力だけが正義でごわす

1981年に発表されたコンピュータRPG、”Wizardry”は今の基準からすれば極めて厳しいゲームだ。初期状態の冒険者は恐ろしく貧弱で、最初の敵に数回小突かれただけで簡単に死ぬ。死者が出たら寺院にお布施を払って蘇生せねばならないが、しばしば失敗してそのまま召されてしまう。

深い階層に進むと状況はもっと悪くなる。1〜2発でパーティが壊滅する魔法、レベルを下げる攻撃、避ける以外に対処法の無い即死攻撃などが珍しくなくなる。文字通り命がけの冒険を強いられる訳だ。

こうしたメカニクスは一つの強烈なメッセージをプレイヤーに送る。「強くなれ」だ。レベルが上がってHPが増えれば生存率は大幅に向上する。先制攻撃で敵を殲滅できれば特殊攻撃を受けずに済む。強ければ生き残り弱ければ死ぬ。単純明快な力の論理である。

そして物語そのものも力の論理で駆動している。ゲームの目的は迷宮の最下層に潜む邪悪な魔法使いを倒して護符を取り戻す事だ。その為に必要な進行手順は3つ。

1.エレベータの番人を倒す

2.エレベータに乗る

3.魔法使いを倒す

これだけである。戦闘力さえあれば物語は進行する。というより物語そのものが「強くなって敵を倒す」という一点に集約されている。レベル1のパーティはアンデッドコボルトから逃げ回る。レベル3になる頃にはそれを惨殺できる。ハイウェイマンの集団はプレイヤーを苦しめる。魔法使いが火炎魔法を覚えると復讐劇が始まる。

ボコられる→強くなる→ボコる→次の階層へ進む→ボコられる

これがゲームのルーチン構造である。戦闘力は常に進行のボトルネックであり、強くなりさえすれば全てが解決して先に進める。力の幻想。いじめられっ子が体を鍛えて仕返しをする物語だ。

 

さて「ドラゴンクエスト」を初めとする和製RPGはほぼ例外無くWizardryの焼き直しである。遭遇した生物を惨殺して戦闘力を向上させ物語を進める「力の幻想」をそのまま受け継いでいる。ドラゴンクエストVIの主人公が自分の村の周辺でしばしば瀕死になるのは、デザインコンセプトからすれば全く正しい。彼は最初いじめられっ子でなくてはならぬ。そうでなければ強くなった後の復讐に繋がらないのだ。

力の幻想のゲームにおいてはプレイヤーが虐げられる過程がどうしても必要である。これはいじめられっ子の復讐だ。「魔太郎がくる!!」は主人公が最初に被害に遭わなくては成立しないのだ。最初から世界が優しければ、被虐→鍛錬→復讐という基本ルーチンそのものが崩壊する。

現実にはその様にして力の幻想を台無しにした「優しいJRPG」は存在する。主人公は最初から強く、問題に対処する能力を持っている。物語は用意されたテクストを読む事で進行する。戦闘力の不足によって何かが滞ったりはしない。わざわざ鍛えなくともちゃんと最後まで行ける。

ここには力への渇望が存在しない。力の幻想から力を取り去った物は一体なんだろうか?徹子の部屋から徹子を取り去った物とどう違うのか?凝った戦術ルールや稀少品の蒐集といった付随的要素でいくら部屋を飾ろうとも、肝心の徹子が不在では番組が成立する筈も無い。それらは戦術のゲームなり蒐集のゲームなりとして独立に存在すべきであって、力の幻想のゲームに無理矢理組み入れる必要は無いのだ。