試合の途中で勝敗が明らかになってしまうのだ。「乗車券」の場合、プレイヤーは駒が切れる前に路線を完成させようと競争する。その間試合の熱気はずっと上り坂だ。これに対し、”StarCraft”の熱気は上り坂と下り坂で出来た山になる。そして不幸な事に、下り坂の方は敗者にとってただの苦痛でしかない。

しかし、ゼロサム方式はRTSが必ずかかる風土病という訳ではない。”Annoseries”、”Railroad Tycoon”、”M.U.L.E.”などの経済ゲームを考えてみよう。これらの最終目標は富の獲得だ。誰が一番速く成長するかの競争であり、他のプレイヤーを邪魔する事を報奨しなくとも、いやそもそも可能にしなくてもゲームが成立するのだ。

戦争RTSでも直接的でない競争原理は採用できる。”Warcraft 3″はクリープを導入した。これはマップ中央部分に生息する中立キャラクターで、プレイヤーはこれを倒して戦利品と経験値を得る事ができる。次世代RTSはこれをもう一歩進めてクリープを倒すだけのゲームにできるのではないか?

 

マイナスを無くす

ゼロサム問題を解決するため、多くの競争型ゲームが取り入れているのが相互作用の制限である。プレイヤー同士が影響を及ぼし合える状況を限定するのだ。例えば「マリオカート」の場合、特定の場所で甲羅を手に入れるまでは攻撃ができない。そして手に入れる場合も、最強の甲羅はどん尻にいる時しか出て来ないのだ。ハードコアなRTSの世界でさえ、まず兵舎を建て、兵隊を作り、それを所定の位置まで動かしてようやく攻撃ができる。

このように、相互作用の制限はゼロサム方式の嫌な部分を取り除く強力な道具である。同じ様なテーマとルールを持ったゲームでも、どんな相互作用が可能かによって全く違う感触になる。例えば「トラビアン」と”Empires & Allies”は似た様な非同期戦略ゲームであり、どちらもプレイ期間は数ヶ月に渡り、リアルタイムで軍を編成して敵を攻撃する。しかしこの2つの間には大きな違いがある。他のプレイヤーの都市に攻め込んだ時の挙動である。

「トラビアン」における侵略は厳密なゼロサムである。攻撃者が資源を奪ったら被害者はその分だけ資源を失う。一方”Empires & Allies”の場合、一方が得をしてももう一方は損をしない。攻撃者の戦利品は無から出て来るのである。更に「トラビアン」では死んだユニットはゲームから取り除かれるが、”Empires”の方は防御側のユニットが死んでもそのまま生き返る。

“Empires”は戦闘というものに対するプレイヤーの常識を密かに裏切っている。勝利が存在するためには敗北が必要であるという常識を。だがこのデザインのお陰でゲームの敷居は低くなり、感情的にも消耗しなくなった。一方トラビアンは伝統的な方式を採用し、一方の得は一方の損である。その結果、このゲームは怒り狂ったプレイヤーだらけの酷い空間になってしまった。

デザイナーは本能的に戦いイコールゼロサムと考えてしまう。しかしこの先入観のせいでゲームの敷居を上げてしまっているのだ。プレイヤーがゲーム中に経験する感情は現実のものだ。ゆえに誰かの苦しみを必要とするメカニクスを導入するのは慎重にすべきである。

 

プラスを加える

目がくらむほどシンプルな解決策もある。ボードゲームの「七不思議」では、プレイヤー同士が様々な軸で競争する。科学、政治、建物、富、軍隊における得点を競う。この様なゲームに軍事要素を入れるとなると、まず思いつくのは軍隊を作って他のプレイヤーのユニットなり建物なり資源なりを攻撃する方式だろう。だが七不思議は全く違う答えを出した。

ゲームは3つの時代に分かれている。そしてそれぞれの時代ごとに、最大の軍事力を持っていたプレイヤーに得点が与えられる。配分される得点の合計はプラスであり、戦いに勝てば得をするが負けてもそれほど損にはならない。ゆえに軍事戦略が他のプレイヤーを死滅させる事にはならず、適切にバランスが取られているのである。強力な軍隊があっても対戦相手が科学で勝つのを止める事はできない。軍事的勝利は敗者から進捗を奪わないのである。

実際、物事がプラスになるやり方はゲームデザインの他の面にも良い影響を及ぼす。例えば「パズルクエスト」の場合、全ての戦闘が必ずプラスの結果になるので手動セーブシステムが無い。戦闘中にアイテムを失う事は無く、戦えば必ず少量のゴールドと経験値が手に入る。プレイヤーは勝とうと負けようと必ず戦闘前より良い状態になっており、それゆえゲームにはセーブスロットが1つしか無く自動でセーブされる。これは伝統的な、負ければ何かを失うデザインではハードコアになってしまうだろう。このシステムのお陰でセーブ/ロードが不要になり、それだけ敷居が下がり、ゲームはより広い層に訴求できる様になった。

とは言えゼロサム方式はやはり強力な道具である。プレイヤーの非常に原始的な感情を呼び起こす事ができるからだ。時にはプレイヤー同士で破壊し合う事もゲームには必要だろう。だが全ての争いがゼロサムである必要は無い。ゼロサムには大きなデメリットも存在するのだから。勝者が栄えるために敗者が苦しむ必要は無いのだ。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=438

