翻訳記事:さらば諦めの日々

これは翻訳記事です

 

*Civ4リードデザイナー、ソレン・ジョンソンの手記。Firaxisを退社してからMaxis・EA・Zyngaを渡り歩き独立スタジオを設立するまでの経緯が書かれている。

 

私がゲーム業界に入ってから今年で13年になる。その間にCiv3Civ4という2つのゲームを円満に成功させて来た。残念なのは、その2つのゲームが私のキャリアの最初の5年間だという事だ。その後の8年間に携わったプロジェクトは制作が上手く行かなかったり、完全にキャンセルされたりした。どうしてこんな「失われた十年」を職業人として経る事になったのだろうか?

これに答えるには2005年10月から話を始めなくてはならない。Civilization 4が発売された時だ。このゲームは批評家から絶賛され(メタスコア94はFiraxis作品で最高)、商業的にも成功した。比較的低予算のプロジェクトで300万本以上を売ったのだ。ゲームオブザイヤーにも輝いた。私が選んで編集したサウンドトラックも好評だった。テーマソングの”Baba Yetu”はグラミー賞を取った。これはビデオゲームの音楽としては初である。ModのひとつFall from Heavenは多くのファンを集めた。Civ4は本当に奇跡のプロジェクトであり、成功する可能性のある部分が全て成功したのである。

私はこのプロジェクトをゼロから始め、ゲームとAIのプログラムを全て書き、2年半かけてチームを膨らませ、スケジュールの2週間前に出荷した。私の全てをこのプロジェクトに注ぎ込んだ。ただひとつの心残りは、終わった後にスタミナが残っておらず、拡張版にまともな貢献ができなかった事である。

6ヶ月後。パッチ当て作業が終わり、気力も回復した。次に何をするか決めねばならなかった。Firaxis(というよりそれを買ったTake-Two)はCiv5のリードデザイナーにならないかと言ってくれたが、わざわざ新しい作品を出すほどの根本的な変更は思いつかなかったので辞退した。Civ4の制作を始めた頃はCiv3の経験を基にしたアイディアが溢れていたのだが、それらは皆やり尽くしてしまった。もうこれ以上Civシリーズに与えられる物は持っていなかった。

しかし新しい戦略ゲームのアイディアなら沢山あった。そしてそれを形にしたかった。Civ4のデザイナーとして名声を得た今、そろそろ自分自身のゲームを作る時だ。私は秘蔵のアイディアをぶつけてみたが却下された。他のいくつかの案も出してみたがやはり駄目だった。会社は人員を割けなかったのだ。その時はRailroads!が開発の真っ最中で、Revolutionの企画も持ち上がり、将来的にはCiv5も見えていた。

要するにFiraxisは台所が苦しかったのだ。開発コストは上がる一方、PC用のリテールゲーム市場は縮小していた。新しいシリーズを立ち上げるのはどんどんリスクが大きくなっていた。更に会社はシド・マイヤーの作った定番シリーズを持っており、それを開発せずにわざわざ新シリーズを作る機会費用は大きすぎた(実際、Firaxisは1997年のGettysburgから2013年のHaunted Hollowまで、1作も新シリーズを出していない。SimGolfは例外的なオリジナル作品と言えなくもないが、Simブランドのひとつとして売り出された)。

私の企画はどれも比較的小規模なプロジェクトで、100万ドルから200万ドルの予算を想定していた。問題は、その当時そんな規模のゲームを流通させる方法は無かったという事だ。この規模のプロジェクトで採算を取るには数十万本が売れればよい。会社の名声を考えれば妥当な数字だ。だが流通はそれに対応していなかった。PCゲームは大量の予算を使って50ドルの箱で数百万本売るか、過去作品を焼き直して10ドルでCDケースに入れて売るかしか無かった。Steamはサードパーティ作品を扱い始めたばかりで、2007年時点ではid、カプコン、Eidosしかゲームを供給していなかった。つまりデジタル配信という選択肢は無かったのである。

今日では状況は全く変わり、60ドルから無料までどんな価格帯のゲームにも市場が存在する。そしてプロジェクト予算も100万ドル未満から1億ドル超まで様々だ。デジタル配信、少額課金、多様なプラットフォームが業界の景色を塗り替えたのだ。私がFiraxisで提出したアイディアも今なら実現していただろう。だが当時の私にあった唯一の選択肢は、クリエイティブディレクターとして完成するかどうかも分からないゲームのプロトタイプ作りを手伝う事だけだった。

