翻訳記事:勝つ為に戦う(28)

これは翻訳記事です

 

最強の条件

ここまで数年をかけて最強のプレイヤーが備えるべき条件を考察して来た。では無敵のプレイヤーにただ一つの典型があるのだろうか? それとも勝利への道は複数あるのだろうか? 全ての競技ゲームは基本的に同じ性質を求めるのか、それともゲームごとに大きく異なるのか? これは大きな問題であり、本書の範疇を超えるのだが、ひとまずそれに触れてみよう。

ビジョナリー・カンパニー」という本では似たような問題を提起している。業界で最高の会社を作るにはどんな条件が必要か? もしこの本がただ単にナンバーワンの会社だけを集めて比較していたら、「どこも従業員と社屋を持っている」という様な共通点を見つけるだけであったろう。「社屋を発見する」のを避けるため、ビジョナリー・カンパニーでは様々な業界のトップ企業と二番手企業をそれぞれ比較している。トップと二番手は多くの共通点を持っていたが、問いの本質はどのトップも持っていてどの二番手も持っていない様な性質の組み合わせが存在するかどうかだ。そこで私は最高のプレイヤーとそのすぐ下とを分けるものが何かを割り出すことにした。

まず最も重要だと思う性質をリストにまとめ、様々なゲームのトッププレイヤーを観察し、どれが二番手たちとの差であるかを考えた。これは非常に個人的、非科学的、かつ私の知っているゲームに偏っており、あくまで参考に止めて欲しいのだが、それでも私はこれに価値があると信じている。

まずこれが私の最初に考えた金メダリストの持つ性質である:

  • 大会への慣れ
  • ゲームの深い知識
  • ゲームが好き
  • 精神的強さ
  • 勝敗と成長への心的態度
  • 技術(大抵は操作精度)
  • 柔軟性
  • 同じジャンルの知識や技能
  • 読み
  • 状況判断

 

大会への慣れとゲームの深い知識

門外漢からすると、どの性質も競争に重要そうに見える。繰り返しになるが、そのうち幾つかは上級プレイヤーと最高のプレイヤーの差ではないのだ。例えば大会への慣れは上級者ならトップ10に入るのにすら前提条件として必要なものだ。ゲームの深い知識も確かに上級者とその他大勢の差ではあろうが、最も知識の多いプレイヤーが最強である様なゲームは見た事がない。

 

ゲームが好き

ゲームが好きである事はかなり正解に近そうだ。トッププレイヤーは他のトップ10に比べて純粋にそのゲームが好きである事が多い。そのゲームが好きであればトップはより長くトップに留まれるだろう。しかしそのゲームが大好きだけれど下手なプレイヤーも多数おり、トップの決定的な要因とは言い難い。

 

精神的強さ

メンタルの強さはかなりの有力候補だ。そもそも定義上、トッププレイヤーとは数時間に及ぶ大会を戦い抜くだけの集中力と意志力を持った人間である。言うだけなら簡単だが、これを実際にやるのは非常に難しいという事を強調しておきたい。自分ならと思うかも知れないがそれなら私だってそれなりのものだ。それだけ自信があっても、いざ大会になると次のラウンドで負けて終わるかもと考えてしまい、勝ったらその次に当たる筈のスタープレイヤーの方には考えが行かないものだ。そういう考えは最悪であるし、精神の弱さでトップ10に止まっているプレイヤーもいるだろう。しかしそれよりもっと重要な要素がありそうだ。

 

勝敗と成長への心的態度

これは少し込み入っている。一見するとトッププレイヤーの中にもとんでもなく態度が悪いのがいる。相手への敬意に欠ける鼻持ちならない王者が大勢いる。しかし、常にそうだったわけではない。そうした王者も山登りの途中ではずっと態度が良かったのだ。どうやら権力は腐敗するらしい。最初から態度が悪かったプレイヤーは壁を越えるのに苦労する。してみると、心的態度はトップの条件に含まれている様だ。確かにひどい態度を全てのレベルで見かけるだろうし、下手糞な紳士もいるだろうけれど。

 

