翻訳記事:非同期性

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GDC#6:非同期性

2009/7/1 Soren Johnson
Game Developer magazine2009年3月号に掲載された物の再掲:

 

コンピュータゲームには、ボードゲーム・カードゲーム・室内ゲームなどの伝統的ゲームには無い特徴がある。リアルタイム性だ。コンピュータはゲーム中で起きる複数の事象を同時に処理できる。実際の所、世界初の対戦用コンピュータゲームである”Pong”は、伝統的なゲームでなくリアルタイムなスポーツ(卓球)を元にして作られている。これら初期のゲームは必然的に同期プレイ用であった。即ちプレイヤーたちは同時にゲーム台に向かい、同時にゲームに参加する。爾来、同期プレイ方式は対戦用コンピュータゲームの王道となった。そしてオンラインゲームが登場すると、そのままの方式が離れた場所にいるプレイヤーの間でも可能になった。

同期プレイ方式はゲーム業界に深く根付いた伝統である。”Doom”、”StarCraft”、”Madden”、”EverQuest”、その他諸々・・・ほとんどのゲームデザイナーは、同期プレイがデザインにおける選択肢の1つに過ぎないという事にすら気付いていない。非同期プレイという別の道も存在するのだ。即ち各プレイヤーがそれぞれ好きな時間に参加し、少しずつゲームを進行させる。この方式は伝統的なボードゲームの世界にも存在した。例えばチェスやウォーゲームの郵便対戦だ。中でも最も成功したのは「ディプロマシー」だろう。このゲームでは裏切りや秘密外交が横行し、それらが勝利の為の手段として確立されている。こうした行動は同期プレイでは不可能だ。Webが登場するとディプロマシーの対戦サイトが多数立ち上げられ、同様の非同期プレイがオンラインで行われる様になった。

ディプロマシーが非同期プレイ用ゲームとして成功した理由の1つは、これが同時ターン制を採用している事だろう。つまりチェスの様な交互ターン制ゲームと違い、全プレイヤーの行動が同時に解決される。プレイヤーは自分の行動計画を他の者には伏せたままゲームマスターに通達し、マスターは全員の行動が届いた時点で綿密なルールに従い紛争を処理する。この方式は非同期プレイに最適だ。何故なら、「全ての」プレイヤーが「全ての」ターンに意思決定を行えるからだ。”Risk”や「モノポリー」などの旧いゲームで非同期プレイを行うと、ほとんどのターンを他のプレイヤーが駒を動かすのを待って過ごすために、ゲーム進行が耐えられないほど遅くなってしまう。ゆえに、非同期プレイには非同期プレイに適したゲームシステムが必要なのだ。待ち時間を極力減らし、参加時間を極力増やすシステムが。

 

忙しい人にも参加できるゲームを

非同期ゲームは同期ゲームに無い特長をいくつも備えている。第一に、他のプレイヤーを待たせる事を心配する必要が無い。4~5人のプレイヤーがゲーム卓を囲み、優柔不断な者が行動を決めるのを苛々しながら待つ・・・こんな事は非同期ゲームでは起こらない。1ターンに1時間かけてもゲームの流れを止める事にはならないのだ。次に、非同期ゲームはまとまった時間の取れない忙しい人や、異なるタイムゾーンに暮らす人も参加できる。ゲーム体験の豊かさはそのままだ。MMOでは5時間がかりの40人参加セッションなどがあるが、ほとんどの社会人はそれに参加するだけの時間が取れない。一方非同期ゲームでは、プレイヤーがそれぞれ1日に15分だけ時間を見つけて参加すればマルチプレイが成立する。例えばディプロマシー。イギリス担当のプレイヤーは朝に行動計画を送信し、フランス担当のプレイヤーは夜に送信する。あるいはその逆。どちらでも都合の良い様にできる。

現行のオンライン非同期ゲームにはディプロマシーより一歩進んだプレイ方式を提供している物もある。ディプロマシーには、誰かが行動計画を出さないまま放置するとゲームの進行が止まってしまうという問題点があった。新方式ではリアルタイムなゲーム進行をこれに加える事で問題を解決している。一定時間が経過すると、プレイヤーが行動したか否かに関わらずゲームがそのまま進行するのだ。これは多くのファンタジースポーツゲームで採用されており、一度リーグが始まるとプレイヤーのログイン状況に関わらず日々ゲームが進行する。2週に1回ログインして状況を確認するプレイヤーもいれば、毎日数回ログインしてトレードに出されている選手がいるか調べるプレイヤーもいる。そしてそのどちらも完全な参加者なのだ。この方式が優れている事は、現在のオンラインファンタジースポーツの人気を見れば明らかである。研究によると、2007年時点でファンタジースポーツリーグの参加者は北米だけで3000万人を超えている。実際、ファンタジースポーツは世界で最も人気のあるマルチプレイヤーゲームジャンルなのだ。プレイ時間の長短に関わらず全てのプレイヤーが共に参加でき、楽しみを共有できる。一般的なRTSではこうは行かない。

 

Webに目を向ける

旧来のゲームのメール対戦以外にも、本格的なゲームにおける非同期プレイの例はいくつか存在する。”Civilization4″にはPitBossという仕組みがある。これを使えば最大32人のプレイヤーがマルチプレイに参加でき、それぞれ好きな時間にログインしてゲームを進める事ができる。同時ターン制を採用し、ターンタイマーは24時間。従来困難だった”Civilization”の大規模・長期間マルチプレイが可能になる。”World of Warcraft”はソロプレイ用コンテンツが充実しており、これも非同期プレイの一形態と言えよう。湧き待ちや誘われ待ちの労無しにMMOを楽しめる様になったのだ。プレイヤーランキングや達成表示の類は、従来型のシングルおよびマルチプレイヤーゲームに非同期の交流手段を付加してくれる。同じセッションに参加しないプレイヤーとも相互関係が生まれるのだ。

とは言え、独創的な非同期プレイ用ゲームの大部分はWebをプラットフォームとしている。Webは当初から非同期交流を前提に作られた物だ。”Wordscraper”をはじめ、多くのフェイスブックゲームは簡素なターン制を採用し、ソーシャルネットワークの要素を利用する事で対戦を容易にしている。1ゲームにかかる時間は数時間から数ヶ月まで参加者のログイン頻度次第で様々だ。更に非同期MMOも既に存在する。フェイスブックゲームでは”Mob Wars”や”Knighthood”、独立サイトでは”Nile Online”や「トラビアン」がある。

この手のゲームではプレイヤーは大きな世界の中で何かを育てて行く。それによって名誉を得たり、あるいは単に育成自体を楽しんだりする。”Nile Online”の場合、プレイヤーはナイル流域の都市の1つを受け持ち運営する。それぞれの都市は木材・金・油などの特産品を持っており、都市が成長するとそれらを近隣の都市との間で売買できる様になる。都市の成長度合いはゲーム内ランキングに表示される。偉大な記念碑を建造する事で更に名声を高める事もできる。

 

相互作用の意味は?