実際のところ、その後の6年間がどうなるかを知っていたら私はFiraxisに留まっていたと思う。そして何か良い変化が来るのを待っていただろう。あの会社も、そこで働くのも大好きだった。だが私も人間だったのだ。私はCiv4という仕事を終えたのだから、今度は自分自身のゲームを作る資格があると思ったのだ。それを否定された事で、もしかしたら拙速な決断をしてしまったのかも知れない。私はFiraxisを退社した。

その後は私の尊敬する会社を当たって面接を受けた。Blizzard、Ensemble、Valve……そして最終的にはMaxisに入りSporeの制作に携わった。GDC2005におけるウィル・ライトの発表は業界人とジャーナリストを驚かせた。その作品に携わるという事は、業界で最も有名なゲームを作るという事だった。Sporeについての感想は先の記事で触れている。この作品には色々拙い所もあるが、だからと言ってそれに携わった事を後悔しているわけではない。開発チームはアイディアと才能に溢れていたし、私もあまり時間を置かずに何か作品をリリースしたかった。私は開発を終わらせる為に雇われ、それから18ヶ月で作品は完成した。

Maxisに入ったもうひとつの理由は、先方が私のプロジェクトを将来的に支援すると言ってくれたからだ。会社の中で才能を発揮すれば、Sporeが終わった後にチャンスが与えられるはずだった。残念ながらSporeは思ったほど成功せず、EAの株価も暴落した(この2つの事象は言うまでもなく関連している)。(訳注:MaxisはEAの子会社) 会社はレイオフを行い、リスクの大きい新シリーズ制作からは手を引いて安全策に走った。この時点で私が新しい戦略ゲームのアイディアを出し、EA内で採用されて妥協無しに完遂できる見込みはゼロになった。

私はまたしても岐路に立った。EAの中でどうやって自分のやり方でゲームを作ればいいか分からなかった。Sporeがリリースされた後の数ヶ月、シリコンバレー周辺のブラウザゲーム企業やベンチャーキャピタリストを回ってアイディアを売り込んだ。当時非同期性基本プレイ無料は人気のある投資案件であり、自分の会社を作ってゲームを制作すれば全てをコントロールできると思ったのだ。だが、残念ながら私の展望は投資家から見てニッチ過ぎた。私はコアゲーマー向けの戦略ゲームを作り、プレイヤー自身のModによって発展させたかったのだが、それに投資を募る事ができなかった。

そこで私はEA2Dへと流れて行った。EA本社にあるブラウザゲームのスタジオである。そこの中核チームはDragon Age Journeysを作っていた。これはDragon Ageのスピンオフ作品で、Flashを使い戦術的ターン制戦闘システムを持っていた。スタジオのマネージャーだったマーク・スペナーは私にチャンスをくれた。1年に渡り、webゲームStrategy Stationを作らせてくれたのだ。これは基本的には先に投資家達にプレゼンテーションしたのと同じ企画である。Modに対応した3つの戦略ゲームを作り、オンラインで非同期対戦ができる様にした。ブラウザエンジンとしてGoogle Web Toolkitを用いた。

ゲームは静かに発表された。実際、このブログ(Designer Notes)で紹介した事は一度も無い。せいぜいThree Moves Aheadのある回で言及した位である。ある意味で、私はこれを広める事を恐れていた。どうやってサイトを上手く回せばいいのか、ユーザー規模にどうやって対応すればいいのか、またどうやって利益を出せばいいのか分からなかった。EA上層部で私の展望に乗ってくれる人は少数だった。とにかく自分でできる限りの事をやり、結果が出るのを待った(開発チームがそもそも存在しないプロジェクトを解散させる事はできないだろうと当時の私は考えた)。

そのサイトは数千ユーザー以上には広がらなかった。ただし日本では非常に熱心なファンを獲得し、中には数千ゲームをこなしたプレイヤーもいた程である(このゲームを扱った日本の人気ブログがある。3つの中で最も人気だった王国ゲームの動画もある。日本語化+画像差し替えModを入れてプレイされており、人間の兵士が何らかの理由でウサギになっている)。こんな変なプロジェクトに予算を付けてくれと、どうやって頼めばいいのだろうか。これの存在を正当化するには商業的成功が必要だとEA2D側が考えている事も分かり、私は先手を打ってプロジェクトを消す事にした(プロジェクトをEA外で存続させて日本のコミュニティが遊び続けられる様にする事も試みたが、上手く行かなかった。独立したStrategy Stationは熱心なニッチ層を楽しませられただろうが、これはEA内の、会社規模に相応しくない私の個人的プロジェクトだった)。