技術

理論上、枯れたゲーム(歴史が古く新たな発見が殆ど無い様なゲーム)では技術は決定的な差である様に思われる。ところが実際には違う。もちろん難しい操作ができる事は決して悪くないし、優れたプレイヤー達は操作の面でも優れている。しかし最高のプレイヤーは最高の操作技術者ではない。となるともっと重要な部分がある様だ。

 

柔軟性

柔軟性は色々と多義な単語である。まずその逆、計画性を考えてみよう。例えばゲームの「システム」がどう動いているかに強い関心を持つプレイヤーがいる。彼らはルールに非常に詳しく、そのルールが引き起こす結果も、どういう状況を引き起こしたいかもよく知っている。そしてそういう計画を立てる。彼らは特定の状況で、例えば相手が5つの合理的な選択肢を持っていると解明する。そこでリスクを最小に、リターンを最大にする対処法を見つける。その最善というのは例えば、選択肢1と2には引き分けで、3と4には小さな有利、5には大きく有利かも知れない。計画的なプレイヤーはその状況での損得を全て勘定し、どうやってその状況に持ち込むか「解法」を見つける。一度、あるプレイヤーが人気のゲームのよくある対戦カードで誰にも負けないと豪語していた。何故かと聞くと、「アルゴリズムを知っているから」だと言う。「アルゴリズムを知っている」は私の座右の銘だったし散々それでからかわれた。計画的プレイヤーにはまことに似つかわしいモットーだろう。

ところが驚いた事に、この性質は本当のトップにはあまり見られない。てっきりゲームシステムを深く理解して全ての読み合いにおける最適解を知っているプレイヤーがトップへ行くのだろうと思っていたのだが。もしかすると計画的なタイプというのがそもそも稀で、人口に占める割合と同様にトッププレイヤーに占める割合も少ないのかも知れない。あるいはそもそも、計画性が柔軟性に比べて劣るのかも知れない。トップの条件は何かと聞いて回ったところ、多くのプレイヤーが柔軟性を3位以内に含めた。そもそもそれは回答リストに入れていなかったのにだ。何人かは柔軟性こそプレイヤーの強さを測る主たる指標だと言った。そのプレイヤーは素早く新しい状況に適応できるか? もし柔軟なプレイヤーが先の状況(相手に5つの選択肢)に置かれたらどう反応するか? 状況の全体像を把握する必要すら無い。相手は選択肢5を選ぶと読むし、断じてそれは正しいのだ。

柔軟性に関してこんな逸話がある。格闘ゲーム史において”B3″大会は金字塔である。ほとんど無敵だった2人のプレイヤー、ジョン・チョイとアレックス・ヴァイエがストリートファイターZERO 2で初めて対戦したのだ。どちらも破竹の勢いでコマを進め決勝で激突した。この時ヴァイエは新しいテクニックを初めて披露した。大会の決勝まで温存していたのだ。良い武器を隠し持っておこうとすると100回に99回はその前に負けるのだが、この時はまさにフィクションの様な凄まじい状況が現実になった。ヴァイエの使ったテクニックは素人目には分かりにくいが、結局このゲームにおける最強の手段となり、戦い方そのものを根本的に変えてしまった。”Valle CC”という名のこのテクニックは単なる小手先の技ではなく、最強にして、ゲームを変える最大の発見だったのだ。

この前代未聞の環境でチョイはどうしたか? 殆どのプレイヤーなら何をやられているかも分からないまま全敗していたろう。チョイも全てを見破ったわけではなかったが、ルールが突然変わってしまった事には気づいていた。結局は敗れてしまったのだが、公平を期すために言っておこう。チョイは戦い方を変え、相手のテクニックをどんどん食らわない様になった。そしてついに同じテクニックをヴァイエにやり返した! ヴァイエは多くのラウンドを取ったが優位はどんどん薄れていった。観衆はチョイが食らいつき、流れを変えつつある事に非常に驚いた。決勝戦は理論上最多のゲーム数に達した。第14ゲーム、最終ラウンドの残り体力1ドットまでもつれ込んだのだ。紙一重の差でチョイは負けた。そして今日でも、この試合は格闘ゲームにおける柔軟性の最も素晴らしい発露とされる。チョイはたとえ計画を練っていてもほとんど役に立たなかったろう。柔軟性はほとんどの人が最強とそれ以外を分ける稀な性質だと考えている。もちろんヴァイエについても間違った印象を持って欲しくはない。彼は堂々たるナンバーワンであり、あまり計画的とは言えず、何度も何度も柔軟性の面で強さを発揮しているのだ。

