翻訳記事:解析可能性

これは翻訳記事です

 

解析可能性

対戦型の戦略ゲームを作るには解析可能性と戦い続けなくてはならない。簡単に理解できる程度にシンプルに、かつ単一の正解を見つけていつもそれを使う事ができない程度には複雑なシステムを作らなくてはならない。

 

純粋解法 vs 混合解法

ゲームに「純粋戦略」による解法がある場合と「混合戦略」による解法がある場合ではだいぶ違いがある。何故かを理解するために、まずはこの2つを定義しよう。

純粋戦略とはゲームのプレイ方法を完全に定めるものだ。全ての起こりうる局面に対してプレイヤーが打つべき手をまとめた指南である。もし何らかの純粋戦略がゲームにおける最善の方法であれば、それは純粋な解法である。ゲームの純粋解法を知っていればもはや意思決定は実質的に残っておらず、ゲームですらなくなる。単純に純粋解法の指南する所に従うだけでよいのだから。

混合戦略とは純粋戦略をいくつか組み合わせてそれぞれに確率を割り振ったものだ。この場合の指南は「相手がXをしたらYをしなさい」という形でなく、「相手がXをしたら30%の確率でYを、70%の確率でZをしなさい」となる。混合戦略がゲームの最善手である場合、それを混合解法と呼ぼう。

ゲームに混合解法があるのは純粋解法があるのと同じぐらい悪いと思うだろう。結局プレイヤーは何も意思決定をしておらず、複数の選択からランダムに選んでいるだけなのだから。ところが違う。混合解法があってもプレイヤーは色々やる事がある。そこでそもそも「最適」な手とは何を意味するかを掘り下げてみよう。

 

最適な方法

いくつかの混合戦略がある時、その中で最適なものを混合解法と呼ぶ。これは「ナッシュ均衡点」とも呼ばれる。混乱の元になるのは「最適」という語が2つの事を意味するからだ。日常語と数学用語でそれぞれ定義が違う。この記事では「最適」を常に数学用語の方で使っており、日常語の「一番よい方法」という意味ではない。数学用語での最適とは「最も相手に利用されにくい方法」である。

相手に利用されやすい方法とは何だろうか。例えばじゃんけんで100%グーだけを出していたら、それは非常に利用されやすい。相手は傾向に気付いてパーだけを100%出すようになる。相手はこちらの戦略を完全に利用し、こちらの勝率は0%に下がる。もしグーを出す確率を80%にしたら(そしてパーとチョキが10%ずつ)、それでもやはり悪いのだが先ほどよりはマシになる。相手は相変わらずパーを100%出せるがこちらの勝率は0%から10%に増える。

最も利用されにくい方法を採るならば全ての手を33%ずつの確率で出すべきだ。こうすれば相手はどういう戦略を取ろうとこちらを上回れない。これがじゃんけんの混合解法である。

 

最適は「最高」ではない

最適な方法は素晴らしく見えるだろうが、大会で優勝するのが目標ならばそれではやって行けない。例えばじゃんけんの大会に出場したとしよう。対戦相手はグーを100%出すという評判で、実際にそれをやって来た。ここで最適な方法を採るとそれぞれの手を33%ずつの確率で出す事になり、33%の確率で負けてしまう。一方別のプレイヤーはこの相手に100%パーをぶつける。「最適な」はずの方法はこれよりも負ける確率がずっと高く、早々に敗退してしまう。

最適な方法を採るという事は目の前にある利用可能な優位を捨て去るという事だ。相手が非常に利用しやすい戦略を用いているのにつけ込まないという事だ。大会での優勝を目指すにはお粗末なプレイングと言わざるを得ない。もちろんこれは極端な例だが、相手がグーを出す確率が40%や35%であっても同様の議論は成り立つ。

ではグー100%の相手にパー100%を数ラウンドにわたって繰り出し、その後相手が戦略を変えてきたらどうなるか?  今度は相手がこちらの戦略を利用するという事もあり得る。というのも、こちらも最適戦略から乖離しているからだ。なのだが、それでも最適から外れるというのはやる価値のある事である。相手が戦略を変えて対応して来るのが心配であれば、パー33%をいきなりパー100%にしてしまう必要はない。40%かそこらでも33%の場合よりは試合に勝てる確率が高いし、自分自身もそれほど脆弱ではなくなる。更に相手は a)こちらの戦略を観察し最適からの乖離を見つける b)それに対抗する戦略を正しく採用する の2点がどれほど得意だろうか? こちらの方が得意であるなら迷いなく相手の戦略を利用すべきだ。相手がゆっくり戦略を修正する間にこちらは素早く修正できるのだから。

 

