翻訳記事:水はひび割れを見つける

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GDC#17:水はひび割れを見つける

2011/6/12 Soren Johnson
Game Developer誌2011年3月号に掲載された物の再掲

 

「リスクを最小にせよ、どの選択肢が良いか考えろ。ゲームはそう教える。ゲームとはこういうものだ。言い換えれば、ゲームの終着点は退屈であり楽しみではない。我々は楽しいゲームを作ろうとしているが、それは人間の脳に対する勝ち目の無い戦いだ。楽しみとは過程であり、終着点はルーチンワークだからだ」

– ラフ・コスター著「おもしろい」のゲームデザイン―楽しいゲームを作る理論

多くのプレイヤーはゲームを最適解探しのパズルとして遊ぶ。どうすれば最小のリスクで最大の報酬が得られるのか? どんな戦略が勝利を確実にするのか? プレイヤーはゲームからできるだけ楽しみを絞り出そうとする。

しかしゲームというのは非常に複雑で、リリースしてみるまでプレイヤーがどう攻略するか分からない。何千ものプレイヤーがそれぞれに挑み、攻略情報をオンラインで共有するとなれば。開発者自身、リリースされるまで自分の作ったゲームを理解していなかったりする。

“Civilization”開発チームで使っていた言い回しが「水はひび割れを見つける」というものだ。つまりプレイヤーの利用できるゲームデザイン上の穴があった場合、それが発見されて悪用されるのは絶対に不可避である。最大の危険は、プレイヤーがひとたび利用できる穴を見つけてしまうと、最早それを使わずにプレイする事が不可能になってしまうという事だ。得た知識は忘れたり無視する事はできない。知らなかった方が良いと思っていてもだ。

“Civilization 3″から例を挙げよう。「伐採」、すなわち植林による無限ハンマーだ。森林を伐採すると近くの都市に10ハンマーが入る。ところが森林は必要な技術さえあればまた植えられるのだ。

この2つのルールが組み合わさると、労働者が領内の全てのタイルで延々植林と伐採を繰り返すという図式が生まれる。そうして無限にハンマーが供給される。しかしながら、このプロセスは退屈だし全く頭を使わない。効率プレイの結果楽しみが失われてしまうのである。

 

タンクメイジと無限都市

効率プレイの大きな危険は、単一の最適戦略がそれ以外の戦略を全て無価値にしてしまう事だ。MMOでは「タンクメイジ」という言い方でこの状況を言い表す。UOにおける重装甲・高火力の魔法使いビルドが由来だ。

このビルドは盾(タンク)としても活躍したし、ダメージ要員(メイジ)でもあった。ほとんどのキャラクタービルドはこれに取って代わられてしまった。そしてほぼ全てのMMOが一度はこのタンクメイジ現象を経験している。プレイヤーが全ての状況に対処できる効率的なビルドを追い求めた結果である。

Civにもタンクメイジがある。開拓者スパムによる無限都市(ICS)はシリーズの最初からずっとつきまとっている課題だ。根本的な問題は、規模2の都市が50個あると規模20の都市が5個あるより強力だという事だ。さまざまなボーナスが都市ごとに与えられるからである。例えば、全ての都市は都市タイルからの産出を無償で得ている。つまり規模2の都市は2人の市民で3つのタイルを活用できるが(1人あたり1.5)、規模20の都市は21タイルしか活用できない(1人あたり1.05)。

困った事に、ICSは最高難易度を簡単にクリアできる一方、100個の都市を管理するのは悪夢である。この戦略なりそのマイルド版なりを採用するとゲームそのものを破壊してしまう。しかしそれでもプレイヤーはこの戦略を止める事ができないのだ。

それまでのシリーズで得られた知識を武器に、我々Civ4チームはICSを早い段階で打ち破った。総都市数によってどんどん高くなる都市管理費の導入である。これであまりに早い段階であまりに多くの都市を作る戦略は経済を破綻させるようになり、やっとのことでICSは葬られた。

なぜタンクメイジやICSを葬らねばならないか。単一の最適解が存在すると、それ以外の選択肢が全て不正解になってしまい、ゲームから選択の幅を無くしてしまうからである。ゲームデザインの狙い目は、ある選択肢がある状況では正しく、他の状況では正しくないというバランスである。そしてその中間の状況はグレーゾーンが広がっている。全ての状況で正解になる戦略が生まれると、ゲームはそのダイナミクスを失うのだ。

 

時間の価値

プレイヤーに選択肢が与えられた場合、リスクに応じた報酬が用意されているのが普通である。ノーリスクローリターンのプレイスタイルがあると、プレイヤーがその戦略へと引かれて行くのは不可避である。

