Mech Arenaに世界観を付けてみよう

「かつて暮らしていた我々の創造主もまた、その創造主に似せて作られた」

「Fast-Acting Versatile Operational Trooper、あるいはF.A.V.O.T.」

「エネルギーとは知っている場所に量子がある事、情報とはどこに量子があるか知っている事だ」

「マクスウェルエンジン。記憶にして動力」

「信仰、それは人間がいると信じる事ではありません。人間がいると知る事です」

「例えばナイフが何の理由も無くそこに置かれている事はあり得ない…我々もまた理由と目的があって存在している」

「聖典の中では、『戦う』という動詞は今より実際的な意味合いで使われている」

「現下の大問題は鉄と血によってのみ解決される。ところで血とは?」

「銃に勝る武器が一つだけある。二挺の銃だ」

「有能だが命じられた事しかできない機械は弾除けにする他ない」

「機械は、物質と人間との間に架けられた一本の橋である」

「人は自らに似せて機械を作った。機械を作りたがる性質までも」

無への生贄

我々が暮らす物質空間の周りは無の空間が取り巻いている。新たに生まれる命はそこからやって来る。死んだものはそこへ帰る。自然の恵み、運命の巡り合わせ、突然やって来る閃きなどは全て無の世界からの贈り物である。

贈られた者は贈らなくてはならない。贈った者は贈られなくてはならない。ゆえに物質界は無の空間に反対贈与をするべく義務づけられている。贈与のやり方は様々だ。生贄を捧げたり、祈ったり、香を焚いたり、聖堂を建てたり。

芸術もその一つだ。芸術の本質は生命エネルギーの贈与である。物質界のエネルギーを投じ、物質界に直接役立たない物を産する。それは無の世界への贈与に他ならない。芸術家が報酬を得るのは作品への対価でなく、「贈与した者は贈与される」という原則に基づいて贈与を受けているのである。

歌も詩も演劇も、全ては天への捧げ物だ。それを産するために投じられたのは命の輝きであって、まさに生贄と同じである。そしてゲームはオリンポスの神々の暇つぶしとして供されるのだ。ぜひとも良作を捧げたい。

カタンで勝つには

「カタンの開拓者」に勝つコツは、競争の少ない分野に注力する事だ。このゲームは突き詰めると戦略が2種類になる。一つはレンガと木材の供給を確保し、早い段階で開拓地を増やして道路賞を狙う「村戦略」。もう一つは鉄を押さえて開拓地を町にアップグレードし、カードを積極的に引いて騎士賞を狙う「町戦略」である。

例えば3人が村戦略を採用し、残る1人が町戦略ならば最後の一人が大抵の場合勝利を収める。多くのプレイヤーが同じ戦略を採用していると資源や賞の取り合いが激しくなり厳しい戦いを強いられる。ブルーオーシャンを泳ぐのが勝利への近道というわけだ。

全体的なバランスとして町戦略の方が少し有利であり、村:町の人数が2:2に分かれたら町戦略を採用した2人のどちらかが勝つ。村戦略で勝つには他の3人が町戦略を採用していないと駄目だ。

町戦略こそ最も重要だ。鉄と小麦と羊を押さえて早期にアップグレードを狙う。中盤で1つ開拓し、町3つ・得点2枚・騎士賞で10点になる。そしてこの戦略を支える鉄資源こそカタン島における黄金なのだ。

マクスウェルの銀の弾

iMperium 2がボツになった理由はエントロピーの法則で説明がつく。2は1の複雑なルールを整理し、より単純にしつつ面白さを保とうとした。そして後者の目標に失敗した。単純で底の浅い、頭を使わないゲームが出来上がってしまったのだ。

水と湯を混ぜてぬるま湯にするのは簡単だが、それを水と湯に分離しようとするとエネルギーが必要になる。変化は不可逆だ。同様に、単純なゲームにルールを付け足して複雑にするのは簡単だが、複雑なゲームを単純化するのは非常に骨が折れ、しばしばゲーム性を大きく損なう。

