翻訳記事:勝つ為に戦う(29)

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最上級プレイヤー向けガイド

最強になったら

選んだゲームで文字通り最強になったら、あるいは最強の中の一人になったら、もうこれ以上の助言は無用だろう。というより私が助言を乞いたい。ただ、この後に直面するだろう問題について少しばかり忠告をしておきたい。

  1. 自分が権力を持っていると自覚すること。同じゲームを遊んでいる人々という世界の中の小さな部分に過ぎないとしても。
  2. それが束の間の栄光に過ぎないと理解すること。後から後から取って代わろうとする挑戦者が現れる。戦って守り切るか大人しく明け渡すかだ。
  3. 権力を持っている内に何をするか決めること。どんな良い事や悪い事ができるだろうか? いやそもそも何が良くて何が悪いか誰が決めるのか? コミュニティに対して責任があるとしたらどんな責任だろうか?

 

今や権力と共に

You got the touch,
you got the power!
スタン・ブッシュ “The Touch”
トランスフォーマー・ザ・ムービー サウンドトラックより

「理論上」最強のプレイヤーには悪いが誰も興味がない。ここで扱うのは正式な試合で腕前を証明した本物の最強プレイヤーだ。すべての挑戦を受けて立ち、公衆の前でそのゲームの強さを見せつけた者達だ。彼らは権力を持っている。

対戦ゲームのコミュニティは自然に階級が構成される。最強のプレイヤー達が頂点のエリートクラブを作る。また他のリーダー達も一緒にいる場合がある。大会運営者、ウェブサイト管理者、プレイヤー団体の代表などだ。だが常に確かなのは、最上級のプレイヤー達がこうした非公式のクラブに集まり、その下の大衆に大きな影響を及ぼすという事である。

このプレイヤー達がどう遊ぶのが良い、どう遊ぶのが正しいと言えば大衆は耳を傾ける。彼らがゲームなり大会なりにルール変更や禁則が必要だと言えば、支持者を動員して実際に影響を及ぼせる(ゲーム以外の問題についての意見は的外れかも知れないが、どちらにせよそのメッセージを聞かせるだけの影響力を持っている)。彼らは悪の親玉かも知れないしヒーロー扱いかも知れないが、どちらにせよゲーム内の技量については誰にも文句を言わせない。最上級のエキスパートは雑魚の喚きに耳を貸す必要などない。彼らは力を、勝つための力を持っているのだから。それこそまともな対戦ゲームコミュニティにおける最終判決なのだ。

勘違いした雑魚が挑戦状を叩きつけて来たり、あるいは純粋に熱心な初心者が対戦を申し込んで来たら、彼らの運命はあなたの手の内にある。情け容赦なく叩き潰してもいい。指導して育ててもいい。バレない様に、あるいはあからさまにわざと負ける事もできる。自由にできるのはゲームの結果だけではない。ある程度まで、相手がそのゲームについて、自分について、そして対戦ゲーム一般についてどんな印象を抱くか操作できるのだ。

 

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翻訳記事:勝つ為に戦う(28)

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最強の条件

ここまで数年をかけて最強のプレイヤーが備えるべき条件を考察して来た。では無敵のプレイヤーにただ一つの典型があるのだろうか? それとも勝利への道は複数あるのだろうか? 全ての競技ゲームは基本的に同じ性質を求めるのか、それともゲームごとに大きく異なるのか? これは大きな問題であり、本書の範疇を超えるのだが、ひとまずそれに触れてみよう。

ビジョナリー・カンパニー」という本では似たような問題を提起している。業界で最高の会社を作るにはどんな条件が必要か? もしこの本がただ単にナンバーワンの会社だけを集めて比較していたら、「どこも従業員と社屋を持っている」という様な共通点を見つけるだけであったろう。「社屋を発見する」のを避けるため、ビジョナリー・カンパニーでは様々な業界のトップ企業と二番手企業をそれぞれ比較している。トップと二番手は多くの共通点を持っていたが、問いの本質はどのトップも持っていてどの二番手も持っていない様な性質の組み合わせが存在するかどうかだ。そこで私は最高のプレイヤーとそのすぐ下とを分けるものが何かを割り出すことにした。

まず最も重要だと思う性質をリストにまとめ、様々なゲームのトッププレイヤーを観察し、どれが二番手たちとの差であるかを考えた。これは非常に個人的、非科学的、かつ私の知っているゲームに偏っており、あくまで参考に止めて欲しいのだが、それでも私はこれに価値があると信じている。

まずこれが私の最初に考えた金メダリストの持つ性質である:

  • 大会への慣れ
  • ゲームの深い知識
  • ゲームが好き
  • 精神的強さ
  • 勝敗と成長への心的態度
  • 技術(大抵は操作精度)
  • 柔軟性
  • 同じジャンルの知識や技能
  • 読み
  • 状況判断

 

大会への慣れとゲームの深い知識

門外漢からすると、どの性質も競争に重要そうに見える。繰り返しになるが、そのうち幾つかは上級プレイヤーと最高のプレイヤーの差ではないのだ。例えば大会への慣れは上級者ならトップ10に入るのにすら前提条件として必要なものだ。ゲームの深い知識も確かに上級者とその他大勢の差ではあろうが、最も知識の多いプレイヤーが最強である様なゲームは見た事がない。

 

ゲームが好き

ゲームが好きである事はかなり正解に近そうだ。トッププレイヤーは他のトップ10に比べて純粋にそのゲームが好きである事が多い。そのゲームが好きであればトップはより長くトップに留まれるだろう。しかしそのゲームが大好きだけれど下手なプレイヤーも多数おり、トップの決定的な要因とは言い難い。

 

精神的強さ

メンタルの強さはかなりの有力候補だ。そもそも定義上、トッププレイヤーとは数時間に及ぶ大会を戦い抜くだけの集中力と意志力を持った人間である。言うだけなら簡単だが、これを実際にやるのは非常に難しいという事を強調しておきたい。自分ならと思うかも知れないがそれなら私だってそれなりのものだ。それだけ自信があっても、いざ大会になると次のラウンドで負けて終わるかもと考えてしまい、勝ったらその次に当たる筈のスタープレイヤーの方には考えが行かないものだ。そういう考えは最悪であるし、精神の弱さでトップ10に止まっているプレイヤーもいるだろう。しかしそれよりもっと重要な要素がありそうだ。

 

勝敗と成長への心的態度

これは少し込み入っている。一見するとトッププレイヤーの中にもとんでもなく態度が悪いのがいる。相手への敬意に欠ける鼻持ちならない王者が大勢いる。しかし、常にそうだったわけではない。そうした王者も山登りの途中ではずっと態度が良かったのだ。どうやら権力は腐敗するらしい。最初から態度が悪かったプレイヤーは壁を越えるのに苦労する。してみると、心的態度はトップの条件に含まれている様だ。確かにひどい態度を全てのレベルで見かけるだろうし、下手糞な紳士もいるだろうけれど。

 

技術

理論上、枯れたゲーム(歴史が古く新たな発見が殆ど無い様なゲーム)では技術は決定的な差である様に思われる。ところが実際には違う。もちろん難しい操作ができる事は決して悪くないし、優れたプレイヤー達は操作の面でも優れている。しかし最高のプレイヤーは最高の操作技術者ではない。となるともっと重要な部分がある様だ。

 

