ゲームデザイナーのSirlin氏はこう語る。「競技ゲームの肝は読みと計算にあり」。即ち相手の行動を予測する事と、行動の相対価値を見極める事である。
ジャンケンは競技ゲームにならない。その最適戦略は3つの手を完全に同じ確率でランダムに出す事であり、乱数発生器で事足りる。
仮に3つの手の価値を変えて、例えばグーで勝つと10点、チョキで勝つと3点、パーで勝つと1点という風にしても状況は同じである。ゲーム理論を用いればそれぞれの手をどれだけの確率で出せば最適か導き出せる。後はその最適戦略に沿ってランダムに手を出せば良い。
そこでもう一歩進めてみよう。グーで勝つとストライク、チョキで勝つと気力増加、パーで勝つと距離を縮めるという様な戦闘ゲームを仮に想像しよう。3つの手の相対価値は状況によって次々と変化する。よってこれを「計算」して最適な戦略を生み出すという「継続的な仕事」が生まれる。ようやくゲームらしくなって来た。
だがこういう疑問が生ずる。これは単に「計算」のゲームではないのか?最適な戦略を導くのが人間の仕事で、後は乱数発生器で実際にどの手を出すか決めれば良いのでは?「読み」はどこへ行った?責任者出て来い?
ここで想像上のゲーム悪魔を登場させよう。この悪魔は無限の計算リソースを持っており、ゲームのあらゆる状況において全てのエレメントを計算し、最適な戦略を提示できる。そして乱数発生器を用いて個々の手を決定する。例えばそのターンの最適戦略が80%の確率でグーを出す事であれば、乱数発生器は80%の確率でグーを指示するのである。
誰もこの悪魔に勝ち越す事はできない。これに対する理論上の最高勝率は50%であり、長期間に渡ってそれを超える事は不可能である。
しかしこういう事は起こりうる。AとBという2人のプレイヤーがいる。悪魔はABどちらに対しても60%の確率で勝利する。そしてAはBに70%の確率で勝利する。誰も悪魔に勝ち越す事はできないが、他のプレイヤーを悪魔より高い確率で打ち倒す事はあり得るのだ。
何故か。それは彼らの計算が狂っているからである。有限の計算リソースしか持たない存在として、人間の計算には必ず狂いがある。それを発見して利用するのである。先の例で言えば、Bは最適戦略よりもパーを出し過ぎていた。Aはそれを発見してチョキを多く出す様にしたのである。
これが「読み」だ。読みとは相手の戦略の狂い、最適からの逸脱を読む事である。計算はそれ自身の価値に加え、計算の狂いを生じさせて読みの材料を提供するという目的においても存在するのである。
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