評価の問題

評価やランキングにこだわると何が起きるかという問題


pixivにいる人達は絵の評価を気にするそうである。一部の人にとってはランキングに入るかどうかが重大な問題だそうだ。ランキングを巡る感情の濁流を題材にした漫画も描かれている。似た様な状況はニコニコ動画でも起きている。わざわざ早起きして動画ランキングの順位をいじる人は以前からいる。一体「評価」とは何ぞや。それにこだわると何があるのか。私は何度か動画をランキングに入れた事があるので、この問題に関してくちばしを挟む資格があると思う。ランキングにこだわる人、眺める人、そしてSNSやコミュニティを活用してビジネスをしようと考えているお兄さんお姉さんを対象につらつら書いてみよう。

 

権力とは恣意性なり

例えば私が非常に込み入った重要施設の長だとしよう。元々いた技術主任が退職するので部下の内から後釜を選ばねばならぬ。この職位にある者は施設の全ての細部を把握している必要があり、技能要求水準は極めて高い。同時にこの施設は間違って動いた場合に致命的な事態をもたらすので、極力ふさわしい人員を要所に配置せねばならぬ。

この場合、私には「最も優れた者を昇進させる」以外に選択肢が無い。私には誰が優れているかを調査する責任があるけれども、誰が優れているか「恣意的に」宣言する事はできない。私は人員を管理する立場にはあっても支配はしていない。誰がどの職位に就くかを支配しているのは物理的現実と予め定められた手続きであって、私はそれを動かすという仕事をしているに過ぎない。

一方、全く重要でない施設があったとしよう。この施設の全ての職位はどんな大バカでも務まる。元々の主任が退職するので後釜を決める事になったが、管理者である私は誰を昇進させてもよい。選ばれたのが誰であっても全く実社会に影響が無く、何ら致命的事態を引き起こさないからだ。

この時私は最大の恣意性と権力を手にする。私は毎日茶を運んで来たおべっか使いを昇進させる事ができる、と皆が知っているからである。実際にそうするかどうかは問題ではない。私は人々の運命を自由にできる。人員は私にへつらい始める。私は彼らを支配しており、気分次第でその運命を左右できる。

権力とは相手の望む物を恣意的に与えられるという事である。それは職位や報酬かも知れないし、罰を受けずに済むという二重否定形の報奨かも知れぬ。正味の上下関係を決めるのは恣意性である。恣意的に相手の運命を左右できる者は「権力」を持つ。少なからぬ人々は権力が好きであり、恣意的に他人の運命を左右できる事を楽しいと感じる。

 

権力行使としての評価

作品によい評価を付けたら作者が喜んだ。これは楽しい。見つけた作品が、自分の推薦の結果として広く評価された。これは尚楽しい。そこには良い物を掘り起こせたという喜びの他に、他の人々を左右できるという楽しみが含まれている。評価は多くの人が欲しがる通貨であり、それを何の説明責任も無く恣意的に与えるという事は権力行使そのものである。

評価者は、被評価者の運命を自由にできる事を好む。その人が大いに成功して栄えるか、破れて凋落するか、最終決定を下すのは自分でありたい。あるいは集合的な「自分達」でありたい。それは害意でも善意でもなくコントロールの欲求である。

評価者が嫌うのはコントロールの喪失である。自分達がどれほど賞賛しようと世間は歯牙にもかけぬ、あるいはどれほど酷評しようと世間は持て囃す。この様な事態を最も嫌う。そして被評価者が恣意性から逃れようとする事に反発する。どう酷評しようと平気でいる態度、あるいは評価者達は次の作品にも評価を与えて当然だという態度に苛立ち、これを罰する。それは旧約聖書の神が、神は人間の運命を自由にできると知らしめる為に苦しみを与えた時と同じ構造である。

 

ビジネスとの食い合わせ

ビジネスは計画を伴う。費用がこう、効果がこう、売上がこうで利益がいくらという計算をしてから取りかかる。その計画にコミュニティから評価を得る要素が含まれているとリスクを生ずる。評価者は評価を恣意的な権利として与える事を好み、当然の義務として請求される事を嫌うからである。「あなた方はこの種の作品が好きなんですから当然これを評価して我々のビジネスを助けてくれますね?」という態度を罰するのである。

評価者はしばしばビジネスを助けるが、それはコントロール欲求による部分が大きい。彼らが聞きたい言葉は「こんな風に評価されて売れるとは思っていませんでした、ありがとう」であって「計画通りです、ご苦労様」ではない。人は人の運命を左右する事を好む。行動によって何か世界に違いをもたらしたいと考える。

ビジネスとの食い合わせが悪いのはここである。彼らは人を恣意的に金持ちにするけれども、計画通りに金持ちにはしない。当て込みは失敗する定めである。

 

ランキングにこだわった先には

何も無い。少なくとも「実力に裏付けられた確固たる永続の評価」を目指す限りは不毛である。評価者は恣意性から逃れようとする者を好まない。それは彼らからコントロールを奪う存在だからである。評価は「それをいつでも取り上げる事ができる」という恣意性と引き換えに付与される。恣意性を奪う事は支払いの踏み倒しである。

コントロール不可能な物に対する執着は身を苦しめる。恣意的に与えられた物は恣意的に取り上げられる。積み上がった評価は資産の様に見えるけれども、実は同じ額の負債を伴っている。それは稼いだのでなく借りたのである。だから簡単に積もる。ランキングに上る物は非常に大勢からの評価を受けているけれども、それはいつでも、恣意的に、求めに応じて返上するという返済条項付きである。

自分がそれを持ち続けるかどうか他人が決められる資産は、果たして自分の資産だろうか? ただの借財である。借財を運用して商売をする事はあっても、借財で暮らす事はできぬ。たくさん借財をする事は人生の目標ではない。どんなに僅かに見えたとしても、友情とか、技能とか、経験といった自分の財産を増やす方がよい。大事な物を見失ってはいけない。ランキングに載るのは全く大した事ではない。

 

(´・ヮ・)<まあ上げたからには気になりますけどね?