柔軟性

柔軟性は色々と多義な単語である。まずその逆、計画性を考えてみよう。例えばゲームの「システム」がどう動いているかに強い関心を持つプレイヤーがいる。彼らはルールに非常に詳しく、そのルールが引き起こす結果も、どういう状況を引き起こしたいかもよく知っている。そしてそういう計画を立てる。彼らは特定の状況で、例えば相手が5つの合理的な選択肢を持っていると解明する。そこでリスクを最小に、リターンを最大にする対処法を見つける。その最善というのは例えば、選択肢1と2には引き分けで、3と4には小さな有利、5には大きく有利かも知れない。計画的なプレイヤーはその状況での損得を全て勘定し、どうやってその状況に持ち込むか「解法」を見つける。一度、あるプレイヤーが人気のゲームのよくある対戦カードで誰にも負けないと豪語していた。何故かと聞くと、「アルゴリズムを知っているから」だと言う。「アルゴリズムを知っている」は私の座右の銘だったし散々それでからかわれた。計画的プレイヤーにはまことに似つかわしいモットーだろう。

ところが驚いた事に、この性質は本当のトップにはあまり見られない。てっきりゲームシステムを深く理解して全ての読み合いにおける最適解を知っているプレイヤーがトップへ行くのだろうと思っていたのだが。もしかすると計画的なタイプというのがそもそも稀で、人口に占める割合と同様にトッププレイヤーに占める割合も少ないのかも知れない。あるいはそもそも、計画性が柔軟性に比べて劣るのかも知れない。トップの条件は何かと聞いて回ったところ、多くのプレイヤーが柔軟性を3位以内に含めた。そもそもそれは回答リストに入れていなかったのにだ。何人かは柔軟性こそプレイヤーの強さを測る主たる指標だと言った。そのプレイヤーは素早く新しい状況に適応できるか? もし柔軟なプレイヤーが先の状況(相手に5つの選択肢)に置かれたらどう反応するか? 状況の全体像を把握する必要すら無い。相手は選択肢5を選ぶと読むし、断じてそれは正しいのだ。

柔軟性に関してこんな逸話がある。格闘ゲーム史において”B3″大会は金字塔である。ほとんど無敵だった2人のプレイヤー、ジョン・チョイとアレックス・ヴァイエがストリートファイターZERO 2で初めて対戦したのだ。どちらも破竹の勢いでコマを進め決勝で激突した。この時ヴァイエは新しいテクニックを初めて披露した。大会の決勝まで温存していたのだ。良い武器を隠し持っておこうとすると100回に99回はその前に負けるのだが、この時はまさにフィクションの様な凄まじい状況が現実になった。ヴァイエの使ったテクニックは素人目には分かりにくいが、結局このゲームにおける最強の手段となり、戦い方そのものを根本的に変えてしまった。”Valle CC”という名のこのテクニックは単なる小手先の技ではなく、最強にして、ゲームを変える最大の発見だったのだ。

この前代未聞の環境でチョイはどうしたか? 殆どのプレイヤーなら何をやられているかも分からないまま全敗していたろう。チョイも全てを見破ったわけではなかったが、ルールが突然変わってしまった事には気づいていた。結局は敗れてしまったのだが、公平を期すために言っておこう。チョイは戦い方を変え、相手のテクニックをどんどん食らわない様になった。そしてついに同じテクニックをヴァイエにやり返した! ヴァイエは多くのラウンドを取ったが優位はどんどん薄れていった。観衆はチョイが食らいつき、流れを変えつつある事に非常に驚いた。決勝戦は理論上最多のゲーム数に達した。第14ゲーム、最終ラウンドの残り体力1ドットまでもつれ込んだのだ。紙一重の差でチョイは負けた。そして今日でも、この試合は格闘ゲームにおける柔軟性の最も素晴らしい発露とされる。チョイはたとえ計画を練っていてもほとんど役に立たなかったろう。柔軟性はほとんどの人が最強とそれ以外を分ける稀な性質だと考えている。もちろんヴァイエについても間違った印象を持って欲しくはない。彼は堂々たるナンバーワンであり、あまり計画的とは言えず、何度も何度も柔軟性の面で強さを発揮しているのだ。

 

同じジャンルの知識や技能

トップの条件が同じジャンルの他のゲームというのは少し妙だろう。1つの分野で数多のライバルに勝ち続けている者がどうして他のゲームにも同じだけの時間と情熱を注げるのか? たとえそれが同じようなゲームであっても? 確かに全ての金メダリストがこの性質を持っているわけではないが、そういう人は驚くほど多い。とはいえ私の意見ではこれは優秀さの原因というより結果だろう。つまり競技ゲームの中核には個々のゲームを越えた共通部分があるという事だ。最強のプレイヤーはその中核部分に適応し、別のゲームにもそれを持って行ける。更に言えばトッププレイヤーは計画的であるよりも柔軟であり、ゲームシステムの深い理解が無くとも上手いのだ。似たようなゲームを始めると最初はよろよろ、基本だけを学び、すぐにもっと知識のあるプレイヤーが仕掛けるとっておきのテクニックをかわせる様になる。

 

読み

「読み」と柔軟性はしばしば車の両輪だ。計画的なプレイヤーはよく研究した特定の状況で読み合いに勝つ。どういう行動が合理的でどれだけの結果になるかを知り、知識に基づいて次に相手のする事を予測する。ところが柔軟なプレイヤーはもっと直截にいきなり「相手が何をするか分かる」のだ。こういう非科学的な言い方は心苦しいのだが、どうもこれは神秘的、右脳的な働きで説明が難しい様である。ともかく確実なのは、トップ10ともなると明白に読みが上手いという事だ。実際に見ないと信じられないかも知れないがともかく騙されたと思って聞いて欲しい。私は何度も何度も何度も目にしたのだ。ある種のプレイヤーはただ単にほぼ毎回「読み勝つ」のだ。私はずっと読みこそがトップとその他を分ける最も重要な要素だと思っている。これこそがトップにありそのすぐ下に無い明白な要素だからだ。読みの力を恐れられ噂を立てられるプレイヤーがいつも8位に留まる所など見たことが無い。そういう噂が立つのは最強の中の最強、トッププレイヤーだけだ。

ゲームには読みが重要なものもそうでないものもある。ポーカーは重要な部類だろう。だが格闘ゲームの中には、他の格闘ゲームに比べて読みが10倍も重要なものがある。バーチャファイターだ。このゲームは非常に複雑なじゃんけんで出来ている。テンポの速さゆえに読みのウエイトが極めて大きく、何か大きな手がかりでも無い限りまともに相手の行動を予測している時間はない。

バーチャファイターはプレイヤーを読み合いの猛連射に叩き込む。相互作用、つまり1秒あたりの読み合いの数が極めて多いために読みの達人が頂点に立つ。計画的なプレイヤーもシステムの理解によって強くなれるだろうが、無敵のプレイヤーにとって最も重要なのが読みである事は論を待たない。バーチャファイターは単に誰が一番読み合いに強いか判定しているだけなのだろうか? それとも他のゲームにも増してプレイヤーの読み合いスキルを鍛えているのだろうか? 答えは判然としないだろうが恐らく両方だろう。

日本にこんな親指ゲームがある。全てのプレイヤーは両方の手を揃えて出す。1人が「1、2の」に続いて(タイミングを合わせるため)数字を言う。そして例えば「2!」と言ったら全てのプレイヤーが一斉に親指を1本か2本上げる。あるいは両方とも伏せておく。自分自身も含めて何本の親指が上がっているかを当てるのだ。間違っていたら次のプレイヤーの番になる。当たっていたら片手を下げて回してもう一度だ。両方の手を下げたプレイヤーの勝ちである。ただし例外として、「0」と言って当てたら即座に勝ちになる。

この日本の親指ゲームは完全に読み合いだけである。どうしてあるプレイヤーが他のプレイヤーより強いのか論理的に説明は付かない。そして格闘ゲームプレイヤーの集まりでこれをやると、いつもバーチャファイターのプレイヤーが勝つ。読みは説明し難い見えざる力だが、本当に存在するのだ。そして真の強者だけがそれを持っている。

 

