不等価交換の話

月刊スパ帝国Vol.22用に書いたが紙幅の都合でカットされたコラム


不等価交換の話(またはソルヴァーズ開発後記)

今回のゲーム「ソルヴァーズ」は実質的に2つ作った。1つは今号の現存するソルヴァーズ。もう1つは3月に作った、いわば「プロトソルヴァーズ」とでも呼ぶべきゲームである。プレイヤーがヒーロー会社を運営して事件を解決するという点は同じだが、システムは非常に異なる。ヒーローの素早さに応じてダイスを振ったら、その中から好きな目を選んで結果表を参照する。例えば「6」なら大成功で「1」なら大失敗、ただし悪名が上がる代わりに経験は多く得られる場合もあるといった具合である。

結果に応じてヒーローは入院する。大爆発を起こせば16週とか、銃撃をすれば8週とか。ただし体力が多ければ休業週数は減る。次のミッションまでに決まった週が経過し、それまでに復帰していなければ出撃できないという仕組みであった。

実際のところ、このプロトソルヴァーズはほぼ完成していた。そして面白くないので破棄して全部最初から作り直した。つまり今回は実質的に2つのゲームを作っているのである。さてここで問題だ:「ソルヴァーズ」の制作にかかった時間に、プロトソルヴァーズの作業時間は含まれるのだろうか?

プロトソルヴァーズはシステムだけでなくストーリーも大いに異なっていた。例えば市長には助役がいて、こいつが麻薬組織と裏で繋がっており、謀略によってソルヴァーズを警官で包囲させるのだが我らがヒーローはヘリで脱出して市議会に行き演説をする。また敵対組織の「ブリンガーズ」という設定もあり、市内のあらゆる場所の地上と地下を探すが見つからない。実はソルヴァーズ本社の真下にアジトがあった……というオチである。

こいつらは一体どこへ行った? プロトソルヴァーズを作る労力は完全に無に帰したのだろうか? 労力を練金して無に変換したとすれば我が時間と無とは等価なのか? この疑問に答えるにはマルクス経済学の助けを借りねばならん。

そもそも労働とは人間が自然に手を加えて有用な物を作り出す過程である。ゲームだって頭の中だけで出来上がるのではない。特定の数学的ルールの組み合わせがある種の人間の神経系に面白い作用をする事を実験によって「発見」しているのだ。科学者がモルモットに薬物を与える如く、ゲーム開発者はテストプレイヤーに開発中のゲームを与えて経過を見る。何が面白いかは人間の神経系の構造によって決まっているわけで、別に「これが面白い」と作者が決めるわけではない。

労働を通じて、人間は自分が食べる以上の物を作り出す事ができる。例えば月15万円もあれば暮らせる人間が月に80万円分の仕事をしたりできる。人間が労働によって作り出す物は、その人間を生かして次代の労働者も養うのに必要なコストより(基本的に)多い。だからこそ余剰生産物が生まれ、使用者に利潤を与える事ができる。

人間と人間が取引する場合には等価交換が原則である。1000円の商品は1000円と交換されるし、1000円分の労働は1000円と交換される。しかし人間と自然のやり取りでは違う。労働は投じたエネルギー以上の物を生み出すし、我々は太陽に光熱費を払ってはいない。また逆に地震や竜巻で成果物を奪われても自然から補償される事も無い。自然はそもそも等価交換をしないのである。

極端な例で言えば、ここに1人の原始人がいるとしよう。彼は斧を作りたいと思って河原へ行き、大きめの石を削って刃の部分を作り始めた。試行錯誤の末5時間かけてどうにか斧らしき形を作り上げた。そこでふと傍らを見ると、それよりもっと斧に適していそうな形の石が転がっていた。彼は2秒でそれを拾い上げた。

人間の等価交換原則で言えば5時間かけて削った石には5時間の価値があり、2秒で拾った石には2秒の価値しか無い。しかし自然の方は人間の労力に一切関心が無いので2秒で拾った石の方が使いやすかったりする。こういう事は本当によくある。2ヶ月かけて作ったゲームより5分で思いついた小品の方が実際に評価が高かった。泣くぞ。

ともかく結論から言えば、「労働時間は何と交換されたのか」という設問そのものが間違っている。労働は神に時間を捧げて引き換えに欲しい物を下賜される過程ではない。賃労働は時間と金を交換するからあたかもそれが標準の様に思えるが、労働が有益な物を生むのは自然との接地面においてである。自然は不等価交換を許容する。西へ10キロ歩いて東へ10キロ歩いたら元の地点に戻る。労働はとても簡単に虚空へ消え去るし、逆に殆ど何もない所から有益な物が生まれる事もある。

今回の私を原始人に例えると、まず河原へ行って5時間かけて斧を作り、気に入らないので川にぶん投げてまた5時間かけて別の斧を作った格好である。「最初の5時間は何と交換されたのか」という設問に意味は無いし、後の斧を作るのに総計10時間かかったという計算も大して意味を成さぬ。「失敗も経験だ」というのは無理矢理等価交換を成立させる為の慰めに過ぎん。

等価交換に囚われると人間は間違った判断をする。5時間かけて作った物だからと出来の悪い斧を使っていたら生活に支障が出る。プロトソルヴァーズをそのまま掲載していたらこの本はかなり退屈な号になっていた可能性が高い。また出来の悪い物を修理して完成に持って行こうとすると最初から作り直す場合の3倍ぐらい時間がかかる。過去の手間を正当化すると高く付くのだ。

「無駄な仕事をしてみっともない」という考えは人間相互の問題である。自然との接地面においては全く意味が無い。最初の手間を正当化する為に修復作業をしても報奨はされないし、失敗だったと開き直っても責められる事は無い。他の人間に対して説明が付く様に仕事を進めると無駄に難しくなる。口うるさいかみさんが居て「何であんた1ヶ月も無駄にしたの」「最初からテストしといたら良かったんじゃないの」と一々文句を付けて来たら何もできまい。頭の中にいる誰か、あるいは自分自身に対して説明責任を果たそうとするのは良くない癖である。