翻訳記事:ゲームに物語は必要か?

これは翻訳記事です

GDC#24:ゲームに物語は必要か?

2013/5/13 Soren Johnson
Game Developer誌2013年2月号に掲載された物の再掲

 

物語とゲームの結婚はなかなか上手く行かない物である。大昔から、ゲーム開発者は自前で物語を書き、プレイヤーに決まった開始地点と決まった道筋と決まった終着点を与えて来た。その一方、決まった物語が無いために人気を博すゲームもあった。ゲーム体験とは物語を紡ぐ過程であり、開発者の自作ノベルに従う過程ではないのである。

全ての根底にあるのはドグマの対立だ。プレイヤーの選択が物事を決めるとしたら、開発者の考えた物語の入り込む余地はあるのだろうか? ゲームをゲームたらしめる物が相互作用であるならば、開発者のねじ込む筋書きはプレイヤーから主役の座を奪ってしまうのではないか? 言い換えれば、「ネタバレ」のあるゲームは本当のゲームと言えるのか?

誤解の無い様に言っておくが、「テトリス」などのアブストラクトゲームを除きほとんどのゲームは物語を活用している。面白い背景設定、特有の雰囲気、印象深いキャラクター、魅力的な会話、劇的な戦いなどなど。最高のゲームには他のメディアに負けない優れたキャラクターがいる。”Portal”のGLaDOSや”BioShock”のRaptureを思い浮かべてみよう。

しかしながら、文字通りの「物語」、即ち何がどの順番で起きるかの筋書きはゲームの相互作用性と調和させるのが難しい。書籍や映画の筋書きは作品の中核であり、他の要素はそれを支える為にあるが、ゲームの場合はそれと事情が違う。

海賊の時代を舞台にしたゲーム”Pirates!”を見てみよう。シド・マイヤーはこのゲームを作る際、単一の海賊物語を書いて筋書きと結末を決めるのでなく、海賊ものにありがちな小さな話を大量に散りばめた。プレイヤーは何をするか自由に選択できる。生き別れの妹を助けたり、邪悪なスペイン人と決闘したり、反乱を生き延びたり、宝を探したり、脱獄したり、市長の娘を口説いたり。ゲームの終わりにはプレイヤーの海賊人生における重要な出来事を振り返り、人生の浮き沈みを物語にまとめる。こうして出来上がった物語は決められた筋書きに比べると出来が悪いかも知れないが、プレイヤーにとってはかけがえの無い自分だけの物語だ。

だが全てのゲームが動的なストーリー生成に適しているわけではない。決まった背景の方が適するテーマやメカニクスもある。勇者は邪悪な魔法使いを倒すべきだし、兵士には敵が必要だし、配管工はお姫様を助け出さなくてはならぬ。この場合の解法は薄く味付けをする事だ。物語を直接伝えるのでなく示唆する。筋書きという考えを離れ、プレイヤーに世界を探索させる。そして最後にプレイヤーの頭の中で物語が組み上がる様にするのだ。

“ローリングストーンズ曰く、歌詞は判読不能の寸前が一番印象的である” – ポール・エヴァンズ、ローリングストーンズアルバムガイド

実際、ゲームにおける物語の役割は音楽における歌詞の役割に似ている。歌詞は文脈、雰囲気、背景のかけらである。聴衆には想像の余地が残される。わざと聞き取れない部分を作って意味を曖昧にしている事もある。果たして小説で同じ事をするだろうか? それに外国語の曲が好きな人もいる。一体どれだけの人が外国語の本をわざわざ読むだろうか? 歌詞の意味は最重要ではない。優れた曲は解釈の余地を残しておく。同じ様に、ゲームの物語もプレイヤーに自由を残すべきなのだ。

2Dパズルアクション”LIMBO”はその雰囲気、モノクロの色調、ミニマルな音楽で知られている。このゲームの物語は、少年が妹を捜すという原始的な冒険を軸に展開し、謎を残して終わる。どうして少年は暗い神秘的な森で妹を捜しているのか? どうして蜘蛛の化物に追われているのか? 襲いかかって来る子供は誰なのか? “LIMBO”は完全に一本道のゲームだが、普通の会話によって答えが与えられないため、物語はプレイヤー自身が紡がなくてはならない。

