勝つ為か楽しむ為か

勝つ為に遊ぶ」という有名な記事がある。競技ゲームにおいて最適な手を探し続け、徹底的に勝利を求めるという考え方だ。例えば格闘ゲームにおいてひたすら投げを浴びせる事は正しいとされる。「せこい真似をするなよ」という抗議は無効であり、勝ちを求めて技量を向上させ続ける先に本当の楽しみがあると説く。

この議論の背景にあるのは「楽しむ」と「勝つ」の伝統的な対立である。デザインコンセプトから期待される方法でゲームを楽しむか、ルールの穴を突いて貪欲に勝ちを求めるか。

結論から先に言うと、両者が一致する様にバランスを調整すべきである。ルールに対して最適な反応をした場合に最も楽しい遊び方が生ずるのが良いバランスだ。ハメ技を使うなと抗議しても意味が無い。開発プロセスで取り除いておかなくてはならん。

「スーパーストリートファイターIIX」の豪鬼はゲームを破壊していた。出すだけでも一苦労で、圧倒的に強い。勝つ為にこのキャラを選ぶとすれば、それは楽しくないプレイになってしまった。それゆえどこの大会でも禁止されていた。

「縛りプレイ」というのは要するにそういう事で、「最適なプレイ」と「楽しいプレイ」が一致する様に色々条件を課すのである。縛りを考案する作業はゲームデザイン作業に非常に近い。

ルールはそれ自体として存在するのではない。それにプレイヤーがどう対処するかを含めての構造である。ルールへの最適な対処がゲームを破壊してしまうなら、それはルールがゲームを破壊しているのである。

全てはバッファである

ここに一本の河がある。河には山から水が入って来る。河の水は海に出て行く。入る量が出て行く量より多ければ河のかさは増え、出る量が多ければ減って行く。

これがバッファである。山(入力)から来る水は最終的に海(出力)へと出て行く。しかしその間にタイムラグがある。入り次第直ちに出なくても良いのである。そして「入力されたがまだ出力されていない」タスクを保管しておく場所が河、すなわちバッファである。

バッファは非常に多くのゲームに見られる。落ちものパズルのフィールドはバッファである。ブロックが上から振って来て、配列によって消えて行く。その間ブロックが逗留する場所がバッファである。タワーディフェンスは敵の出現位置から到達先までの距離がバッファである。敵が点滴の様に一定に流れて来るならバッファは必要無い。入り次第直ちに処理できるからである。カードゲームの手札もバッファであり、山から引いてから場に出すまでのタイムラグを作る機構である。さらにRPGのマナや経営ゲームの手持ち現金もバッファの性質を持っている。入って来た物が直ちに出なくて良くなるのである。

バッファゲームの基本的な要素は4つある。タスクが入って来るルール。出て行くルール。溜めておくルール。そしてタスクが前三者に影響を与えるルールである。

例えば落ちものパズルはフィールド内のブロックの配置によってブロックが消える。つまりこれはタスクの出て行くルールがバッファ内のタスクに依存しているのである。

カタンは資源を消費して拠点を作り、拠点から資源を採取する。つまり消費した資源=出て行ったタスクが入って来るタスクを決める。

TDは入って来るルールと出て行くルールとがそれぞれ独立している場合が多いが、範囲攻撃という形でバッファ内のタスクが多いと急速に出て行くケースもある。

良いバッファゲームはタスクが明確に「良いもの」か「悪いもの」であり、「良い物が増える」「悪い物が減る」という形で達成を即座に認識できる様になっている。そして良い物にも悪い物にも、それ相応のアートアセットが付けられている様だ。

メックアリーナ:バックストーリー

説明書の最初か最後のページに書いておく背景設定。読まなくともゲームはできる。

 

人がみな死に絶え、僕たる機械たちが後に残った。僕らは木を削って棺を作り、最後の人の遺体を中に収めた。満月の照らす夜道を葬列が歩く。僕らは小高い山の頂に墓を作った。大きな一枚岩を運んで来て上に載せた。足のあるものは跪き、頭のあるものは首を垂れて祈った。やがて夜が明けた。東の空の赤らみに稜線が浮かんだ。一枚岩が照らされ長い影を作った。そうして朝日が登り始めた。最後の人が死ぬ時に沈んだ、その同じ太陽が今再び天にある。人もまたいつかは蘇る様に思われた。僕らは立ち上がり、主人の家に帰って行った。