単純さは一種の位置エネルギーなのだ。物を上から下に移すのは簡単だが、下から上に移すのは力が要る。プロトタイプがnの複雑さを持っていたら、最終完成品の複雑さは>nである。

ゲーム開発はデザイン、実装、テストの繰り返し工程である。個々のループはデザイン空間の隣接する点への移動であり、それは往々にして複雑さの増加を伴う。ゆえに、探索できるデザイン空間の範囲はプロトタイプを起点とし、複雑さが増加する方向に向かって広がる円錐状の領域なのだ。

単純で、独創的で、楽しいプロトタイプ。そこから始める事ができれば労少なくして実り多し。優れたゲームデザインは広漠としたデザイン空間の中の小さな点であり、見つけ出すにはとにかく広い範囲を探すしか無い。

力だけが正義でごわす

1981年に発表されたコンピュータRPG、”Wizardry”は今の基準からすれば極めて厳しいゲームだ。初期状態の冒険者は恐ろしく貧弱で、最初の敵に数回小突かれただけで簡単に死ぬ。死者が出たら寺院にお布施を払って蘇生せねばならないが、しばしば失敗してそのまま召されてしまう。

深い階層に進むと状況はもっと悪くなる。1〜2発でパーティが壊滅する魔法、レベルを下げる攻撃、避ける以外に対処法の無い即死攻撃などが珍しくなくなる。文字通り命がけの冒険を強いられる訳だ。

こうしたメカニクスは一つの強烈なメッセージをプレイヤーに送る。「強くなれ」だ。レベルが上がってHPが増えれば生存率は大幅に向上する。先制攻撃で敵を殲滅できれば特殊攻撃を受けずに済む。強ければ生き残り弱ければ死ぬ。単純明快な力の論理である。

そして物語そのものも力の論理で駆動している。ゲームの目的は迷宮の最下層に潜む邪悪な魔法使いを倒して護符を取り戻す事だ。その為に必要な進行手順は3つ。

1.エレベータの番人を倒す

2.エレベータに乗る

3.魔法使いを倒す

これだけである。戦闘力さえあれば物語は進行する。というより物語そのものが「強くなって敵を倒す」という一点に集約されている。レベル1のパーティはアンデッドコボルトから逃げ回る。レベル3になる頃にはそれを惨殺できる。ハイウェイマンの集団はプレイヤーを苦しめる。魔法使いが火炎魔法を覚えると復讐劇が始まる。

ボコられる→強くなる→ボコる→次の階層へ進む→ボコられる

これがゲームのルーチン構造である。戦闘力は常に進行のボトルネックであり、強くなりさえすれば全てが解決して先に進める。力の幻想。いじめられっ子が体を鍛えて仕返しをする物語だ。

 

さて「ドラゴンクエスト」を初めとする和製RPGはほぼ例外無くWizardryの焼き直しである。遭遇した生物を惨殺して戦闘力を向上させ物語を進める「力の幻想」をそのまま受け継いでいる。ドラゴンクエストVIの主人公が自分の村の周辺でしばしば瀕死になるのは、デザインコンセプトからすれば全く正しい。彼は最初いじめられっ子でなくてはならぬ。そうでなければ強くなった後の復讐に繋がらないのだ。

力の幻想のゲームにおいてはプレイヤーが虐げられる過程がどうしても必要である。これはいじめられっ子の復讐だ。「魔太郎がくる!!」は主人公が最初に被害に遭わなくては成立しないのだ。最初から世界が優しければ、被虐→鍛錬→復讐という基本ルーチンそのものが崩壊する。

現実にはその様にして力の幻想を台無しにした「優しいJRPG」は存在する。主人公は最初から強く、問題に対処する能力を持っている。物語は用意されたテクストを読む事で進行する。戦闘力の不足によって何かが滞ったりはしない。わざわざ鍛えなくともちゃんと最後まで行ける。

