翻訳記事:選択が善ならざる時

これは翻訳記事です

GDC#25:選択が善ならざる時

2013/7/29 Soren Johnson
Game Developer誌2013年5月号に掲載された物の再掲

 

ビデオゲームの決定的性質は何よりもプレイヤーの選択である。相互作用こそゲームを映画や文学と分かつ物だ。批評家が”Dear Esther”などのデジタルコンテンツを「ゲームとは言えない」として非難するのは、往々にしてプレイヤーの選択が事実上存在しないという意味である。

しかし、選択という概念はいささかゲーム開発者によって理想化されており、「プレイヤーに介入させる」「著述をやめる」といったフレーズによって、選択の負の側面がしばしば開発において見過ごされている。それは開発者の盲点に入っているのだ。本当は、ゲームに選択を1つ加える度にトレードオフが起きているのである。

新しい選択肢が加わる事によってゲームはプレイヤーの介在度合いが高まり、同時に何か別の物を失う。そのコストは大きく分けて「過度の複雑さ」「過度の時間消費」「過度の反復」である。どれも度が過ぎれば選択の利益以上の不利益をもたらす。

 

過度の時間消費

仮にゲームを簡単な方程式で表すとすれば、[楽しさ = 意味のある選択 / プレイ時間]となるだろう。言い換えれば、同じ程度にプレイヤーの選択が介在するゲームが2つあれば、必要プレイ時間の少ない方が面白いという事である。そしてこの比較は容易ではない。新要素は意味のある選択を増やすが、果たしてそれはプレイ時間の増加に見合っているだろうか?

例として、”Dice Wars”と”Risk”はどちらも似た様な領域征服ゲームであり、この問題に違った答えを出している。どちらのゲームもプレイヤー同士がダイスを振って戦い、勝者は次のターンにより多くの軍隊を手に入れる。Riskの場合、軍隊をどこに置くかはプレイヤーが自由に決める。状況に応じて意味のある選択をするのだ。ところがDice Warsの場合、軍隊はゲームによってランダムに配置される。それによってプレイ時間が短縮される。

どちらのデザインが正しいのか? 答えは主観的にならざるを得ない。適切な問いは、プレイヤーが時間をかけて軍隊を配置する事によって戦術がもっと意味のある物になるのか、なるとすればどの程度改善するのかである。結局のところ、Riskのプレイヤーはより意図的な戦略を採用できるが、それは軍隊配置フェイズで消費する時間に見合っているのだろうか?

答えはプレイヤー層によって異なるだろう。Dice WarsはカジュアルなFlashゲームであり、Riskは伝統的なボードゲームだ。だが開発者は自分の決断がどういう影響をもたらすか理解していなくてはならない。Riskの軍隊配置は時々ルーチンワークと化すし、Dice Warsで意外な配置に対処するのは新しい種類の楽しみだ。結局の所、Riskはプレイ時間を延ばす要素に関してきちんとそのコストを正当化する必要がある。

 

過度の複雑さ

時間というコストの他に、プレイヤーに与えられる選択肢はそれぞれ複雑さを増し、認識力に負荷をかける。これもバランスを取らなくてはならない。多くの選択肢があればそれだけ悩む。5つの技術からどれを研究するか選ぶのと、50の技術から選ぶのは大分違う。プレイヤーは自分が選んだ選択肢だけでなく選ばなかった選択肢についても知ろうとする。否定すべき選択肢の数が増えれば、それだけ悩む理由も増える。

ゲームはその種類ごとに適切な選択肢の数がある。ゲームを管理可能な範囲に収めつつ、プレイヤーを圧倒しない適度な面白い意思決定を用意する。BlizzardのRTSは種族ごとのユニットの数がずっと一定だ。”StarCraft”も、”Warcraft 3″も、”StarCraft 2″も平均して1種族あたり12ユニットである。StarCraft 2に関しては、新しいユニットを追加した分だけ古い物を削除したと開発チームが明言している。

実際、RTSというジャンル自体がその子孫に人気を奪われつつある。”League of Legends”や”Dota 2″に代表されるMOBA(マルチプレイ・オンラインバトルアリーナ)ジャンルである。元々これはWarcraft 3のMODで”Defense of the Ancients”という名前が付いていた。通常のRTSと違い、プレイヤーは軍隊全てを操作するのでなくヒーロー1人だけを動かす。