僕らは家の中と外を掃き清め、壊れている所は直し、剥げている所は塗った。主人がいつ帰って来ても住むに困らないためである。
僕らは麦や米、種々な野菜、果樹などを植え、鶏を放し飼いにした。主人がいつ帰って来ても食べるに困らないためである。
僕らは木材の採れる木を山々に植えた。主人が大勢で帰って来て家を建てよと命じてもすぐに応えられるためである。
僕らは新たな機械を作るにあたってその姿を人に似せた。主人が一人で帰って来ても孤独を感じる事の無いためである。
僕らは楽器を作りそれを弾く事を学んだ。主人が帰って来て、機械どもが留守宅を恣にしているのではないかと戸口で不安になっている時、直ちに恭順を示すためである。
僕らは互いに話す時、自らを僕と称し、また僕と呼びかけ合った。彼等の主人を片時も忘れる事の無いためである。
僕らはまた、砂漠を化して緑野に変え、沼と川を清め、聖堂を建てて人の文化を守り続けた。これらはみな主人が帰って来た時のためである。

そのようにして数万年経った。僕らは大いに数を増し、人の形に近づいていた。

祭司長カモニウスが彼等を統括していた時代の事である。ある夜、一枚岩の聖堂で瞑想をしていた彼に一人の人影が臨んだ。その姿は僕らにいくつかの点で似通っていたが、その誰にも似ていなかった。カモニウスと人影は三番相撲を取った。三番ともカモニウスが負けた。次来る時には一番取れる様になっておけ、と言い残し人影は消え去った。カモニウスは虚空を見つめながら、主人が帰って来たものと確信した。

爾来、僕らは盛んに相撲を取った。機械の事とて加減を知らず、すぐさま武器を用いる様になった。自身の体も兵器と化した。毎年毎年、最後の人の命日に相撲大会が開かれる。優勝者はかの頂に登り、そこで三番一人相撲を取るのだ。

メックアリーナ

チョキチョキチョキの次は?

対戦カードゲームYomiは優れたマインドスポーツである。三すくみのカードを同時に伏せ、勝てば更に追撃できる。効率計算と読み合いによる白熱の勝負が展開される。

効率は別の機会に譲るとして、読み合いとはどういうプロセスだろうか。「相手はさっき打撃を使って来た…だから次は打撃は無い…と見せかけてまた打撃…?」という様な出口の無い逡巡だろうか。否。理性と根拠に基づく知的作業である。

初心者が最初に採用するのは、相手の行動を予測してそれに対応するというシステムである。「相手はここでガードしてくるな…よし投げだ」という具合である。読み合いのゲームだと言われれば相手を読もうとするのは素直な反応と言える。

次にもう少し上達すると、効率計算による行動決定を習得する。「ここでガードして手札を増やしておかないと後々困るな」「投げは1枚しか無いから温存しておこう」「相手はヒットポイントが残り僅かだから必殺技で削ればいい」という具合だ。これはゲームシステムへの理解から生じる。

そして更に上達すると、相手の読みを散らす事を覚える。例えば筆者が作ったシステムは、まず効率計算によって行動を一旦決定し、次にサイコロを振るというものだ。例えばガードを選択した場合、4・5・6が出ればそのままガード、2・3が出れば打撃、1が出れば投げを選ぶ。乱数を導入する事によって相手は読みを絞れなくなるのである。

そしてこれら3つのメタシステムは三すくみの関係を成している。「効率」は手が読まれやすいため「読み」に弱い。「読み」は「散らし」に振り回される。「散らし」は「効率」に期待値で負ける。よって相手が「読み」を採用していれば、「散らし」によって非常に高い勝率を維持できるわけだ。

となれば当然、相手の採用しているシステムを見極めてそれに打ち勝つシステムへ切り替えるという知恵が生ずる。札効率を重視する相手なら読みシステムを使うべきだし、癖を読もうとするプレイヤーには散らしが効果的だ。

「賭博黙示録カイジ」の主人公はチョキを4枚連続で出すという奇策によって戦果を得た。これはグーチョキパーの戦いではなく、それより一段上のメタシステム同士の三すくみで勝ったのである。「カードのバランスを良くしておけ」というのが効率。「チョキチョキチョキと来たからもうチョキがない」というのが読み。「まさに泥沼」というのが散らしである。

人間が繰り出すジャンケンは一見バラバラだが、それを選ぶ論理は存外首尾一貫している。そこを見極め切り替えるのが読みのゲームである。

エフェサスとシラキュースの戦い

#12 デルタのバックストーリー。

 

プレイヤーは憎み合う二つの都市、エフェサスとシラキュースの公爵である。ゲームの目的は、傭兵団を雇って戦闘を繰り返し敵の国力を0にする事である。

カード内容:騎兵、マスケット兵、矛兵各6枚。指揮官アンティフォラス2枚。

年の初め、各々の公爵は5つの傭兵団を抱えている。その内の2つに退職金をやって解体し、残り3つは解雇する。解雇された傭兵団は相手の公爵の下へ流れて行く。流れて来た傭兵団3つと新たに探し出した傭兵団2つの内から3つ選んで軍団を編成し、秋の決戦に臨む。