これら非同期MMOに1つ疑問を投げかけるとすればこうだ。確かにマルチプレイヤーゲームの長所をいくつか備えているが、結局の所は時々ちょっかいの入るシングルプレイヤーゲームではないのか? プレイヤー間の相互作用は比較的弱く、システムの大部分は自分の領地をコツコツ開発する事に関する物である。隣近所を気にする必要はあまり無い。というのも、このタイプのゲームではプレイヤーが他のプレイヤーに与える影響を大きくする事が難しいのだ。相互作用システムはプレイヤーの一方がログインしていない事を前提に作成される。もし誰かが他のプレイヤーの都市を焼き払う事ができたら? その時攻撃を受けるプレイヤーは寝ていたとしたら? 朝起きたら自分の都市が丸焼けになっていて、それを防ぐチャンスすら無かったというのは楽しい体験だろうか?

そういう具合で、ほとんどのゲームは他のプレイヤーの行動から受ける影響を減らす選択肢が存在する。例えば「トラビアン」では、岩の隙間に資源を隠しておいて攻撃を受けても奪われない様にできる。そもそも資源強奪の様なゼロサムな相互作用は非同期プレイと相性が良くない。ゲームにおける影響があまりに大きければ、各自が好きな時にログインできるという非同期ゲームの長所が失われてしまう。これらのゲームデザインは並列関係の競争に力点を置くべきだ。遺産の建造競争とか、経済支配の確立などである。

しかし非同期のMMOでゼロサム相互作用を中心に据えつつ、それに伴う問題を解決している例もある。”Duels”だ。キャラクターのレベルを上げて他と戦うファンタジーMMOだが、戦いの際に両方のプレイヤーがログインしている必要は無い。例えば戦士が魔法使いに決闘を挑むと、魔法使いがそれを承諾した時点で実際の戦闘が始まる。このシステムならゼロサムな紛争を行いつつ、ゲーム部屋探しや途中退場などの不快な要素を排除できる。だがこれはまた別の問題を抱えている。決闘の際にプレイヤーがログインしている必要が無い為、戦闘中にはいかなる意思決定も行われない。戦闘はブラックボックスになり、2人のキャラクターが中に入って結果だけを吐き出す代物と化す。「面白いゲーム」が「面白い意思決定」の集まりだとすれば、”Duels”はその機会をプレイヤーから奪う事で袋小路に陥ってしまっている。

 

非同期ネイティブなゲームを

正直な所、非同期ゲームとそのデザインの歴史はまだ始まったばかりである。されど前途は明るい。同期ゲームに参加する時間のある者は非同期ゲームにも参加できるが、逆は真ならず。つまり非同期ゲームは同期ゲームより多くの潜在顧客を有している。今後の課題は同期ゲームシステムの模倣を止め、最初から非同期プレイの為に作られたシステムを確立する事である。

最良の事例は”Parking Wars”というフェイスブックゲームだ。このゲームのプレイヤーは、他のプレイヤーの所有する道路に違法駐車をして金を得る。駐車された側は、それを見つけて取り締まれば金を巻き上げる事ができる。よって最良の戦略は他のプレイヤーがオフラインの時間帯を調べ上げ、そこを狙って違法駐車をするという物だ。そして対抗戦略は言うまでもなく、意外な時間にログインしてそれを取り締まる事である。つまりこのゲームは「プレイヤーがオフラインの時間をゲーム内容として活用している」と言える。先に挙げた他の非同期ゲームと違い、このシステムは同期プレイでは全く機能しない。将来の非同期ゲームデザイナーはこれを見習うべきである。今や時代は変わった。同期ゲームを改装して非同期プレイに押し込むのではなく、非同期プレイならではのゲームを作る時が来たのだ。

原文: http://www.designer-notes.com/?p=124

翻訳記事:基本プレイ無料に関して

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GDC#4:基本プレイ無料に関して

2009/3/1 Soren Johnson
Game Developer誌2008年11月号に掲載された物の再掲:

 

中国で恐ろしく熱いMMORPGビジネスモデルが登場した。その名は”ZT Online”。今や大人気だ。課金ユーザーは100万人を超え、四半期あたりの平均顧客単価は$40。開発元のGiant Interactiveは中国で最も儲かっているオンライン娯楽企業の1つである。アジアのゲームは大抵基本プレイ無料(F2P)だが、”ZT”もまた然り。加えて”ZT”は対戦プレイに重きを置いている。他のプレイヤーを倒してアイテムを奪えるのは勿論、弱いプレイヤーを身代金目的で誘拐する事すら可能だ。誘拐された方はその間ゲームができない。

“ZT”では装備品の入手方法も非常に限られている。まず、モンスターを倒してもドロップは一切無し。クエストをクリアしてもアイテム報酬は無し。その上全てのアイテムは完全にアカウントに固定されており、他のプレイヤーと取引して良い物を手に入れる事も不可能。ではどうするかと言うと、リアルマネーで運営から「宝箱」を買うのである。ぶっちゃけると装備品入りガチャポンである。宝箱に何か役に立つ物が入っている確率は低く、最高の装備を揃えるには何千も宝箱を開けねばならない。そしてその日一番多くの宝箱を開けたプレイヤーは特別ボーナスが貰える。つまりその日一番多く金をつぎ込んだプレイヤーが良いアイテムを手にするのだ。

欧米の人間には、”ZT Online”の金銭至上主義は受け入れ難いかも知れない。しかしこれが現在のゲーム開発の潮流における最先端なのだ。プレイヤーの欲望を刺激し、ゲームで有利になる為に金を使わせる。皮肉な事に、基本プレイ無料&アイテム課金モデルは元を辿れば海賊版の氾濫に原因がある。アジアでは海賊版が出回っているため製品パッケージをなかなか買ってもらえない。そこでNexonやNCsoftなどの韓国企業はサーバーベースのオンラインゲームを立ち上げ、海賊版に邪魔されない新たなビジネスモデルを確立したのだ。

最初は月額課金システムだった(世界初の100万人MMO、NCsoftの「リネージュ」も含む)が、韓国のゲーム業界は次第に基本プレイ無料モデルへ移行した。利益は小額の課金を細かく繰り返して得る。Nexonの「カートライダー」や「メイプルストーリー」がその例だ。こうしたオンラインゲームの顧客が1000万単位になるにつれ、韓国式モデルは欧米の開発元の注意を引く様になった。そして自前の基本プレイ無料ゲームをアジア市場に投入したのだ。EAの”FIFA Online”、Valveの”Counter-Strike Online”、THQの”Company of Heros Online”などである。

F2Pゲームの展望はこうだ。まず無料のゲームでプレイヤーを釣る。そして次第に夢中にさせ、金を使わせる。ただしそれをデザインするのは並大抵の事ではない。実際、F2P以前の時代が開発者にとってどれほど幸せだったか思い知る事だろう。製品パッケージなり、月額課金なりの定額の世界。そこでは開発者は1つの事に集中できた。とにかく面白く、魅力的なゲームプレイを作り出す事に。

しかしF2Pの世界は違う。新参プレイヤーを釣る為に無料部分は面白くなくてはならないが、しかし面白すぎてもいけない。欲求不満を起こさせて最終的に何らかの課金に結びつけねばならない。デザイン上の決定は全て、無料部分と課金部分のコンテンツのバランスを念頭に行われる。即ち、海賊版氾濫の真のコストとは、ゲームビジネスとゲームデザインの境界が曖昧になる事だ。ゲームが製品パッケージから継続サービスに変わるに連れ、経営上の判断とデザイン上の判断は切り離せなくなって来ている。勿論、過去にもそういう時代はあった。アーケードゲームの基本デザインはいかにプレイヤーから25セント玉をむしり取るかである。ならばF2Pゲームがこの同じ水域をどう渡ったかは示唆に富むだろう。

 

経営かデザインか?