この変更によりプレイヤー層は大幅に広がった。複雑さが大きく減少し、それによって認識力への負荷が軽くなったのである。プレイヤーはRTSの様に鉱山や兵舎や農民や兵士の集合を全て管理するのでなく、自分のキャラクター1人の事だけを考えればいい。考えてみよう、カメラが戦場全域を移動するのでなくヒーローだけを追い続けるとしたらどれだけインターフェースが簡素になるだろうか。それによって注意力の配分というストレスの多い作業をしなくて済む様になる。

もちろん、この変更はRTSから多くの意味ある選択を奪ってしまう。プレイヤーはどんな建物を作るか、どの技術を研究するか、どのユニットを作ってどこに送るか決める事ができない。これらの選択は全て抽象化されるか自動化される。ここでもまた、適切な問いはこうだ。失われた選択肢と、それがあった場合のRTSの複雑さは果たして見合っているだろうか?

MOBAゲームの成功が示しているのは、RTSによって開かれた戦争のスリルと迫力をプレイヤーは楽しんでいるものの、全ての要素を操作するという認識力の試練は必ずしも楽しんでいなかったという事だ。同様に、全てのユニットを操作しないRTS “Gratuitous Space Battles”の開発者のクリフ・ハリス氏も同様の点を指摘する。「GBSはプレイヤーが300隻の宇宙船を操作できるとは期待しない。そんな事は無理だ。それは最初から選択肢から外す。賛否はあるが、10万人以上のプレイヤーがこれを購入する程度に楽しんでいる以上、この考え方をするのは私だけではあるまい」

 

過度の反復

これは少し意外かも知れないが、ゲームの自由度が高過ぎると単なる反復作業と化す恐れがある。よくある例は、非常に広範だが基本的には条件の変わらない選択をセッションごとにさせるという物だ。プレイヤーは往々にしてお気に入りの選択の組み合わせを開発し、そこから抜け出す事をやめる。

プレイヤーが様々な環境に適応しなくてはならない場合、こうした選択肢の集合は上手く行く事もある。Civilizationシリーズにおけるランダム生成マップはプレイヤーが色々な道順でテクノロジーツリーの進める様に求める。しかし、ほとんどのゲームは選択肢を減らす方が全体としての多様性が恐らく増すだろう。

“Atom Zombie Smasher”の場合を考えてみよう。プレイヤーは街からゾンビを一掃するのに3つまでの武器(狙撃銃とか迫撃砲とか道の封鎖)を使える。しかしこれらの武器はミッションごとに8つの中からランダムに選ばれる。つまりプレイヤーは街とゾンビの配置だけでなく、武器の組み合わせという環境にも適応しなくてはならない。お気に入りの組み合わせにずっと頼る事はできず、意外な組み合わせがどうやったら上手く行くのかを発見せねばならない。これによりゲームプレイは毎回違った物になる。

似た例で”FTL”の場合、乗組員や武器や強化パーツはゲームごとに違った物が現れる。店で売っている物はランダムに変わるのだ。よってこれは完璧な単一の戦略を見つけるゲームではなく、手に入る物を組み合わせて最適な道筋を探すゲームになっている。簡単に言うと、Atom Zombie SmasherとFTLの多様なゲームプレイは選択肢を減らした結果なのだ。

これと全く逆に、厖大なカスタマイズの選択肢を持つゲームは大抵の場合いくつかの最適な組み合わせに収斂する。柔軟なシステムが結局台無しになるのだ。「アルファケンタウリ」にはデザインワークショップという物があり、プレイヤーが数値や能力を組み合わせて自由にユニットを設計できた。しかしすぐに最も有効な組み合わせが明らかになり、この要素はゲームの中心から外れてしまった。

然るに、プレイヤーに余りに多くのコントロールを与える、つまり選択肢や介入の余地が多過ぎると、ゲームのリプレイ性が下がってしまう場合があるのだ。実際、”Diablo”は習得するスキルを選べなければ今より面白くなるだろうか? ゲームは確実に別物になるだろう。意図した方向に進められないのは熟練者を遠ざけるだろうが、ゲームプレイの多様性が増える事によって別の層に訴えられるだろう。スキル割り振りがランダムであれば、ツリーのうち本来行かなかった筈の部分も探索する事になる。重要な点は、プレイヤーの選択の減少が必ずしもゲームを悪くしないという事だ。

究極的にはゲームデザインはトレードオフの連続である。そして開発者が認識すべき事は、プレイヤーの選択それ自体も他とバランスを取るべき一要素に過ぎないという点だ。プレイヤーの介入はゲームの中核的な強みだが、必ずしも他の全ての要素に無条件で優先するわけではない。即ち簡潔さ、洗練、多様性である。

 

原文:http://www.designer-notes.com/?p=609