 

同じジャンルの知識や技能

トップの条件が同じジャンルの他のゲームというのは少し妙だろう。1つの分野で数多のライバルに勝ち続けている者がどうして他のゲームにも同じだけの時間と情熱を注げるのか? たとえそれが同じようなゲームであっても? 確かに全ての金メダリストがこの性質を持っているわけではないが、そういう人は驚くほど多い。とはいえ私の意見ではこれは優秀さの原因というより結果だろう。つまり競技ゲームの中核には個々のゲームを越えた共通部分があるという事だ。最強のプレイヤーはその中核部分に適応し、別のゲームにもそれを持って行ける。更に言えばトッププレイヤーは計画的であるよりも柔軟であり、ゲームシステムの深い理解が無くとも上手いのだ。似たようなゲームを始めると最初はよろよろ、基本だけを学び、すぐにもっと知識のあるプレイヤーが仕掛けるとっておきのテクニックをかわせる様になる。

 

読み

「読み」と柔軟性はしばしば車の両輪だ。計画的なプレイヤーはよく研究した特定の状況で読み合いに勝つ。どういう行動が合理的でどれだけの結果になるかを知り、知識に基づいて次に相手のする事を予測する。ところが柔軟なプレイヤーはもっと直截にいきなり「相手が何をするか分かる」のだ。こういう非科学的な言い方は心苦しいのだが、どうもこれは神秘的、右脳的な働きで説明が難しい様である。ともかく確実なのは、トップ10ともなると明白に読みが上手いという事だ。実際に見ないと信じられないかも知れないがともかく騙されたと思って聞いて欲しい。私は何度も何度も何度も目にしたのだ。ある種のプレイヤーはただ単にほぼ毎回「読み勝つ」のだ。私はずっと読みこそがトップとその他を分ける最も重要な要素だと思っている。これこそがトップにありそのすぐ下に無い明白な要素だからだ。読みの力を恐れられ噂を立てられるプレイヤーがいつも8位に留まる所など見たことが無い。そういう噂が立つのは最強の中の最強、トッププレイヤーだけだ。

ゲームには読みが重要なものもそうでないものもある。ポーカーは重要な部類だろう。だが格闘ゲームの中には、他の格闘ゲームに比べて読みが10倍も重要なものがある。バーチャファイターだ。このゲームは非常に複雑なじゃんけんで出来ている。テンポの速さゆえに読みのウエイトが極めて大きく、何か大きな手がかりでも無い限りまともに相手の行動を予測している時間はない。

バーチャファイターはプレイヤーを読み合いの猛連射に叩き込む。相互作用、つまり1秒あたりの読み合いの数が極めて多いために読みの達人が頂点に立つ。計画的なプレイヤーもシステムの理解によって強くなれるだろうが、無敵のプレイヤーにとって最も重要なのが読みである事は論を待たない。バーチャファイターは単に誰が一番読み合いに強いか判定しているだけなのだろうか? それとも他のゲームにも増してプレイヤーの読み合いスキルを鍛えているのだろうか? 答えは判然としないだろうが恐らく両方だろう。

日本にこんな親指ゲームがある。全てのプレイヤーは両方の手を揃えて出す。1人が「1、2の」に続いて(タイミングを合わせるため)数字を言う。そして例えば「2!」と言ったら全てのプレイヤーが一斉に親指を1本か2本上げる。あるいは両方とも伏せておく。自分自身も含めて何本の親指が上がっているかを当てるのだ。間違っていたら次のプレイヤーの番になる。当たっていたら片手を下げて回してもう一度だ。両方の手を下げたプレイヤーの勝ちである。ただし例外として、「0」と言って当てたら即座に勝ちになる。

この日本の親指ゲームは完全に読み合いだけである。どうしてあるプレイヤーが他のプレイヤーより強いのか論理的に説明は付かない。そして格闘ゲームプレイヤーの集まりでこれをやると、いつもバーチャファイターのプレイヤーが勝つ。読みは説明し難い見えざる力だが、本当に存在するのだ。そして真の強者だけがそれを持っている。