#26 カラコレ

2〜多人数用カードゲーム。色を集めて得点を競う。同じ色を沢山集めるほど点が高い。また多く捨てられている色も点が高い。

 

使う物

  • 5色のカード各7枚
  • ワイルドカード2枚

始め方

  • くじ引きで順番を決める。
  • 37枚のカードをよく切って山を積む。
  • 5枚ずつカードを配って手札にする。

 

進め方

  • 番が来たら山から1枚引き、1枚捨てる。
  • 捨て札は色ごとにまとめておく。
  • どれかの色が4枚捨てられたらゲーム終了。
  • ワイルドカードはどの色としても捨てる事ができる。
  • 山から引く代わりに、前のプレイヤーが捨てた札を貰って自分の手札に加える事ができる。ただしその直後に4枚目になるカードを捨ててゲームを終わらせなくてはならない。
  • 4枚目が捨てられたらゲーム終了。それを拾う事はできない。

 

得点計算

  • 手札の各カードは、場に捨てられている同じ色のカードの数だけ得点になる。例えば赤のカードが3枚捨てられていれば赤1枚につき+3点。
  • 手札の中で最も多いカードの枚数の2乗が得点に加算される。例えば同色カードを3枚持っていれば+9点、4枚なら+16点、5枚なら+25点。
  • ワイルドカードは得点にならない。
  • 最多得点者の勝ち。
  • 同率一位が複数いた場合、ゲームを終了させたプレイヤーの勝ち。
  • 例えばAとBが同率一位でCがゲームを終了させた場合Cの優勝になる。

 

バージョン2

  • 最多枚数によるボーナスは1,3,6,10,15
  • 捨て札が4枚になった色は1枚につき-1点。

 

バージョン3

  • 色札各9枚、ワイルド4枚
  • 捨て札を拾うルールを廃止。
  • 枚数によるボーナスは3枚で+3、4枚で+7、5枚で+12

すとすてカードゲーム製品版

月刊スパ帝国6月号の付録「すとすてカードゲーム試作版」が完成! 調整と改良を経て更に遊びやすく、面白くなったぞ! 七つの文明の特殊能力! 何にでも化ける革命! 資源と手札を読み、相手の裏をかいて偉大な王国を建造せよ!

マニュアル(PDF)

なおカードサイズは59x92mmで、ユーロサイズスリーブに収まるぞ!

( ・3・)人 <絶版! 将来仕様を改訂した上で普及版として出す予定です!

#24 ロンバルディアの王冠

リードデザイナー:やがもん

2人用カードゲーム。同種のカードを揃えて得点を稼げ!

 

ストーリー

偉大な王が死に、王国は跡目を巡って分裂状態になった! 三人の正当な継承者は流浪の身になっている。家臣団を引き入れ、流浪の王子を救い出して権力の座を手にせよ!

 

内容物

  • 王子カード3枚
  • 騎士カード11枚
  • 貴族カード9枚
  • 司教カード5枚
  • 前衛的スコアカウンター

 

始め方

  • 2人で遊びます。
  • 王子と司教を1枚ずつ取り出してくじ引きをします。王子を引いたら先に手番を行います。
  • 王子2枚と司教1枚を捨て札にします。
    • 捨て札は全て裏向きです。例外はありません。
  • 残りの25枚をよく切って山を積みます。
  • 5枚ずつ配って手札にします。
  • 挨拶をして試合開始!

 

勝利条件

  • カードを使って勝利点を獲得し、先に10点になったら勝ち!

 

遊び方

  • 手番の来たプレイヤーは山から3枚引き、自分だけで見ます。
    • ここから1枚選んで自分の手札にします。
    • 残り2枚を相手に渡します。
    • 相手は2枚の内から1枚選んで手札に加え、残り1枚を捨てます。
  • 手番のプレイヤーは自分の手札を使うことができます。
    • 回数に制限はありません。
  • それが終わったらターン終了を宣言します。この時手番プレイヤーは手札が8枚以上あったら半分(端数切り捨て)を選んで捨てます。
  • 相手の番になります。どちらかが勝利条件を満たすまで交互に手番を繰り返します。
  • カードを引こうとした時に山札が1枚も無かったら、捨て札を切り直して山を積みます。

 

カード一覧

  • 王子:
    • 3枚の王子を公開すると勝利。
    • 2枚の王子は司教/騎士/貴族1枚として使える。
  • 司教:
    • 司教を3枚公開すると+1点。
    • 司教を4枚公開すると+2点。
  • 騎士:
    • 騎士を3枚捨てると攻撃。相手の手札を見てそこから1種類を全て捨て、捨てた枚数だけ点を奪う。
    • 攻撃を受けた時騎士を2枚捨てればそれを防げる。
  • 貴族:2枚捨てて+2点。

 

疑問の解消

  • 同じ司教は1回の手番で1回だけ公開できます。
  • 公開した司教は手番の終わりに手札に戻ります。
  • 手札が8枚を超えた時に捨てるカードは公開する必要がありません。
  • 王子2枚を司教として公開した後、騎士/貴族として捨てられます。
  • 騎士で攻撃を成功させても、相手の勝利点が0なら点を奪う事はできません。 点はどんな場合も0未満にならず、 あなたが獲得するのは実際に減らした分だけです。