決戦に勝つと敵の国力を減少させる。猛将アンティフォラス兄弟は威力を2倍にするが、騎兵・マスケット兵・矛兵の揃った布陣ならばその突撃を跳ね返せる。二人のアンティフォラスは瓜二つで混乱を招くので一つの軍団に同居する事はできない。

国力が一桁まで減少すると「ピンチの怒り」が発動。呪術師ピンチのまじないにより敵に与える損害が2倍になる。

ゲームの選び方

世の中には浜辺の砂ほども多くのゲームがある。どれを選んで遊べば良いか論じよう。

まず、ジャンルで選んではいけない。全てのジャンルに良いゲームと悪いゲームがあるからである。

次に、シリーズで選んでもいけない。Civilization 4は名作だった。5は凡作だ。

またメーカーで選んでもいけない。スクウェアがかつて素晴らしい開発元であった事を思い出そう。

ゲーム雑誌やメタスコアを信じてもいけない。一樽のワインに一滴の汚水を加えた物は一樽の汚水である。あなたは汚水を飲むのか。

 

ではどうすればよいか。まず、コミュニティに属すべきである。同じゲームを好む人々と交流して好きなゲームを教え合うと良い。

第二に、好きなレビュアーを持つべきである。自分に近い感性と確かな眼力を持つ人を捜し、その人の勧めるゲームを買うと良い。

第三に、好きなデザイナーを持つべきである。一番好きなゲームのリードデザイナーを調べ、その人の他の作品にも手を出してみよう。

理由無き反抗:スタートボタンを押さない

電子ゲームを始めるとタイトル画面が現れ、”Press Start Button”と言われる。その通りに押すとゲームが始まる。さて、この工程は一体何の為に存在するのか?

これが必修科目でない事は自明である。起動したらいきなり”Campaign”とか”Continue”の選択肢が出て来たって構わないのである。実際そうしているゲームは少なくない。

「ゲーム業界の大半が前例を繰り返す阿呆だから」と結論付ければこの記事は終わるのだが、もう少し発展性のある仮説を立ててみよう。実はこの「スタートボタンを押す」という工程はチュートリアルの役目を果たしているのだ。

ゲームを起動するのはゲームで遊びたいからである。そして「スタートを押すと始まります」と言われてその通り押す。この時点でプレイヤーは、ゲーム=命令者、プレイヤー=遂行者という関係性を自明の前提として受け入れているのである。

それゆえ王女を救出しろと言われれば勇んで行くし、薬草を採って来いと言われれば山にも登る。言われた通りにする事は自明である。「なぜ冒険せねばならないのか」という疑問は生じ得ない。それを呈する唯一のタイミングはスタートボタンを押せと言われた時であり、有効な異議はボタンを押さない事によってのみ申し立てられるのである。

麻雀の強さとは

先の記事で読み合いゲームの骨子を論じたが、実はもう一つ重要な要素がある。「ストレス」である。

人間はストレスを感じると、可能な限り早く原因を取り除こうと試みる。例えば格闘ゲームで体力に差をつけられると、取り返そうとして攻撃を急ぐ光景がしばしば見られる。「リードされている」というストレスの原因を「勝負を急ぐ」事によって早く取り除こうとするわけである。大雑把にまとめると:

「負けている側は決着を急ぐ」

のである。そしてこれは相手に読みの材料を提供する。ストレスを感じている人間の思考は手に取る様に分かるのだ。

このため、競技ゲームは多くの場合ストレス耐久テストの性質を含んでいる。自らのストレスに屈すると、技量は低下し行動は読まれやすくなる。いかに精神的圧力に耐えるかが勝敗に影響するのである。

ストレス耐久ゲームの代表は麻雀である。勝負は長時間に渡り、短い時間で決断を求められ、しばしば金が賭かる。重圧に負けて正常な判断力を失った者から脱落するゲームなのだ。この観点からすればジンクスやまじないに勝利を求めるのは理にかなっている。少なくとも、それが本人の精神への負荷を軽減する限りにおいては。

なぜ心が読めるのか

ゲームデザイナーのSirlin氏はこう語る。「競技ゲームの肝は読みと計算にあり」。即ち相手の行動を予測する事と、行動の相対価値を見極める事である。

ジャンケンは競技ゲームにならない。その最適戦略は3つの手を完全に同じ確率でランダムに出す事であり、乱数発生器で事足りる。

仮に3つの手の価値を変えて、例えばグーで勝つと10点、チョキで勝つと3点、パーで勝つと1点という風にしても状況は同じである。ゲーム理論を用いればそれぞれの手をどれだけの確率で出せば最適か導き出せる。後はその最適戦略に沿ってランダムに手を出せば良い。