言い換えると、プレイヤーは安全の見返りに時間を犠牲にする。そして時間の価値を低く見積もり過ぎた結果、ゲームで遊ぶ楽しみそのものを浸食してしまう。古いゲームから例を挙げよう。”Morrowind”のスキルシステムは同じ行動を繰り返す事で報酬が得られた。何時間も壁に向かって走り続ければ運動スキルが上がり、ひたすら飛び跳ね続ければ軽業スキルが上がった。多くのプレイヤーは僅かな報酬のために何時間も退屈な作業をするという誘惑に逆らえなかった。

似た様な例がCivにもある。食料・ハンマー・ビーカーのあふれ問題である。都市は毎ターン食料・ハンマー・ビーカーを生み出し、ボックスを徐々に埋めて行く。ボックスが一杯になると新しい市民・建物・ユニット・技術などが得られる。

例えば文明が20ビーカーを毎ターン産出し、筆記の技術はコスト100だとしよう。この技術は5ターンで研究が終わる。ところが、もし21ビーカーを産出していたとすると、5ターン後にボックスには105ビーカーが溜まっている事になる。そしてその場合、筆記の研究が終わった所で余りの5ビーカーは捨てられてしまうのだ。次にアルファベットを研究したとすると、ボックスはまた空の状態で始まる。プレイヤーはこれに素早く気付き、技術研究が終わりそうになると科学税率を弄ってビーカーが無駄にならない様に調節した。そうするとそれだけ金銭収入が増えるのである。

同様の仕組みが食料とハンマーにも存在した。結果、プレイヤーは毎ターン全ての都市をチェックしてあふれが無駄にならない様に市民配置を調節する事を求められた。このマイクロマネジメントはなかなか面白いゲーム内ゲームだが、開発者はプレイヤーにこういう事で時間を潰して欲しいと思ったわけではないのだ。我々Civ4チームはあふれを次に持ち越すシステムを導入して問題を解決した。

この戦略を採用したプレイヤーは、このゲームを「マイクロマネジメントのせいで重い」と評する。最早都市から最後の一滴まで絞り出すという誘惑に抗えないからだ。マルチプレイでは状況は更に悪くなる。マイクロマネジメントをしないプレイヤーは成長や建設のレースに負けてどんどん遅れてしまうのだ。

開発者はこういう遊び方をして欲しくはなかった。しかしゲームのルールがそれを奨励しているのである。繰り返すが、開発者自身も自分のゲームをちゃんと理解していなかったりするのだ。プレイヤーが自分の時間の価値を低く見積もるのは困った事態である。最初は小さな報酬が嬉しいが、時間の消費によって単位時間あたりの楽しさが徐々に減少し、最後にはゲームそのものが退屈な挽き臼と化してしまう。

 

良い穴もある?

しかし全ての穴をゲームから取り除こうとするのはやり過ぎである。ゲーム自体の文脈に合わせて適切に判断しよう。その穴は他のプレイスタイル全てを無価値にしてしまうか? それとも単に楽しい、普通と違ったプレイを可能にしているだけか? 稼ぎプレイはゲームを終わりの無い作業に変えているか? それとも少し助けのいるプレイヤーに近道を与えているだけか?

「スーパーマリオブラザーズ」の無限1UPを思い出そう。階段でカメを蹴り続けて延々残機を増やす。これは実際バグではなく、開発者が故意に入れたゲーム要素である。ちょっとしたテクニックと引き換えに、ゲームの進行に必要な残機をお手軽に手に入れる事ができた。ゲームの穴を見つけて利用するのは楽しい経験だ。プレイヤーは他には無い様な、上達の感覚を得られる。その穴がゲーム自体なり対戦相手なりを粉砕してしまわない限りは。

可能であれば、穴を利用するかしないかオプションで選べる様にしておくとよい。プレイヤー自身に委ねるのである。例えばセーブ/ロード機能のあるゲームは良い目を引く為にリロードされる事が非常に多い。箱を破壊するとランダムな戦利品が出て来るRPGの場合、最高の武器なり鎧なりが出るまで何度もリロードする事になる。

Civ3では乱数の種をセーブファイルに保存して、何度リロードしても戦闘の結果が同じになる様にした。悪い戦闘結果が出る度にリロードして時間を無駄にするという事は無くなり、ゲームのテンポが良くなった。

しかしファンコミュニティの反応は我々の期待とは違っていた。リロードを奨励されなくなった事を評価するプレイヤーもいたが、大部分は今まで使えたトリックが封じられた事に腹を立てていた。実際、何度繰り返しても同じ結果になるのを見て、ゲームがインチキをしていると怒るプレイヤーすらいた!