状況判断

「状況判断」とか「価値評価」というのは色々な駒なり、技なり、戦術なり戦略なりの相対的な価値を判断する能力である。これは恐らく競技ゲームで最も重要な部分だろう。読みが敵を知る事ならば、状況判断はゲームを知る事だ。

ある意味で、この技能は定義上全ての競技ゲームの本質である。ゲームとは意思決定を下すものであり、局面や駒の価値を知らなければどうしようもない。状況判断というのはあまりに漠然としていてこの位置に置くのは異論もあろうが、私の知るトッププレイヤー達を見る限りこれは1つの技能なのだ。

トッププレイヤー達はしばしば、他のプレイヤーに理解できないおかしな行動を取る。ここで価値判断の正規分布曲線を描いてみよう。つまり、大半のプレイヤーは分布の真ん中あたりにいて、何が良くて何が有効かの共通認識を持っている。これがゲームにおける「常識」とか「定石」だ。しかし曲線の端には異なる認識を持ったプレイヤーがいる。彼らから見て、定石のいくつかは強豪相手には通用せず無価値である。逆に無価値と思われている技や戦術も、強豪は極めて限定された上手い使い方を見つけて活用する。要するに、彼らはより高いレベルでゲームを理解している。論理的で明確な分析か、説明不可能な直感かはさておき、ゲームを異なる眼で見て異なる相対価値を見出しているのだ。時にはゲームの定石が間違っている事もある。大勢のプレイヤーが正着と考えている事の方が間違いで、本当に優れたプレイヤーだけがその鋳型から抜け出せるのだ。そしてしばしば、どうしてある要素をそんなに重視するのか論理的に説明し切れない事がある。どうやらある答えにたどり着く頭のプロセスと、それを他の人々に説明するプロセスは根本的に異なるらしい。達人の技は見て盗む方が、どうしてそうするのか聞くより有益な様だ。

この部分が具体化したのが、私が新しいゲームに挑戦しようと思った時だ。そのゲームに詳しく、しかもかなり上手い知り合いがいたのでアドバイスを求めようと考えた。どうやって上手くなったらいい? だが結局は聞かなかった。なぜか躊躇したのだ。最初これは私の性格上の問題で、彼に頭を下げるのが理由もなく嫌だったからだと思った。だが本当の理由は別にあった。私は彼の状況判断力を信じていなかったのだ。別にこのゲームについて何かを知っていて彼の考えと衝突しそうだったわけではない。そもそもほとんど何も知らなかった。私が知っていたのは彼の性格と、他のゲームでのスタイルや戦績である。彼はいつも明確な、はっきり言語化された論陣を張ってこれこれの戦術なりキャラクターなりが良いの悪いのと主張した。何しろ証拠と論理に基づいているので反駁は難しかった。だがそれでも、ひとたび大会が開かれるとどのキャラクターや戦術が良いかは全く違う結果になったのだ。

そして気づいた。私の知るトッププレイヤー達は判断力がそれぞれ非常に高かった。例えば格闘ゲームで低く評価されているキャラクターや、誰にも上手く扱えない様なキャラクターを選ぶことがあった。彼らはおかしな事をやっているが、それは何が本当に良いか他に誰も気づいていないからだった。おかしな要素を自分で発見する「先駆者」である事は少なかったが、それを目にした時に価値を見出し、同輩に先んじて取り入れる力があった。

金メダリストの条件として判断力を読みよりも高い位置に置いた理由はこうだ。ほとんどのゲームでは読み合いの機会が沢山あるが、そもそもゲームの中で行う全ての事は判断力の測定である。

ここで判断力を2種類に分けよう。計画的なものと柔軟なものだ。チェスを例に取ると、いわゆる「古くからの知恵」で駒の価値はこう見積もられている:ポーンは1点、ナイトとビショップは3点、ルークは5点、クイーンは9点、キングは無限大の価値がある。だがこの知恵は果たしてどれぐらい正しいのか? 恐らく全てを勘案するとビショップはナイトよりほんの少し大事だろう。もっと言えばポーンの本当の価値はどれぐらいだろう? チェス理論の大きな進歩のひとつに、チェスはポーンの戦いだという発見がある。ポーンの陣形が開いているか閉じているかで盤面展開は非常に異なる。

ポーンはチェスの魂なり。

—哲学者、音楽家にして1750年の非公式チェス世界王者

 

この種の判断力はゲームシステムの深い理解と、最終結果を決めるのにどの部分が重要であるかの発見から生まれる。計画的なプレイヤーは往々にしてこういう語法で物を考える。

もう一方の判断力はもっと個別の問題に注目する。どの一般原則が正しいかではなく、今この状況におけるそれぞれの手の相対価値を考える力だ。そう、確かにビショップは原則としてナイトと等価だろうが、ある状況ではビショプに巨大な価値がありナイトは無価値かも知れない。この種の判断力に優れたプレイヤーは根底のゲームシステムや理論を研究しなくとも、与えられた局面で何が良く何が悪いかが立ち所に分かってしまうのだ。

バーチャファイターが読みスキルの測定であったのと同様、M:tGは状況判断力の測定である。プレイヤーは何十万種ものカードを組み合わせて60枚(またはフォーマットによっては40枚)のデッキを作る。一見強そうだが実は弱いカードもある。弱そうに見えて強いカードもある。ほぼどんな状況でも他より強いカードもあるが、限られた状況では遥かに弱かったりもする。信じられないほど強いがそれを使ってデッキが作れない様なカードもある。弱いカードだが最強のデッキで使われるという事もある。デッキの残りの部分が非常に強く、かつどうしても特定の機能を必要としていて、その機能を持っているのが弱いカードであっても入れざるを得ないという場合だ。

最も難しい教訓、つまりM:tGのプレイヤーが繰り返し繰り返し躓く部分というのは恐らくこれだろう:素晴らしいカードを組み合わせて素晴らしいデッキを作ったとしても勝てるとは限らない。もっと良いデッキが他にあるかも知れないのだ。素晴らしいデッキが組めるとワクワクするだろうが、「素晴らしいデッキ」というのは何も無いところに浮かんでいるわけではない。往々にして、それと全く違う事をする全く違うデッキがどこかにあり、そしてずっと強かったりする。もちろん自分で組んだ方のデッキが悪いわけではないのだが、もっと良いデッキを使わない機会費用はあまりに高い。要するに問題はデッキ同士の相対価値であって絶対価値ではない。そしてこの教訓を得て実際にカードプール中で「最強」のデッキを見つけたとしても、それを使うのはやはり下策だったりもする。「メタゲーム」の判断もしなくてはいけないからだ。出ようとする大会の他の参加者がどんなデッキを選ぶかという全体像である。もしかすると「最強」のデッキの事はみんな知っていて、それへの対策だけに特化したデッキを持ってくるかも知れない。だがそれでも「最強」のデッキが結局は勝って散々罵声を浴びるかも知れない。つまり結局はそれぞれの相対価値の判断という事だ。

いわゆる「リミテッド」(シールドとドラフト)形式では臨機応変に価値を判断して使うカードを選ばなくてはならない。リミテッド戦ではどのデッキが良いかという定石はあてにならず、プレイヤーによってはこちらの方が判断力がより問われるとして評価する向きもある。

M:tGは面白い事例である。あまりに運の要素が大きいと文句を言うプレイヤーもいるが、それでも強いプレイヤーは大会で勝ち続けている。ドイツのカイ・ブッディが現在のところ世界最強であるが、その最大の要因は彼の状況判断力が抜きん出ているからだろう。特に後者の、個別の状況ごとの柔軟な判断力だ。野生の雑種犬が素晴らしいカードでマーフォークの物あさりが良いカードである事は誰もが知っている。ではどちらがより良いのか? こういう問題はフォーラムやチャットルームで果てしなく議論されている。だがもっと重要なのは、特定の局面でどちらにより価値があるかという事だ。双方の残りライフ、残り時間、手札の枚数、手札の中身(何枚かは腐っているかも知れない)、既にプレイされた他のカードその他諸々の条件を考えなくてはならない。では、込み入った局面で自分の雑種犬と相手のマーフォークを相打ちにする選択肢があるとして、それが良い手かどうか誰に分かるのだろうか? 答えはこうだ。カイ・ブッディなら分かる。