先に述べた2D MMORPG「メイプルストーリー」はゲーム内にリアルマネーショップが設置され、キャラクターの使うアイテムを購入できる様になっている。陰影とか青髪といった見た目を変えるだけのアイテムもあれば、ゲーム内で効果を発揮する消費アイテムもある。消費アイテムは24時間獲得経験値が2倍になるチケットとか、キャラクターのテレポート、パラメータの振り直しなどである。公平性確保のため、アイテムの効果は時間の節約のみに留まり、キャラクターを直接強化はしない。この区別は重要だ。課金にゲーム内での意味を持たせつつ、最高の装備が得られるかどうかとは無関係にする。ここが”ZT Online”と違う。

また別のF2Pビジネスモデルもある。ブラウザMMORPGの”RuneScape”は、基本プレイが無料。任意で課金もできるが、これはアイテムを買うのでなく月額課金である。課金すると追加のクエストやエリア、住宅の所有、特別スキルなどが解禁される。ここでもまた無料部分と有料部分の線引きがデザイン上の問題になる。無料部分は人を増やし、有料部分は収益をもたらすのだ。現状では6人に1人が課金しているとの事で、良好なバランスを保っていると言えよう。

「トラビアン」は成功したブラウザMMO戦略ゲームである。こちらは金を払ってゲーム内の一時ブーストが得られる様になっており、1週間の間木材の生産+25%とか攻撃力+10%とかである。この仕組みはプレイヤー間でも賛否が分かれる。高レベルの競争を勝ち抜くには課金が必須になっていると感じている様だ。また「トラビアンPlus」という課金機能もある。インターフェースが改善されてプレイ効率が高まるというものだ。マップの表示が広がったり、戦闘をシミュレートできたり、内政管理ツールやグラフ情報画面を使えたり、生産をキューに入れたりできる。

こういった機能はパッケージ入りの戦略ゲーム、例えば”Civilization 4″だったら最初から入っている。わざわざ最高のゲームを出し惜しみするのはいささか危険を伴うだろう。無料版のインターフェースを故意に使いにくくしておいたら、そのままプレイヤーに逃げられてしまう事もある。例えば「トラビアン」では、町は一度に1つのアップグレードしか建設できない。そしてアップグレードはせいぜい30分で終わるので、プレイヤーは日に何度も何度も町をチェックする羽目になる。そうでなければ競争に負ける。簡単な生産キュー方式を導入すれば問題は解決するのだが、開発元は金を払って「Plus」を購入したユーザーにのみそれを提供している。

この決断が正しいかどうかは何とも言い難いが、もっと重要な事は「誰が」この決断をしたかである。ゲームデザイナーか、それともビジネスマンか? いやそもそも両者の区別に意味はあるのか? ゲーム内の要素全てに値段が付けられているというのに? 収益と面白さのバランスを上手く取らなければ、F2Pゲームはユーザーから金を搾り取る欺瞞システム(ZT Online)になるか、碌に収益を上げられない実質無料ゲームになるかのどちらかである。だがどうしても迷ったら、面白いコンテンツを無料で開放する方に転ぶべし。強欲に任せて短期間の利益を追求すれば、結局はゲームが無料ではないという認識が広まり、布教してくれるファンを失ってしまう。

 

市場原理による解決

韓国のNexonは面白い解決策を持ち出して来た。2つの通貨を用意し、市場原理によってバランスを取るのである。「パズルパイレーツ」はJavaを用いたブラウザMMOで、金のあるプレイヤーと時間のあるプレイヤー、両方を満足させる仕組みになっている。一方の通貨はレアルといい、時間を費やしてパズルゲームを解く事で獲得できる。もう一方の通貨はダブルーンといい、リアルマネーを払って買う。ゲーム内では見た目の変更からキャラクター強化まで様々なアイテムが販売されているのだが、ほとんどは両方の通貨を代金として支払わねばならない。よってダブルーンを買えないプレイヤーは、金持ちのプレイヤーと交渉してレアルと交換してもらう事になる。一方金はあるが時間のないプレイヤーは逆の取引をする。そして両方の通貨は市場で自由に取引できる。こうすれば同じアイテムを様々な方法で買う事ができるわけだ。

こうして全てのコンテンツが課金と無課金両方のプレイヤーに開放され、「トラビアン」に起きた問題は解決された。実際の所、時間のあるプレイヤーが取引でダブルーンを手に入れたとすると、その相手の金持ちプレイヤーは「スポンサー」になっている。どんな形であれ、ダブルーンが消費されればそれだけ運営の収益になるのだから。自由市場の働きにより両プレイヤーのバランスは保たれる。もし時間のあるプレイヤーが多くなり過ぎれば、レアルの相場は暴落し、少しの金を使うだけで大きな優位が得られるぞとプレイヤーを誘う。二重通貨市場の見えざる手により、デザイナーは皆が遊び続けてくれる面白いゲームを作る事に集中できる。

Giant Interactiveも、金持ちから搾り取る”ZT Online”の限界に気付き始めている様で、月額課金版ZTが開発されている。ガチャポンを無くして金持ちプレイヤーと張り合えない低所得層を引きつけようとしているのだ。また”Giant Online”というのも発表された。中所得層向けのゲームで、課金要素はあるが限界値が設けられている。

こうした開発努力は喜ばしい。F2Pゲームには大いに明るい展望がある。箱入りのゲームと違い、時間のある人無い人、経済的余裕のある人無い人全てを引きつけられる。また実験的な作品も作りやすいだろう。箱入りゲームと違い、前払いで「内容を信じて買う」事をしてもらう必要が無いからだ。とは言え、F2Pゲームの開発者はデザインだけをしていれば良いわけではない。人気と利益を得るには、ゲームデザインとビジネスモデルの合致が不可欠である。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=115

翻訳記事:ゲーム内経済

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GDC#3:ゲーム内経済

2009/1/23 Soren Johnson
Game Developer誌2008年9月号に掲載された物の再掲:

 

ゲームにおける経済システムのデザインは昔から厄介だった。面白く、かつきちんと機能する経済システムを作るのは容易ではない。実際にプレイしてから見通しの甘さが発覚したゲームは数多ある。例えば、初期の「ウルティマオンライン」は経済システムが恐ろしく混沌としていた。ザック・ブース・シンプソンは1999年に「ウルティマオンライン」を分析し、初期の主要な問題を詳しく論じた。

  • 生産システムはアイテムを作れば作るほど儲かる仕組みになっていたため、大量・過剰生産が引き起こされた。
  • 量産したアイテムをNPCに売ると、その度に通貨が発行された。結果、通貨供給によるハイパーインフレが生じた。
  • ベンダーに自分で使うアイテムを持たせ、市価を遥かに上回る値段を設定しておく事で倉庫代わりになった。
  • 倉庫にアイテムを貯め込める様になった事で、流通するアイテムが足りなくなり自己完結経済が成立しなくなった。
  • プレイヤーがカルテル(その1つはライバルゲーム会社によるものだった)を組んで魔法の秘薬を買い占めた。結果、普通のプレイヤーは呪文を唱えられなくなった。

MMO経済の歴史はここから始まり今も続いている。”World of Warcraft”のオークションハウスはゲーム内経済の中でも、いやゲーム全体の中でも活気のある場所だ。多くのプレイヤーが市場での取引に夢中になり、良い影響を及ぼしている。”EVE Online”の開発元であるCCPなどは、本職の経済学者を雇ってゲーム内経済における資源の流れと相場の変動を分析させた。実際、市場の相場がゲームに及ぼす影響を理解する能力は開発に欠かせないものである。

 

市場はゲームバランスを調整するか?