 

状況判断

「状況判断」とか「価値評価」というのは色々な駒なり、技なり、戦術なり戦略なりの相対的な価値を判断する能力である。これは恐らく競技ゲームで最も重要な部分だろう。読みが敵を知る事ならば、状況判断はゲームを知る事だ。

ある意味で、この技能は定義上全ての競技ゲームの本質である。ゲームとは意思決定を下すものであり、局面や駒の価値を知らなければどうしようもない。状況判断というのはあまりに漠然としていてこの位置に置くのは異論もあろうが、私の知るトッププレイヤー達を見る限りこれは1つの技能なのだ。

トッププレイヤー達はしばしば、他のプレイヤーに理解できないおかしな行動を取る。ここで価値判断の正規分布曲線を描いてみよう。つまり、大半のプレイヤーは分布の真ん中あたりにいて、何が良くて何が有効かの共通認識を持っている。これがゲームにおける「常識」とか「定石」だ。しかし曲線の端には異なる認識を持ったプレイヤーがいる。彼らから見て、定石のいくつかは強豪相手には通用せず無価値である。逆に無価値と思われている技や戦術も、強豪は極めて限定された上手い使い方を見つけて活用する。要するに、彼らはより高いレベルでゲームを理解している。論理的で明確な分析か、説明不可能な直感かはさておき、ゲームを異なる眼で見て異なる相対価値を見出しているのだ。時にはゲームの定石が間違っている事もある。大勢のプレイヤーが正着と考えている事の方が間違いで、本当に優れたプレイヤーだけがその鋳型から抜け出せるのだ。そしてしばしば、どうしてある要素をそんなに重視するのか論理的に説明し切れない事がある。どうやらある答えにたどり着く頭のプロセスと、それを他の人々に説明するプロセスは根本的に異なるらしい。達人の技は見て盗む方が、どうしてそうするのか聞くより有益な様だ。

この部分が具体化したのが、私が新しいゲームに挑戦しようと思った時だ。そのゲームに詳しく、しかもかなり上手い知り合いがいたのでアドバイスを求めようと考えた。どうやって上手くなったらいい? だが結局は聞かなかった。なぜか躊躇したのだ。最初これは私の性格上の問題で、彼に頭を下げるのが理由もなく嫌だったからだと思った。だが本当の理由は別にあった。私は彼の状況判断力を信じていなかったのだ。別にこのゲームについて何かを知っていて彼の考えと衝突しそうだったわけではない。そもそもほとんど何も知らなかった。私が知っていたのは彼の性格と、他のゲームでのスタイルや戦績である。彼はいつも明確な、はっきり言語化された論陣を張ってこれこれの戦術なりキャラクターなりが良いの悪いのと主張した。何しろ証拠と論理に基づいているので反駁は難しかった。だがそれでも、ひとたび大会が開かれるとどのキャラクターや戦術が良いかは全く違う結果になったのだ。

そして気づいた。私の知るトッププレイヤー達は判断力がそれぞれ非常に高かった。例えば格闘ゲームで低く評価されているキャラクターや、誰にも上手く扱えない様なキャラクターを選ぶことがあった。彼らはおかしな事をやっているが、それは何が本当に良いか他に誰も気づいていないからだった。おかしな要素を自分で発見する「先駆者」である事は少なかったが、それを目にした時に価値を見出し、同輩に先んじて取り入れる力があった。

金メダリストの条件として判断力を読みよりも高い位置に置いた理由はこうだ。ほとんどのゲームでは読み合いの機会が沢山あるが、そもそもゲームの中で行う全ての事は判断力の測定である。

ここで判断力を2種類に分けよう。計画的なものと柔軟なものだ。チェスを例に取ると、いわゆる「古くからの知恵」で駒の価値はこう見積もられている:ポーンは1点、ナイトとビショップは3点、ルークは5点、クイーンは9点、キングは無限大の価値がある。だがこの知恵は果たしてどれぐらい正しいのか? 恐らく全てを勘案するとビショップはナイトよりほんの少し大事だろう。もっと言えばポーンの本当の価値はどれぐらいだろう? チェス理論の大きな進歩のひとつに、チェスはポーンの戦いだという発見がある。ポーンの陣形が開いているか閉じているかで盤面展開は非常に異なる。

