翻訳記事:さらば諦めの日々

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*Civ4リードデザイナー、ソレン・ジョンソンの手記。Firaxisを退社してからMaxis・EA・Zyngaを渡り歩き独立スタジオを設立するまでの経緯が書かれている。

 

私がゲーム業界に入ってから今年で13年になる。その間にCiv3Civ4という2つのゲームを円満に成功させて来た。残念なのは、その2つのゲームが私のキャリアの最初の5年間だという事だ。その後の8年間に携わったプロジェクトは制作が上手く行かなかったり、完全にキャンセルされたりした。どうしてこんな「失われた十年」を職業人として経る事になったのだろうか?

これに答えるには2005年10月から話を始めなくてはならない。Civilization 4が発売された時だ。このゲームは批評家から絶賛され(メタスコア94はFiraxis作品で最高)、商業的にも成功した。比較的低予算のプロジェクトで300万本以上を売ったのだ。ゲームオブザイヤーにも輝いた。私が選んで編集したサウンドトラックも好評だった。テーマソングの”Baba Yetu”はグラミー賞を取った。これはビデオゲームの音楽としては初である。ModのひとつFall from Heavenは多くのファンを集めた。Civ4は本当に奇跡のプロジェクトであり、成功する可能性のある部分が全て成功したのである。

私はこのプロジェクトをゼロから始め、ゲームとAIのプログラムを全て書き、2年半かけてチームを膨らませ、スケジュールの2週間前に出荷した。私の全てをこのプロジェクトに注ぎ込んだ。ただひとつの心残りは、終わった後にスタミナが残っておらず、拡張版にまともな貢献ができなかった事である。

6ヶ月後。パッチ当て作業が終わり、気力も回復した。次に何をするか決めねばならなかった。Firaxis(というよりそれを買ったTake-Two)はCiv5のリードデザイナーにならないかと言ってくれたが、わざわざ新しい作品を出すほどの根本的な変更は思いつかなかったので辞退した。Civ4の制作を始めた頃はCiv3の経験を基にしたアイディアが溢れていたのだが、それらは皆やり尽くしてしまった。もうこれ以上Civシリーズに与えられる物は持っていなかった。

しかし新しい戦略ゲームのアイディアなら沢山あった。そしてそれを形にしたかった。Civ4のデザイナーとして名声を得た今、そろそろ自分自身のゲームを作る時だ。私は秘蔵のアイディアをぶつけてみたが却下された。他のいくつかの案も出してみたがやはり駄目だった。会社は人員を割けなかったのだ。その時はRailroads!が開発の真っ最中で、Revolutionの企画も持ち上がり、将来的にはCiv5も見えていた。

要するにFiraxisは台所が苦しかったのだ。開発コストは上がる一方、PC用のリテールゲーム市場は縮小していた。新しいシリーズを立ち上げるのはどんどんリスクが大きくなっていた。更に会社はシド・マイヤーの作った定番シリーズを持っており、それを開発せずにわざわざ新シリーズを作る機会費用は大きすぎた(実際、Firaxisは1997年のGettysburgから2013年のHaunted Hollowまで、1作も新シリーズを出していない。SimGolfは例外的なオリジナル作品と言えなくもないが、Simブランドのひとつとして売り出された)。

私の企画はどれも比較的小規模なプロジェクトで、100万ドルから200万ドルの予算を想定していた。問題は、その当時そんな規模のゲームを流通させる方法は無かったという事だ。この規模のプロジェクトで採算を取るには数十万本が売れればよい。会社の名声を考えれば妥当な数字だ。だが流通はそれに対応していなかった。PCゲームは大量の予算を使って50ドルの箱で数百万本売るか、過去作品を焼き直して10ドルでCDケースに入れて売るかしか無かった。Steamはサードパーティ作品を扱い始めたばかりで、2007年時点ではid、カプコン、Eidosしかゲームを供給していなかった。つまりデジタル配信という選択肢は無かったのである。

今日では状況は全く変わり、60ドルから無料までどんな価格帯のゲームにも市場が存在する。そしてプロジェクト予算も100万ドル未満から1億ドル超まで様々だ。デジタル配信、少額課金、多様なプラットフォームが業界の景色を塗り替えたのだ。私がFiraxisで提出したアイディアも今なら実現していただろう。だが当時の私にあった唯一の選択肢は、クリエイティブディレクターとして完成するかどうかも分からないゲームのプロトタイプ作りを手伝う事だけだった。

実際のところ、その後の6年間がどうなるかを知っていたら私はFiraxisに留まっていたと思う。そして何か良い変化が来るのを待っていただろう。あの会社も、そこで働くのも大好きだった。だが私も人間だったのだ。私はCiv4という仕事を終えたのだから、今度は自分自身のゲームを作る資格があると思ったのだ。それを否定された事で、もしかしたら拙速な決断をしてしまったのかも知れない。私はFiraxisを退社した。

その後は私の尊敬する会社を当たって面接を受けた。Blizzard、Ensemble、Valve……そして最終的にはMaxisに入りSporeの制作に携わった。GDC2005におけるウィル・ライトの発表は業界人とジャーナリストを驚かせた。その作品に携わるという事は、業界で最も有名なゲームを作るという事だった。Sporeについての感想は先の記事で触れている。この作品には色々拙い所もあるが、だからと言ってそれに携わった事を後悔しているわけではない。開発チームはアイディアと才能に溢れていたし、私もあまり時間を置かずに何か作品をリリースしたかった。私は開発を終わらせる為に雇われ、それから18ヶ月で作品は完成した。

Maxisに入ったもうひとつの理由は、先方が私のプロジェクトを将来的に支援すると言ってくれたからだ。会社の中で才能を発揮すれば、Sporeが終わった後にチャンスが与えられるはずだった。残念ながらSporeは思ったほど成功せず、EAの株価も暴落した(この2つの事象は言うまでもなく関連している)。(訳注:MaxisはEAの子会社) 会社はレイオフを行い、リスクの大きい新シリーズ制作からは手を引いて安全策に走った。この時点で私が新しい戦略ゲームのアイディアを出し、EA内で採用されて妥協無しに完遂できる見込みはゼロになった。

私はまたしても岐路に立った。EAの中でどうやって自分のやり方でゲームを作ればいいか分からなかった。Sporeがリリースされた後の数ヶ月、シリコンバレー周辺のブラウザゲーム企業やベンチャーキャピタリストを回ってアイディアを売り込んだ。当時非同期性基本プレイ無料は人気のある投資案件であり、自分の会社を作ってゲームを制作すれば全てをコントロールできると思ったのだ。だが、残念ながら私の展望は投資家から見てニッチ過ぎた。私はコアゲーマー向けの戦略ゲームを作り、プレイヤー自身のModによって発展させたかったのだが、それに投資を募る事ができなかった。

そこで私はEA2Dへと流れて行った。EA本社にあるブラウザゲームのスタジオである。そこの中核チームはDragon Age Journeysを作っていた。これはDragon Ageのスピンオフ作品で、Flashを使い戦術的ターン制戦闘システムを持っていた。スタジオのマネージャーだったマーク・スペナーは私にチャンスをくれた。1年に渡り、webゲームStrategy Stationを作らせてくれたのだ。これは基本的には先に投資家達にプレゼンテーションしたのと同じ企画である。Modに対応した3つの戦略ゲームを作り、オンラインで非同期対戦ができる様にした。ブラウザエンジンとしてGoogle Web Toolkitを用いた。

ゲームは静かに発表された。実際、このブログ(Designer Notes)で紹介した事は一度も無い。せいぜいThree Moves Aheadのある回で言及した位である。ある意味で、私はこれを広める事を恐れていた。どうやってサイトを上手く回せばいいのか、ユーザー規模にどうやって対応すればいいのか、またどうやって利益を出せばいいのか分からなかった。EA上層部で私の展望に乗ってくれる人は少数だった。とにかく自分でできる限りの事をやり、結果が出るのを待った(開発チームがそもそも存在しないプロジェクトを解散させる事はできないだろうと当時の私は考えた)。

そのサイトは数千ユーザー以上には広がらなかった。ただし日本では非常に熱心なファンを獲得し、中には数千ゲームをこなしたプレイヤーもいた程である(このゲームを扱った日本の人気ブログがある。3つの中で最も人気だった王国ゲームの動画もある。日本語化+画像差し替えModを入れてプレイされており、人間の兵士が何らかの理由でウサギになっている)。こんな変なプロジェクトに予算を付けてくれと、どうやって頼めばいいのだろうか。これの存在を正当化するには商業的成功が必要だとEA2D側が考えている事も分かり、私は先手を打ってプロジェクトを消す事にした(プロジェクトをEA外で存続させて日本のコミュニティが遊び続けられる様にする事も試みたが、上手く行かなかった。独立したStrategy Stationは熱心なニッチ層を楽しませられただろうが、これはEA内の、会社規模に相応しくない私の個人的プロジェクトだった)。

EA2Dは次にDragon Age Legendsというプロジェクトに賭けた。これはJourneysの緩やかな続編で、Facebook内で営業した。2010年当時はソーシャルゲームが非常に熱く、新しいフォーマットでコアゲーマーを満足させられるかどうかを試してみたかった。結果は賛否両論だった。このゲームは会社内では好評で、特に経営陣には人気だった。CEOジョン・リッチティエロとゲームタイトル責任者のフランク・ジボーは非常に高いレベルのキャラクターを育て上げ、かなり課金もしていた。だが最終的に、スタミナシステムの軋轢、コアゲーマーの基本プレイ無料に対する敵視、Facebookとのユーザー層のずれなどが積み重なり、プロジェクトは死すべき定めとなった。

私自身はこのプロジェクトを興味深い実験として熱心に追求していた。だが出来上がったゲームは、もし私が全てをコントロールしていたらこうはならなかっただろうという代物だった。悲しい事に、私はそもそも自分の作りたいゲームを作ろうとEA内で試みさえしなかった。企画をぶつける際につきものの社内政治に関わりたくなかったし、そもそも採用されるか分からず、採用されたとしたらそれがどう扱われるか恐れていた。要するに私は、始める前に諦めていたのだ。

2011年の夏は私の職業人生で最低の時期だったろう。私の好きなサイトであるRock Paper Shotgunがビジネスモデルを理由にLegendsを酷評したのだ。そしてゲーム自体のユーザーも徐々に減り、日毎のアクティブユーザー数が2万人程度に落ちていた。このゲームはEA2Dが求めた、将来のプロジェクトを支える為の成功とはならなかった。チームはBioWare Socialに改組され、才能の流出が始まった。EA内でどうすればいいのか、私には分からなかった。

