ゲームデザインには2種類の方法がある。メカニクス先行とテーマ先行である。メカニクス先行は良い。テーマ先行は悪い。それをこれから説明しよう。
ゲームは現実世界の一側面を模している場合がしばしばある。ベトナム戦争に参加するとか、国家を建設するとか、レストランを経営するとか。そしてそれらには現実を模したトークンが登場する。AK。議会。駐車場。
テーマ先行デザインにおいて、これらの要素は次の様に生成される:
1. これはベトナム戦争のゲームである
2. ベトナム戦争ではAKが使われた
3. AKの装弾数は30発である
こうして装弾数30発の自動小銃”AK”がゲームに付け加えられる。
一方、メカニクス先行デザインにおいてはこうだ:
1. 装弾数30発程度の自動銃があればゲームが楽しくなる
2. 現実世界には30発装填の自動銃”AK”が存在する
3. よってこの銃をAKと名付けよう
こちらも同様に30発装填のAKが加わる事になる。だがその過程は大いに違っている。
テーマ先行デザインはまずトークンに名前を与え、その後に名前に相応しい性質を付与する。これはAKであり、AKであるが故に自動銃である。名が体を表すのである。一方メカニクス先行デザインではまずトークンの性質を規定し、次にその性質を端的に表す名を付ける。これは先ず30発装填の銃であり、それを分かりやすく表す記号としてAKという名を得る。体が名を表すのだ。
テストプレイを繰り返すうちに、実は30発でなく25発装填の方がゲームバランスに貢献する事が分かったとしよう。テーマ先行デザインはここで壁にぶち当たる。そして問う。「ゲーム性とリアルさのどちらを重視すればいいのか」。だがこの設問自体がそもそも間違っている。何故ならそれは無意識に「AKに25発の弾倉を与えてもいいのか」という枠組みで問題を捉えているからだ。つまり「衣服に体が合わない」と悩んでいるのである。
メカニクス先行デザインならば、「25発装填の銃にAKという名を付けてもいいのか」という問題を設定する。そして恐らく、AK特殊部隊モデルとか適当な名前に変更して終わりにするであろう。「体に衣服が合わない」事が問題であると知っているからだ。あくまでも、テーマはメカニクスに着せる服に過ぎない。
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デザイン方法に良し悪しは無い。
面白ければ良し、つまらなければ悪し。テーマ先行、メカニクス先行という制作手法が、常にそれを決定する要素足りえるのなら論ずる価値はあるが、実際はそうではない。メカニクス先行と同じように、テーマ先行で作られた名作、傑作など、それこそゴマンとある。
テーマ先行が悪なのではなく、テーマをメカニクスに変換しきれない無能が悪なのである。
テーマを損なわず、メカニクスとして破綻しない。究極のゲームとはそういうものなのではないか?そしてそれをどこから探すのか?テーマから探すのか、それともメカニクスから探すのか。
スパ帝国ではメカニクスから探す手法を採用している。そして私はクニツィア国に住む外国人である。
駄文失礼。
ふとこの記述を思い出し、そして私なりの結論を持ってきた。
そう問うのが馬鹿 である。
ゲーム性・メカニクスだけを考えるのであれば、たとえばカードゲームにおいて、カードの豪華な名前は必要ないだろう。すると、とても味気ないものが出来上がる。
「245:これが出れば場の50の倍数のカードが消える」
「356:場の400以上の数値のカードはこの順効果がない」
次に、リアルさなどを追求してゲーム性を一切問わないとき、これはそのジャンルがすきな人には申し訳ないが、一直線型サウンドノベルなどは、ゲームと言えない。
さて、これは極論すぎただろうか。
ところで、ゲーム性・メカニクスだけをプレイヤーが求めているのだろうか。問題はそこにあると思う。
プレイヤーのもつ印象、がもっとも大事なのではないだろうか。
その際に、リアルさ(またはテーマ・物語) というものは非常に好印象になり得る。そのためどちらも重要である。
メカニクスが構築され、そこにテーマをのっけたゲームも
テーマから始まり、メカニクスを調節したゲームも
どちらもすばらしいと私は思う。
プレイヤーのもつ印象が大事だと思う理由は、プレイヤーがたくさんいることがそのゲームにとって最重要といっても過言ではないと思っているからである。
誰もプレイしたことのないゲームは神評価もクソ評価もつかない。
また、プレイする人が多ければ、プレイする人がゲームを進化させる場合もある。 それは議と離れるかもしれないが。
ゲームをゲームたらしめるのはプレイヤーである。