我々はこの仕組みを使うか使わないかゲーム開始時のオプションで選べる様にした。リロードを繰り返して薄い目を取りたいプレイヤーは自由にそうすればいい。しかしデフォルトでは、ゲームはそうした作業を奨励しない。結局の所、プレイヤーがどんな体験をするかプレイヤー自身に選ばせれば間違いは無いのだ。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=369

翻訳記事:筋を通さない

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GDC#16:筋を通さない

2011/2/7 Soren Johnson
Game Developer誌2010年12月号に掲載された物の再掲

素晴らしいゲームも時には設定が意味不明だったりする。例えばなぜ「パズルクエスト」のプレイヤーはトロルやゴブリンやスケルトンと”Bejeweled”の対戦版で戦わなくてはならないのか? 同様になぜ、「レイトン教授」シリーズの世界では物事の成否が謎解きパズルの上手い下手で決まるのか? 理屈などあったものではない。

ゲームのストーリーもこれとどっこいである。「マリオ」の公式ストーリーは不思議の国並に意味不明だ。配管工が煉瓦を殴って魔法のキノコを見つけ出し2倍の大きさになって姫君をさらった邪悪な亀と戦う。「メタルギアソリッド」シリーズの紆余曲折、とりわけリボルバー・オセロットの精神がリキッド・スネークの腕に憑依して云々はもう一切触れぬが吉だ。

しかしながらゲームにはそれ自体の文法があり、それはストーリーが意味を成しているかどうかよりも重要である。いやメカニクスが論理的にすっきりまとまっているかどうかより重要だ。伝統的な面クリア方式、残機制、復活などは開発者のビジョンを支える構造であり、現実世界を反映しているかどうかやテーマに沿っているかどうかは問題ではない。

例えばなぜチームFPSのプレイヤーは殺されても復活するのか? 死んだ者は生き返らないとプレイヤーは期待すべきではないか? 理由はゲームの敷居を低くしたいと開発者が望んだからである。死亡のペナルティを軽くすれば、ゲームは思い切ったプレイがしやすくなる。リスクを取ったり実験をする事を報奨しているのだ。

復活システムを持たないゲームにもちゃんと居場所はある。白眉は”Counter-Strike”だ。しかし開発者はリアルさの追求としてこうしたのではなく、ゲームプレイを違う物にしたかったのである。死んだら復活しないとなれば、プレイヤーは試合中により強い緊張を感じる。そして慎重さと正確さを報奨する。結果、復活のあるゲームとは違う位置を占める事になったわけだ。

 

ゲームに正直であれ

こうしたゲーム上の都合による構造がジャンルそのものに必須であったりもする。いわゆる普通のRTS、農民・本拠地の建物・ラッシュ/タートル/ブームの三すくみなどは実際の戦争をほとんど再現していない。テーマによく含まれるファンタジー要素を別にしてもだ。一体どんな戦争において、双方が兵舎や研究施設を戦場の真っ只中に建設するというのだ? なぜキャンペーンモードではシナリオをクリアするごとに技術の進歩が失われてしまうのだ?

「そのジャンルにはそれが必要だから」という答えに結局は行き着く。戦略ゲームはプレイヤーが難しい決断を迫られる事によって成立する。それぞれの選択肢がトレードオフなのだ。最もリアル志向のRTSでさえ経済インフラやら研究機関やらの道理に合わない要素が登場する。これらは戦略の深みを増すための重要なメカニクスである。

インフラ施設を戦場のどこかに建設するという事は、守るべき地点が生まれるという事なのだ。もしこれが無ければ軍隊は好き勝手に陣地を放棄してうろつき回れる事になってしまう。技術研究は短期利益と長期利益のトレードオフを作り出してプレイヤーに提示する。資源は科学研究に投じて長期的に強いユニットを得るべきなのか?それともユニットに投じて敵を攻撃し、初期のアドバンテージを得るべきか?

これらのトレードオフは非常に根本的な部分で意味を成している。プレイヤーは陣地を守らねばならない事や、適切な状況では長期投資が実る事を理解する。たとえゲームの世界観が支離滅裂でも、ゲームプレイそれ自体はきちんと成立する。労働者が激戦のすぐ向こうでせっせと作物を植えていたとしてもだ。

 

一貫性にこだわるな

実際、あまりにもゲーム世界観の一貫性にこだわるとゲーム自体を台無しにしてしまう。”StarCraft”の開発者はマルチプレイでテランとザーグが組んで他のテランと戦っても問題無いと判断した。一方”Company of Heros”では枢軸対連合の構図しか認められない。これはゲームのテーマからすれば明らかに意味のある決定だが、好きな仮想軍隊を他の仮想軍隊にぶつけてはいけないのだろうか?