そしてZynga、というよりZynga Eastに入った。ここはブライアン・レイノルズを始めとする多くのBig Huge Gamesの残党が立ち上げたZyngaのスタジオで、ソーシャルゲームを制作していた。2010年のヒット作Frontiervilleもここから生まれたのだ。この作品はスタミナバーやストーリー型クエストなど多くの革新を含んでいた。Zyngaには金がうなっており、スタジオのマネージャー(にしてBHGにおけるブライアンのパートナー)であるティム・トレインは私をスカウトする際、私のやり方でブラウザゲームを作ってよいと約束してくれた。スタジオの一角に安全なスペースを作り、そこでじっくりプロトタイプを作れる様にしてくれると。

Zyngaで働いたのは18ヶ月にもならないが、言うまでもなく素晴らしい経験だった。自分の好きなゲームを作る自由を与えられた。数ヶ月でプレイ可能な段階に達し、オフィスでは非常に人気だった。だがある意味で、私は自由を与えられ過ぎていた。そのゲームはスタジオ外からは殆ど監視を受けず、代わりに支持も得られなかった。私は経営陣の干渉を恐れるが故にプロジェクトを査定に出さず、謎に包まれた存在にしてしまった。会社は否定も肯定もせず、そもそも関心を持っていなかったのだ。それゆえスタジオがCityVille 2の失敗を受けて閉鎖される事になった時、一緒に開発中止になったのは必然だった。

私はZyngaで信じ難いほどの自由を与えられていたが、結局プロジェクトは最初から死すべき定めにあった。だが悪いのは私である。EAを退社する時、Zyngaは魅力的な選択肢だった。給料は良く、個人的リスクは少なく、作りたいゲームを作れる。だが問題は、私が作りたいゲームは製品として出荷される物だったという事だ。外部からの干渉がどうというのは結局言い訳に過ぎない。Zyngaに入る時、私は自分のゲームをコントロールできない事を知っていた。いつ大幅に変更されたり開発中止にされたりするか分からないのだから。

Civ以後の職業人生を振り返るに、私は自分の作りたいゲームと雇い主が作らせたいゲームの間で妥協し続けて来た様だ。Sporeにおいては他人の作品を仕上げるという妥協である。Strategy Stationにおいてはチームを持つ事ができないという妥協である。Dragon Age LegendsにおいてはRPGをソーシャルゲームに変えるという妥協である。Zyngaにおいては無関心な管理の陰に隠れてゲームを作るという妥協である。私は始める前に諦めていたのだ。

もう諦めるのはやめにしよう。自分のやりたい様にゲームを作るならば選択肢は1つしかない。時間も、エネルギーも、生活の安全も犠牲になるけれども。私には大量のゲームのアイディア在庫がある。一生かけても作り切れないほどだ。つまり私は既に遅きに失しているのである。

そろそろ物事を変える時だ。

そろそろ独立する時だ。

そしてmohawkgames.comに続く。

 

 

原文:http://www.designer-notes.com/?p=697

翻訳記事:勝つ為に戦う(18)

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勝負の秋

ゲームにはしばしば「決定的瞬間」が訪れる。試合の勝敗が決まる、あるいは試合の流れを大きく変える瞬間である。小さな優位を慎重に保ったまま試合の90%を過ごしたとしても、決定的瞬間はそれを吹き飛ばし、試合を不確定にし、運命を変えうる。

青天井のポーカーで小さな勝負を10回繰り返したとしよう。その後に相手が大きな賭けを挑んで来たら、それにどう応対するかで全てが決まる。格闘ゲームでじっくりとリードを築いたとしても、1回の判断ミスで大きな隙を晒し、大コンボを食らって再び互角に戻される事もある。チェスで慎重に陣形を築き上げても、1回の妙手で防御を外されチェックメイトを取られれば終わりである。StarCraftで20分かけて大軍を築いたとしても、決定的な数秒間によそ見をしていれば、敵のテンプラーに全てを吹き飛ばされてしまう。

この章を「兵法」セクションの終わりの方に持って来たのは、今までに論じた多くの問題と絡むからだ。試合の勝敗が1度か2度の決定的瞬間で決まるなら、相手を騙すのは遥かに強力になる。その瞬間が来るまで敵から隠れ続けるのも手だろう。操作練習と精神力も重要な問題になる。特定の技を出せる様になったとしても、肝心な時に練習と同じ様にできるだろうか? 決定的な瞬間は集中力が摩耗するゲーム後半、あるいは何試合もくぐり抜けた後のトーナメント終盤に発生する。集中力と体力を消耗した状態で、決定的な瞬間に精神力を保てるだろうか? 試合の帰趨を決する瞬間に敵がどう出るか、観察によって見抜けるだろうか? その瞬間に敵がする事を読んで勝利を手にできるだろうか?

不利な時こそ決定的瞬間を作り出し、それを利用せねばならない。そして有利な時はそれを防ぎ、避けなくてはならない。勝っている時に最もしてはならないのは、読み間違えればリードを失う状況に陥る事だ。安全な状況を作ってリードを守り、相手を僅かな逆転の目に賭けて大きなリスクを取る様に仕向けるべし。

例えば格闘ゲームの「転倒」を考えてみよう。殆どの格闘ゲームでは、転倒すると起き上がるまでしばらく無敵になる。この無敵時間にもかかわらず、転倒させた側は常に有利だ。何故なら相手が起き上がる最初の瞬間に、自分のコントロールする読み合いを押し付ける事ができるからである。起き上がりに攻撃を重ねて上下段のガードで選択を迫ったり、ストリートファイターなら「めくり」で左右のガードを選択させたりできる。あるいはまた何もせず、相手がリバーサル技を出して来るのを待ち構える事もできる。状況を支配しているのは転倒させた側であり、それ故に有利である。ただしこれはあくまで読み合いであり、転倒した側が読み勝ったり幸運を得て反撃に成功し、そのままコンボなり超必殺技なりを決める事もある。殆どの場合、可能なら成功に賭けて読み合いを押し付けるべきだ。押し付ける側にはデメリットよりメリットが多いからである。しかし勝っている時はどうだろうか? 最も攻撃的なプレイヤーであっても、攻撃的プレイとは安全な攻めとリスク計算である事を知っている。ラウンドの開始時点において、決定的瞬間を作るのはリードを得たり敵を震え上がらせる為に有効である。既に大きくリードして勝っていたら話は違う。もちろんリスクを計算してもなお賭けた方が良いとか、読みの神が相手のする事を正しく告げてくれるという場合もあるだろうが、普通はリスクを取らない方がいい。後ろに下がっていれば100%の確率で敵の望む決定的瞬間を避けられる。

「状況作り」の技とは決定的瞬間を作り上げる技である。決定的瞬間が迫っており、それが望ましくないのであれば、あらゆる手を講じてその状況を防止せよ。読み合いに付き合っては駄目だ。ストリートファイターでは、決定的瞬間は相手が凄まじい攻撃を繰り出した直後、自分が動ける様になった瞬間に訪れる。多くのプレイヤーはこの状況にフラストレーションを感じ、見え見えの馬鹿な行動をしてしまう。そして相手はそれを待ち構えているのだ。最初の瞬間は避けよう。動ける様になったその瞬間に技を出すのはありふれた、予見可能な行動である。これは確かに教科書通りだが、相手はその瞬間を待ち構える事ができる。その瞬間に何か技を出す事を相手は知っている。代わりに例えば、2秒間待ったらどうなるだろうか? 格闘ゲームにおける2秒は沢山の瞬間である。最初の瞬間に攻撃しなければ、その次の瞬間だろうか? あるいはその次の瞬間だろうか? 何もしないという選択は状況を仕切り直しに持ち込み、決定的瞬間を曖昧にする。相手にしてみれば、ノーヒントで瞬間的な動作(ブロッキングや超必殺技)を出すのは非常に難しい。相手は予見可能な瞬間に頼っているのだ。勝っている時には、その様な瞬間を与えてはならない。

逆に負けているときは、相手を戦いに引きずり出して接触しなくてはならない。そしてできれば混沌とした状況を作り出し、劣勢を覆すチャンスを手にするべきである。ウォーゲームならば「火攻め」によって相手を防御地点から燻り出して交戦するという事だ。その戦いには負けるかも知れないが、少なくともチャンスはある。ポーカーなら「オールイン」で全てのチップを賭けて相手を脅かす。こちらが良い手を持っている危険を押して相手はそれに乗って来るだろうか? ここで読み間違えれば試合の流れは大きく変わってしまうのだ。

剣を鞘に納めたまま勝つのは常に最上だが、決定的瞬間の活用は今までに紹介した多くの概念の結晶である。欺きから読みに至るまで、全ての勝敗は決定的瞬間にこそ集約される。

 

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(17)

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読み:心のスパイ

 明君と賢将に勝利と征服をもたらし、凡人に不可能な成功をさせるのは、予知である。予知は鬼神の働きでも、経験から導かれる物でも、計算によって得られる物でもない……敵情を知る事ができる手段は間諜だけだ。

-孫子兵法-

 

孫子はスパイを最も重視しており、他のどの人員よりも柔軟に報奨されるべきだと説く。何故ならスパイのもたらす予知は、戦争において他のどんな資源よりも価値があるからだ。敵がどこを攻めて来るか知っていれば、防備を広く分散させる必要は無い。敵がいつ油断するか知っていれば、攻撃して確実に勝利を得られる。敵将の癖を知っていればそれを利用できる。スパイによる予知はあたかも未来を見通すかの如くである。

 いつも一手先しか読まないが、いつもそれが正しい。

-第3代チェスチャンピオン、ホセ・ラウル・カパブランカ-

 

読み

対戦ゲームにおいて、相手の考えを知る以上に重要な事はほとんど無い。日本人はこれを「読み」と称している。相手が次にやる事を知っていれば、複雑な理論による意思決定は全て不要になる。孫子は相手の考えを読む事は霊的事象だと言うが、私自身は「常人には不可能な」読みをするプレイヤーを見た事がある。もしかしたらただ単に対戦相手の詳細を観察するのに優れていたのかも知れないが、どうもそれを遥かに超えている様に思える。ある1人のプレイヤーは超自然的と言ってもいい程に相手の考えを読む事に長けており、次に相手が何をするか知っていた。馬鹿げた言い分だと思うかも知れない。しかし信じて欲しい、日本の格闘ゲームプレイヤー、梅原大吾を見た者は皆そう言うのだ。潜めた声で、本当にそうかも知れないという風に。