ミニRTS”Atom Zombie Smasher”もこれに似ている。このゲームでは色とりどりの兵隊が架空の南米都市でゾンビの大群と戦う。調味料になるのが数々のヨタ記事(「エスポージトは決勝ゴールを決め、数分後に生きたまま食われた」)で、市民達が災厄にどう立ち向かったかが描かれている。エンディングは狂った物語の傑作だ。サイボーグ化したプレシデンテとAK47のなる木を背景に、アイゼンハワー大統領が「軍産複合体」についての有名な演説を行うのである。

重要なのは、これがいわゆる普通の物語を用いずに魅力的な世界観を成立させている事だ。ヨタ記事はキャンペーンの間にランダムに出て来る。プレイヤーは隙間を想像で埋める。制作者のブレンドン・チャンはこう指摘する。「情報のかけらを集めて組み合わせるのは楽しいし、ゲームがプレイヤーを信じているという事も伝わる」。一般層には少し取っ付きにくいかも知れないが、”Atom Zombie Smasher”は結果として生き生きした開放的な世界を作り上げた。それは筋書きの決まった普通のシューティングゲームや、会話で膨れ上がったRPGとは比べるべくも無い。固定の筋書きはプレイヤーの介入を妨げる敵なのだ。

“祈りは神に影響を与えるためでなく、祈祷者自身を変えるためにある” – セーレン・キュルケゴール

ビデオゲームと物語を組み合わせると相互作用のある物語への道が開ける。物語の中でプレイヤーが大きな決断をするという物だが、これこそ最もじれったい要素だ。現実にできるのは最初から用意された分岐のどれかを選ぶ事だけだからである。複数のエンディングがあるとしても、結果の数はあくまで有限である。相互作用は結果の程度を変えるだけであって種類を変えるわけではない。

開発コストが上がるに連れ、プレイヤーが目にしないかも知れない要素を作る余裕は無くなって来た。よってプレイヤーがどういう選択をしようと物語は要所要所で同じ所を通る。”Knights of the Old Republic”はその例証だ。プレイヤーは善か悪の道を選べるが、どちらを選んでも終着点は同じである。悪の親玉ダース・マラックを倒すのだ。善の道なら彼を阻止するため、悪の道なら取って代わるため。倫理面で全く異なる選択をしてもマラックの死は変わらないのである。

こうした固定の筋書きはプレイヤーとゲームを乖離させる。RPGに何十時間も費やしたが物語を全く覚えていないという事がしばしば起きるのは、それがプレイヤー自身の利益や選択に全く関わって来ないからだ。最終的には物語がゲーム上でどういう意味を持つかを抜き出して、それを皆で回し読みするという事態になる(「これを達成するとゲームにどういう影響があるの?」)。物語の中核は大抵の場合登場人物の決断である。ゲームの中核はプレイヤーの決断である。ゆえにゲームを意味ある物にするのはプレイヤーの決断でなくてはならない。果たしてゲームは決まった物語とプレイヤーの選択を両立できるのだろうか?

アクションRPG”Bastion”はこの問題に正面から取り組んだ。ゲーム世界は「大災厄」によって砕け散っている。ゲームが進むと、災厄を引き起こした武器がどうして作られたのか、それが使われた時何が起きたのかをプレイヤーは知る。そして最後に、プレイヤーは決断を迫られる。時間を遡って大災厄を防ぐか、生き残りを集めて新天地へ移るかである。

この決断が面白いのは、その次に起きる事である。というか何も起きないのだ。ゲームはそのまま終わり、プレイヤーの選択を反映した一枚絵が表示されるだけである。プレイヤーが実際に介入できるという嘘を開発者はつかなかった。この決断は純粋に人生観の問題である。人生の大きな過ちを取り消すか、それとも新たな人生を踏み出して前に進むか?

“Bastion”ではプレイヤーは自分の選択を通じて己自身を知る事になる。開発チームの誰かがこうと決めた結果を見るのではない。”The Walking Dead”では、プレイヤーは自分の選択と他のプレイヤーの選択を見比べる事ができる。これはプレイヤーの性格に光を当て、どの選択が多数派に属し、どれが少数派に属するかを呈示する。

筋書きだけを中心にしたゲームは、ゲームにとって最も重要なのはプレイヤーだという事を忘れている。どれほど重厚で力があろうと、ゲームに物語を入れるという事はその本質を損なう危険を伴うのだ。ゲームはプレイヤーに自由を残さなくてはならない。ルール、メカニクス、システム、そして物語において。

 

原文:http://www.designer-notes.com/?p=459

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