EA2Dは次にDragon Age Legendsというプロジェクトに賭けた。これはJourneysの緩やかな続編で、Facebook内で営業した。2010年当時はソーシャルゲームが非常に熱く、新しいフォーマットでコアゲーマーを満足させられるかどうかを試してみたかった。結果は賛否両論だった。このゲームは会社内では好評で、特に経営陣には人気だった。CEOジョン・リッチティエロとゲームタイトル責任者のフランク・ジボーは非常に高いレベルのキャラクターを育て上げ、かなり課金もしていた。だが最終的に、スタミナシステムの軋轢、コアゲーマーの基本プレイ無料に対する敵視、Facebookとのユーザー層のずれなどが積み重なり、プロジェクトは死すべき定めとなった。

私自身はこのプロジェクトを興味深い実験として熱心に追求していた。だが出来上がったゲームは、もし私が全てをコントロールしていたらこうはならなかっただろうという代物だった。悲しい事に、私はそもそも自分の作りたいゲームを作ろうとEA内で試みさえしなかった。企画をぶつける際につきものの社内政治に関わりたくなかったし、そもそも採用されるか分からず、採用されたとしたらそれがどう扱われるか恐れていた。要するに私は、始める前に諦めていたのだ。

2011年の夏は私の職業人生で最低の時期だったろう。私の好きなサイトであるRock Paper Shotgunがビジネスモデルを理由にLegendsを酷評したのだ。そしてゲーム自体のユーザーも徐々に減り、日毎のアクティブユーザー数が2万人程度に落ちていた。このゲームはEA2Dが求めた、将来のプロジェクトを支える為の成功とはならなかった。チームはBioWare Socialに改組され、才能の流出が始まった。EA内でどうすればいいのか、私には分からなかった。

そしてZynga、というよりZynga Eastに入った。ここはブライアン・レイノルズを始めとする多くのBig Huge Gamesの残党が立ち上げたZyngaのスタジオで、ソーシャルゲームを制作していた。2010年のヒット作Frontiervilleもここから生まれたのだ。この作品はスタミナバーやストーリー型クエストなど多くの革新を含んでいた。Zyngaには金がうなっており、スタジオのマネージャー(にしてBHGにおけるブライアンのパートナー)であるティム・トレインは私をスカウトする際、私のやり方でブラウザゲームを作ってよいと約束してくれた。スタジオの一角に安全なスペースを作り、そこでじっくりプロトタイプを作れる様にしてくれると。

Zyngaで働いたのは18ヶ月にもならないが、言うまでもなく素晴らしい経験だった。自分の好きなゲームを作る自由を与えられた。数ヶ月でプレイ可能な段階に達し、オフィスでは非常に人気だった。だがある意味で、私は自由を与えられ過ぎていた。そのゲームはスタジオ外からは殆ど監視を受けず、代わりに支持も得られなかった。私は経営陣の干渉を恐れるが故にプロジェクトを査定に出さず、謎に包まれた存在にしてしまった。会社は否定も肯定もせず、そもそも関心を持っていなかったのだ。それゆえスタジオがCityVille 2の失敗を受けて閉鎖される事になった時、一緒に開発中止になったのは必然だった。

私はZyngaで信じ難いほどの自由を与えられていたが、結局プロジェクトは最初から死すべき定めにあった。だが悪いのは私である。EAを退社する時、Zyngaは魅力的な選択肢だった。給料は良く、個人的リスクは少なく、作りたいゲームを作れる。だが問題は、私が作りたいゲームは製品として出荷される物だったという事だ。外部からの干渉がどうというのは結局言い訳に過ぎない。Zyngaに入る時、私は自分のゲームをコントロールできない事を知っていた。いつ大幅に変更されたり開発中止にされたりするか分からないのだから。

Civ以後の職業人生を振り返るに、私は自分の作りたいゲームと雇い主が作らせたいゲームの間で妥協し続けて来た様だ。Sporeにおいては他人の作品を仕上げるという妥協である。Strategy Stationにおいてはチームを持つ事ができないという妥協である。Dragon Age LegendsにおいてはRPGをソーシャルゲームに変えるという妥協である。Zyngaにおいては無関心な管理の陰に隠れてゲームを作るという妥協である。私は始める前に諦めていたのだ。

もう諦めるのはやめにしよう。自分のやりたい様にゲームを作るならば選択肢は1つしかない。時間も、エネルギーも、生活の安全も犠牲になるけれども。私には大量のゲームのアイディア在庫がある。一生かけても作り切れないほどだ。つまり私は既に遅きに失しているのである。

そろそろ物事を変える時だ。

そろそろ独立する時だ。

そしてmohawkgames.comに続く。

 

 

原文:http://www.designer-notes.com/?p=697