楽しい仕事、辛い仕事

だいぶ以前、祖母の家にインターネット回線を引いた時の事である。祖母は様々な情報ページを廻り、大いに感心し、そしてこう言った。「誰がこれを入れてるの?」

一瞬答えに窮してしまった。確かに言われてみればどこの暇人だ?読み手から金を徴収するでもなく、経費まで自腹でせっせとWeb空間に情報を上げている。しかもそういう暇人が何百万と存在するとは。

 

それから何年か経った。筆者は炒飯作りに凝り始めた。作って食べる所までは良いが、その後の洗い物があまり楽しくない。中華鍋についたコゲを金たわしでこするのは楽しいが、皿をスポンジでなで回すのは楽しくない。

 

それからまたしばらく経った。Unity 3Dという玩具を手にした筆者はこんな物を作った。

http://spa-game.com/Unity3D/Coin.html

ただコインを積むだけの遊びである。得点もゴールも無くゲームとすら言えぬ。だが何故か楽しいのである。一体楽しさとは何ぞや。何が人間をPCに向かわせShiftキーを叩かせるのか。

 

「誘引」という仮説が上記の疑問を全て解決する。コインは積む事を求めている。ホモサピエンスはコインを見ると積みたくなる。「コイン」が「積む事」を誘引するのである。

人間は様々な問題解決手段を持っている。知識や技能、道具などである。そしてそれに対応した問題が提示されると適用したくなるのだ。ねじ回しを持っていればねじを回したくなる。鋏を持っていて点線の付いた紙があれば切りたくなる。縦長のブロックがあれば縦穴に入れたくなる。問題が手段を誘引するのだ。

中華鍋と金たわしは完璧な調和を成している。ゆえに後者で前者をこするのは楽しい。鍋がたわしを誘引するのだ。皿とスポンジはそれほど調和しておらず、誘引力が弱いので楽しくない。皿をなで回して泡だらけにする事には必然性が無い。本能が非効率を察知しているのだ。

Wikiという仕組みの偉大さはその機能ゆえではない。書く事を誘引する所にある。「まだ書かれていない項目」は埋めるべき空白として提示される。データの誤りや漏れも修正を誘引する。Wikiは書く事を誘引するが故に、無償で大量の記事を集める事ができるのだ。そしてWebそれ自体もまた、何かを公開せよと誘引している。

 

動機付けの本質は報酬ではない。誰かの役に立つ事でもない。問題と問題解決手段がピッタリ噛み合っている事だ。調和こそ働きかけを引き寄せる物である。誘引される仕事は楽しく、そうでない仕事は辛い。ゲームの楽しさもまた、「解決すべき問題」としてプレイヤーを誘引する所にある。