市場原理を使ってゲームバランスを調整しようとする試みはよくある。例えば”Rise of Nations”では、騎士とか弓兵といったユニットを購入する度に、同じ種類のユニットのコストが上昇する仕組みだった。供給増による価格上昇の再現である。これにより、軍事力を最大にするには様々なユニットを組み合わせる必要があった。選択肢の価値が変動する事でゲームの状況は次々に変化する。いつも決まった必勝法という物が無くなり、リプレイ性が向上するわけだ。

しかしやり過ぎは禁物だ。市場原理に任せきりにしているとゲームが崩壊する恐れがある。2006年、Valveは”Counter-Strike: Source”に奇妙な実験経済を導入した。「武器価格変動制」の実装である。週ごとに世界全体での需要量に基づいて武器と装備の価格が更新されると開発者は説明した。ある武器を買う人が多ければ価格は上がり、他の武器は価格が下がる。

だが困った事に、一部の武器に人気が集中しバランスが調整し切れなくなった。例えば強力なデザートイーグルの相場は$16,000まで急騰し、やや性能の劣るグロックは$1まで暴落した。グロックをそこら中に捨て散らかすプレイヤーまで出る始末である。ゲーム内経済は現実の経済とは違う。価格を上げれば全てが調整される訳ではないのだ。プレイヤーは楽しみたいのであって、一番面白い選択肢の価格がどんどん上がって買えなくなってしまったら、単に別のゲームに移るだけかも知れない。現実世界でガソリン価格が急騰して生活が「楽しくなく」なっているが、現実世界は1つしか無いので他に移る事はできない。だがゲームは1つではない。

そもそも完璧なバランスというもの自体が疑わしい。じゃんけんの焼き直しが求められている訳ではないのだ。じゃんけんは全ての選択肢の価値が同じであり、ランダムに手を出すのが最上の戦略である。ゲームはきちんと理由があって動くべきであり、ただ市場に任せるのではいけない。人気の武器を値上げするだけでは、プレイヤーは不利益を被ったと感じかねない。そうするのはバランスの悪さがゲーム自体を崩壊させている場合だけにしよう。

 

ゲーム自体に市場を組み込む

市場原理を利用するもっと適切な方法がある。ゲーム自体に透明性の高いシステムとして組み込むのだ。ボードゲーム界は自由市場を組み込んだゲームの成功例が多い。ドイツ式ゲームの「プエルトリコ」と「ヴィンチ」はそれぞれ、人気の無い職業や技術への助成金を徐々に増やすシステムを備えている。前者の場合、誰も職人をやりたがらなければターン毎に1ゴールドの「助成金」が加算され、その職業を選んだプレイヤーへの報酬になる。助成金が積み増されるに連れその魅力は抗し難くなる。こうしてどの職業もいつかは選ばれる。

プエルトリコにも「明らかに良い戦略」や「明らかに悪い戦略」があるが、それはターン毎に変化する。このため、自動調整システムはゲームを楽しくする方向に働いている。好きな戦略に拘泥すると罰を受けるのでなく、他者がやりたがらない戦略を選ぶと報酬が得られる仕組みだからだ。あるいはもっと重要な事は、仕組みがあらかじめきちんと説明されている点かも知れない。これなら誰も不公平と感じないだろう。

市場原理を最も上手く使って資源と価格のシステムを作ったのは、恐らく「パワーグリッド」だろう。これもドイツ式ボードゲームだ。プレイヤーは発電所を稼働させるために様々な資源を中央市場で購入する。資源の価格はだんだん高くなる直線状の並びで表される。毎ターン、X個の資源が市場に追加され、Y個の資源がプレイヤーに購入されて取り去られる。在庫量の変動に応じて価格も上下する。価格マスのどこまでが在庫で埋まっているかで決まる訳だ。

需給に基づく市場システムをきちんと説明しておく事で、市場自体が新たな戦場ともなる。さながらウォーゲームにおけるヘックスの如し。石炭を買えるだけ買って相場を上げれば、次の番のプレイヤーにはとても手が届かなくなってしまう。そうするとターン終了時に発電所が止まる。これは「パワーグリッド」における最悪の事態だ。真の自由市場において、価格は武器として用いられる。軍事ゲームにおける剣や矢の如し。

 

自由貿易の利益

同様に、最近の戦略ゲームは資源を自由市場で売買できる物が多い。”Sins of a Solar Empire”や”Age of Empires”シリーズである。売買は世界市場の相場に影響を及ぼす。
こうした市場は面白い「欲望の試練」となる。金銭が必要で資源を売りたい、あるいは特定の資源が必要で買いたい、しかしそうすると他のプレイヤーが市場価格の変動を利用できてしまう。”Age of Kings”で木材を買い過ぎると、対戦相手は木材の販売で金銭需要を全て賄えてしまう。

残念ながら、こういった市場システムは大体いつも同じ展開になる。全てのプレイヤーが必要を大幅に上回る資源を手にすると、相場は底に張り付いて動かなくなる。問題の根っこはゲームマップが経済的に公平にできている事だ。”Age of Kings”では全てのプレイヤーの開始地点近くに十分な金と石と木がある事が保証されている。資源がランダムに配置されていれば市場にはもっと動きが出て面白くなったろうが、そうするとゲーム全体としての肝心な軍事バランスが犠牲になりかねない。相手が馬で攻めて来ているのに木が皆無で槍兵を作れなかったらどうする?

ゲームの核心部分に市場を組み込んでいるゲームならこういう制限は無い。多くの経営ゲームでは1つの資源に特化するのが通常の戦略だ。よって自由市場システムはゲームにおける競争の面白い部分になる。最高の例は80年代の”M.U.L.E.”だろう。4人のプレイヤーが新世界の経済覇権を賭けて戦うゲームだ。資源は食料・エネルギー・鉱石・宝石の4種類だけだが、量産の方が効率が良いため特化が奨励される。4種類全ての資源を自前で生産できる事は稀なので、結局他のプレイヤーから資源を買わなくてはならないのだ。

この資源売買のシステムが傑作だった。買い手は画面下部に並べられる。売り手は画面上部。買い手が上昇すると買値が上がる。売り手が下降すると売値が下がる。画面中央で両者が出会うと売買が成立する。ここでもまた、仕組みがきちんと説明されている。プレイヤーの在庫と市場価格は全て公開されている。
自分から売買価格を妥協して取引を成立させる事もできるし、他のプレイヤーが先に折れてくれるのを期待する事もできる。実に分かり易い。誰かが建物の稼働にどうしてもエネルギーを必要としていたり、労働者を養うのに食料が必要だったりすれば、足元を見て財布の中身を根こそぎ引きずり出そうという事になる。こういう状況だと、最早価格が下がるのは他のプレイヤーが先に売り手になって利益をさらうのではないかと警戒した時だけである! “M.U.L.E.”によって掘り下げられた仕組みは深く豊かである。敵を経済的に追いつめるのは粉砕するより楽しかったりもするのだ。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=114