話が横道に入るが、ゲームの「戦略性」は読みをどれだけ可能にし、報奨するかでほぼ決まると私は論じたい。馬鹿な例だが○×ゲームを考えてみよう。最初の1手は9種類しか無く、機能上異なるのは3種類だけだ。もし何らかの魔術で相手の次の手を予知したとしても全く意味がない。このゲームは相手が特定の手を打つ事を強制する非常に窮屈な代物であり、初心者だろうと予知の達人だろうと基本的に同じ棋譜を残す。「プレイの癖」や「性格」を発揮する予知は○×ゲームには存在しない。動いているのは単純なアルゴリズムだけであり読みの予知は入らない。

 

読みレイヤー

良い対戦ゲームは「相手のする事を知っていれば対抗できる」仕組みが無くてはならない。ではもし、こちらが相手のする事を知っている事を相手が知っていたらどうなるか? 相手はこちらに対抗する術を持つはずだ。この時、相手はこちらより一段階上のレベル、または上の「読みレイヤー」にいるのである。こちらは相手のする事を知っている(読みレイヤー1)。しかし相手はこちらが知っている事を知っている(読みレイヤー2)。ではその事をこちらが知っていたらどうなるか(読みレイヤー3)? 相手の対抗手段への対抗手段が必要になる。そしてもし相手がその事を知っていたら……

収拾不能になる前に芽を摘んでおこう。読みレイヤーは3までで十分である。なぜなら読みレイヤー4はレイヤー0にループして戻って来るからだ。例えばこちらに非常に、非常に優れた技”m”があったとしよう。こちらはできるだけこの技を使いたい(ここでリスク/リターンの非対称性が出て来る。もし全ての技が同じくらい良ければそもそも読み合いの土台が砕け散ってしまう)。この「読みレイヤー0」はある技がどれほど優れているかを発見し、ひたすらそれを使う事だ。すると相手はそれに気付き、その技を高い頻度で出して来ると予測する(読みレイヤー1)。そこで対抗手段となる技”c1″を使う。こうしてこちらにmを使わせない様にする。こちらの動きは封じられた。そこでこちらはc1を使わせない為の対抗手段として、対抗手段への対抗手段、あるいは”c2″を使う。

すると相手は何に備えていいか分からなくなる。こちらはmを使うかも知れないしc2を使うかも知れない。面白い事に、こちらはmを使いたくとも、相手にc1を使わせない為にc2を見せて脅しておく必要が出て来る。そうしておけばmを通しやすくなるからだ。

相手にも新しい選択肢が必要だ。こちらはmとc2で揺さぶりをかけられるが、相手にはc1しか無い。相手にもc2への対抗手段として”c3″が要る。これで双方2つの技を持つ事になった。

こちら:mとc2 相手:c1とc3

となるとこちらにもc3への対抗手段が必要である。ゲーム開発者はここでc4に相当する技を作りたがるが、それは必要無い。mがc4の役目を果たす事もできるからだ。基本的に、こちらが元々の良い技ではなくて対抗手段の方を出すと相手が読んでいたら、こちらは元々の技を出せば裏をかける。ゲームがちゃんとその様に作られてさえいれば。原則として、読みレイヤーが3まであり、レイヤー4がレイヤー0にループして戻って来れば、手段と対抗手段の完全な選択肢のセットが出来上がる。

こう書くと実際よりもかなり難しく聞こえてしまうはずだ。そこで「バーチャファイター3」から実際の例を引いてみよう(ただしこれも更にややこしいのだが)。

 

バーチャファイター3に見る読みレイヤー3の例

例えばアキラがパイを転倒させたとしよう。パイは起き上がる際に上昇技(これらの技は最強の判定を持つ)を出す事もできるし、何もしない事もできる。もしアキラが起き上がりに合わせて攻撃を仕掛けて来たら、上昇技で全て跳ね返す事ができる。だがもしアキラ側がそれを読んでいたら、その場でガードして投げ技で反撃できる。パイは上昇技のキックを出し、アキラはそれを読んでガードした。読み合いの始まりだ。

アキラはダメージの最も大きい投げを使う事にした(これがアキラの”m”である)。この投げをかわす事はできないのだが、もし相手が投げを読んでいて投げ抜けコマンドを入力したら、ダメージ無しでそれを抜ける事ができる。投げの「発生」は確定だがパイにはそれを抜けるチャンスがあるのだ。実際、パイ側はこの場合に投げが確定している事を知っており(常識である)、アキラが最もダメージの大きい投げを繰り出すのは明々白々である。結局、この状況は何百回と現れ、何百ものアキラが全く同じ事をして来たのである。パイがこの場で投げ抜け(パイ側の”c1″)を入力するのは戦略というより習性と化している。考える事無く条件反射でそうしてしまうのだ。

アキラ側は何度も何度も投げを抜けられるのに疲れ果て、今度は少し搦め手を使う事にした。崩撃雲身双虎掌とか、鉄山靠とか、その他体当たりの様な遅い強力な打撃を使うのである。これらは全て”c2″のカテゴリに入る。なぜこの状況で遅い打撃が有効なのか? まず、パイが投げられていないのに投げ抜けコマンドを入力した場合、それは投げ抜けでなく投げモーションになる。その時点でアキラが投げの間合い外にいたり、他の理由で投げられない場合、この投げは投げスカリになる。パイは虚空を掴もうとして隙を晒すのだ。バーチャファイターにおける重要なルールとして、相手が技の発生または持続モーションになっている間は投げが成立しない。ゆえにアキラが大きな技を出した場合、持続モーションが終わって硬直モーションに入るまでは全く投げを受け付けないのだ。

元の話に戻ろう。アキラは投げを抜けられるのに疲れ、相手の投げへの対抗手段である遅い強力な打撃を出す事にした。ちなみにこのc2技もかなりのダメージを出す。次にこの状況になった時、パイはどうしていいか分からない。習慣は投げ抜けを入力しろと告げるが、もしそうすればアキラの遅い打撃を食らってしまう。そこでパイは通常のセオリーを離れて”c3″選択肢を選んだ。その場でガードするのだ。こうすればアキラの打撃でダメージを受ける事は無い。そしてどの技を出したかにもよるが、パイは大抵の場合その後に反撃ができる。

ではアキラがそれを読んでいたらどうするか? 実はc4は必要無い。最初にやろうとしていた投げ技(m)こそガードへの対抗手段だからだ。投げは相手を掴んでダメージを与える特殊な攻撃で、たとえ相手がガードしていても成立する。これは打撃を防ごうとガードしている相手に使うためにわざわざ作られているのだ。

まとめると、

アキラは投げと遅い打撃を持つ。
パイは投げ抜けとガードを持つ。

先に示した様に、プレイヤーは読みレイヤー3、4、あるいはもっと上まで考えるはずだ。投げ抜けは既に条件反射と化している。しかし狡猾な相手に対しては、通常の投げ抜けをするかガードするか逡巡せねばならない。アキラ側はたまに遅い打撃を混ぜて敵を攪乱し、投げ抜けを止めさせようとする。そこで再び元々の目標に戻る:投げを浴びせるのだ。

もう一つの非常に面白い現象は「ビギナーズラック」だ。初心者のアキラはこの状況で投げに行く。なぜならこれは投げ抜けを知らない他の初心者に対しては上手く決まるからだ。そして初心者アキラは中級者に対しては決して投げを決められない。中級者は常に投げ抜けをするからだ。ところが奇妙な事に、初心者はしばしば上級者に対して投げを決めてしまう。上級者はどういう読み合いが必要か知っており、時々は投げ抜けでなくガードをするからだ。無論、上級者はすぐに相手がただの初心者である事を悟り、全ての動きを読み切れる様になる。

読み合いの複雑さを示す為に一言添えておこう。上記のバーチャファイターの例はかなり簡略化したものだ。本当は例えば、パイはガードでなく速い打撃を出す事もできる。アキラにも遅い打撃以外のc2がある。「キックガードキャンセル」と呼ばれる技がそれだ。まずキックボタンを押し、硬直モーションに入るまで投げられない様にする。パイがこれを投げようとすれば投げスカリになる。そこでアキラがキックをキャンセルすればパイの晒した隙に攻撃を叩き込める。この時点で投げを出せるのは確定しており、結局最初と同じ状況に戻るわけだ。ここでの肝は、アキラがキックガードキャンセルから投げを繰り出した場合、パイは恐らくそれに反応する時間が無いという事だ。それは余りに速過ぎる。パイはまた新たな読みレイヤーに放り込まれる。パイはアキラが投げに来ると読んで投げ抜けを出し、それをキックガードキャンセルされ、再び次の読み合い(打撃か投げ抜けか)に入る。一瞬でもためらえばその時は既に投げられている。

ここで強調しておきたいのは、バーチャファイターは恐ろしく複雑であるにもかかわらず、プレイヤーの思考は先に述べた様なレイヤーに沿っているという事だ。読み合いの構造やリスク/リターンを知るのも重要だが、読みを極めたプレイヤーなら個々の状況における読み合いを制する事で一気に本質に迫れる。似た様な状況におけるセオリーに従うより遥かに強力だ。

 

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(16)

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敵の詳細を観察する

敵の詳細を慎重に観察し、将来の手を予測する材料を集めよ。この点に関して、孫子の戦争に関する助言はマイク・カロのポーカーに関する助言によく似ている。

「狂気の天才」マイク・カロはポーカー指導者であり、ポーカー作家であり、世界最高水準のポーカープレイヤーである。彼はコンピュータ分析も利用するが、同時に心理学とギャンブル哲学においても有名だ。カロの著作「ポーカーは語る」と孫子兵法を比べてみよう。

弱いは強い、強いは弱い:

敵が近くにいて静かであれば、それは地の利を恃んでいる。遠くにいて挑発をして来れば、それは相手を進ませようとしている。容易に近づける場所に陣地を置いていれば、それは囮である。

-孫子兵法-

 

ポーカーにおいて、手札が弱い時に強く振る舞うという誘惑は抗し難いものだ。逆、即ち強い時に弱い振りをするのも然り。

-マイク・カロ-

 

弱い振りをするのに夢中になっているプレイヤーは、往々にして強い手札を持っている。

-マイク・カロ-

 

突然の動き:

鳥が飛び立つのはその下に伏兵のいる証拠である。獣が驚くのは奇襲の前触れである。

-孫子兵法-

 

急に元気を取り戻して大金を賭けるプレイヤーに注意せよ。疲れ切ったプレイヤーを蘇らせ、再びギャンブルに向かわせるのは、往々にして目覚ましい手札である。

-マイク・カロ-

 

立ち上る煙:

塵が高く立ち上るのは(二輪)戦車の来る兆候である。塵が低く広がっていれば歩兵の兆候である。様々な方向に散るのは薪を集めている印である。少しの煙が往来するのは野営の印である。

-孫子兵法-

 

ブラフをかけているプレイヤーは内心不安であり、人目を引く様に煙草の煙を吐く事を躊躇する。覚えておこう、ブラフをかけている者はできるだけ注意を引いたり、コールを呼び込む様な行動を避けようとする。殆どのプレイヤーはブラフの際に透明な存在になりたがる。ゆったりと煙を吐き出すプレイヤーは、恐らくコールされる事を恐れていない。

-マイク・カロ-

 

外見からの手がかり:

兵士が槍に寄りかかっているのは空腹でぼんやりしているからである。水を汲みに出された兵がまず自分で飲むのは乾きに苦しんでいるからである。優位を取れるのに何もしないのは兵が疲れ切っているからである。

-孫子兵法-

 

良い服をまとったプレイヤーは保守的にプレイする傾向がある。しわくちゃのスーツに緩んだネクタイの男はギャンブルをする気分になっており、きちんと服を着ている場合よりも放縦なプレイをする可能性が高い。

-マイク・カロ-

 

秩序と混沌:

夜中に叫び声がするのは恐れているからである。恐怖で落ち着かなくなり、叫んで自分達を鼓舞しているのである。野営地内で騒乱が起きるのは指揮官の権威が弱いからである。旗が動くのは反乱である。士官が怒るのは疲れているからである。

-孫子兵法-

 

対戦相手の本性はチップの置き方から垣間見える。きちんとした置き方は慎重に手を選び、滅多にブラフをかけず、大きなギャンブルをしない傾向を示唆している。無論ゲーム中に気分が変わる事もあり、その場合はチップの置き方も雑になって来る。大きなチップの山の上に少し余剰が載っていたら、恐らくそれが儲け分である。

-マイク・カロ-

 

大胆な相手:

軍隊が馬に麦を与え、馬を殺して肉を食べ、炊事用具を火にかけていないのは、もう野営地に戻る気が無いという事であり、決死の戦いを挑む兆候である。(注:引用されている英訳が間違っている可能性あり。原文:「殺馬肉食者,軍無糧也。懸缶不返其舍者,窮寇也」)

-孫子兵法-

 

実際、幸運のお守りを付けていたり、迷信深い振る舞いをするプレイヤーは平均より賭け金を自由に扱う。

-マイク・カロ-

 

弱いは強い、強いは弱い、忘れるな:

言葉では謙り、備えが増しているのは進撃の兆しである。乱暴な言葉を使い、前に進もうとして来るのは撤退したがっている兆候である。軽戦車が出て両翼を固めるのは決戦の準備である。和を乞うが誓約が伴わないのは謀略である。走り回って隊伍を整えるのは決戦の時が近い印である。進む者と退く者がいるのは誘いである。

-孫子兵法-

 

相手に賭け金を積ませようとするのは勝てる手札と踏んでいるからである。賭けても安全だと相手に思わせる主立った方法は:(1)興味無さそうによそ見をする (2)パスする振りをする (3)チップに触れない である。

-マイク・カロ-

 

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:選択が善ならざる時

これは翻訳記事です

GDC#25:選択が善ならざる時

2013/7/29 Soren Johnson
Game Developer誌2013年5月号に掲載された物の再掲

 

ビデオゲームの決定的性質は何よりもプレイヤーの選択である。相互作用こそゲームを映画や文学と分かつ物だ。批評家が”Dear Esther”などのデジタルコンテンツを「ゲームとは言えない」として非難するのは、往々にしてプレイヤーの選択が事実上存在しないという意味である。

しかし、選択という概念はいささかゲーム開発者によって理想化されており、「プレイヤーに介入させる」「著述をやめる」といったフレーズによって、選択の負の側面がしばしば開発において見過ごされている。それは開発者の盲点に入っているのだ。本当は、ゲームに選択を1つ加える度にトレードオフが起きているのである。

新しい選択肢が加わる事によってゲームはプレイヤーの介在度合いが高まり、同時に何か別の物を失う。そのコストは大きく分けて「過度の複雑さ」「過度の時間消費」「過度の反復」である。どれも度が過ぎれば選択の利益以上の不利益をもたらす。

 

過度の時間消費

仮にゲームを簡単な方程式で表すとすれば、[楽しさ = 意味のある選択 / プレイ時間]となるだろう。言い換えれば、同じ程度にプレイヤーの選択が介在するゲームが2つあれば、必要プレイ時間の少ない方が面白いという事である。そしてこの比較は容易ではない。新要素は意味のある選択を増やすが、果たしてそれはプレイ時間の増加に見合っているだろうか?

例として、”Dice Wars”と”Risk”はどちらも似た様な領域征服ゲームであり、この問題に違った答えを出している。どちらのゲームもプレイヤー同士がダイスを振って戦い、勝者は次のターンにより多くの軍隊を手に入れる。Riskの場合、軍隊をどこに置くかはプレイヤーが自由に決める。状況に応じて意味のある選択をするのだ。ところがDice Warsの場合、軍隊はゲームによってランダムに配置される。それによってプレイ時間が短縮される。

どちらのデザインが正しいのか? 答えは主観的にならざるを得ない。適切な問いは、プレイヤーが時間をかけて軍隊を配置する事によって戦術がもっと意味のある物になるのか、なるとすればどの程度改善するのかである。結局のところ、Riskのプレイヤーはより意図的な戦略を採用できるが、それは軍隊配置フェイズで消費する時間に見合っているのだろうか?

答えはプレイヤー層によって異なるだろう。Dice WarsはカジュアルなFlashゲームであり、Riskは伝統的なボードゲームだ。だが開発者は自分の決断がどういう影響をもたらすか理解していなくてはならない。Riskの軍隊配置は時々ルーチンワークと化すし、Dice Warsで意外な配置に対処するのは新しい種類の楽しみだ。結局の所、Riskはプレイ時間を延ばす要素に関してきちんとそのコストを正当化する必要がある。

 

過度の複雑さ

時間というコストの他に、プレイヤーに与えられる選択肢はそれぞれ複雑さを増し、認識力に負荷をかける。これもバランスを取らなくてはならない。多くの選択肢があればそれだけ悩む。5つの技術からどれを研究するか選ぶのと、50の技術から選ぶのは大分違う。プレイヤーは自分が選んだ選択肢だけでなく選ばなかった選択肢についても知ろうとする。否定すべき選択肢の数が増えれば、それだけ悩む理由も増える。

ゲームはその種類ごとに適切な選択肢の数がある。ゲームを管理可能な範囲に収めつつ、プレイヤーを圧倒しない適度な面白い意思決定を用意する。BlizzardのRTSは種族ごとのユニットの数がずっと一定だ。”StarCraft”も、”Warcraft 3″も、”StarCraft 2″も平均して1種族あたり12ユニットである。StarCraft 2に関しては、新しいユニットを追加した分だけ古い物を削除したと開発チームが明言している。

実際、RTSというジャンル自体がその子孫に人気を奪われつつある。”League of Legends”や”Dota 2″に代表されるMOBA(マルチプレイ・オンラインバトルアリーナ)ジャンルである。元々これはWarcraft 3のMODで”Defense of the Ancients”という名前が付いていた。通常のRTSと違い、プレイヤーは軍隊全てを操作するのでなくヒーロー1人だけを動かす。

この変更によりプレイヤー層は大幅に広がった。複雑さが大きく減少し、それによって認識力への負荷が軽くなったのである。プレイヤーはRTSの様に鉱山や兵舎や農民や兵士の集合を全て管理するのでなく、自分のキャラクター1人の事だけを考えればいい。考えてみよう、カメラが戦場全域を移動するのでなくヒーローだけを追い続けるとしたらどれだけインターフェースが簡素になるだろうか。それによって注意力の配分というストレスの多い作業をしなくて済む様になる。

もちろん、この変更はRTSから多くの意味ある選択を奪ってしまう。プレイヤーはどんな建物を作るか、どの技術を研究するか、どのユニットを作ってどこに送るか決める事ができない。これらの選択は全て抽象化されるか自動化される。ここでもまた、適切な問いはこうだ。失われた選択肢と、それがあった場合のRTSの複雑さは果たして見合っているだろうか?

MOBAゲームの成功が示しているのは、RTSによって開かれた戦争のスリルと迫力をプレイヤーは楽しんでいるものの、全ての要素を操作するという認識力の試練は必ずしも楽しんでいなかったという事だ。同様に、全てのユニットを操作しないRTS “Gratuitous Space Battles”の開発者のクリフ・ハリス氏も同様の点を指摘する。「GBSはプレイヤーが300隻の宇宙船を操作できるとは期待しない。そんな事は無理だ。それは最初から選択肢から外す。賛否はあるが、10万人以上のプレイヤーがこれを購入する程度に楽しんでいる以上、この考え方をするのは私だけではあるまい」

 

過度の反復

これは少し意外かも知れないが、ゲームの自由度が高過ぎると単なる反復作業と化す恐れがある。よくある例は、非常に広範だが基本的には条件の変わらない選択をセッションごとにさせるという物だ。プレイヤーは往々にしてお気に入りの選択の組み合わせを開発し、そこから抜け出す事をやめる。

プレイヤーが様々な環境に適応しなくてはならない場合、こうした選択肢の集合は上手く行く事もある。Civilizationシリーズにおけるランダム生成マップはプレイヤーが色々な道順でテクノロジーツリーの進める様に求める。しかし、ほとんどのゲームは選択肢を減らす方が全体としての多様性が恐らく増すだろう。

“Atom Zombie Smasher”の場合を考えてみよう。プレイヤーは街からゾンビを一掃するのに3つまでの武器(狙撃銃とか迫撃砲とか道の封鎖)を使える。しかしこれらの武器はミッションごとに8つの中からランダムに選ばれる。つまりプレイヤーは街とゾンビの配置だけでなく、武器の組み合わせという環境にも適応しなくてはならない。お気に入りの組み合わせにずっと頼る事はできず、意外な組み合わせがどうやったら上手く行くのかを発見せねばならない。これによりゲームプレイは毎回違った物になる。