ポーンはチェスの魂なり。

—哲学者、音楽家にして1750年の非公式チェス世界王者

 

この種の判断力はゲームシステムの深い理解と、最終結果を決めるのにどの部分が重要であるかの発見から生まれる。計画的なプレイヤーは往々にしてこういう語法で物を考える。

もう一方の判断力はもっと個別の問題に注目する。どの一般原則が正しいかではなく、今この状況におけるそれぞれの手の相対価値を考える力だ。そう、確かにビショップは原則としてナイトと等価だろうが、ある状況ではビショプに巨大な価値がありナイトは無価値かも知れない。この種の判断力に優れたプレイヤーは根底のゲームシステムや理論を研究しなくとも、与えられた局面で何が良く何が悪いかが立ち所に分かってしまうのだ。

バーチャファイターが読みスキルの測定であったのと同様、M:tGは状況判断力の測定である。プレイヤーは何十万種ものカードを組み合わせて60枚(またはフォーマットによっては40枚)のデッキを作る。一見強そうだが実は弱いカードもある。弱そうに見えて強いカードもある。ほぼどんな状況でも他より強いカードもあるが、限られた状況では遥かに弱かったりもする。信じられないほど強いがそれを使ってデッキが作れない様なカードもある。弱いカードだが最強のデッキで使われるという事もある。デッキの残りの部分が非常に強く、かつどうしても特定の機能を必要としていて、その機能を持っているのが弱いカードであっても入れざるを得ないという場合だ。

最も難しい教訓、つまりM:tGのプレイヤーが繰り返し繰り返し躓く部分というのは恐らくこれだろう:素晴らしいカードを組み合わせて素晴らしいデッキを作ったとしても勝てるとは限らない。もっと良いデッキが他にあるかも知れないのだ。素晴らしいデッキが組めるとワクワクするだろうが、「素晴らしいデッキ」というのは何も無いところに浮かんでいるわけではない。往々にして、それと全く違う事をする全く違うデッキがどこかにあり、そしてずっと強かったりする。もちろん自分で組んだ方のデッキが悪いわけではないのだが、もっと良いデッキを使わない機会費用はあまりに高い。要するに問題はデッキ同士の相対価値であって絶対価値ではない。そしてこの教訓を得て実際にカードプール中で「最強」のデッキを見つけたとしても、それを使うのはやはり下策だったりもする。「メタゲーム」の判断もしなくてはいけないからだ。出ようとする大会の他の参加者がどんなデッキを選ぶかという全体像である。もしかすると「最強」のデッキの事はみんな知っていて、それへの対策だけに特化したデッキを持ってくるかも知れない。だがそれでも「最強」のデッキが結局は勝って散々罵声を浴びるかも知れない。つまり結局はそれぞれの相対価値の判断という事だ。

いわゆる「リミテッド」(シールドとドラフト)形式では臨機応変に価値を判断して使うカードを選ばなくてはならない。リミテッド戦ではどのデッキが良いかという定石はあてにならず、プレイヤーによってはこちらの方が判断力がより問われるとして評価する向きもある。

M:tGは面白い事例である。あまりに運の要素が大きいと文句を言うプレイヤーもいるが、それでも強いプレイヤーは大会で勝ち続けている。ドイツのカイ・ブッディが現在のところ世界最強であるが、その最大の要因は彼の状況判断力が抜きん出ているからだろう。特に後者の、個別の状況ごとの柔軟な判断力だ。野生の雑種犬が素晴らしいカードでマーフォークの物あさりが良いカードである事は誰もが知っている。ではどちらがより良いのか? こういう問題はフォーラムやチャットルームで果てしなく議論されている。だがもっと重要なのは、特定の局面でどちらにより価値があるかという事だ。双方の残りライフ、残り時間、手札の枚数、手札の中身(何枚かは腐っているかも知れない)、既にプレイされた他のカードその他諸々の条件を考えなくてはならない。では、込み入った局面で自分の雑種犬と相手のマーフォークを相打ちにする選択肢があるとして、それが良い手かどうか誰に分かるのだろうか? 答えはこうだ。カイ・ブッディなら分かる。

 

原文:http://www.sirlin.net/ptw