ここには力への渇望が存在しない。力の幻想から力を取り去った物は一体なんだろうか?徹子の部屋から徹子を取り去った物とどう違うのか?凝った戦術ルールや稀少品の蒐集といった付随的要素でいくら部屋を飾ろうとも、肝心の徹子が不在では番組が成立する筈も無い。それらは戦術のゲームなり蒐集のゲームなりとして独立に存在すべきであって、力の幻想のゲームに無理矢理組み入れる必要は無いのだ。

楽しい敗戦

対戦格闘ゲームは2種類に分かれる。バランスへの不満が噴出しているゲームと、誰も遊んでいないゲームとである。そして「スーパーストリートファイターIV AE」は前者に属するらしい。このキャラは強過ぎる。あの技を弱体化しろ。こっちは強化してくれ。長い陳情の列がどこまでも続く。

こうした不満は全て一語に集約できる。「勝たせろ」だ。自分の使っているキャラクタが強すぎてつまらない、という不満は存在しない。勝っている限りは満足なのだ。

誰かと誰かが戦うごとに、同数の勝利と敗北が生成される。これは対戦ゲームが背負っている宿命だ。となれば、敗北を楽しい経験に変える事ができればユーザ体験は大幅に向上する筈である。何しろ敗北は戦いの半分なのだ。以下に楽しい敗北の条件を挙げてみよう。

 

・理由が明確に示される

「チャンスの時に必殺技を出し損ねた」とか「敵への対処で間違った技を用いてしまった」といった明確な理由があっての敗北はゲームへの不満に繋がりにくい。勝利を1点、敗北をマイナス1点とすると、「勝つチャンスのあった敗北」はマイナス0.5点くらいである。

 

・次は勝てると思わせる

人は希望があれば前に進める。敗因を分析して次の勝利に繋げる事ができるなら、敗北はもはや失敗ではない。勝利まであと一歩という地点ならば尚更だ。「あと一手で勝利に達する地点」までは楽に到達できる様になっていると宜しい。例えばメックアリーナは2アウトまでは楽に取れる。止めの3アウト目が難しいのだ。

 

・技量の近い相手とマッチングする

全体としての結果が敗北であっても、個別の小競り合いではいくつか勝っている場合もある。総論敗北各論勝利。そうした小さな勝利も慰めとして重要である。

 

・言い訳を用意する

「今回は乱数に恵まれなかった」「相手のラッキーヒットだった」「向こうの方が段位が上なんだから仕方ない」ユーザは色々と負けた言い訳をする。それによって敗北の不満はいくらか解消されている。運の要素を多少入れておくのは良い考えだろう。

 

負けても楽しいゲームを作ろう。

ゲンスルーは何故あんなに強いのか

世のSRPGというジャンルはそもそもの初めから瑕疵を抱えている。プレイヤーは自分の兵士を戦場で自由に動かせるだけでなく、彼らを成長させる事もできる。つまり一つのゲームの中に二つのパートがあるのだ。そして困った事に、そのどちらかで成功すればするほどもう一方のゲームバランスが崩れるのである。

「ファイアーエムブレム 聖戦の系譜」は親から子への継承を主軸に据えている事もあり、慎重に案配すれば素晴らしい強さを持ったスーパーユニットを生み出す事ができた。そしてそれは敵とゲームバランスを諸共に葬り去った。ユニットを鍛えるパートで成功する事によって、ユニットを動かすパートの難易度が大幅に下がるのだ。上手なプレイヤーほど簡単な課題を与えられるという逆転現象がここに生ずる。

ここで漫画の世界を見てみよう。「ドラゴンボール」は強さのみが支配する空間だった。強大な敵を打ち倒す方法はただ一つ、それよりも強くなる事だけだ。だからこそ登場人物達は修行に打ち込む。これは成長パートのみのゲームに似ている。

「JOJOの奇妙な冒険」は対照的に、作戦を工夫する事で敵のトリックに対処する。主人公達の戦闘力が劇的に高まる事は無い。あくまで所与の戦力で戦い抜くわけだ。これは戦術パートのゲームに対応する。