翻訳記事:2D対3D

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GDC#2:2D対3D

2008/11/18 Soren Johnson
Game Developer誌2008年7月/8月号に掲載された物の再掲:

 

業界黎明期のゲーム、”Pong”、”Asteroids”、「スペースインベーダー」などは当然ながら2Dゲームであった。初期のゲームで3Dを備えていた物もわずかにあった。線画ベースの戦車シミュレーター、”Battlezone”などだ。しかし3Dはあくまで変わり種に過ぎず、ゲームの本流にはならなかった。全てが変わったのは1992年の事である。id Softwareの”Wolfenstein 3D”の登場により、3Dグラフィックはゲーム開発の最先端として広まった。それ以来、あらゆる物が2Dから3Dへの移行に巻き込まれた。マリオもゼルダも、パックマンすらも3Dにやって来た。

現在ではほぼ移行は完了したと言っていい。そろそろ問うてみようではないか。このプロセスで何を学んだか。何が3Dの長所なのか? 何を目的としているのか? 2Dの方が優れている場合は何だろうか? 今なら開発者も、競争圧力に屈して3Dへ流れるのでなく、ゲームごとに最適なグラフィック環境を選ぶ事ができそうだ。

 

カメラの問題

3Dゲームとカメラには長い格闘の歴史がある。一人称視点のゲームに関しては問題は無いが、他のジャンルも3D化しているのである。プレイヤーにゲーム自体のやり方も教えつつ、カメラの操作も同時に教えるというのは難事である。ここで2Dの強みが出て来る。カメラがそもそも存在しなければ、カメラの使い方を教える苦労は無い。実際、3Dゲームもカメラワークの裁量をプレイヤーに与えなくなって来ているのが最近の潮流だ。

「スーパーマリオ64」は3Dジャンプアクションの最初の成功例である。しかしやはり、プレイヤーはマリオを適切に映す為にカメラコントロールに労力を割かねばならなかった。アクションゲームはより親切なカメラシステムを研究し続けており、自動的に最適なアングルへ調整する様になって来ている。
しかし、こういう手法はどうしてもある点で無理が出る。キャラクターが部屋の角に張り付いたり、水平の出っ張りの下に隠れたりすると処理に困る。この根深い問題への解答として、「プリンス・オブ・ペルシャ 時間の砂」では2つの静止カメラがメインカメラとは別に用意された。そしていつでも視点を切り替えられる。”God of War”ではさらに一歩進んで、各シーンごとに固定カメラが1つ置かれている形になった。映画を作る様にして面を作る形である。「スーパーマリオギャラクシー」ではカメラ操作が一切無くなり、周囲が見える上からの視点に自動で調整される様になった。”World of Warcraft”などのアバター型ゲームは、移動中に視点を調整できないようにしている。これによりキャラクターがカメラに向かって走って来る事態は避けられた。

戦略ゲームにおいてもカメラは進歩している。他のジャンルと同様、カメラ調整の自由度を減らす方向だ。少なくとも初心者には弄らせない。3Dを採用したRTSの一つ、”Star Wars: Force Commander”はカメラ操作が自由すぎて不評だった。軍を見る為の視点調整がいちいち面倒だったのだ。”Warcraft 3″は3Dを正しく採用した最初のRTSと言えよう。成功の肝は視点調整の自由を大幅に減らした事だ。ズームはほぼ不可能で、代わりにカメラ位置が下がって行く形になる。カメラの回転は余り使わないキー操作でのみ可能だ。リードデザイナー、ロブ・パルドは開発の経緯をこう語る。
「3D化するにあたり、カメラ操作の要素はかなり少なくした。視点が低い位置にあると、視界がTPSに近くなる。これでマップのあちこちを見ようとするとどこがどこだか分からなくなるし、視点が一方向だけを向いているせいでユニットを選択するのも難しくなる。戦場全体を見渡せないのだ。戦略ゲームとして面白くするため、結局昔ながらの等軸視点にカメラを持って来た。ようやくそれで作業が始まった」

 

2Dも色々

2Dゲームも様々な種類がある。よくあるパターンは2つ。ボードゲームの様な昔ながらの「見下ろし」2Dと、「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」の様な「横視点」2Dである。他に等軸視点というのもあり、視点を固定した3Dを2Dで模すものだ。3Dへの移行が本格化する前、多くのゲームが見下ろし2Dから等軸2Dに流れて行った。例えば初代”Civilization”は昔ながらの見下ろし2Dだったが、Civ2は45度視点の等軸2Dになった。この手法は確かにそれなりにリアルだが、ゲーム性がいささか犠牲になった。つまりマスとマスの距離がつかみにくい。東西方向のピクセル数が南北方向の2倍になっているからだ。この問題を解決するため、Civ4は3DグラフィックながらCiv1と同じ真っすぐな見下ろし視点を採用した。タイルは斜めになっていない。こうすればマスが分かり易くなり、戦略上の決定も下しやすくなる。

「ファミコンウォーズ」の系譜、”Advance Wars: Days of Ruin”を見てみよう。視点は伝統的な真っすぐの見下ろしだ。プレイヤーは四角のマスに集中できる。ユニット画象はいつものデフォルメ体型で、グラフィックの都合に合わせてある。このシリーズから影響を受けたのが、DSの”Age of Empires: The Age of Kings”である。こちらは同じ様なゲームシステムながら、斜めの等軸視点を採用している。しかしこれが上手く行っているかというと怪しい。マスの区切りが分かりにくいし、ユニットの画像がマスをはみ出しているせいでユニット同士が重なり合ってしまい、選択するのが一々面倒なのだ。マス目を使うゲームは真っすぐな見下ろし視点の方が良さそうである。

 

グラフィックはゲーム性にあらず

3Dグラフィックと3Dゲームは別物だ。例えばSFテーマのRTS、”Homeworld”と”Sins of a Solar Empire”は似た様な3Dエンジンを使って広大な宇宙空間の戦闘を表現している。しかしゲーム性は異なる。”Homeworld”は本当の3Dゲームであり、X軸Y軸Z軸を自由に移動できる。一方”Sins”は2D平面上のゲームであり、高さの概念は無い。その気になれば2Dエンジンでも実装できる。3Dを用いたのはあくまでズームが自由になるとか宇宙が広大に見えるといった副次的な理由からである。ゲーム性が2Dなので”Sins”はあまり操作が複雑にならずに済んだ。一方”Homeworld”はユニットに移動命令を出すのに三次元で位置を指定せねばならず、2〜3クリックが必要になる。

3Dグラフィックと2Dゲームシステムのハイブリッドはよく見かける。「大乱闘スマッシュブラザーズX」は横視点の二次元空間を3Dグラフィックで描画し、アニメーションや背景をリアルに見せていた。クリフ・ブレジンスキーは”Gears of War”のゲームシステムをこう語る。これは2Dアクション”Bionic Commando”を水平にしたものだ。一方はワイヤーを使って足場を渡る。もう一方は遮蔽物から遮蔽物へ渡るのだと。