 

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翻訳記事:勝つ為に戦う(27)

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勝つ為に戦わない

この回では逆の視点から見てみよう。いつも「勝つ為に戦う」のは非生産的だ。長い期間に渡って勝ち続けるのであれば、全ての試合を大会の決勝の如く戦うのは不可能だ。そんな事をしていたら基本的な研究もできないし、特定状況下での変わった戦い方も知らずにいる事になる。そうして結局は次善の戦術に甘んずる。

 

研究

勝つ為の戦いと学ぶ為の戦いはしばしば異なる。今この試合の勝率を最大にするためには、新しい戦術や対策やパターンを試して無用な危険を冒す事はできない。回り道をせずに戦うのは試合に勝つ最善の道だ。だがそれは貴重な経験を得て戦術の引き出しを増やす機会を逸する道でもある。

ストリートファイターで簡単な例を挙げよう。コンマ数秒後に相手が超必殺技を出す事が読めたとする。このラウンドを取る一番賢明な方法は、そのままガードする事だ。だがそれでは学べない事もある。その必殺技はそもそもどれぐらい判定が強いのか? こっちが先に蹴りを出せば止められるのか? それとも必殺技が出る時の「暗転」を待ってから1フレーム(1/60秒)後に無敵の昇龍拳を出すべきか? 相手の方が先に無敵が切れてこっちの技が当たるかも知れないし、向こうの技が常に勝つのかも知れない。この情報があれば、体力が残り1ドットで相手が超必殺技の削り勝ちを狙った時に非常に役に立つ。大会ではそういう局面がよくあるのだ。どういう選択肢があるか知っている方が良い。

「カジュアル」な試合ではよく、私は安全な選択肢を捨ててその技にどんな返しがあるか試してみる。たとえそれが駄目で試合に負けても、得た知識の価値がそれに勝る。もう同じ間違いは(多分)しないからだ。勝つ為に戦いたいなら、全ての瞬間における全ての選択肢を知らねばならない。それには多くを犠牲にして実験をしなくてはいけない。

もちろん大抵のゲームで事情は同じだ。StarCraftでコルセア6体はミュータリスク12体に勝てるのか? Unreal Tournamentでショックライフルコンボは接近戦でも使えるのか? 実際にやってみなくては分からないのだ。

 

弱い戦術を磨く

ゲームが出たばかりの頃は、どんな戦略なり戦術なりが実際に強いのかまだ分からない。それでも全部分かったと豪語するプレイヤーは多いものだが。確かにその時点で他のプレイヤーより良い戦術を知っているのだろうが、対戦は進化する。新たな発見とともに古い戦術は時代遅れになる。大抵はまったく違う戦術が見つかり、古い物はプレイヤーの面汚しと化す。またしばしば、古い「最強」戦術への対策が見つかることもある。格闘ゲームでも、どのキャラクターが最強かという探索がある。発売後数ヶ月、時には数年も経ってから弱キャラと思われていたXがとんでもないバグYを利用して無敵になるという事もある。

これが勝つ為の戦いとどう関係するのか? 「勝つ為に戦う」ハードコアプレイヤーは1人のキャラクターを選び、強力な戦術を選び、それを極限まで磨き上げる。そしてそのキャラクターがその戦術を使うための全ての技を身につける。例えば初代マーヴルvsカプコンでロックマンを選び「ロックボール鳥籠」を練習する。これはロックマンが「ロックボール」というサッカーボールを作り出し、画面端へ斜めに蹴り上げ、それに続いて地上と空中へ1発ずつ弾を撃つというパターンだ。この3つの飛び道具で画面全体を支配する。そして相手がそれに対処している間にまたボールを作り出して同じ事を繰り返す。

真剣なロックマン使いなら春麗用のロックボール、ヴェノム用のロックボール、と色々なバリエーションを研究するだろう。他のプレイヤーがロックボールの有用性を減ずる対策を見つけたら、対策への対策を見つけて同じパターンを押し通す。これはまさに「勝つ為に戦う」様に見えるが、結局最後は僅かな勝利に甘んずる。そうやって修練した戦術は実は、悪くはないけれども他のキャラクターの1/10も良くない事が判明する。

私が考えるゲームとは、幾何学的な丘や山に満ちた風景である。それぞれの山は戦術や戦略やキャラクターを表し、高いほど強い。時が経つに連れてプレイヤーはこの地を探索し、多くの丘や山を見つけ、見つかった範囲でできる限り高い場所へ登ろうとする。プレイヤーは山の高さを盛る事はできない。ただそこにあるのを見つけるだけだ。尤もこれはやや観念的な区別であるが。問題は、新たな山(例えばロックボール)の麓にたどり着いた時、その頂上が実はそれほど高くないとしてもまず気づかないという事だ。そこを登るのは険しい道かも知れない(沢山の練習)。だが登ってみると、向こうに見える巨峰に比べたらこちらの戦術は低い山なのだ。つまり局地最適解にたどり着いてしまったのであり、もっと他の山を探している方が良かったという事だ。

言い換えると、勝つ為の戦いには探索も含まれる。ゲームの中の色々な要素を試してどれが合っているか、他のプレイヤーは何が得意か、そして最後には何が一番有効かを研究する。ロックボールに磨きをかけている(そして一番勝っている)時、本当に勝つために戦うならば別のキャラクターも試してみるべきだ。不慣れで、扱い方が何も分からないけれど、実は最後になってロックマンより10倍も上手く扱えることが判明するようなキャラクターを。

探せば見つかるわけではない。しかし探す者にしか見つけられない。

—スーフィ教の諺

 

秘密の物語を学ぶ

大会ではしばしば決定的な瞬間が訪れる。極めて珍しい状況が生まれ、どうするか咄嗟に判断しなければならない事態だ。大会では最高のプレイヤー同士が己の戦い方をぶつけ合う。各々自分の得意技を持ち、相手の得意技に即座に対策を見つけねばならない。これは最早単なる楽しみの為ではなく、「本物」の戦いだ。こうした極限の緊張の中で、今までに無い状況で今までに無い解法が生まれるのだ。

こうした珍しい状況になった時、果たして準備はできているか? どんな選択肢がありどんな危険があるか分かっているか? 「秘密の物語」、あるいは珍しい状況における相互作用について知っているかどうかはしばしば勝敗を分けるのだ。

秘密の物語をどうやって学ぶか。例えば大会に向けて準備し、練習し、勝つ為に戦っているとしよう。何を練習しているだろうか? ほとんどの試合で必要になる事が分かっている要素だろう。相手として出て来る事が分かっている物への対策だろう。要するに「真ん中の道」を通って練習しているわけだ。大会への意識的な準備と「珍しい状況」への対応とは正反対だ。その練習に弱キャラへの対策は含まれているか? 大会で使う気の無いキャラクターの練習はしているか? 恐らくはしていないだろう。だがもしどこからか謎めいた挑戦者が現れ、その「弱キャラ」を使って実はそれが強い事を見せたらどうなる? そして練習しなかったキャラクターこそが唯一の対抗手段だったら? 残念、そこまでは探索していなかった。「勝つ為に」戦っていたからだ。

業という考え方に従えば、ゲームへの愛は何かしらの良い結果を引き起こす。そのゲームを愛する者は好きだから遊ぶ。そして色々最適でない事をやってみる。変なキャラクターを選んだり、変な戦術を使って他の変な戦術とぶつかり合わせる。そして秘密の知識を得ていく。勝つ為だけに戦っている者はそんな回り道ができない。ゲームをしている一分一秒が今の山を登る努力であり、局地最適へと達する道のりである。それはもしかしたら、流行りのキャラクターで流行りの戦術を使う以外の事をしてみる気にならない程度にしかそのゲームが好きでないからかも知れない。