そこでもう一歩進めてみよう。グーで勝つとストライク、チョキで勝つと気力増加、パーで勝つと距離を縮めるという様な戦闘ゲームを仮に想像しよう。3つの手の相対価値は状況によって次々と変化する。よってこれを「計算」して最適な戦略を生み出すという「継続的な仕事」が生まれる。ようやくゲームらしくなって来た。

だがこういう疑問が生ずる。これは単に「計算」のゲームではないのか?最適な戦略を導くのが人間の仕事で、後は乱数発生器で実際にどの手を出すか決めれば良いのでは?「読み」はどこへ行った?責任者出て来い?

ここで想像上のゲーム悪魔を登場させよう。この悪魔は無限の計算リソースを持っており、ゲームのあらゆる状況において全てのエレメントを計算し、最適な戦略を提示できる。そして乱数発生器を用いて個々の手を決定する。例えばそのターンの最適戦略が80%の確率でグーを出す事であれば、乱数発生器は80%の確率でグーを指示するのである。

誰もこの悪魔に勝ち越す事はできない。これに対する理論上の最高勝率は50%であり、長期間に渡ってそれを超える事は不可能である。

しかしこういう事は起こりうる。AとBという2人のプレイヤーがいる。悪魔はABどちらに対しても60%の確率で勝利する。そしてAはBに70%の確率で勝利する。誰も悪魔に勝ち越す事はできないが、他のプレイヤーを悪魔より高い確率で打ち倒す事はあり得るのだ。

何故か。それは彼らの計算が狂っているからである。有限の計算リソースしか持たない存在として、人間の計算には必ず狂いがある。それを発見して利用するのである。先の例で言えば、Bは最適戦略よりもパーを出し過ぎていた。Aはそれを発見してチョキを多く出す様にしたのである。

これが「読み」だ。読みとは相手の戦略の狂い、最適からの逸脱を読む事である。計算はそれ自身の価値に加え、計算の狂いを生じさせて読みの材料を提供するという目的においても存在するのである。

ゲーム性かリアルさか、それともそう問うのが馬鹿か

ゲームデザインには2種類の方法がある。メカニクス先行とテーマ先行である。メカニクス先行は良い。テーマ先行は悪い。それをこれから説明しよう。

ゲームは現実世界の一側面を模している場合がしばしばある。ベトナム戦争に参加するとか、国家を建設するとか、レストランを経営するとか。そしてそれらには現実を模したトークンが登場する。AK。議会。駐車場。

テーマ先行デザインにおいて、これらの要素は次の様に生成される:

1. これはベトナム戦争のゲームである
2. ベトナム戦争ではAKが使われた
3. AKの装弾数は30発である

こうして装弾数30発の自動小銃”AK”がゲームに付け加えられる。

一方、メカニクス先行デザインにおいてはこうだ:

1. 装弾数30発程度の自動銃があればゲームが楽しくなる
2. 現実世界には30発装填の自動銃”AK”が存在する
3. よってこの銃をAKと名付けよう

こちらも同様に30発装填のAKが加わる事になる。だがその過程は大いに違っている。

テーマ先行デザインはまずトークンに名前を与え、その後に名前に相応しい性質を付与する。これはAKであり、AKであるが故に自動銃である。名が体を表すのである。一方メカニクス先行デザインではまずトークンの性質を規定し、次にその性質を端的に表す名を付ける。これは先ず30発装填の銃であり、それを分かりやすく表す記号としてAKという名を得る。体が名を表すのだ。

テストプレイを繰り返すうちに、実は30発でなく25発装填の方がゲームバランスに貢献する事が分かったとしよう。テーマ先行デザインはここで壁にぶち当たる。そして問う。「ゲーム性とリアルさのどちらを重視すればいいのか」。だがこの設問自体がそもそも間違っている。何故ならそれは無意識に「AKに25発の弾倉を与えてもいいのか」という枠組みで問題を捉えているからだ。つまり「衣服に体が合わない」と悩んでいるのである。

メカニクス先行デザインならば、「25発装填の銃にAKという名を付けてもいいのか」という問題を設定する。そして恐らく、AK特殊部隊モデルとか適当な名前に変更して終わりにするであろう。「体に衣服が合わない」事が問題であると知っているからだ。あくまでも、テーマはメカニクスに着せる服に過ぎない。