似た例で”FTL”の場合、乗組員や武器や強化パーツはゲームごとに違った物が現れる。店で売っている物はランダムに変わるのだ。よってこれは完璧な単一の戦略を見つけるゲームではなく、手に入る物を組み合わせて最適な道筋を探すゲームになっている。簡単に言うと、Atom Zombie SmasherとFTLの多様なゲームプレイは選択肢を減らした結果なのだ。

これと全く逆に、厖大なカスタマイズの選択肢を持つゲームは大抵の場合いくつかの最適な組み合わせに収斂する。柔軟なシステムが結局台無しになるのだ。「アルファケンタウリ」にはデザインワークショップという物があり、プレイヤーが数値や能力を組み合わせて自由にユニットを設計できた。しかしすぐに最も有効な組み合わせが明らかになり、この要素はゲームの中心から外れてしまった。

然るに、プレイヤーに余りに多くのコントロールを与える、つまり選択肢や介入の余地が多過ぎると、ゲームのリプレイ性が下がってしまう場合があるのだ。実際、”Diablo”は習得するスキルを選べなければ今より面白くなるだろうか? ゲームは確実に別物になるだろう。意図した方向に進められないのは熟練者を遠ざけるだろうが、ゲームプレイの多様性が増える事によって別の層に訴えられるだろう。スキル割り振りがランダムであれば、ツリーのうち本来行かなかった筈の部分も探索する事になる。重要な点は、プレイヤーの選択の減少が必ずしもゲームを悪くしないという事だ。

究極的にはゲームデザインはトレードオフの連続である。そして開発者が認識すべき事は、プレイヤーの選択それ自体も他とバランスを取るべき一要素に過ぎないという点だ。プレイヤーの介入はゲームの中核的な強みだが、必ずしも他の全ての要素に無条件で優先するわけではない。即ち簡潔さ、洗練、多様性である。

 

原文:http://www.designer-notes.com/?p=609

翻訳記事:ゲームに物語は必要か?

これは翻訳記事です

GDC#24:ゲームに物語は必要か?

2013/5/13 Soren Johnson
Game Developer誌2013年2月号に掲載された物の再掲

 

物語とゲームの結婚はなかなか上手く行かない物である。大昔から、ゲーム開発者は自前で物語を書き、プレイヤーに決まった開始地点と決まった道筋と決まった終着点を与えて来た。その一方、決まった物語が無いために人気を博すゲームもあった。ゲーム体験とは物語を紡ぐ過程であり、開発者の自作ノベルに従う過程ではないのである。

全ての根底にあるのはドグマの対立だ。プレイヤーの選択が物事を決めるとしたら、開発者の考えた物語の入り込む余地はあるのだろうか? ゲームをゲームたらしめる物が相互作用であるならば、開発者のねじ込む筋書きはプレイヤーから主役の座を奪ってしまうのではないか? 言い換えれば、「ネタバレ」のあるゲームは本当のゲームと言えるのか?

誤解の無い様に言っておくが、「テトリス」などのアブストラクトゲームを除きほとんどのゲームは物語を活用している。面白い背景設定、特有の雰囲気、印象深いキャラクター、魅力的な会話、劇的な戦いなどなど。最高のゲームには他のメディアに負けない優れたキャラクターがいる。”Portal”のGLaDOSや”BioShock”のRaptureを思い浮かべてみよう。

しかしながら、文字通りの「物語」、即ち何がどの順番で起きるかの筋書きはゲームの相互作用性と調和させるのが難しい。書籍や映画の筋書きは作品の中核であり、他の要素はそれを支える為にあるが、ゲームの場合はそれと事情が違う。

海賊の時代を舞台にしたゲーム”Pirates!”を見てみよう。シド・マイヤーはこのゲームを作る際、単一の海賊物語を書いて筋書きと結末を決めるのでなく、海賊ものにありがちな小さな話を大量に散りばめた。プレイヤーは何をするか自由に選択できる。生き別れの妹を助けたり、邪悪なスペイン人と決闘したり、反乱を生き延びたり、宝を探したり、脱獄したり、市長の娘を口説いたり。ゲームの終わりにはプレイヤーの海賊人生における重要な出来事を振り返り、人生の浮き沈みを物語にまとめる。こうして出来上がった物語は決められた筋書きに比べると出来が悪いかも知れないが、プレイヤーにとってはかけがえの無い自分だけの物語だ。

だが全てのゲームが動的なストーリー生成に適しているわけではない。決まった背景の方が適するテーマやメカニクスもある。勇者は邪悪な魔法使いを倒すべきだし、兵士には敵が必要だし、配管工はお姫様を助け出さなくてはならぬ。この場合の解法は薄く味付けをする事だ。物語を直接伝えるのでなく示唆する。筋書きという考えを離れ、プレイヤーに世界を探索させる。そして最後にプレイヤーの頭の中で物語が組み上がる様にするのだ。

“ローリングストーンズ曰く、歌詞は判読不能の寸前が一番印象的である” – ポール・エヴァンズ、ローリングストーンズアルバムガイド

実際、ゲームにおける物語の役割は音楽における歌詞の役割に似ている。歌詞は文脈、雰囲気、背景のかけらである。聴衆には想像の余地が残される。わざと聞き取れない部分を作って意味を曖昧にしている事もある。果たして小説で同じ事をするだろうか? それに外国語の曲が好きな人もいる。一体どれだけの人が外国語の本をわざわざ読むだろうか? 歌詞の意味は最重要ではない。優れた曲は解釈の余地を残しておく。同じ様に、ゲームの物語もプレイヤーに自由を残すべきなのだ。

2Dパズルアクション”LIMBO”はその雰囲気、モノクロの色調、ミニマルな音楽で知られている。このゲームの物語は、少年が妹を捜すという原始的な冒険を軸に展開し、謎を残して終わる。どうして少年は暗い神秘的な森で妹を捜しているのか? どうして蜘蛛の化物に追われているのか? 襲いかかって来る子供は誰なのか? “LIMBO”は完全に一本道のゲームだが、普通の会話によって答えが与えられないため、物語はプレイヤー自身が紡がなくてはならない。

ミニRTS”Atom Zombie Smasher”もこれに似ている。このゲームでは色とりどりの兵隊が架空の南米都市でゾンビの大群と戦う。調味料になるのが数々のヨタ記事(「エスポージトは決勝ゴールを決め、数分後に生きたまま食われた」)で、市民達が災厄にどう立ち向かったかが描かれている。エンディングは狂った物語の傑作だ。サイボーグ化したプレシデンテとAK47のなる木を背景に、アイゼンハワー大統領が「軍産複合体」についての有名な演説を行うのである。

重要なのは、これがいわゆる普通の物語を用いずに魅力的な世界観を成立させている事だ。ヨタ記事はキャンペーンの間にランダムに出て来る。プレイヤーは隙間を想像で埋める。制作者のブレンドン・チャンはこう指摘する。「情報のかけらを集めて組み合わせるのは楽しいし、ゲームがプレイヤーを信じているという事も伝わる」。一般層には少し取っ付きにくいかも知れないが、”Atom Zombie Smasher”は結果として生き生きした開放的な世界を作り上げた。それは筋書きの決まった普通のシューティングゲームや、会話で膨れ上がったRPGとは比べるべくも無い。固定の筋書きはプレイヤーの介入を妨げる敵なのだ。

“祈りは神に影響を与えるためでなく、祈祷者自身を変えるためにある” – セーレン・キュルケゴール

ビデオゲームと物語を組み合わせると相互作用のある物語への道が開ける。物語の中でプレイヤーが大きな決断をするという物だが、これこそ最もじれったい要素だ。現実にできるのは最初から用意された分岐のどれかを選ぶ事だけだからである。複数のエンディングがあるとしても、結果の数はあくまで有限である。相互作用は結果の程度を変えるだけであって種類を変えるわけではない。

開発コストが上がるに連れ、プレイヤーが目にしないかも知れない要素を作る余裕は無くなって来た。よってプレイヤーがどういう選択をしようと物語は要所要所で同じ所を通る。”Knights of the Old Republic”はその例証だ。プレイヤーは善か悪の道を選べるが、どちらを選んでも終着点は同じである。悪の親玉ダース・マラックを倒すのだ。善の道なら彼を阻止するため、悪の道なら取って代わるため。倫理面で全く異なる選択をしてもマラックの死は変わらないのである。

こうした固定の筋書きはプレイヤーとゲームを乖離させる。RPGに何十時間も費やしたが物語を全く覚えていないという事がしばしば起きるのは、それがプレイヤー自身の利益や選択に全く関わって来ないからだ。最終的には物語がゲーム上でどういう意味を持つかを抜き出して、それを皆で回し読みするという事態になる(「これを達成するとゲームにどういう影響があるの?」)。物語の中核は大抵の場合登場人物の決断である。ゲームの中核はプレイヤーの決断である。ゆえにゲームを意味ある物にするのはプレイヤーの決断でなくてはならない。果たしてゲームは決まった物語とプレイヤーの選択を両立できるのだろうか?

アクションRPG”Bastion”はこの問題に正面から取り組んだ。ゲーム世界は「大災厄」によって砕け散っている。ゲームが進むと、災厄を引き起こした武器がどうして作られたのか、それが使われた時何が起きたのかをプレイヤーは知る。そして最後に、プレイヤーは決断を迫られる。時間を遡って大災厄を防ぐか、生き残りを集めて新天地へ移るかである。

この決断が面白いのは、その次に起きる事である。というか何も起きないのだ。ゲームはそのまま終わり、プレイヤーの選択を反映した一枚絵が表示されるだけである。プレイヤーが実際に介入できるという嘘を開発者はつかなかった。この決断は純粋に人生観の問題である。人生の大きな過ちを取り消すか、それとも新たな人生を踏み出して前に進むか?