私は2001年8月9〜11日にあったスーパーストリートファイターIIXの大会に向けて猛練習をした。その大会ではダルシムだけを使おうと決め、色々な相手にダルシムの練習をした。幸い私はこのゲームが好きだったお陰で、「お遊び」で本田やリュウも使い、「本気」のベガも時々やった。それでも重点はやはりダルシムだった。

いざ大会当日。事態は思わぬ方向に推移した。私のダルシムは勝ち残り、ある日本の有名なホーク使いに当たった。ホークは弱キャラとして有名である。とりわけダルシムに対しては不利だ。だが相手は「弱キャラ」で魔術を見せる事のできるプレイヤーの好例だった。1ゲーム目で私のダルシムは惨敗を喫し、作戦を変えなくてはならなくなった。(訳注:北米の大会は大抵複数ゲームの先取である) そこで思いついたのが「お遊び」で使っていた本田だ。本田ならラウンドの間中しゃがんだままホークをやり過ごせる。相手が近づいて来れば頭突きで押し返し、またしゃがみ続ける。そして結局、この大会本番における頑固さと寒さの見本市は結果を出した。私はその日本のプレイヤーを、誰も予想していなかった様な組み合わせで倒したのだ。私はその後別の日本のプレイヤーにまた別のおかしな組み合わせで負けるのだが、これは別の話である。

この話の教訓は、勝つ為の戦いはしばしば結果に結びつかないという事だ。ゲームを愛し、好きだから遊ぶ者は、大会で使える珍しい綾を学んでしまう。もちろん役に立たない事もあるだろうが、「好きだから遊ぶ」プレイヤーは気にしない。楽しければいいのだ。そうやって知識を集める事自体が楽しいのだ。「勝つ為に戦う」プレイヤーはしばしば特定の戦術・戦略・キャラクターに囚われてしまい、ある日突然それが時代遅れになって呆然とする。これに対し、戻ったり回り道をしたりできるプレイヤーは新しい山を見つけるなり、他の山に登ろうとしたりする。そしてその山が実は10倍も高かったという落ちが付く。

 

個人的アドバイス

2003年、私はXにはもっと高いキャラクターの山がある事に気付いた。私の得手不得手と大会で負ける相手から予測したメタゲームに基づき、今度はバルログを使い始めた。いくつかの大会でバルログを使い、1回負けると使いなれたベガに切り替えた。こうしたバルログの練習が実を結んだのが2004年の第9回東海岸大会だ。1回だけベガを使った他は全てバルログで通して優勝した。しかも決勝戦では1ラウンドも負けずに8ラウンドを取ったのだ。

 

日本での覚書

上の章を書いた数ヶ月後、アメリカチームのX担当として日本の大会に遠征した。Capcom vs. SNK 2も少しやった。そこで興味を惹かれたのが、日本のプレイヤーは1人のキャラクター(あるいはCvS2なら1つのチーム)だけをずっと使い続けるという事だ。というのも大会レギュレーションがキャラクターの途中変更を許していないからだ。アメリカでは試合ごとにキャラクターを変えられるのが通例で、2〜4人のキャラクターを練習しておく方が良かったのだ。

日本のプレイヤーが見せてくれたのは、1人のキャラクターを磨き続ける事で不可能を可能にできるという事だ。私がやったどちらのストリートファイターでも、「弱キャラ」に全てを賭けたプレイヤー達が、実はそれらの山は想像したより遥かに高い事を見せてくれた。こう聞くと、色々な山に登ってみるという論点は怪しいと思うかも知れないが、その大会のCvS2部門を制したのは結局皆がよく知る「壊れキャラ」の使い手だった(ちなみにAグルーヴの前転キャンセルを使うブランカ・さくら・ベガ)。その優勝者というのがときどである。彼はまた前述の2001年大会でもCvS2部門を制している。彼は結局これまでの論述が正しい事を証明したのだ。ゲーム内で最も高い山を見つけ、全てを費やしてそれを完璧に登った。残念ながら彼は信じがたいほど寒いプレイヤーでもあったが、とは言えアメリカと日本の全国大会を制した寒いプレイヤーなのだ!

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翻訳記事:勝つ為に戦う(26)

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上級プレイヤー向けガイド

大会

強くなりたいなら大会に出るべきだ。上達を測る最良の方法は、どれだけ勝てるかを調べる事だ。しかし正式な競技会以外での試合は思ったほど参考にならない。最も硬い鋼は最も熱い炎で鍛えられ、最強のプレイヤーは真剣勝負の中で作られる。カジュアルな試合は「楽しみ」の為だが、大会は血の汗を流す挑戦だ。

大会においては、普段よく戦う同じ相手ですら違うレベルになる。プレイヤーはしばしば最高の戦術、秘密兵器を公式大会の為に取っておく。大会では誰しも慎重になる。そして今まで対処できなかった戦術にいきなり解法を見つけたりもする。何故なら今それを見つけねばならないからだ。皆ゲーム内の生命に必死でしがみつき、あたかも地球の運命がそれに掛かっているかの如く決して諦めない。不利になるとすぐ降参するカジュアルプレイとは大違いだ。

かくの如く、「楽しみ」の為の戦いと勝つための戦いは目指すところが全く違う。エドワード・ラスカー(エマヌエル・ラスカーとはたまたま同姓)は著作”Chess for Fun and Chess for Blood”の後半導入部でこのことを述べている。

ここまでのページでは、チェスの楽しい側面だけを見てきた—アマチュア同士の、気軽な興奮の為のゲームだ。双方とも司令官になって駒を率いるが、勝っても負けても深刻な結果にはならない。

だがチェスにはもう一つの、大いに異なった側面がある—マスターとマスター志望者による大会や公式戦だ。その勝敗は地位を、時には生活をも左右する。

こうした試合は楽しいわけではない。勝者にとってすらそうだ。これらは想像しうる限りの難事業だ。命がけで試合に臨むのだ! 美しい手の誘惑があったとしても、それが勝てない試合を引き分けに持ち込む機会を潰してしまうなら避けねばならない。大会に勝つのは妙手の主ではなく勝ち点の多い者だ—勝てば1、引き分けなら半分、負けなら丸をひとつ描いておしまいだ。

 

大会を理解する

思い出すのは、最初の頃に参加したゲーム大会の事だ。自分で思っていたほど上手く戦えなかった。その時たまたま一緒に参加した友達というのが国内最高クラスのプレイヤーで、実を言うとジョン・チョイだ。ちなみに彼はその日優勝した。彼は「心配するな、君はまだ大会に不慣れなだけだよ」と言ってくれたがそうは思えなかった。「そうじゃない、今日のプレイは本当に駄目だったんだ」と私は言った。今になってみればチョイの方が正しかった事が分かる。

大会というのは、仕組みを知らない者にとっては奇獣の様なものだ。ゲーム自体のルールとは別に、大会を運営するための細かい規則や決まりごとがある。単純トーナメント形式か、それとも敗者復活があるか? あるいは総当たり戦か? スイスドローか? 過去の成績に基づいてシードされるか? シード権がある場合、最強のプレイヤーは緒戦で最弱のプレイヤーと当たる。おいおい何故だ? どうして新参者がいきなりチャンプと戦わなくてはいけないんだ、と文句の一つも言いたくなるだろうし、大会の方針そのものに異議を唱えたくなるかも知れない。だがシードというのはそもそも、最高のプレイヤー同士が早い段階で潰し合ってしまわない様に按配するものだ。こういった事に一々腹を立てているのはエネルギーの無駄だ。ベテランはみな当然の事として受け入れている。

