翻訳記事:勝つ為に戦う(31)

これは翻訳記事です

 

 

権力を振るう

 

どれだけの時間が与えられるかは決められない。決められるのはその時間で何をするかだ。
—指輪物語 ガンダルフの格言……を少し改竄

 

権力を持った後、一つの道は圧制者と化して君臨する事だ。そうする事は全く可能だ。怪しいルール裁定や不正調査にいつも当事者として顔を出す胡散臭い存在。トラッシュトークで対戦相手をやり込める、下品で不快な存在。そういう悪役になれる。そしてそうするプレイヤーもいる。世界の片隅で手にした権力に酔った者もいれば、最初からそういう人間もいる。対戦ゲームのコミュニティは大会に勝つ能力ばかりを評価するので他の問題には寛容だ。憎まれつつも欠かせない存在になるかも知れない。大会の審判は何かにつけて人生の邪魔をするだろうが、この道を選んだ者はそういう悪名すら楽しんでしまうだろう。

ただ忘れがちなのは、コミュニティにいる期間は暴君でいられる期間より大抵ずっと長いという事だ。ここに来るまでに多くのプレイヤーに出会い、友達や仲間を得て、ゲームという共通の関心で繋がっているはずだ。連勝が終わっても関係は終わらない。新しい王に取って代わられた後、果たしてどういう者として記憶されているだろうか?

 

我が名はオジマンディアス、王中の王なり。我が偉業の前に戦慄せよ!

—英国の詩人、パーシー・ビッシュ・シェリー

 

シェリーの詩はある旅行者が砂地の真ん中に朽ち果てた台座を見つけた所を描いている。この王の偉業は長い間忘れ去られていたが、怒りと傲慢さは残っていた。偶然にも”Ozy”はギリシャ語の”ozium”から来ており、「息」とか「空気」を表す。 “Mandias”はギリシャ語の”mandate”で「支配する」という意味である。つまりオジマンディアスは「空気の支配者」あるいは「虚無の支配者」という事なのだ。ゲームコミュニティでの権力に酔い潰れる前に少しこの事を考えておこう。

 

善と悪

強いプレイヤーの行動を善とか悪と断ずるのは想像以上に難しい。2つの例を考えよう。殺戮者と教師である。

 

殺戮者

これはストリートファイターの伝説的なプレイヤー、トーマス・オサキの場合である。私自身は全盛期の彼と実際に対戦した事は無いのだが知り合いではある。彼の黄金期の活動について多少不正確な記述があっても許してくれる事を願う。

全盛期の彼は北カリフォルニアのストリートファイター界を支配していた。彼の「勝つ為に戦う」姿勢は広く知られていた。彼は決して「カジュアルな試合」をやらないと言われており、常に全力で、どの試合にも何かが賭かっていたり真剣な大会であるかの様に打ち込んだという。そして誰に対してもそうだった。ゲームの技量など全く無い9歳の女の子が相手でもだ。ひたすら前ステップから投げだけを浴びせ続けていた。彼は情けというものが無かったのか? そんなに嫌な奴だったのか? 私自身はトーマスは意地悪なわけではなかったと思う。単に高い所を目指していたのだ。彼は卓越の高いハードルを設け、一切妥協せずに自己鍛錬の道を歩み、どんな時でも凡庸さを受け入れたり半端な力で戦ったりはしなかったのだ。同輩達は最高のプレイを大会以外でもいつでも見られるという素晴らしい機会に恵まれた。

それで9歳の女の子はどうなのか? 多分、そもそもその対戦台に来たのが場違いだったのだろう。トーマスから見て、その子を台から早くどかした方が「正当な」対戦者が座れるという事だったのかも知れない。

 

シャドウとヴォーロン

教師の項に移る前に、TVドラマ「バビロン5」のシャドウとヴォーロンのたとえ話をしよう。このスペースオペラでは、シャドウとヴォーロンという2つの 「古代種族」が若い種族の取り扱いを巡って対立する。シャドウは混沌と不穏をもたらす。種族と種族の間に戦争を引き起こし、「同盟者」を裏切る。そしてほとんど無敵の不気味な黒い宇宙船に乗り、誘拐した超能力者に操縦させて理由もなく攻撃を仕掛ける。明らかに悪い奴らだ。

一方ヴォーロンは外交的で面倒見がよい。彼らは普段は介入せず、若い種族が自力で発展するのを見守る。ただし種族同士が手を組む為の決定的な瞬間で助けに入る。実を言えば、ヴォーロンは生命誕生の昔にあるDNAを撒いておき、時が来たら若い種族が彼らを神と見なす様に按配していたのだ。そうすれば彼らの言う事に耳を傾け、団結してシャドウの軍勢に立ち向かえる。ヴォーロンは善い人達だ。