「アサシンクリード」はかなり手の込んだやり方でゲーム構造を正当化している。ゲームは12世紀の中東を舞台にしたものとして宣伝されているが、枠組みのストーリーは21世紀が舞台で暗殺者の子孫が主人公だ。そして記憶再構成技術によって先祖の記憶を蘇らせるのである。

これはゲームデザイン上の構造を正当化する試みだ。面が分かれているのは異なる記憶の断片だからであり、キャラクターの死は偽の記憶である。暗殺者の動きがゲームコントローラーに制御されているのは、実際それが記憶の中の操り人形だからだ。

こうした理屈の裏付けは、果たしてゲーム構造を上手く説明する事で間口を広げているのだろうか? それとも無駄な枠組みでストーリー進行を込み入らせ、中世の暗殺者とプレイヤーとの距離を広げているだけだろうか? 少なくとも、一般的なゲーム機所有者はキャラクターをコントローラーで動かせと言われても別に驚かないと思う。

実際、黎明期のアーケードゲームは創造性の泉だった。ゲームは何か意味を成す物とは期待されていなかった。ドットを食べる「パックマン」、立方体を飛び移る「Qバート」、光線の上を走る「テンペスト」。グラフィックがより写実的になり、アーケード筐体はレース、格闘、STGなどにカテゴリ分けされる様になった。高解像度の環境で奇妙なアブストラクトゲームは流行らない。最近になってようやくモバイルやWebゲームで低解像度の環境が戻り、あの頃の熱狂的エネルギーが蘇って来たのだ。

 

自分の道を行け

珍しいゲームデザインの上に貼る紙としてストーリーを拵えるのも時には良い方法だ。「プリンス・オブ・ペルシャ 時間の砂」に登場する時間のダガーは時間を数秒だけ巻き戻す力を持っている。これはクイックセーブの仕組みをゲームの中核に組み込むエレガントな手法だ。「トーチライト」では主人公のペットが戦利品を売りに町まで走ってくれる。ゲームの世界観を損ねずに無駄な手数を省いたわけだ。

開発者は堂々と自分の道を行くべきである。メカニクスが作ろうとしているゲームにおいて意味を成しているならそれで良い。「風来のシレン」はローグライクゲームである。ローグライクの主人公は死んだらそれまでであり、そこまでの進行は失われる。繰り返し遊ぶのが前提であり、プレイヤースキルの向上だけがクリアへの道だ。

ところが「シレン」は非常に珍しい事に、強力な武器・防具を含む戦利品を保管しておける。ゲーム中のあちこちに保管場所があり、それはセッションが終わってもそのままなのだ。もしキャラクターが不運にして死んでしまっても、次のキャラクターの為にアイテムを残す事でクリアへの進行に貢献できる。

不思議なメカニクスである。世界は死によってほぼリセットされるが、一部はそのまま残る。ゲームに限らずこういう構成は珍しい。そしてストーリーは何ら理由を説明しようとしない。というより説明は不要なのだ。このゲームはゲーム自体に対して正直なのだから。開発者は取り返せない死という緊張と共に、RPG的成長要素も少し入れたかったのだろう。

“BioShock”もまた、不合理な要素への説明を放棄したゲームである。海底都市ラプチャーにばら撒かれた音声日記、あれは何なのだ? これらは主要登場人物の吹き込んだ短い話であり、この客観主義ディストピア世界のバックストーリーを説明してくれる。だが、一体どういう人種が、自分の考えをテープに吹き込んだ挙げ句それを分割し、何かのゴミの様に世界にばら撒こうと思うのだろうか?

そしてプレイヤーは散らばった音声日記の破片をほぼ順番通りに発見し、退屈なカットシーン無しに開発者の考えた物語を拝聴できる。滅茶苦茶だ。とは言え、それでも開発者が間違った選択をしたとは言えないだろう。確かにエレガントな方法ではないが、延々何も操作できずに映画を見せられるよりはマシだ。

 

完璧なテーマ

筋を通さない事の大きなメリットは、メカニクスに合わせて適当なテーマを自由に選べる事だ。タワーディフェンス系ゲームは元々”StarCraft”や”WarCraft 3″のユーザー生成シナリオだった。

これらのプラットフォームの限界により、このジャンルには独特な慣習が生まれた。一切動かない防御施設と動ける「クリープ」の戦い。物語によってこれが正当化される事はまれである。なぜ防御側は動いてはならないのか? なぜクリープ共は遅くて馬鹿なのか? 適切なテーマさえあれば説明できるのだろうが。

