構想の呪い

なぜゲームの構想は面白そうに見えるのかという考察


ゲームの構想とか企画案は大抵面白そうに見える。というより、ゲームに限らず何事もアイディアを練っている段階では素晴らしい。こんなギミックを/ストーリーを/フレーバーを/キャラクターを考えたぞ! 実際に作れば必ず面白くなる!という具合にしてゲームの作り方を聞きに来る人は途切れないものであるが、質問に答える前にそもそも「なぜその企画は素晴らしく思えるのか」を考えてみよう。

 

構想はラフ画だ

絵を描く人はしばしば、どうして鉛筆書きのラフは綺麗なのにペンを入れると汚いのかという悩みを抱く。これは人間の頭の柔軟性がなする業だ。ラフ画は複数の輪郭線が重ね合わされた状態になっている。それを見た人間の頭は最も美しい線を選び出して勝手に補完する。ゆえにペンを入れて1本の線に確定するとしばしば美しくなくなるわけだ。

ゲームの構想はラフ画に似ていて、その段階ではまだ実装する方法が無数にある。少し前に作った「ソルヴァーズ」がまさにそうで、未来の足立区で傭兵をやるRPGという構想からはどんなものでも作れる。最初に実装してボツになった「ダイスを振って結末を選ぶ」ゲームも、最後に実装した「ダイスを割り当てて達成点を稼ぐ」ゲームも当初の企画要件は満たしている。

構想とはそれを実装する無数の方法を重ね合わせた概略図である。構想を弄り回している限りにおいて、我々の頭はその中で最も優れた可能性を無意識に見て取っている。企画は美しい。それは曖昧な部分が全て想像で補われているからだ。

 

実装こそ仕事

構想を現実世界に顕現させるには無数の可能性から1つを選ばなくてはならない。そしてこの部分が工程の大半を要求する。時間も知識も経験も、また世間が才能と呼ぶ何らかの代物も、全ては「沢山の実装可能性から1つを選び出す」ために費消される。スタミナは任務ごとにリセットするのか引き継ぐのか?任務に失敗したヒーローは入院するのか?車庫を屋上に建てることは許されるのか?一々決断せねばならん。

ルールにせよフレーバーにせよ審美的デザインにせよ、作り上げる物のありとあらゆる細部に無数の実装可能性があり、実現するのはその中の1つだけだ。ゆえに構想段階では素晴らしかったゲームが作ってみると大して面白くないという事態も頻繁に起きる。別に実装が何かを破壊したわけではない。素晴らしい構想が最初から想像の世界の住人だったからである。言い換えると、構想がまとまった段階では仕事の大部分は未完了であり、良し悪しを判断する材料すら無いという事だ。

 

小さなことから

仕事は無数の小さな作業が積み重なったものである。ゲーム作りならそれぞれの細部について実装を選び出す事だ。これに機械的方法論は無い。汎用の正解も無い。個別案件ごとに「コストが0のものは見張っておかないとバランスを破壊する」とか「資源AをBに換えてまたAに戻せる場合、変換レートによって永久機関が出来上がる」といった大量の経験則や「べからず」が存在するだけだ。

「ゲームはどうやって作ればいいか?」は妥当な質問ではない。それは無数の細部についての無数の質問を1つのパッケージにまとめた物だ。無効な質問からは無効な回答のみ得られる。有効な回答を得るには「数値を半分にする効果と+1する効果を同居させたが四則演算と端数切り捨てをどの順序で適用させるべきか?」とか「初心者へのチュートリアルでルールの細部を省くとしたらどの部分がいいか?」とか「タイトルロゴのAをɅにするのは審美的に妥当か?」など単一の質問へ分割せねばならん。

言い換えれば経験とはそうした無数の質問のそれぞれについて自分自身の答えを出せる様になる事である。それは構想を練っているだけでは決して得られない。実際に手を動かして結果を見るほかない。そしてまさに、そうした細部への想像が及ばぬが故に構想が途轍もなく素晴らしく思えてしまうという事がしばしば起きるのだ。

 

以上で「どうやってゲームを作ればいいか」という質問への一旦の答えとする。