本質的に、殆どのゲームはグラフィックでなくシステムによって3種類に分けられる:

・マス目型ゲーム(テトリス、パズルクエスト、Civilization、Oasis、NetHack)
・平面ゲーム(Starcraft、Madden、Geometry Wars、スマブラ)
・現実世界ゲーム(Portal、スーパーマリオギャラクシー、Burnout、Boom Blox)

簡単な法則を紹介しよう。現実世界ゲームはほぼ3Dグラフィックが必須である。もちろん「現実」と言っても文字通りの意味ではない。”Portal”のワープ銃は現実に存在しないが、それが現実同様の重力と物理法則を持った世界に存在するから面白いのだ。「現実世界ならこうなるだろう」というプレイヤーの期待に応えるには、現実同様の見た目と振る舞いをする三次元環境を作るべし。これぞゲーム版WYSIWYGである。

これとは対照的に、マス目型ゲームは見下ろし2Dが一番適している。ゲーム性と見た目の乖離が少なくなるからだ。平面ゲームの場合、選択は見た目と技術の問題になって来る。プラットフォームは3Dグラフィックをスムーズに動かせるか? 3Dにするメリットは? モーションを共有したり、特殊効果を付けたり、色々融通が利く様になったりするだろうか? これらを考えて3Dの是非を判断する。

こうしてみると、2Dグラフィックは時代遅れと見なされ過小評価されている様だ。3Dグラフィックの様に巨大なエンジンや大量のアセットを管理しなくて済むのは大きなメリットである。更に、上出来の2Dグラフィックは時代遅れにならない。”Habbo Hotel”のリードデザイナー、スルカ・ハロはよくこう語る。レトロな2Dグラフィックは8年経っても発表当初と同じ位見栄えがする。もし3Dを使っていたら1〜2回はグラフィックエンジンの世代交代が必要だったろう。一度2Dグラフィックが軌道に乗ってしまえば、後は好きに画像を追加できる。2Dグラフィックがゲームシステム自体と上手くリンクしていれば更に良い。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=113

翻訳記事:戦略ゲーム七つの大罪

これは翻訳記事です

GDC#1:戦略ゲーム七つの大罪

2008/9/27 Soren Johnson
Game Developer誌2008年4月号に掲載された物の再掲:

 

戦略ゲームはコンピューターゲームの中でも歴史が古く、誉れ高き伝統を持つ。”M.U.L.E.”から”Civilization”や”Starcraft”へと連なる系譜だ。にも関わらず、同じ様なデザイン上のミスが何度も何度も繰り返されているのも確かだ。ここではよくある7種類のミスを解説しよう。

 

1.大量の文章を詰め込む

戦略ゲームはボードゲームの直系子孫である。ボードゲームの楽しさはルールやメカニクスを理解し、決断を下し、その世界に何らかの結果を引き起こす所にある。
コンピューターゲームではこの楽しさを一人で味わえる。ところがいつの頃からか、開発者はやたらに長いシナリオをシングルプレイ用コンテンツとして詰め込み始めた。最近の”World in Conflict”に至ってはシングルプレイ用のスカーミッシュモードすら無い有様だ。こういったシナリオはどうにも奇異である。ゲーム本体と共通のルールはあるが、色々と相違点もある。AIは自力で戦略陣地を発展させて行動を始めるのでなく、人間プレイヤーがトリガーとなる特定の行動をする事で動き始める。人間が負ける事が不可能になっているシナリオすらある。負けそうになるとスクリプトでAIが止まったり、人間側に増援が来たりする。さらに、こうしたシナリオは基本的に「目標物」ベースである。あれを壊せ、あの場所を占拠しろ。これではプレイヤーが戦略を判断する余地が無くなってしまう。面白い意思決定の無いゲームはすぐ飽きる。幸い、最近の戦略ゲームは状況が改善された。”Sins of a Solar Empire”や”Armageddon Empires”はオープン型のランダムマップ方式に戻って来ている。予め決められた目標物などは無い。これぞ本格戦略ゲームの楽しさなり。

 

2.大量の要素を詰め込む

ゲームの骨格が完成した後も、大量のユニットやら建物やら何やらをついつい追加したくなる。実際、多くの開発者がゲームの事を要素の寄せ集めとして語るのを目にして来た。(「18の武器!68種類のモンスター!29面!」)
この考えは間違っている。ゲームは面白い意思決定の集合だ。そして「要素」は意思決定を形成する為にあり、漫然と存在しているのではない。プレイヤーの取り得る選択肢が少な過ぎるのは良くないが、大抵の場合は多すぎて失敗している。選択肢はいくつが丁度いいのか? 具体的な数字を挙げるのは難しいが、大雑把な見当は付けられる。Blizzardは12という数字を用いて、RTS製品が複雑になり過ぎない様に管理している。”StarCraft”は各勢力ごとに平均12種類のユニットを持つ。”WarCraft 3″も然り(ヒーローは含まない)。”StarCraft 2″も大体このあたりに落ち着くだろう(訳注:本コラムの発表はSC2の発売前。その通りだった)。実際Blizzardの発表によれば、新たなユニットを追加する分、古いユニットをいくつか廃止するとの事である。ゲームはプレイヤーが頭の中で全ての選択肢を一度に検討できなくてはならない。あまりに選択肢が多過ぎると考えるべき範囲が広がり過ぎてしまう。

 

3.プレイ方式の限定

良いゲームもいずれは飽きられる。折角の名作も、ゲーム設定が限られていると色々な遊び方ができない。”Company of Heros”は革新的で素晴らしい戦術RTSであるが、枢軸国同士の対戦や、3人以上のマルチプレイが許されていない。第二次世界大戦の世界観からすればそれが正しかろうが、その結果遊び方が非常に限定されてしまっているのも確かである。一方”Age of Empires”シリーズは良い判断をした。どの文明も自由に組み合わせてチームに入れる事ができるし、マップスクリプトを自分で作る事もできる。”Age of Kings”のマップで印象的だったのが、木が殆ど無く石と金が溢れているという地形である。通常のゲームと経済バランスがあべこべになるのだ。更にこのゲームは複数のプレイヤーが1つの文明を操作する事さえ可能だった。1人が軍隊を動かし、もう1人が経済を賄うといった具合である。以前AoKで面白い試合をした。4人が操作する2文明と、3人が操作する3文明が対戦したのだ。そして2文明の側が勝ってしまった! こういうちょっとしたプレイ方式の広がりによって、我々の仲間内でのAoKの製品寿命は倍になったと言えよう。無論ゲーム設定はゲームの核となるメカニクスときちんと結びついていなくてはならない。設定を変えると無駄にルールが複雑化するのは良くない。

 