大会には独自の文化と風習がある。先手後手がゲームに影響する場合、それをどうやって決めるのか? 格闘ゲームのキャラクターやウォーゲームの陣営をどう選ぶのか? あるいはチェスなら白か黒かどう選ぶ? そのゲームの達人であっても、大会の新参者はあたかも異国の地にやって来た様な感覚になる。他の参加者が話しかけてきたら、それは本当に友達になりたいからか? それとも脅威になるかどうか、どんな戦術を使うかを偵察に来たのか? もし大会の挙動について十全に理解していれば、こうした疑問に答えを出すのはずっと簡単だ。そうすれば猜疑にエネルギーを吸われずに済む。

大会の対戦形式も調べてみよう。試合は一本勝負かも知れないし、複数本先取かも知れない。トーナメント形式であれば最終的にどちらが試合に勝ったかだけが問題だ。一方、勝敗数が同じであればラウンド数で順位を決めるという形式も存在する。どういう形式かによって、考慮しなければいけない範囲が変わるのだ。試合の心理的な側面はどうか? 5本中3本取れば勝ちであれば、その5本は連続した流れとして感じられるだろう。そしてまた、一方のプレイヤーがもう一方を「解析」してどんどん有利になるという事もよく起きる。いつそれが起きるか注意していよう。自分が解析される側であれば戦い方を変えた方がいい。途中で使用キャラクターを変えることは大会のレギュレーションで許されているか? 格闘ゲームでは負けるとキャラクターを変更できる(少なくともアメリカでは。日本では不可能だ!)。RTSでは普通、1ゲームごとに双方が陣営を変更できる。M:tGではデッキの変更は不可能だが、あらかじめ用意しておいたサイドボードから1枚ずつカードを差し替える事ができる。変更するかしないか、正しく判断できる様になるには経験が必要だ。これらの要素は大会の独特なルールと結びついており、ゲームの達人でも大会の達人でない場合は失敗する事もある。

自分の強さを本当の意味で試すただ一つの方法は正式な試合である。ただ単に優れたプレイヤーであるだけではいけない。それは極めて主観的だ。優れた大会プレイヤーになり、成績を残さなくてはいけない。

 

大会に備える

大会の準備にどれだけかかるか、その答えは人によって異なる。門外漢には想像もできないほどの大事業になる場合もあるし、全く必要でないという事もある。大学時代、私は試験勉強を一生懸命する者ほど成績が悪い事を発見した。何故なら最終試験が数日後に迫っているのに今から詰め込まなくてはいけないとしたら、既に戦いに負けているからだ。どれほど頑張ったところで、半年も前からその分野を自然に理解して扱えるようになっている学生との競争には勝てないのだ。

ゲームでも状況は似たり寄ったりだ。付け焼き刃で前日に覚えた事は、長年かけて身につけた経験とは比べるべくもない。操作精度が必要なら、身体に深く覚えこませている方がずっと役に立つ。戦術が必要なら、時間をかけて色々な相手にそれを試し、自分自身の経験として身につけている方が遥かに良い。要するに、継続的な自己鍛錬の道に自分を置いているなら本番の準備はできているという事だ。

とは言え、来たる大会はゲームへの集中を新たにする手段でもある。上手くできない事が分かっているテクニックがいくつかあるとして、普段はそれをやらずに済ませているだろう。だが次の大会に真剣に取り組むなら問題を割り出して反復練習をしなくてはいけない。どれほど退屈で時間がかかろうとだ。また普段はゲームの裏通りを探検する習慣があるかも知れない。例えば格闘ゲームなら弱いキャラクターを試しに使ってみるとか、RTSなら「本気」陣営以外に「お遊び」陣営を使うとか、FPSなら役立たずの武器を使ってみるとか。そうやって変化をつけたり観戦者に面白いものを見せたりする。こうした習慣はゲームの理解を深めるのに役立つが、大会の本番ではそんな機会は無い。力を披露できるチャンスは限られている。1つも無駄にはできない。格闘ゲームであれば一番得意なキャラクターを使うべきだし、その為に練習しておく。RTSなら一番得意な陣営で最高のオーダーと戦術を使う。FPSなら最高の武器で最良のルートを走る。もちろん他の選択肢があるのは望ましいが、現実的になるのも大事だ。大会に向けた練習では「お遊び」は脇に置いて、勝つためにより重要な技術を磨かねばならない。格闘ゲームでひとつのキャラクターの操作技能を20点から75点に上げるのにかかる時間と、93点を93.5点に上げる時間は同じぐらいだろう。それでも自分の持ちキャラクターに全てを注がなくてはならない。それこそが大会の勝利をもたらしてくれるからだ。

大会準備のもう1つの側面はメタゲームの研究だ。つまりゲームが現状どんな風に遊ばれて、大会においてどんな戦術が使われるかを知ることだ。Warcraftで誰もがナイトエルフを使ってハントレスラッシュをかけている? ストリートファイターで皆が春麗を使っている? M:tGで皆が赤単スライを使っている? どんな相手にぶつかるか知らなければ大会で悲惨な事になる。メタゲームについてある程度知っていれば正しい準備ができる。特にM:tGでは参加者がそれぞれ自分のカスタムデッキを持って大会に臨むため、この点が極めて重要だ。もし他のプレイヤーが特定のデッキを使うことが分かっていれば、普通なら弱いが人気デッキに対しては強いデッキを作ることができる。流行を知り、大会によく出る様にしていれば、世間知らずのプレイヤーに対して優位に立てるだろう。

私自身の格闘ゲームでの経験から言えば、頂点付近の戦いでは「メタ」の意味が全く変わる。強豪たちはプレイヤー全体の流行を気にする必要は無い。中級以下の連中が何をして来ようと結局は叩き潰せるからだ。気にするのはほんの2〜3人、大会で自分を脅かす他の強豪がどんな技やトリックを使うかという「ミニ・メタゲーム」である。

どちらにせよ、敵を知るのも大会に備えるうちという事だ。自信満々の新参プレイヤーが大会で好成績を出すと豪語するのを何度も見て来たが、実際に結果を出せた試しは無い。少なくともすぐには。強さには大会のメタゲームに詳しい事も含まれる。何もない所で技術を磨いていきなり大会に行って勝つというのは非常に難しく、ゲームによっては全く不可能なのだ。

 

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(25)

これは翻訳記事です

 

無敵と「野獣」

チェスプレイヤー:ホセ・ラウル・カパブランカ(1888-1942)

もし勝つ為に戦ったプレイヤーがいるとすれば、それはカパブランカだ。彼はチェスの教科書を読んだりオープニングを研究する事を拒んだ。チェス王者の態度として普通なら考えられないが、カパブランカは普通ではなかったのだ。

17歳の時、当時の世界王者ラスカー博士が多面指しをした相手の中に彼はいた。そして勝っていた。3年後、彼はアメリカに渡りそこで多面指しの新記録を打ち立てた。しかも速度と結果の両方で。最初の10セッションでいきなり168連勝し、最終的に703勝12敗19引き分けという戦績に達した。そして1909年、彼はアメリカ王者のフランク・マーシャルに8-1(引き分け14)で圧勝する。

快進撃はその後も続く。生涯で567試合をこなし、負けたのはわずか36試合だけ。10年間全く負けなかった時期すらあった!