“Bastion”ではプレイヤーは自分の選択を通じて己自身を知る事になる。開発チームの誰かがこうと決めた結果を見るのではない。”The Walking Dead”では、プレイヤーは自分の選択と他のプレイヤーの選択を見比べる事ができる。これはプレイヤーの性格に光を当て、どの選択が多数派に属し、どれが少数派に属するかを呈示する。

筋書きだけを中心にしたゲームは、ゲームにとって最も重要なのはプレイヤーだという事を忘れている。どれほど重厚で力があろうと、ゲームに物語を入れるという事はその本質を損なう危険を伴うのだ。ゲームはプレイヤーに自由を残さなくてはならない。ルール、メカニクス、システム、そして物語において。

 

原文:http://www.designer-notes.com/?p=459

YOMI 追加キャラ翻訳案

格闘カードゲーム「YOMI」に新キャラが登場したので絵札の翻訳案を提示。

Divide and Conquer 分断作戦
Rising Sword 昇空剣
Spirit Fire 気炎砲
Martial Law 戒厳令
Clockwork Soldiers からくり軍団
Truth Geyser 真実の泉
Dodge the Question 追求逃れ
Righteous Zeal 正義の情熱
Righteous Tumbler 正義の軽業
Crosswise Toss 切り返し
Evasive Answer 責任逃れ
Patriot Mirror 愛国の鑑
Consent of the Governed 主権在民
War Stomp ウォー・ストンプ
Bull Rush ブルラッシュ
Troq Armor トルクアーマー
Up Hawk アッパーホーク
Lockhorn Skewer ホーンスピア
Eagle Totem イーグルトーテム
Beast Unleashed ビーストクラッシュ
Chaos Orb 無道弾
Nether Orb 冥空弾
Rising Dragon 龍神拳
Sweeping Claws 旋風爪
Dragon Breath 龍の息
Deathstrike Dragon 死龍滅殺
Moonlight Sphere ムーンライトオーブ
Ray of Moonlight ムーンライトレイ
Sunburst サンシャインバースト
Sunbar Cage サンシャインプリズン
Fountain of Light ライトファウンテン
Twilight Key トワイライト・キー
Sun and Moon サン・アンド・ムーン
Long Arm ロングアーム
Cog Shot ギア・ショット
Gyro Spin ジャイロスピン
Junkshot ジャンクショット
Beta Thrust ベータスラスト
Piston Hurricane ピストンハリケーン
Power Lash パワーバインド
Rapid Lashes クイックバインド
Rising Pleasure ライジングプレジャー
Wild Ride ワイルドライド
On Your Knees ニー・ダウン
Links of Ice アイスリンク
Chains of Ice アイスチェーン
Shadow Slice シャドウスライス
Burnbarrow バーンバロウ
Dashgorger ダッシュゴーガー
Dreadlands Portal ヘルポータル
Tumbling Strike ダンシングストライク
Frost Web フロストウェブ
Wall Dive Suplex フライングスープレックス
Diving Pincer Slice フライングクロー
Maximum Ven マックス・ヴェンジャンス
Surgical Strike サージカルストライク
Anarch Crusher アナーキークラッシャー
Shoulder Ram ショルダーラム
Crash Bomb クラッシュボム
Slipstream Phase スリップストリーム
Maximum Anarchy マックス・アナーキー

翻訳記事:勝つ為に戦う(15)

これは翻訳記事です

 

分断と征服

 

Zileasという男

私は格闘ゲームの世界で育って来たが、どのゲームも大体同じ様なコミュニティを持っているはずである。RTS界にはZileas(本名トム・カドウェル)という男がいるのだが、彼は言わば平行世界の私である。ちなみに彼はMITにおける私の後輩であるが直接会った事は無い。我々はそれぞれのゲームで有名になり互いの存在を知った。そして今ではどちらもゲーム業界にいる。

Zileasは敵を分断して征服する事や、火力を集中する事について色々書き残している。まさに孫子と同じである。

ZileasはStarCraftについて論じ、孫子は実際の戦争を論じているが、RTSというのは実際の戦いを(一応)模した物である。ゆえに両方の達人が同じ様な考察に至ったのも驚くには当たらない。興味深いのは、孫子は大規模なマクロ管理の観点から、Zileasは小規模なミクロ管理の観点からそれを書いている事だ。皮肉な事に、ZileasはまさにそれによってStarCraft界で名声を獲得した。マクロ管理を重視する「守旧派」と一線を画し、ミクロ管理による分断と火力の集中を重視する「革新派」アプローチを確立したのである。何が皮肉か分かるだろうか? 守旧派も革新派もその実、孫子兵法に見られる同一の考え方をそれぞれに適用した物なのである。

孫子はマクロな観点において、双方の兵力を勘案していつ攻めるかを論じている:

戦いの鉄則。敵の10倍の兵力があればこれを囲む。5倍あれば攻める。2倍あれば部隊を2つに分けて挟み撃ちにする。そして前に対応すれば後ろから、後ろに対応すれば前から潰す。兵力が同等なら敵を誘い出すもよし。やや不利なら敵を避ける。大きく不利なら逃げる。寡兵でも頑強な戦いはできようが、最後には衆兵に捕われる。

Zileasはマクロな観点において、どんな場合に(StarCraftの)敗北が起きるか論じている:

キルレシオ(彼我損耗比)に双方の生産力比をかけ算して、答えが1を下回っていれば敗北に向かっている。相手の生産力が伸びつつあり、自分は停滞していて、かつ先の値が1に近ければやはり敗北に向かっている。キルレシオというのは双方の死んだユニットの数ではなくて、死んだ資源の量で考える。ユニットの生産コスト、維持コスト、施設の建設コストなどである。

このZileasの言葉はいささか不思議かも知れないが、20回かそこら読む内にはStarCraftの深い見識が得られよう!

 

兵力の不均衡

孫子の主たる論点の1つは、敵より多くの兵で攻めるという事である。仮に敵軍が自軍と同等の規模と戦力を持っていたとしても、部分部分に注目する事でそれは可能になる。敵が広大な帝国の1ヶ所だけを守っていて、かつこちらがそれを知っていたら、帝国の残りの部分は全く無防備である。自軍の一部分を割くだけでも無防備な拠点を次々に落とせるだろう。逆に多くの拠点を相手が同時に守っていたら、個々の部隊はそれだけ小さくなる。相手が10ヶ所ある拠点を全て均等に守っており、こちらが全軍の半分を1ヶ所に集中させて攻めたら、それだけで戦力比は5対1になる! こちらは火力を一点に集中させ、相手は分散し弱まっているのである。

こうした戦術の成否はいかに自軍を隠し、敵軍を偵察できるかにかかっている。隠蔽と偵察無しには孫子の「分断と征服」方式は実現しない。

こちらがどの拠点を攻めるかは事前に知られていてはならない。どこを攻めるか分からなければ、相手はいくつもの拠点で同時に守りを固めなくてはならない。即ち戦力が分散され、どこを攻めようとこちらの戦力が上回るという事になる。

戦力が減るのは複数の攻撃可能性に備えるからである。戦力の優位は相手に分散守備を強制する事によって生まれる。敵がいつどこから来るか分かっていれば、広く散らばった部隊を集結させてそれに備える事ができる。しかしいつ来るかもどこから来るかも分からなければ、左翼は右翼の救援に行けず、右翼もまた左翼を助けられない。前方は後方を助けられず、後方も前方を助けられない。

そこで孫子は自軍の位置と意図を秘密にせよと説く。そして敵軍の位置と意図を探り当てろと説く。そうする事によって、こちらは敵の弱点に火力を集中できる。その為に防備をおろそかにしたとしても、敵がこちらの弱点を知らなければ攻めようが無い。敵の分散した部隊はこちらの集中した部隊に対してなす術なく打ち破られるのである。

 

StarCraft「守旧派」アプローチ

孫子のアプローチはZileasが言う所の「守旧派」である。守旧派のStarCraftプレイヤーは強力な経済の建設を目指し、それによって敵を上回る量のユニットを作ろうとする。敵に10倍すれば囲み、5倍すれば攻めよ。まさにこの考えである。個々の局地戦は重要でないと彼らは考える。重要なのは大きな機動戦力を作り上げ、敵の弱点を突ける様にする事だ。

彼らの殆どはStarCraftの前作、Warcraft 2から来ている。Warcraftのインターフェースでは個々のユニットを操作して戦いを管理してもそれほど益は無かった。Warcraftのユニットは全体に均質で、StarCraftのTemplarとReaverに見られる様な50:1の損耗比は存在しなかった。勝つ為には全体の管理こそが重要だった。大きな軍隊を作り、敵を分断し、自分の戦力を集中する。

 

Starcraft「革新派」アプローチ

そこにZileasがやって来た。彼はミクロな戦闘管理と個々の局地戦がどれほどStarCraftにおいて重要かを指摘した。そして分断と征服を非常に小さなスケールで行うという新しい考えを広めた。

教練その1。Shiftキーでキューを入れて火力を集中すべし。仮に敵と遭遇し、双方ともMarineが10体ずつだったとしよう。普通ならユニットは専らランダムに撃ち合い、戦闘の終盤になってようやくユニットが死に始める。ところが上級者は全てのユニットを選択し、敵の1体に向けて集中砲火を浴びせる。そしてShiftキーで次の命令を出しておき、その次のユニットにまた集中砲火できる様にする。この繰り返しだ。10体の集中砲火によって敵の1体はすぐに死に、その分だけ敵部隊の火力は減る。Shiftキーで命令を出しておいたのですぐに次の1体に集中砲火し、それも倒したら次の1体、その次の1体と続く。相手は火力を分散しているのに対しこちらは集中している。このテクニックをこちらだけが使っていれば、戦闘が終わる頃にこちらは4体生き残り、敵は全滅しているだろう。

教練その2。陣形を使って火力を集中せよ。2つの部隊が交戦し、戦力はどちらもMarine10体ずつだとしよう。この場合陣形が全てを決める事がある。一方のプレイヤーは長蛇の列で行進し、もう一方は横一列の陣形でそれを迎え撃ったら、横陣は縦陣の先頭ユニットに集中砲火を浴びせられる。それを倒したら2番目。また倒したら3番目。行列の最後のユニットが戦場に着く頃には、他のユニットは皆死んでいる。横陣より更に良いのは「浅い弧」である。弓なりの陣形で最大の火力集中を可能にするのである。

教練その3。狭い場所を塞いで敵を分断すべし。大軍が狭い道(自然地形なり人工物で塞がれているなり)を通らねばならない場合、必然的にそれは分断される。通って来るユニットを待ち構えて1つずつ撃破すればよい。