4.メカニクスのブラックボックス化

90年代後半のいつ頃だったか、”Black & White”が開発されていた頃である。インターフェースの無いゲームという概念が流行り出した。インターフェースを無くせば普段ゲームをしない層にも受け入れられるという考え方であった。それ以来、ゲームメカニクスをプレイヤーから隠してしまおうという潮流が顕著になった。1999年の”Age of Kings”には素晴らしいレファレンスカードが付いて来た。ゲーム中に登場するあらゆる物のコストや価値や修正子が一覧になっていたのだ。しかし最近のRTSは、マニュアルに具体的な数字が書いてある事は稀である。ただし強調しておきたい。透明性の名の下に数字の洪水でプレイヤーを溺れさせろと言っているわけではないのだ。そうでなく、開発者はインターフェースを2層に分けるべきである。基礎レベルと参照レベルだ。基礎レベルは初心者が基本的な情報を得られる様にする。例えばどうやって戦車を作って悪者を粉砕するのか。そして参照レベルはゲームシステムに関するあらゆる質問に答えられる様にする。このレベルの情報をゲーム内百科事典にまとめるのも有効だ。つまりシヴィロペディアである。”Rise of Legends”は2層構造を上手く実装している。ゲーム中のポップアップには「上級モード」があり、特定のキーを押しっぱなしにすると詳しい情報が表示される。

 

5.プログラムやデータの機密化

折角作ったプログラムやデータを秘密にしておきたいというのは自然な感情である。開発に何年もかけたのだし、独創性によってジャンルの地平を広げたのだから。ゲームの核を公開するのは大抵の開発者にとって難しい決断だ。経営者にとってはもっとそうだろう。だが我々はCiv4のゲームとAIのソースコードを発売直後に公開した。その結果は素晴らしい物だった。2つ目の拡張パックには3つのModが含まれていた。どれもファンが作った物で、デレク・パクストンの”Fall from Heaven: Age of Ice”と、ガブリエル・トロバートの”Rhye’s and Fall of Civilization”と、デール・ケントのWWII: The Road to Warである。これらのシナリオは”Beyond the Sword”の大きな売りだった。Modがこれほど深く、面白くなるには(あるいはそもそも存在するには)ソースコードの公開が不可欠だったのだ。PC系の開発者は殆どが既にこの点を理解しているだろう。釈迦に説法だ。だからこそ、これに反する事は七つの大罪の中でも最も重い。どういうわけか戦略ゲーム界は、FPSやRPGに比べてModに閉鎖的だ。id Softwareの様な先駆者を欠いているせいだろうか。Blizzard社の”WarCraft 3″には素晴らしいシナリオエディタが付いていたが、これはどちらかと言えば例外である。戦略ゲームのMod作者は制作環境に恵まれないのが現状だ。だからこそ、我々はCiv4をModに開放する事を使命と感じた。物を手放すのはいい気分だ。それに冴えたやり方である。

 

6.病的なコピープロテクト

不正コピーが業界に与えるダメージを計測する事は不可能だが、無視する事も不可能である。Stardockのブラッド・ワーデルは製品である”Galactic Civilization”シリーズに一切のコピープロテクトを施さなかったが、こういう勇者は少数派だ。ちなみにこの製品はきちんと製品番号を登録するとオンラインアップデートが受けられる。何らかの方策で不正コピーを防止するのは業界にとって当然だ。しかしだからと言って、ゲームを始めるのにいくつもの面倒な手順を要しても良い事にはならない。重要な問いはこうだ。「果たしてこのコピープロテクトを導入する事で売り上げは増えるのか?」目くじらを立てない方が良い場合もある。例えばLANマルチプレイだ。言い換えれば、製品CDを持っていないプレイヤーは持っているプレイヤーが主催するゲームに参加できる。”StarCraft”はゲームを「増殖」させる事を許していて、LANマルチにのみ参加できるコピーを作れる。実はLANマルチの開放はCiv4における我々の方針であった。ゲームは起動時にCDチェックを行うが、ゲーム中はしない。よって、4人で集まってLAN対戦をするとなったら1枚のCDを順に回して行けば良い。たまにしか無いLAN対戦会のためにわざわざ全員が製品を購入してくれるとは思えなかったのだ。それにこういう環境によって新規プレイヤーが入って来れば、今度はシングルプレイの為に本当に製品を買ってくれるかも知れない。

 

7.余計な所にストーリーを入れる

ストーリーとゲームの歴史は悲喜こもごもである。退屈なカットシーンやら、どこかで見た様なキャラクターやら、プレイヤーが操作できないシナリオやらで多くのゲームが駄目になった。ゴミの様な会話を早送りできないのは本当に困る。だが最悪なのは、ストーリーを入れなくて良い所に入れてしまうケースである。例えば戦略ゲームがそうだ。結局の所、戦略ゲームとはゲームの源流である。人類初のゲームはバックギャモンやチェスだ。誉れ高き伝統なり。戦略ゲームにおける「ストーリー」とはゲームそのものである。例えば”Rise of Legends”はシナリオ型のキャンペーンでなく、”Rise of Nations”にあった世界征服モードを搭載していたらどれほど良くなっていた事か。皮肉な事に、私はRoLのキャンペーンモードが気に入っている。技術や強いユニットがミッションの合間の戦略マップでのみ獲得でき、RTS部分がシンプルになっている。しかしそれはストーリーがあるから楽しいのでなく、ストーリーがあるにも関わらず楽しいのである。核となるRTSをシンプルな上部戦略レイヤーと組み合わせ、何回も繰り返して遊べるゲームにもできた筈だ。それがストーリーの為に犠牲になっている。こういう例は枚挙にいとまがなく、殆どのRTS開発者は同じ罠に陥っている。今こそ潮流を止めなくてはならない。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=106

翻訳記事:テーマはゲーム性にあらず(その1)

これは翻訳記事です

GDC#11:テーマはゲーム性にあらず(その1)
2010/6/14 Soren Johnson

Game Developer誌2010年2月号に掲載された物の再掲

 

ゲームの意味を決めるのは誰だろうか?

一見した所、人気ボードゲーム「乗車券」は鉄道王ゲームの系譜である。「蒸気の時代」や「ユーロレイルズ」や「1830」に近い感じだ。プレイヤーは都市と都市を繋ぐ路線を確立して行く。ニューヨークからサンフランシスコへ、マイアミからシカゴへ、という具合だ。

点数を得るにはいくつもの都市を結ぶ路線を作りつつ、他のプレイヤーの路線建設を妨害しなくてはならない。また連続した最長路線の確立や目標地までの路線確立など副次目標もある。

従って、「乗車券」は鉄道会社経営ゲームとして扱われる事が多い。優良な路線を選び、ライバルの路線を分断するゲームという風に。しかしながら、ルールブックの導入部にはそれと全く違うストーリーが書かれている…

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風の吹きすさぶ秋の夜、五人の旧友が秘密のクラブの一室に集合した。それぞれ世界の果てから長い旅程をやって来たのだ。この特別な日の為に・・・。1900年10月2日、フィリアス・フォッグの偉業「八十日間世界一周」の28年後である。

この28年間、彼らは毎年この記念日を祝い、フォッグへの賞賛を表した。そして年々難しくなる新たな挑戦が与えられた。世紀の変わり目の今年、またも不可能と思える旅程が提案され賭けが始まった。掛け金は100万ドルで勝者の総取り。勝負の方法は、七日間で最も多く北アメリカの都市を回った者が勝ちというものだ。
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この公式ストーリーを見てなんだこりゃと思う人も多かろう。ゲームに慣れている人もそうだ。だってストーリーとゲーム内容が合ってないじゃないか? 例えば、ただの乗客がどうして路線を独占できるのだ? 列車が扉を閉めて他の乗客をみんな閉め出してくれるのだろうか? むしろ鉄道王が路線を巡って争っていると考えた方がシステムに合致するではないか。

しかも路線の確立は好きな順番で行える。プレイヤーが旅行者で、路線の上に物理的に存在するとしたらこれは変だ。路線の確立は搭乗でなく買収と考えた方がすっきりする。

 

システムこそゲーム性を決める

この不一致は興味深い問題へと繋がって行く。プレイヤーのイメージと公式ストーリーが一致しない場合、開発者はそれを押し付ける権利があるのだろうか? 無いとすれば、そもそも「公式」ストーリーは何か意味を持つのか? こうも簡単に無意味になってしまうのに? ゲームとは、プレイヤーが何をするか、そして何を感じるかで決まる物ではないのか?