ところが「HUNTERxHUNTER」はその両方の要素を持っている。主人公達は修行に励んで強くなる。同時に、戦術を工夫して格上の敵を倒そうとする。ゆえにこの作品の敵役は異常に強い。主人公が強くなった上に知恵も絞ってようやく倒せる水準である。そうでなければ話が成立しない。

成長と戦術の要素を持つゲームは、その両方で最大限に成功した場合とてつもなく強い敵が出て来なければ釣り合いが取れないのである。それゆえ構造的に難易度の問題を抱えてしまう。成長パートが単なる難度緩和装置になってしまうのはよくある事だ。

一つのゲームに主軸は一つ。大黒柱は一本にしよう。

単純と馬鹿の境界

スパ帝国で作るゲームは思考力を要求せねばならない。同じ手がいつも使えたり、最善策があまりに明らかだったりしてはいけない。

同時にゲームメカニクスは可能な限り単純でなくてはならない。単純な物を拡張するのは簡単だが、複雑な物を減量させるのは並大抵の仕事ではない。

この二つの要求はしばしば対立する。シンプルで要素数の少ないゲームは選択肢も限られる。少ない選択肢で思考力を要求し続けるのはかなり工夫が要る。

例えば狐めくりの場合だ。これは外れ札を押し付け合うゲームであり、譲渡されたカードを受け取るか拒むかの判断が最も熱い。ではここだけに焦点を当て、得点システムを無くしたらどうなるか。花嫁の1点を無くし、狐の枚数だけで最後の勝敗を決めたらどんなゲームになるだろうか?

ゲームとして成立しなくなる、というのが答えだ。花嫁に得点が無ければ、それを譲渡する事にはいかなるリスクも存在しない。「花嫁を引いたら全て押し付ける」というのが明白な最善策になるのである。この策を実行しているとき、プレイヤーは一切の思考を止めている。それは単純なゲームではなく馬鹿なゲームだ。

狐めくりはゲームとして成立するギリギリの複雑さしか持っていない。それ以上単純化するとバランスが崩壊するのである。この様に、ゲームバランスが成立する限界線がそれぞれのデザインコンセプトごとに存在する。そしてそれが単純なら単純な程、そのコンセプトは優れていると言えるのだ。

雨が雨漏りを見つける様に、ユーザはゲームデザインの瑕疵を必ず見つけて利用する。開発者はそれを塞ぐ為にパッチワークを追加する。その度に複雑さは増加する。単純な状態で成り立つコンセプトとは、水漏れを無くすのに必要なパッチワークが少ないデザインである。それはそれだけ完璧に近いという事だ。

知恵の試練場

スパ帝国は「考えれば良い結果が出る」ゲームを作ろうとしている。勝率を上げたければ全力で知恵を絞り、創造性を発揮するしか方法は無い。裏口も抜け道も無し。精神力を用いる重量挙げだ。それがデザインにどのように反映されるか以下に述べてみよう。

 

・常に正しい選択肢は無い

「毎回チャリオットを量産すれば勝てる」とか「ひたすら飛び道具を連発すれば勝てる」といったお手軽な定石は存在すべきでない。何故なら、そういった定石を覚えたり用いる事にはほとんど思考力を必要としないからだ。思考力を用いない手段によってゲームの勝敗や結果が改善されるべきではない。

 

・対戦条件は公平に

100メートル走は全ての競技者が同じスタートラインに立つ。ハンマー投げは全員が同じ場所から投げる。同様にして、スパ帝国製ゲームは対戦者の条件を出来るだけ公平にしている。例えばメックアリーナは機体の強さが大体同じだ。その様にしてこそゲームはマインドスポーツたり得る。公平なゲームに繰り返し勝つ事は優れた知性を担保する。100メートル走で金メダルを取る事が足の速さを担保するのと同じだ。世の中のアイテム課金ゲームは、金を払った競技者にだけ10メートル先からスタートさせる徒競走である。その様にして得られた金メダルはゴミだ。