教練はまだ沢山あるが、要点は個々の戦いにおいて火力を集中するという事である。Zileasの最も象徴的な火力集中戦術は”Doom Drop”だ。

Zileasはプロトス使いである。プロトスはユニットの数は少ないが個々の攻撃力が高い。つまり何もしない内から既に火力が集中されているのである。いわゆるDoom Dropとは、輸送機(他のユニットを運ぶ飛行機)4隻程度を用意し、Reaver、Templar、Archonなどの強力なユニットをそれに詰め込む。場合によっては戦闘機の護衛を付ける。この超戦力、即ち集中した火力を素早く一点に投入すればほぼどんな拠点も落ちる。Archon1体、Reaver3体、Zealot4体、Templar3体が突如として本拠地の真ん中に出現したら、それだけでもう対処のしようが無い。応戦しようにも味方の位置取りが悪過ぎる。

これの強化版もある。投入したユニットの幻影を作り出して敵の攻撃を吸収するのである。輸送機を4つも敵陣に突入させるのはそう簡単ではない。道中に敵の対空砲があったら撃ち落とされてしまうからである。そこで例えば輸送機4体に戦闘機5体を同行させると、ターゲットが増えて敵の砲撃が分散される。そこで更に10体の戦闘機の幻影を同行させればもっと良い。幻影は攻撃力を持たないが、敵の攻撃を引きつけて本物を守ってくれる。幻影は敵を欺き、その対空攻撃力を分断するのである。

 

ミクロとマクロ

ではなぜ「分断と征服」を大きなレベルでもやらないのだろうか? 戦闘レベルの集中と戦略レベルの集中はどちらか片方を選ばなくてはならないのだろうか? StarCraftにおいてその答えはイエスである。本当に。人間の注意力は有限であって、Doom Dropを仕掛けるのも大規模な経済を建設するのも相応にそれを消費するからだ。

 

第三の資源:集中力

Zileasは語る:

資源というと、殆どのプレイヤーは鉱物とガスを思い浮かべる。勿論それはゲームの中核であるが、同時に集中力という要素も考えなくてはならない。ここでは集中力をプレイヤーが何らかの作業に集中できる時間として定義する。新拠点の建設は多くの集中力を要する作業である。とりわけプロトスにとってはそうだ。軍事攻撃も動揺に多くの集中力を要し、また多くの集中力を投ずればそれだけ効果が増す。偵察すら集中力を要する。優れたプレイヤーと頂点に立つプレイヤーの大きな違いは、いつ戦いにかかり切りになる必要があるかを知っている事だ。そして相手もまた有限の集中力をやりくりしているという認識だ。集中力の消費を最小限に抑えるテクニックは色々ある。ホットキーを使うとかキューに命令を入れるとか。しかしそれでも、全ての行動は何らかの形で集中力を消費する。そしてStarCraftが上手くなれば、それだけ多くの集中力を持った相手と対戦する事になるはずだ。集中力という資源が充分にあれば、それを活かして複数箇所に同時に攻撃を仕掛け、敵を圧倒するという手も使える。そして残念ながら、集中力はほぼ生まれつきの才能によって決まる。多くのゲームをこなせばゆっくりと成長するが、それでも持つ者と持たざる者は厳然と存在する。これは言わば短距離走の能力に近い。長距離走者には訓練すればなれるが、短距離走者には才能の壁が立ちはだかる。ゆっくりと成長させる事はできても個々人の限界がある。もし私と同等の技能と、より優れた才能を持つプレイヤーがいれば、頂点の座は間違いなく奪われてしまうだろう。

集中力を鍛える最も良い方法は2対1や3対1で戦う事だ。つまり複数の対戦相手と同時に戦う。私は3対1でも大抵勝てる。2対1ならほぼ負けは無い。そしてそれが可能な理由は、単純にマルチタスクが得意だからである。また2対2のチーム戦というのも興味深い。双方の陣営とも通常の2倍の集中力を使えるのである。正確には「ほぼ」2倍である。チームメイトと意思疎通をしなくてはならないからだ。

プレイヤーが大小どちらの管理に集中力を投ずべきかは、個々のゲームとプレイスタイルによって変わる。そしてどちらの場合でも原則は同じだ。火力を集中し、敵を分断せよ。

 

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(14)

これは翻訳記事です

 

火攻め

故に火を以て攻を佐くる者は明なり。水を以て攻を佐くる者は強なり。水は以て絶つべきも、以て奪うべからず。

—孫子兵法

孫子は敵に対して火を用いる事を述べているのだが、同時にそれは根源的な戦術の知見でもある。同時に複数の攻撃を仕掛けるのである。敵の建物に火を付けて、出て来た所を待ち伏せる事もできる。野営地の片側に火をかけて、反対側から攻める事もできる。これも結局は待ち伏せである。どう用いるにせよ、火は基本的に攻め手側が用いる追加の攻撃力である。火は説得も買収も効かないし無視するわけにも行かない。火は無慈悲である。敵を攻撃し追い散らすという点では兵隊と同じ働きをするが、火は一度付けてしまえば人力を要さない。そして兵士の犠牲を伴わずに敵の兵舎の中へ入り込んで行ける。

火は付ければ勝手に燃え広がるため、同じ人数でより多くの攻撃ができる。火は敵を阻むため、1つの部隊を分散させる事なく2方向から挟み撃ちにできる。ここでの教訓は、2つの攻撃を同時に浴びせると有効性が跳ね上がるという事である。

多くのゲームにこの概念が登場する。格闘ゲームの飛び道具(波動拳など)は基本的に独立した攻撃主体である。飛び道具を一旦生成したら、キャラクターはそれから自由に動いて攻撃できる。その間も飛び道具は自分の仕事をしているのであり、2つの攻撃を同時に浴びせるのと同じ事になる。格闘ゲーム「マーヴル VS. カプコン2」はその極端な例であり、飛び道具とキャラクターに加えて「アシストキャラクター」を呼び出して攻撃させる事ができる。メインキャラクターとアシストキャラクターによる同時攻撃は様々な恐るべき固め技を可能にしている。相手のアシストキャラクターが既に死んでいて同時攻撃ができず、こちらは可能という場合、その優位は計り知れないものになる。

チェスの基本戦術である「フォーク」と「ピン」も同時攻撃という点では似ている。フォークとは1つの駒で相手の複数の駒を同時に攻撃する「両取り」である。例えばこちらのナイトが相手のビショップを取る事もルークを取る事もできるとする。相手はこのナイトを取らない限り、2つの駒を同時に守る事はできないのである。ビショップを逃がせばルークを失う。ルークを逃がせばビショップを失う。

ピンは相手の1つの駒を攻撃する。ただしその駒が逃げたらその後ろの駒が攻撃に晒されるのである。例えばこちらのルークが数マス先にいる相手のビショップを脅かしているとしよう。この状態で相手の番になった。ところがビショップの後ろには相手のキングがいる! もしビショップがルークの攻撃から逃れようとすれば、今度はキングに危害が及ぶのである(ちなみにこれはルール上許されない。自分からキングを危険に晒してはいけない)。この場合ビショップは「キングに釘付けにされている」のである。ルークは1つの駒を攻撃しているだけに見えるが、その実2つの駒を同時に脅かしているのだ。ターン制ゲームは往々にして、1手で2つの攻撃を仕掛けられる手を探して差し込むという戦いになる。

孫子兵法の火の項目をより直接的に適用できるのは、FPS「カウンターストライク」の手榴弾と閃光弾であろう。これらは投げてから爆発するまでに数秒の間があるので、相手が手榴弾なり閃光弾なりに対処せねばならないまさにその時に、こちらは自由に動いて攻撃できるのである。タイミング良く手榴弾を投げる事ができれば、5人のチームでも10人のチームより強力な攻撃を仕掛ける事ができる。「火攻め」、あるいは手榴弾・飛び道具・チェスの駒などによる同時攻撃は大きな優位をもたらすのである。

原文:http://www.sirlin.net/ptw

翻訳記事:勝つ為に戦う(13)

これは翻訳記事です

 

調練

孫子は厳しい調練に関して複数の章を割いて述べている。明確で実効性のある懲罰と報奨のシステムは軍隊にとって必要不可欠であると説く。戦場の混沌の中で、兵士は肉体的にも精神的にも極大の緊張に晒される。生き延びて任務を果たすには命令を反射的に遂行できなくてはならない。指揮官は部下が命令通りに動く事を信じ、部下は指揮官が正しい命令を下す事を信じなくてはならない。同様にして、プレイヤーは自分の肉体が意図通りに動いてくれる事を信じる必要がある。

 

操作スキル

実戦で複雑な技を繰り出すには、訓練を通じてそれを第二の天性としなくてはならない。多くの技やテクニックを体が覚えるほど、操作に注意力を割かずに済む様になり、それだけ戦略判断に集中できる。無論その割合はゲームによって違いがある。テニスや格闘ゲームはチェスや”M:tG”よりその傾向が顕著だ。

考えた時にはもう玉は落ちている。

—ジャグリングの諺

生まれつきこの種の操作が得意なプレイヤーもいる。全てのプレイヤーが最終的に同じレベルまで到達できる潜在能力を持っているかどうかは定かでないが、明らかに上達が早い人間は存在する。操作の上手さはしばしば「実力」と呼ばれるが、実力には色々な側面がありこれはその1つに過ぎない。操作も確かに重要だが、対戦ゲームで最も重要な能力は読みと計算だ。こちらは遥かに見えにくい。自分の眼前で示されたとしても、相手の本当の実力はなかなか見えないのである。一方操作の上手さは誰にでもすぐ分かる。複雑な操作をミス無しに実行できるかどうかである。操作技量は検知しやすいが故に、些か過大評価されているきらいがある。別に私が操作が下手だからそう言っているわけではない。

操作は重要である。明らかな理由の他に、それが知識よりも長く持続する優位だという事もある。今日の世界においてはゲームの戦術に関する情報は非常に速く流れる。新しい「秘密の技」はそう長く秘密でいられない。操作の上手いプレイヤー、いわゆる「技巧派」は、それらの情報を手にして、更に改良して行ける。知識を得るのは技量を得るより遥かに簡単である。技量は数年に渡る筋肉記憶の調練でしか得られない。

 

精神面の強さ

調練は操作技量だけの話ではない。精神面の強さも必要だ。勝負に全力で向き合い、集中力・不屈さ・注意力・体力などの限られた資源を保ち続ける能力である。肉体面の調練は資源そのものを増やす。どれだけの耐久力と注意力を実戦に持ち込めるかを決めるのである。一方精神面の調練はそれらの資源を活用する力を増やす。大会の最後の試合になっても、最初の試合と同じくらい強烈に勝利を追い求めていなくてはならない。そういう状況を作り出す必要がある。