ドンキースペース

ドンキースペースというのはフランク・ランツ氏の造語で、非最適なプレイングの概念的空間を表す。上の項で述べたように、優れたプレイヤーはドンキースペースにいる相手を利用するためにわざとドンキースペースに入る事がある。言い換えれば、自分も相手に利用されうる戦略を採用する。もし双方とも優れたプレイヤーであればドンキースペース内の様々な場所を踊りまわり、優位を求めて駆け引きをするだろう。

全体像をもう少し明らかにしておこう。上級者同士の戦いでは全員が最適なプレイをするのでドンキースペースで踊る余地など無いと思うかも知れないが、実際のゲームではそれはだいぶ非現実的だ。そもそも上級者でも最適から大きく外れている事はよくある。それに対戦相手の(全員ですらなく)誰か1人でも最適なプレイングやそれに近いことをしているというのは稀だ。優れた対戦ゲームでは最適な戦略を知るのは非常に難しい。もちろん大まかな指針はあるにせよ、特定の局面でどの選択肢をどれだけの確率で繰り出すべきかを完璧に把握するのは無理だ。あまりにも変数が多すぎる。人気があり非常に研究されたゲーム、例えばポーカーであっても、最適な戦略はまだ完璧には解明されておらず、プレイヤーは最適からかなり乖離している。ましてパンダンテやYomiではポーカー以上に難しいだろう。

重要なのは、他のプレイヤーが最適から外れていたら、たとえ自分が最適な戦略を知っていて混合解法を完璧に執行できるとしても、勝率を最大化するにはなお相手のプレイスタイルを観察してそれに合わせる必要があるという事だ。

そして混合解法を執行するのは他にも色々と困難な要素がある。たとえその解法が何かを知っていてもだ:

  1. 人間はランダムに何かをするのがとても苦手だ。だから例えば特定の選択肢を42.3%の確率で選ぶというのは非常に難しい。
  2. そしてランダムに選ぶ事に失敗すると、本人も気付かない癖がパターンとなって表れる。対戦相手はそれを見つけて利用できる。
  3. 安全な道を行くかリスクを取るかの決断で人間はどうしても性格が出てしまう。
  4. リアルタイムのゲームであれば、タイミングや操作精度(難しいコンボを出したり狙撃をしたり)の面で数学的最適に達しているプレイヤーは1人もいないだろう。

2番は特に面白い。レヴィツキ(1997, 1998)によれば、人間は自分でも気付かないままにパターンを学習できる。それが何であるかを説明したり表現する事はできないが、それでも学習しているのだ。被験者は円を4つに区切ったそれぞれのエリアに数字が書かれたものを見せられ、特定の数字を含んでいるのはどれかボタンを押して答えた。被験者はテストを繰り返した。ただし、数字の場所がランダムでなく実は法則があるという事は伏せたままだ。配置には10の込み入ったルールがあった。テストが進めば進むほど反応速度は良くなり、かつパターンの存在には気付かないままだった。パターンを説明できれば100ドルあげますと言っても誰一人できなかった。しかも、配置パターンをこっそりランダムに変えてみたところ被験者の成績はすぐさま大幅に下がった。特に面白い事に、レヴィツキの同僚で実験内容を知っている心理学教授ですら、それらの配置パターンは「ランダム」だったと言い張ったのだ。人はパターンを学んで利用しつつ、パターンなど存在しないと思ってしまうのだ。

論点はこうだ。人は無意識に混合戦略を不完全に執行してしまう。そして自分でも気付かないままパターンにはまっている。対戦相手は自分でも気付かないままそれを発見して利用できる。混合戦略ゲームにおけるドンキースペース内のダンスとは、表層意識同士に加えて無意識同士の戦いでもある。そして前者においては何が最適であるかについてそもそも意見が異なっているのだ。

 

純粋解法は混合解法よりもゲームを早く腐らせる

よって、たとえゲームに混合解法があったとしても、対戦相手が何をやっているかには細心の注意を払わなくてはならない。相手が最適からどれだけ離れているかを検知しその戦略に対抗するのだ。これは非常に難しい。何しろ無意識を働かせてパターンを読み取るわけだから。

純粋解法のあるゲームでは相手が何をしているかに注意する必要は全くない。その解法を知っていれば相手が何をする傾向を持っていてどんな考えを抱いているかは全く関係ない。単に最適な道を辿れば良いだけであって、実質的なゲームプレイはもう残されていない。

もうひとつ重要なのは、混合解法と純粋解法のあるゲームがそれぞれどんな風に見えるかだ。両者ともプレイヤー達はまだ解法を見つけていないがそれに近づいているとしよう。どちらのゲームも時間が経つにつれてどんどん解析される。最適なプレイングに次第に近づいてゆく。純粋解法のあるゲームの場合、プレイングの技巧とはつまるところ定石の暗記になり対戦相手とは関係なくなる。例えばチェスの終盤、メイトまでの道筋が解明された局面などがそうだ(ちなみにチェス2では中央突破ルールがあるのでこの種の局面が発生しない様になっている)。チェスの序盤も似た様なものだ(これまたチェス2では違うが)。年月が経ちチェスの解明が進むにつれ、オープニングの教本は進歩し、それら定石を覚えて不利な中盤戦を迎えない様にするのが重要になって行った。