全ての面で、カパブランカのスタイルは直截にして無欠であった。彼は一手一手を最適解を探すパズルの如く扱った。序盤から中盤はわずかな陣地や駒得で満足し、終盤になるとそのわずかな優勢を一気に勝利へと変える。これが持ち味だった。

 

私は常に注意深く指し、無用な危険は冒さない様にしている。私のやり方は正しいと信じている。余計な外連味はチェスの本質に反するのだ。チェスは賭博ではなく、純粋に知的な戦いであって、明確なルールと論理に従うのだ。

—ホセ・ラウル・カパブランカ

 

哀れなりカパブランカ!汝聡明な技巧家にして哲人にあらず。チェスにはただ一つでなく多くの正解があると悟れぬか。

—第5代チェス世界王者、マックス・エーワ

 

引き分けと負けの試合は収録しない事にした。この本の目的にそぐわない。

—ホセ・ラウル・カパブランカ、チェスの本にて

 

非常にありそうなのは、カパブランカは自分が考えた以上に良い手があると想像できないのではないかという事だ。そして彼は往々にして正しい。

—チェスマスターにしてInside Chess誌の編集者、マイク・フラネット

 

カパブランカ氏はチェスの歴史上最も偉大なプレイヤーだったのではないか。

—第11代にして歴代最年少チェス世界王者、ボビー・フィッシャー

 

ストリートファイタープレイヤー:梅原大吾

日本では「ウメ」、アメリカでは「ダイゴ」、そしてどこへ行っても”The Beast”と呼ばれる。梅原大吾はこの地球上で最高の格闘ゲームプレイヤーだ。例えるなら、チョイを3乗して全ての感情を取り去った様な存在だ。操作精度や細かい知識の面では日本の同輩たちに遅れを取るが、勝つという一点に関しては他の追随を許さない。しかもただ勝つだけではない。完膚なきまでに打ち破る。ある大会において、私の目の前でアメリカ人プレイヤーが徹底的に負かされた。そしてそのすぐ後に同じキャラクターで私が当たったのだ。何をしてはいけないか予習できたはずなのに、あたかもリプレイの如く同じ目に合わされた。

他のどんな格闘ゲームプレイヤーにも増して、梅原は読みの力を持っている。即ち対戦相手の考えを知る力だ。もし相手が次に何をするか全て分かっていたら、難しいコンボも細かい知識も最早必要ない。彼は「危険な」立ち回りを次々に繰り出すが、その殆どを通してしまう。またもや読みだ。相手が何をするか分かっていれば危険など無いのだ。彼との対戦で、私は「正しいタイミング」で攻撃を出さない様によくよく気をつけた。そうすれば読まれにくい筈だと思ったのだ。だが実際には、正しいタイミングで攻撃しないのは殆ど不可能だったのだ。10年の経験がこの瞬間に攻撃を出せと命令するのだ。心の中を覗かれている感触が生まれ、己の中でコンマ数秒の逡巡が始まる。そして次の瞬間にはもう倒されているのだ。梅原とチョイはどちらも、競技ゲームには個別の知識より重要な根本的技能があると教えてくれる。梅原が勝つにはそのゲームが「得意」である必要すら無い。彼は梅原だ。だから勝つ。

 

超能力とか、超自然の力を使うプレイヤーなんかいるはずが無いと思っていたんだが…正直言って…恐れ入った。彼はそうかも知れない。

—アメリカGGXXチームメンバー、「蒼き混沌」ロメル・シャヒード

 

“. . .” —梅原大吾

 

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(24)

これは翻訳記事です

 

万能流

チェスプレイヤー:エマーヌエール・ラスカー(1868-1941)

ラスカーは人当たりのいいチェス名人だ。そして他の分野の名人でもある。数学の博士号を持ち、1930年代にアインシュタインのルームメイトだった。ラスカー博士はブリッジをやり、囲碁をやり、そしてチェスもやった。かように様々な興味を持っていた博士であるが、特にチェスの世界は完全に支配していた。チェス世界王者の座を何と26年間も保持し、その間に7回の防衛に成功している。勝率は66%で他のどの歴代チェス世界王者より高い。112試合の戦績は52勝16敗44引き分け、合計得点は74だった。

だがラスカーの天才性は数字だけでは測れない。彼は攻撃的なプレイヤーだったが攻撃だけではなかった。防御的でもあったが防御だけでもない。彼の数学的知性は他の者には見えない盤上の正解を見つけ出したが、問題を解くだけに終始したのでもない。彼はチェスには魂が宿っていて、対戦相手の心理はセオリーと同等以上に重要だと信じていた。彼のスタイルは多くの側面と理論をバランスよく組み合わせたものだった。故に変幻自在で適応力に優れていたのだ。多くの名人がそうであるように、彼はあたかも簡単な様に難しい事をやってのけた。対戦相手を不安に陥れる手を見つける事に長けており、一見絶望的な状態から挽回する術を知っていた。そして特に注意を引かれるのが、彼には対戦相手の心を読む神秘的な力が備わっていると思われていた事だ。「心を読んでいる」というある種の漠然とした言説が、戦略ゲームの達人にはいつも付いて回るのだ。

 

ラスカーは多くの劣勢を挽回し、ある時は魔術を使ったと告発され、別の時には催眠術だと言われた。そして繰り返し繰り返し幸運の賜物だとも言われた。実際のところ、彼はしばしば故意に難局を作り出していたのだ。その上で適切な対処をする事で攻撃者に大きなストレスを与えた。まず希望を与え、次に道程を困難で埋め尽くし、疑念と混乱と恐慌に陥れる。これがラスカーのやり方だった。

—チェス作家、ウィリアム・ハーツトン

 

シュタイニッツもタラッシュも完璧な戦略を用いて常に最善手を指した。対してラスカーはもっと柔軟で、チェスの本質を誰よりも見抜いていた。客観的な真実の探索ではなく、極限状況下で自分自身と相手に心理的に打ち勝つ事が本当の戦いなのだ。

—ウィリアム・ハーツトン

 

特筆に値するのは、ピルズベリー、マロツィー、ヤノフスキーといった達人ですらラスカーを前にすると催眠術をかけられた様になってしまう事だ。

—チェス注釈家、ゲオルク・マルコ(?)

 

近年私が知り合った中で、エマヌエール・ラスカーは間違いなく最も興味深い人物の一人だった。

—アルバート・アインシュタイン

 

ストリートファイタープレイヤー:ジョン・チョイ

チョイは人当たりがよく、慎ましく、そして凄まじく強いプレイヤーだ。高校では彼はレスリングのチャンピオンだった。そして今は格闘ゲームのチャンピオンだ。恐らく全米でも最強だろう。チョイは反応速度が優れているが、最速ではない。技量と操作精度も優れているが最優秀ではない。彼が最も優れているのは適応力と柔軟性だ。チョイは相手の戦い方を素早く学び対策を見つける。チョイを相手にすると、段々自分が馬鹿の一つ覚えで戦っている様な気分になって来る。ラスカーと同様、彼も時に攻め、時に守り、バランスの取れた試合をする。余計な事はせず、あたかもゲームが単純であるかの様に見せる。これまたラスカー同様、論理的最善手を見つける分析的アプローチと相手の考えを読む心理的アプローチを組み合わせる。この種のプレイヤーから得意武器を奪うのは不可能だ。何故ならどんな状況も出来事も全て武器に変えてしまうからだ。相手の得意な場面さえも。こうしてみれば、私の様なマニアックやオーティズの様な防御一辺倒よりも、中道を行くスタイルが結局は強いのも納得が行くのではないか。

チョイは米国の大会での優勝歴があまりに多くここには書き切れない。

原文:http://www.sirlin.net/ptw

小屋経済の話

Civ4攻略情報


Civilization 4の小屋教徒と工房教徒は今日も血で血を洗う宗教戦争を繰り広げている。両者の教義はどこが違うかというと、前者は全ての土地に「小屋」地形改善を敷き詰める事を目指し、後者は「工房」地形改善で埋め尽くさんとしている。そして敵の地形改善を見つけたら直ちに焼き払って正しい姿に作り変える。小屋教徒にとっての小屋のメリットは「お金が沢山出てくる」事だが、工房教徒にとっては「焼き払うとお金が沢山出てくる」である。