チェスのマスターにして作家のエドワード・ラスターはその著作”Chess for Fun and Chess for Blood”の中で大会に関してこう述べている:

思うに、精神的緊張の極地とはチェス大会におけるマスターの疲労だろう。最も難しい数学の問題を解くのでさえ、チェス大会ほどには疲れない。そして数学は全ての知的活動の中で最も難しい分野である。肉体の健康はチェス大会における最重要の要素であり、それゆえスタミナに勝る若いプレイヤーは年配のプレイヤーに対して大きな優位を持つのである。

私の同僚であるセス・キリアン同じ考えをストリートファイターの大会に関して非常に上手く述べている。以下に引用しよう:

大会に勝つには戦略と操作だけでは駄目だ。気を散らす物全てを振り切る事ができなくてはならない。挽回不能に思えるリードを取られても、歯を食いしばって踏みとどまらなくてはならない。あるゲームにおいて常にトップに留まり、国内の強豪を下して行くには、精神面のタフさが必要である。「勝つ」だけでなく「大会で勝つ」には。これは雑魚が常に見逃している事だ。それは動画で「見る」事はできない。優れたプレイヤーなのに大事な一番を逃すのはここが欠けているからである。集中力を保つ事は非常に重要だ。以下によくある陥穽を述べよう:

 

新鮮さを失う

大会は(さっさと負けてスナックバーに引っ込む気でいるのでない限り)特注の体力搾り取り機である。ゲームセンターの中にいて、緊張し、他の皆も緊張している。音楽はうるさく光は眩しい。どいつもこいつも臭い。そこに10〜15時間ぶっ続けで居続けなくてはならない。その間碌な物は食べられないし、飲めるのは砂糖水である。

あらゆるハードコアゲーマーは、非常に長くプレイしているとある時点で燃え尽きの感覚に達する。勉強していて同じ文章を繰り返し繰り返し読んでいるとそれが無意味に思えて来るが、同じ事がストリートファイターでも起きる。精神が半ば昏睡状態に陥り、2秒前と同じ無駄な動き以外は何もできなくなる。顔に「次の波動拳を撃つぞ」と大書きしてあるのである。そしてまんまと超必殺技を食らう。これは中級者にとっても小さな問題ではない。何かの技を外した時(特に波動拳)、その技を出せると「証明」しなければと思ってしまう。一体誰に証明するのかは神のみぞ知る。そしてその機会が巡って来るとすぐに飛びついてしまう。あたかも馬鹿馬鹿しい「名誉」を守っているかの様だ(波動拳を出せる誉れ高きプレイヤー!)。かくして次の波動拳を繰り出し、強パンチなり何なりで手痛い反撃を食らう。いつもなら賢く強いプレイヤーが、すぐに次の波動拳を出そうとするのである。これは非常に興味深い事だ。あたかも彼らは心に描いた試合の脚本から「脱線」してしまい、そこを元に戻そうと試みているかの様である。「本来はここで波動拳を出さねばならない」という具合だ。これを読むだけでどれだけ多くの飛び込み攻撃を成功させたか分からない。もし0.5秒でもこの事を考えていれば、それが最悪のプレイだという事はすぐに気付くはずである。そしてそれこそ、燃え尽きた時にできなくなる事なのだ。

経験の浅いプレイヤーには馬鹿馬鹿しく思えるかも知れないが、大会で勝ち進むには最初の方の勝ちに気を取られない事が優位を生むのである。勝つ事に囚われなければリラックスして新鮮な気持ちでいられる。精神的疲労はしばしば見過ごされるが、それは現実に存在するリスクなのである。その為に多くのプレイヤーは準決勝以上まで勝ち進むと腕が悪くなる。これは大会の試合が意外に生彩を欠いている理由である。選手は10時間以上高ストレスに晒されているのである。

精神的疲労を軽減するテクニックが1つある。機械的に勝つ方法を編み出すのである。そのアルゴリズムを乗り越えられない程度のプレイヤーに対してなら、ほとんど自動操縦の如くにして対戦する事ができる。「教科書通りに」勝つ方法は飛び道具持ちのキャラクターの方がやりやすい(ゆえに強いプレイヤーはこれを選ぶ傾向がある)が、それ以外でもやり方は沢山ある。こうしたシンプルで効果的なテクニックを実行できれば、最初の方で当たる弱い対戦相手はそれを乗り越えるのに全ての時間を費やす(波動拳の弾幕を避けたり、こちらのザンギエフが43回連続で飛ぶのを何とか落とそうと対空手段を探したり)。連中はかなり高い確率で、こちらを攻撃できる位置に来ようとして馬鹿な動きをする。これはきちんと対処できれば非常に好都合である。

ただし注意。実力が伴わない内はこの手を使ってはいけない。これをやるには本気の戦い方と、それより楽なセーブした戦い方の2つを持っていなくてはならない。中にはキャラクターを使い分ける事によってこれを実行するプレイヤーもいる。こうすると「自動操縦」で楽をするだけでなく、本命のキャラクターでの戦い方を隠しておける。そしてこれはなぜ見事な戦いをする必要が無いかという例証でもある。「勝つためにはあらゆる必要な手段を取る」のであれば、まず何が必要なのかを認識せねばならない。馬鹿馬鹿しい単純なパターンで相手を倒せるのなら、わざわざ他の事をする必要は無い。壊れていない物を直す必要は無いのである。更にこれは相手を怒らせるという追加効果もある。ワンパターンの手でやられ続けると怒りで頭の回路がショートする。そしてますますプレイ内容が悪くなり、ますますミスを頻発し、ますます苛立つ。このスパイラルである。

こうすると思考力を節約できるだけでなく、ある種の「トラウマ体験」が起きる確率を減らす事もできる。過去に囚われるのはどの段階のプレイヤーも免れない陥穽である。既に起きた事に躓き、それに精神力を集中してしまい、眼前の試合をおろそかにするのである(なんであんなに馬鹿な事をしたんだ?)。悪い傾向である。ミスをした。これは既に悪い。そしてそれに囚われる事で更に悪くなっている。それは全く助けにならない。自分を叱りつけたからといって誰も褒めてはくれない。例えば、私が春麗でケンかリュウを相手にしているとしよう(厳しい戦いだ)。そしてどうにか相手の波動拳を誘った。スーパーゲージは溜まっている。そして肝心なスーパーコンボを出し損ねるのである。これほど苛立たしい事はそうそう無い。相手が勝利を大皿に乗せて差し出してくれたのに受け取らなかったのである。こうなった場合、たとえまだ接戦だったとしても、私は往々にして勝負を捨てていた。自分に腹が立ち、「波動拳をスーパーコンボで抜ける事すらできないのなら勝つ資格なんて無い」と感じるのである。愚かしい。同じ事がラッキーパンチで勝った場合にも起きる。自分の力で勝ったのでないからと言って(相手が昇龍拳をミスしたお陰で勝てたんだ…)、座したまま負ける事で自分を罰してはいけない。自分にその優位を取る資格が無いと信じるなら、結局次の試合に負ける事でそれを証明してしまう。過去への囚われである。最上の対処は過去を笑い飛ばし、自分の信仰する神に感謝するなり呪詛を吐くなりして次へ進む事である。運、あるいは相手の単純なミスは全ての大会における構成要素である。それが自分に味方したら喜べばいい。

 

未来は今である

過去に囚われるべきではない。では他にはどこに囚われるだろうか? 落とし穴その3、未来の心配である。大会に出ない内はそんな物が存在するとは思いもしないだろうが、いざ参加してみると簡単に捕まってしまう。

未来に囚われないとは、自分が対戦表のどこにいて誰と当たるかを気にしないという事である。ちなみにこれは運営卓の周りが非常に混む原因である。目の前の課題の困難さに心を囚われてはいけない。もしルーク・スカイウォーカーが自分の目の前の事に集中していれば、タトゥイーンを離れたりはしなかったはずである。化け物プレイヤー47号と同じ組に入れられたのは確かに不安だろう。しかしそれへの心配にエネルギーを費やしていたら、試合が始まってもいない内から相手に大きな優位を与えてしまう。多くのプレイヤーが動揺で自滅する。強者たちは相応の理由があってその名を轟かせているのだろうが、別に何らかの魔力を持っていたり、秘密の技でこちらを瞬殺して来るわけではない(本当にそうだとしてもそれを心配すればますます分が悪くなる)。自分が今戦っている試合に集中せよ。それを越えるとしてもせいぜい次の試合の心配までである。大会が初めてなら、あるいは全てのプレイヤーの経歴とプロフィールを知らないという罪を犯したのであれば、ちょっと周りに尋ねてみよう。例えば雑魚212号はずっとケンしか使わないという情報は有益である。それに合わせてキャラクターを選べる。上級アドバイスその2:本命以外のキャラクターも1人は持っておこう。ワンパターンの猿になってはいけない。全てを破壊する巨大な猿でない限りは。こうしないと相手がキャラクター選択を変えて、こちらのキャラクターを「食って」しまうかも知れない。

(訳注:アメリカの格闘ゲーム大会では複数のキャラクターを使う事がたいてい認められている)

だが、キャラクター選びは対戦の有利不利とは関係なく、使いやすさで決めるべきである。私が春麗を選んだのは最強のキャラクターだからではない(首位と接戦ですらない)。自分にとって使いやすいからである。その為に不利な組み合わせが出来るとしても、「自分の」キャラクターを使って最高の操作をしたい。誰かの作った「ダイヤ」に頼って決めるべきではない。www.shoryuken.comの理屈屋が「XはYに有利」だと判断したからと言って、それを覆せない理由は無い(別にダイヤグラムが無益だと主張しているのではない。その逆だ。単にダイヤは両者が潜在能力が出し切った場合を仮定して作られていると指摘しているのである。大会の試合全てがそうであるとは思えない)。また、「自分の」キャラクターを使っていれば、前例のない状況でも金縛りになりにくい。トッププレイヤーはそういう状況を浴びせて来るのである。立ち止まってどんなテクニックを使えば切り抜けられるかを考えてはいられない。対処法は反射的に、自動的にできるレベルで知っていなくてはならない。それ以外はためらいを生む。即ち負けだ。

精神の強さを保つには、新鮮な気持ちで居続けること。今に集中すること。できる事をやり、目の前の試合だけを考えること。そして勝つための意志を保つことだ。

—“s-kill”ことセス・キラン

原文:http://www.sirlin.net/ptw