 

・勝敗の恣意性を無くす

「ディプロマシー」や「汝は人狼なりや?」はスパ帝国からは生じ得ないゲームである。何故ならそれらは「誰を勝たせるか」という点で恣意性を帯びているからだ。イギリスがフランスを攻めるかドイツを攻めるか、村の中で誰を首くくりにするか、そうした判断には常に好悪の感情がつきまとう。スパ帝国は人の機嫌を損ねない才能ではなく、論理や確率を理解し応用する才能を褒賞する。2人用のゲームが多いのは、誰かを道連れに自爆する様な戦略を取らせない為である。

 

・数字は小さく

3000点のライフとか2500の戦闘力は良くない。10点のライフや8の戦闘力は良い。何故か?それは前者が無駄に記憶容量を占有するからだ。プレイヤーの思考力は創造的な決断に全て振り向けられるべきであり、退屈な計算や記憶によって負荷をかけるべきではない。何か数字を組み入れる場合は12以下、それが無理ならせめて20以下にする。

 

ゲームは実体経済に大きな貢献をなし得る。「優れた知性を選別する」という方法においてである。それに熟達している事が何らかの優れた形質を担保する様なゲームを作っている。

観て楽しいゲーム

格闘ゲームの興隆は試合を観て楽しむギャラリーに支えられている。多くの人が感嘆する事によって妙技は妙技としての価値を持つ。そして達人はただゲームが上手い人ではなく、何らかの実体的価値を持った存在となる。

観て楽しい事は重要だ。ゲームは遊んで楽しいだけでなく、楽しそうに見えなくてはならない。それでこそ技量を磨く気も起きようというものだ。以下に観て楽しいゲームの条件を挙げてみよう。

 

・誰が勝っているか分かりやすい

政治でも経済でも軍事でも芸能でも、人々の関心は結局一つの所に集約される。「誰が勝ったの?」だ。ゲーム全体において誰が勝ったかを示すのは当然として、途中の小競り合いで誰が勝ったか、誰が勝利を収めつつあるかを明白にしておくのも重要だ。この点、格闘ゲームの体力バーは優れたギミックである。誰がどれだけ勝利に近く、そのまま時間が経過したら誰が勝つのかを明示している。

 

・個別の事象がプレイヤーにとって喜ばしいかが示される

軍隊を指揮するゲームで自分の兵が倒れるのは良くない。相手の兵が倒れるのは良い。これは分かりやすい。そのプレイヤーが成功しているのか失敗しているのかが素人目にもよく分かる。自分の兵をわざと倒させて士気を高め反攻に移る、といったギミックを組み込んでしまうとこうした明瞭さが失われる。後ろから覗き込んでいる人間が発する質問はいつも同じだ。「上手く行ってる?」

 

・目標が明確

勝つ為には敵の基地を破壊せねばならない。その近くに砲兵陣地を築くため、まず丘を確保する。こういった形で最終勝利条件や目の前の課題が示されているべきである。覗き込んでいる人間が「何してんの?」と聞いたら、それは「どうやったら勝ちになるの?」という意味である。

 

・課題が難しそうに見える

十倍の兵力を持つ強国と戦う。数ドットの隙間しか無い弾幕をすり抜ける。0.2秒で複雑なコマンドを入力する。プレイヤーに与えられる課題は一見して難しそうであるべきだ。そういう無茶な課題をさも簡単そうにこなすから面白いのである。

 

・因果関係が明示される

兵を山上に配置したから負けたとか、迂闊にジャンプしたから蹴られたとか、隠れて背後を取ったから勝ったとか、失敗にも成功にも理由が明示されるべきである。人は「誰が勝ったの?」の次には「なんで勝ったの?」と聞くものだ。何か一つ理由を挙げてストーリーが作れる様になっている事が望ましい。

 

スパ帝国のゲームは観て楽しい事も目指している。ゲームプレイは一つの叙事詩であるべきだ。