どちらが正しいかは状況によるのだが、その前にまずどうして「小屋経済」とか「専門家経済」とか「初手ストヘン経済」といった経済システムが存在し、そのどれか1つを選ぶのが習わしになっているかを考察しよう。

 

シナジーの問題

経済システムをある程度割り切って組み立てる理由は社会体制との相乗効果である。例えば金融志向で小屋を街まで育てると毎ターン6商業を産出する。ここで法制度の「言論の自由」を採用すると全ての街に+2のボーナスが付いて8商業になる。一方同じ法制度の「官僚制」を採用すると、首都に限って商業力が50%増加する。つまり街は実質的に9商業を生み出してくれるわけだ。

都市というのは普通6つぐらいあるので、全ての都市が街まみれになっていれば首都だけ9で他が6よりも全部8の方が総産出が多い。しかし都市に作れる地形改善は街だけではない。工房や畑を作って軍隊や人材の生産基地にする事で、経済以外の面で帝国に貢献することもできるのだ。

するとここで2つのやり方が生まれる。全ての都市を街だらけにして言論の自由を採用し、大量の商業力を生み出す経済。首都は街まみれ、他の都市は畑まみれにして官僚制を採用し商業と工業をバランスよく産出する経済。前者は小屋経済、後者は官僚制経済という名が付いている。

 

1つに集中

このゲームの社会制度メカニクスは万事この調子である。代議制は「全ての専門家」を強化し、普通選挙は「全ての街」を強化する。選べるのはどちらか片方だけだ。カースト制は「全ての工房」を強化し、奴隷解放は「全ての小屋」を促成栽培する。これも採用できるのは片方だけだ。

つまりプレイヤーは「どの地形改善を強化するか」を決めてそればかり作る様に求められる。奴隷解放で小屋を強化するなら小屋ばかり作る。カースト制で工房を強化するなら工房ばかり作る。「色々な地形改善を少しずつ作る」より「1種類の地形改善を大量に作る」方が総出力が高くなる様にゲームがデザインされているのだ。

このため工房を強化している国が小屋だらけの都市を占領しても大した産出にならず、全て焼き払って工房に建て替える必要が出てくる。一方小屋を強化している国は小屋を作れば作るだけ国力が伸びてゆき、未強化の工房には目もくれない。これがあたかも宗教戦争の様を呈しているわけである。

実際上、このゲームに単一の最適解は無い。地形や周囲の環境を見ながらその都度どれかの経済システムを選ぶ事になる。ただ何を選ぶにせよ中途半端はダメだ。「何を強化するか」を決めて集中的に作る方が国力が増える。

 

 

( ・p・)<初手でストヘン作っといたよ (;´。 `;  )

雑誌の今後

月刊スパ帝国が不定期刊行になるお知らせ


昨年末の総括でも少し触れたのだが、月刊スパ帝国は今後不定期刊行に移行する。工場での生産が軌道に乗って「手作りゲーム付き冊子」という形態を維持する必要が無くなったことと、本のみで十分な分量を確保しようとすると原稿を書くのが追いつかない為である。

今後も散発的な記事をブログに上げつつ、大きなテーマについては不定期に本にまとめて発表しようと考えている。例えば新米ボドゲデザイナーに渡す訓練マニュアルとか。生きているとどうしても書かずにいられない事が積み重なるものだ。本一冊分に積み上がるごとに何らかの製品が出荷されるぞ!

 

という訳で定期刊行は終わりです。これまでご愛顧ありがとうございました。これからも不定期の本を宜しくお願いします。

2015/3/1 ゲームマーケット2015大阪参戦情報

アナログゲーム即売会「ゲームマーケット」に出展します。

  • 名称:ゲームマーケット2015大阪
  • 開催日:2015年3月1日(日)
  • 会場:ハナミズキホール(鶴見緑地駅そば)
  • 開催時間:10:00〜17:00
  • 入場料:1000円
  • ※小学生は保護者同伴、中学生および高校生は学生証の提示で入場無料
  • A09「スパ帝国」

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これまでの月刊スパ帝国のほか「家紋トランプ」「COMMAND」「神威大戦」「押すモゥ」など新作をドバーッと発表。

( ・3・)<COMMAND落ちました

 

やが子も来ます(小声)うそです(・q・ )←うそと本当が量子的に重なってます(・ε・ )

GM2015osaka_Map
会場地図:クリックで拡大
会場へのアクセス(外部サイト)

ゲームマーケット運営サイト

翻訳記事:勝つ為に戦う(23)

これは翻訳記事です

 

チェスプレイヤー:ハワード・スタントン(1810-74)

この人物を蛇と形容するのは公平を欠くと思われるかも知れない。何しろ彼はいくつもの偉大な業績を持ち、そもそも今日の標準チェス駒は彼が発注した「スタントン式」である。彼は29年間に渡って有名な絵入りロンドン新聞にチェスコラムを連載していた。世界で最初に電信チェスをやったのも彼だ。おまけに当時第一級のシェイクスピア研究者で注釈付き戯曲も出版していた。疑う余地なき重要さと影響力を備えた人士である。

だがその一方、「チェス世界王者」を自称してもいた。出版上の影響力を悪用して、今日ならばトラッシュトーク(相手を混乱させる舌戦)と呼ばれる様な手を使っていた。口頭と紙面の両方でだ。負けた相手には横柄で敵対的な態度を取った。有利になる為にあらゆる盤外戦術を駆使したと言われ、対戦相手を太陽の真正面に座らせた事さえあった! こうした水面下の戦いで最も有名なのが全米王者ポール・モーフィーとの論争である。自称世界王者に挑戦する者が現れると、スタントンは仕事を休んでまで地球の裏側には行けないと言って断った。ポール・モーフィーはこれを欧州への招待状と受け取った。相手のホームで負かしてやるべく遥々欧州に渡り、どうにかスタントンに会って戦いを挑んだ。ちなみにモーフィーはこれまで誰かに直接挑戦した事はほぼ皆無である。

スタントンはまたも釈明をこしらえて試合を先延ばしにした。モーフィーが強く要請するとスタントンは相手のオープニングを研究するのに1ヶ月欲しいと言い、モーフィーも合意した。だがそれでもスタントンは試合そのものには結局同意しなかった。スタントンはそれから出版の力を使い、モーフィーが約束の場に現れなかったとか、必要な掛け金を持って来なかったとか、厚顔無恥なる嘘を撒き散らした。良しにつけ悪しきにつけ、この手の人間はどんなゲームコミュニティにも現れる様である。そして常に誰かの怒りを爆発させるのだ。

 

ストリートファイタープレイヤー:ジェフ・シェイファー

シェイファーはストリートファイターコミュニティの中で常に論争に身を投じている。彼は論争すべき問題を発明する。ロスにいる他のプレイヤーがどれだけ強いか、特定のキャラクターが他のキャラクターにどれだけ優位かといった事だ。この手のダイヤグラムは毎週変わる。そしてシェイファーは常にあらゆる問題に対して狂ったスタンスを取る。誰もが彼を憎まずにはいられない。彼の攻撃はほとんどがロス以外のプレイヤーは下手だと「証明」する事に焦点があり、個人攻撃で炎上させるのを楽しんでいる。ある時など北カリフォルニアのプレイヤーを全く下手だと言い放ち、「霊安室に転がる事すらできないだろう」と凄まじい悪口を浴びせた。しかも霊安室の綴りが間違っていた。

プレイヤーとして見ればシェイファーは上手いが一頭地を抜くほどではない。彼の功績はただ黙って座っている事を不可能にした点にある。人々を激怒させ、遠征させ、練習させ、大会の参加へ駆り立てた。そのうちに彼はストリートファイター界を去った。奇妙に聞こえるかも知れないがこれはコミュニティにとっての損失だと私は思う。

 

原文:http://www.sirlin.net/ptw