次の点を理解しなくてはならない。テーマはゲーム性ではない。ゲーム性とはシステムから生まれるものだ。即ち、一連の意思決定とその結果から生まれるのだ。ゲームはプレイヤーに何をする事を求めるか? 何をすると罰を受けるか? 何をすると報酬が得られるか? どんな戦略やプレイスタイルが成立するか? これらの問題に答える事でゲーム性の本質が見えて来る。

更に考察を進めよう。プレイヤーはゲームを買う時テーマで選ぶ(宇宙海兵になりたい!)が、ゲームの楽しさはシステムから生まれるのだ(宇宙人を射殺するなど)。もし両者に極端な不一致があれば、プレイヤーは騙されたと感じるかも知れない。羊頭狗肉だ! と。

進化をモチーフにしたゲーム”Spore”の例を見てみよう。Science誌の2008年10月号で、ジョン・ボハノンがこんな考察を書いている。ゲームのテーマから期待される要素がどう扱われているかという話題だ。

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科学者達と一緒にしばらく”Spore”をプレイしてみた。そして科学考証がきちんと行われているかを評価した。生物学、とりわけ進化論に関して言えば、”Spore”は支離滅裂である。科学者達によれば、”Spore”の不正確ぶりはゲームならではの単純化といったレベルではなく、生物学の殆どの要素を無駄にねじ曲げている。
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不一致の原因はこうだ。”Spore”は進化に関するゲームとして売られているが実際には進化とは関係無い。”Spore”は創造のゲームなのだ。”Spore”の楽しみとは、他のプレイヤー達が想像力の限りを尽くした作品を眺める事だ。開発者さえ予想し得なかった方法でエディタを活用(または誤用)し、楽器や想像上の生物、果ては演劇のワンシーンまで作れるのだ。

“Spore”は進化と無関係なゲームだが、進化を扱ったゲームはちゃんと市場に存在する。超人気ゲーム”World of Warcraft”がそれだ。テーマこそ剣と魔法の世界だが、キャラクター成長システムは自然淘汰の法則によって最適な形へと導いて行く。

数年間の経験を経て、WoWの古豪達は数多の育成レシピ(ビルド)を職業ごとに確立し、求められる役割それぞれに適切なビルドが存在している。例えばパラディン職には3つの主要ビルドがある。回復を担う聖魔法ビルド、盾の役目を担う防護ビルド、火力を担う天罰ビルドである。これらの主要ビルドの下にPvP用、PvE用、レベル上げ用といったサブビルドがそれぞれ存在する。こうしたビルドはどれもプレイヤーの試行錯誤から有機的に生まれたのだ。つまりゲーム内において何が報われ、何が罰せられるかに応じて生じたものだ。

 

テーマを超えて

ゲームシステムはプレイ体験にどう影響しているか? という眼鏡を通してゲームを見てみよう。スーパーマリオブラザーズはタイミングのゲームであり、配管工のゲームではない。”Battlefield”はチームワークのゲームであり、第二次世界大戦や現代戦のゲームではない。”Peggle”はカオス理論のゲームであり、ユニコーンと虹のゲームではない。

実際、テーマが同じでもゲーム性が異なる事はあり得る。例えば人類と異星人の戦争はビデオゲーム界によくあるストーリーだ。しかし異星人をモチーフにしている点は同じでも、ルールの違いによってゲーム性は全く違って来る。「ギャラガ」はパターン認識のゲームである。”X-Com”は限られた情報での意思決定ゲームである。”Gears of War”は遮蔽物を防御兵器として利用するゲームである。”StarCraft”は非対称戦争のゲームである。

逆に、テーマは違ってもシステムが同じならゲーム性は同じである。”Civilization”と”Alpha Centauri”は全く違う惑星を舞台にしているが、システムの部分は殆ど同じである。”Alpha Centauri”のマインドウォーム、特務班、秘密プロジェクトは本質的に”Civilization”の蛮族、スパイ、遺産と同じである。プレイヤーは外面上の違いに惑わされる事無く、”Civilization”と同様の意思決定を下して行ける。

ジャンル選択もゲーム性に影響を与える。テーマごとにそれぞれ固有の文法があり、プレイヤーが期待する物が違って来る(俺は魔法使いだ! 強力な魔法を唱えられる!)。ジャンルの因習はプレイヤーが店でゲームを手に取った時、何をイメージするかを決めてしまう。もう一度言うが、みんなテーマでゲームを買うのだ。システムがジャンルの因習から大きく外れていれば、プレイヤーの期待を裏切る結果になってしまう。

最近の2つのゲームを例として挙げよう。”Halo Wars”と”Brutal Legends”は、戦略ゲームになった事でプレイヤーを戸惑わせた。前者の場合、”Halo”と言えば戦闘アクションゲームの筈だった。後者の場合、ヘビメタ音楽は戦略ゲームに合わなかった。戦略ゲームとは熟考の末に決断を下すものであり、タイトルを見て本能のままに暴れるゲームを期待した人は裏切られたのだ。ゲームのルール自体は面白かったかも知れないが、掲げた看板のせいで売る対象を間違ってしまった。

 

テーマとシステムの合致

面白い比較をしよう。ボードゲームの”Risk”と「ディプロマシー」はどちらも世界征服をテーマにしている。一見した所システムの面でも似た様な感じだ。ゲーム盤は地域に分割され、陸軍や海軍のコマを動かして行く。戦闘によって地域の支配権はプレイヤーからプレイヤーに移る。そして領土を増やせば大きな軍隊を維持できる。

しかし、ルール上の小さな違いが両者を全く異なる物にしている。”Risk”では順番にターンを消化して行くのに対し、「ディプロマシー」の方は同時に解決する。この違いにより、”Risk”はリスクのゲーム、「ディプロマシー」は外交のゲームになったのだ。前者の場合、自分のターンにどれだけの領土が得られるかを見積もり、ダイスの目に嫌われない事を祈って突っ込む。後者の場合、そもそもダイスが無い。成功を収めるには必ず他のプレイヤーの援助が必要である。そして援助は約束はできても保証はできない。交渉フェイズが終わり、それぞれ伏せて指令書を書き、そして一斉に公開する。この時になって初めて誰が本当の友人で誰が裏切り者か分かるのだ。

「ディプロマシー」はテーマとシステムの完璧な合致を果たしている。実際、これはケネディ元大統領のお気に入りだった。ゲームの内容は看板と完全に一致している。外交交渉の手練手管のゲームである。逆にもしテーマとシステムが不一致を起こしていれば、プレイヤーの反応は否定的なものになる。その2ではうまく両者を合致させたゲームとそうでないゲームを考察しよう。そしてその報酬と代価も。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=237