本当にそうだろうか? 実はシャドウもヴォーロンと目的は同じだったのだ。若い種族が強く賢くなる事を目指していた。彼らは数十億年に一度現れて破壊を引き起こし、弱い種族を銀河から消し去る事で強い種族の為の空き地を作っていた。弱者を守るのは情緒的に美しいが、長い目で見れば種族の生存を脅かすと彼らは論ずる。ヴォーロンも目指す先は同じだが、それを教育と援助と平和によって実現しようとしている。

シャドウに対してはこんな批判も成り立つだろう。彼らは自分の独善的な信念を全員に押し付けている。 対戦ゲームではこれは何に当たるだろうか。実は2つの決定的な違いがある。まず、殺戮者プレイヤーは別に自分の信念を全員に押し付けているわけではない。そのゲームをやる人間にだけ適用している。地球人はシャドウの信念を無視して済ませる事はできないが、別に誰も対戦ゲームをやる事を強制されてはいない。とりわけ殺戮者のいる特定のゲームをやる様には全く強制されない。その領域へ踏み込んだのは本人の選択だ。次に、そもそも対戦ゲームの本質というのは、一方のプレイヤー(勝者)がもう一方のプレイヤー(敗者)にそのゲームをどう戦うべきかという信念を押し付ける事だ。銀河の政治においては信念を押し付けるのは不当だろうが、対戦ゲームはそもそもそういう物だ。殺戮者が勝敗こそ全てと考え、それを押し付けて来るのが嫌だという人は対戦ゲームに向いていない。止めるかその価値観を受け入れるべきだ。

シャドウのやり方は乱暴に見えるが、私がいつも言っているのはアメリカと日本のストリートファイタープレイヤーの邂逅だ。一般的に日本の方が対戦レベルは高い(理由についてはここでは踏み込まない)。日本プレイヤーの様なとんでもなく強い相手に直面した時、自分のコミュニティが弱者を切り捨てて強さを追求する仕組みになっていた方が良かったと思うのではないか? 面倒見の良い幼稚園方式は市民的美徳を備えているだろうが、日本のプレイヤー(あるいは他の強豪)と戦うには軍人の美徳だけが頼りだ。

とはいえヴォーロンのやり方も魅力的だ。誰しも自分のやり方があるし、善の旗の下に集って悪と戦いたいものだ。一人前の戦士になる前に揺籠が必要なプレイヤーもいるだろう。ゲームコミュニティ全体として見れば、新規プレイヤーを正しい方向に導く教師は必要である。そしてもちろんそうした教師がプレイヤーの総数を増やしてくれるという利益もあるし、技能の向上も利益だ。弱いプレイヤーをただ殺戮するのでなく指導する事で全体のレベルが向上し、それが徐々に向上への圧力になる。

ではどちらが正しいのか? シャドウと違い私は信念を押し付ける気は無い(少なくともこの問題に関しては)。これは各々の選択だ。私はどちらのやり方も正当だと思うし、多分ゲームコミュニティはどちらのタイプもいて初めて十全になるのだろう。だがこれは言っておく。シャドウのやり方を取れば自分自身も強くなる。ヴォーロンのやり方は弱くなる。教育は美徳であるが、教師には代価が伴うのだ。

 

教師

教師はゲームの基礎と細かい綾の両方に通じていなくてはならない。よくある間違いを観察し、批評する機会は多いだろう。だが残念なことに、批評者に金メダルは無い。あるのは勝者にだけだ。もちろん指導した後進の成功を見て満足するという報酬はあるだろうが。

教師の道には障害が多い。まず、弱いプレイヤーを助ける為に時間を使うという事は、強いプレイヤーとの戦いにそれだけ時間を使えないという事だ。次に、弱いプレイヤーにしか通じないテクニックを使う悪い癖が身についてしまう。そしてもっと悪いことに、殺戮者と違い「常に全力を出し切る」事で自分を鍛える機会が無い。教師は生徒に反撃と理解のチャンスを与えるために手加減をしなくてはならないからだ。以前の章で、強いプレイヤーはそもそも使う機会を与えてくれない様なテクニックを弱いプレイヤーに対して練習するという話をしたのを思い出して欲しい。教師はこの弱いプレイヤーの役をしなくてはならないのだ。

その間、殺戮者は自分の限界に挑み続け決して手抜きをしない。全ての瞬間に全力を出し切るのだ。弱い対戦相手は戦術の訓練にもならないだろうが、それでも常に100%の集中を保つという、大会においては重要な技能の訓練になる。

殺戮者か教師か、どちらでも好きな方を選ぶがよい。誰しも優しい教師の方を庇うが、冷たい殺戮者にも相応の美徳がある事を知って欲しい。殺戮者こそ技能の限界を広げる存在であり、不人気ではあっても極めて重要な貢献をしているのだ。

 

原文:http://www.sirlin.net/ptw