一方、混合解法へと近づいているゲーム、例えばポーカーとかパンダンテとかYomiでは、単なる定石の記憶に集約される事はない。対戦相手を観察して反応するのは相変わらず重要だ。そしてついに完全な混合解法の解明に至ったとしても(Yomiでは我々が生きている間には無理だろうが)、なお全てのプレイヤーがドンキースペース内にいる。上級プレイヤー達も全ての局面で全く混合解法通りにプレイできているわけではない。誰もが何らかの点でドンキースペースにおり、誰がどのぐらいの位置にいるかそれぞれ意見が分かれる。対戦はある意味でその論争を決着させる手段である。「この局面では42%の確率でガードすべきだろう」とある人が言い、別の人が60%だと主張する。そして対戦相手の「間違った」近似解を利用しようとする。そもそもそれを見つけられればの話だが。

ゲームデザインの観点から言えば、混合戦略型のゲームは解析可能性との戦いで本質的に有利である。たとえ解法が見つかっても面白いままでいる様にゲームを作るのは、最終的に定石の暗記だけで何も意思決定をしなくなる作り方よりもだいぶ安全なのだ。

 

純粋解法ゲーム制作 vs 混合解法ゲーム制作

先に説明した様に、純粋解法を持つゲームを作るのはいささか危険である。もちろん十分にゲームが奥深ければ、解法が見つかるまでには相当な時間がかかる。チェスや囲碁は何世紀も遊ばれているが完全な解法は見つかっていない。だが一方、純粋解法のあるゲームを作るという事はそういった古典と同様の耐久力が求められるという事でもある。例えばチェッカーは既に解法が見つけられてしまった。更にたとえチェスと同じくらい深いゲームを作ったとしても、そもそもチェス自体が定石の進歩とともに記憶のゲームと化している。対戦ゲームにとってはいささか不幸な運命と言わざるを得ない。

更に皮肉なのはこうだ。完全情報ゲーム(決断を下す全ての瞬間においてゲーム内の全ての情報が明らかになっている)でランダム性も無いというと「実力主義」に聞こえるだろう。もし実力の出るゲームが好きならば良さそうに見える。しかし実際は、これによってゲームに純粋解法が生まれる事を保障してしまい、ゲームの実力(その場の判断)よりも定石の記憶が最後にはずっと重要になる。不確定要素や、隠れた情報や、ランダム性が入っている方が実はずっと実力が出やすいのだ。

ゆえにゲームデザインでは、そうした不確定要素なり隠れた情報なりランダム性なりを採用する事をお勧めする。ランダム性というのはある種不名誉な烙印を押されているが、純粋解法によって解決されてしまうのを防ぐには有効な道具である。

 

KONGAI

私の作ったKongaiというゲームはその例だ。プレイヤーはターンごとに2つの決断を行い、そのどちらもダブルブラインドである。つまり相手も同時にその決断をして同時に公開する。これは解析可能性との戦いをずいぶん助けてくれる(完全情報ゲームでなくなる)し、そもそもこのゲームは何らかの隠れた要素が無いと非常に解決しやすくなってしまう。またポケモン(Kongaiの元になったゲーム)の様に命中率や追加効果発動率という形でランダム性を入れる事でも解析可能性に対抗している。こうした命中率のおかげで数手先を読むには非常に大きな可能性の分岐技を計算しなくてはならなくなったのだ。

Kongaiプレイヤーの中には最適解を計算するのが好きな人もいるが、その場合はまず単純な状況から始めなくてはいけない。特定のキャラクターの組み合わせ同士で、特定のアイテムを装備し、それぞれ最後の1人まで追い詰められて交代や横入りができず、HPも残り僅かという状況だ。この小さな局面ですら数十ページにわたる分析でようやく正しいプレイングが計算できるのである。ゲーム全体に同じ計算を適用するのはほとんど不可能だろう。

 

結論

対戦ゲームはできるだけ解析不可能でありつつ、同時にプレイヤーに理解可能でなくてはいけない。純粋解法のあるゲームは実力主義に見えるが、時間が経つにつれて単なる定石の暗記へと縮小していく。ところが混合解法のあるゲームはずっと長い期間にわたって戦略的な面白みを維持する。

混合戦略型のゲームを作るには不確定要素や隠れた情報やランダム性を入れる事だ。ターン制でなくリアルタイムであればこの点では有利だろう。

 

原文:http://www.sirlin.net/articles/solvability