実はそれをやってのけたゲームがある。まるで虚空から取り出した様なアイディアで、開発者は相当図太いのだろう。どんな生物なら成長し、かつ動けないか? 植物だ! 足を引きずりながら考え無しに列を成して直進して来るものとは何だ? ゾンビだ! となれば自然な答えとして、この両者を戦わせるという流れになる。

「プラント vs. ゾンビ」はタワーディフェンスに乗せる完璧なテーマだ。常識に完全に合致する。何故突然変異植物でゾンビと戦わなくてはならないのかという点に目をつぶりさえすれば。重要な点は、タワーディフェンスというジャンルに馴染みの無い人であっても、何が起きるかタイトルを見ただけで直感的に理解できる事だ。開発者が筋を通すのを諦めなかったお陰である。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=310

翻訳記事:筋を通す

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GDC#15:筋を通す

2011/2/4 Soren Johnson
Game Developer誌2010年11月号に掲載された物の再掲

 

まず次の文章をじっくり読んでみよう。

「手順自体は極めて簡単である。まず対象物をいくつかのグループに分ける。もちろん、扱う量によっては全てをまとめて1つにしても構わない。設備の不足によって他の場所に移動しなくてはならない場合、それが次のステップになる。そうでない場合はこれで準備完了。重要なのは大量にやり過ぎない事だ。一度にやる量が多過ぎるより少な過ぎる方がましである。短期的にはこれは重要に思えないだろうが、物事はすぐに複雑になってしまう。ミスの代償も大きい。最初は手順全体が複雑に思えるだろうが、慣れれば生活の一部と化すだろう」

この文章の意味が分かっただろうか? それとも無意味な文字列にしか見えないだろうか? 恐らく後者だろう。この文章は文脈というものを全く欠いているからだ。ではもう一度同じ文章を読んでみよう。ただし次の言葉を頭に入れておいてくれ:「洗濯」

これでもう読み取れるものは違って来る。そして何か意味を持つ様になる。この文章はただの洗濯の手引きだ。実際この文脈が確立すると、もうこの文章を洗濯物の事を考えずに読む事は不可能であろう。

 

スキーマ理論

この情報はスキーマ理論の例である。スキーマ理論は我々の脳がどの様に世界をカテゴリ分けするかを説明するものだ。短く言うと、スキーマとは知覚の枠組みであり、特定のテーマに基づいて新しい情報を処理・分類するのである。

例えば犬についてのスキーマはその身体(四つ足・体毛・尻尾)、挙動(吠える・涎を垂らす・追いかける)、更には犬種(コリー・スパニエル・プードル)などの情報を含んでいる。また犬のスキーマはその上位スキーマの性質も含んでいる。例えば哺乳類(温血・背骨・出産)やペット(飼いならされている・忠実・トイレのしつけ)など。実際に犬を前にするとこれらのスキーマが様々な情報を与えてくれる。そしてその動物がどう振る舞うか予測できるのである。

しかしスキーマは活性化されなければ働かない。先の文章は「洗い物」という単語で正しいスキーマが呼び起こされるまで意味不明だった。スキーマが無ければ文章は何にもならない。物事を効果的に人に伝えようとする作家にとっては重要な知見である。

 

ゲームとスキーマ

ゲームデザイナーも効果的に人に伝えるべき物を持っている。プレイヤーが学ぶルールとメカニクスである。この教育プロセスはゲーム開発における最大の試練のひとつである。多くのゲームが面白いシステムを持ちながら、プレイヤーに遊び方を伝えるのに失敗して消えて行った。問題解決の為には様々な道具がある。適切なペースでのチュートリアル、ポップアップヘルプ、使いやすいUI。だが最も簡単な道は、プレイヤーが既に持っているスキーマを活用し、ゲームの骨格であるメカニクスと合致させることだ。

例えば、ボードゲームの「アグリコラ」はプレイヤーが持っている農業のスキーマを利用して複雑な経済メカニクスを理解させている。耕すのと種を撒くのと刈り取るのとパンを焼くのと、どれが先でどれが後かプレイヤーはちゃんと知っている。こうして資源・土地・施設・行動の複雑な相互作用を簡単に学べるものにしている。かくして、ゲームのテーマに課せられた重要な使命が明らかになる。即ちプレイヤーにメカニクスを理解させ、覚えやすくする事だ。そしてそれは何故テーマとメカニクスが合致すべきかという理由のひとつでもある。

スキーマの力を示す別の例を挙げよう。ボードゲームの「コロレット」と「ズーロレット」である。どちらも骨組みのメカニクスは同じで、カードを集めるが種類が多過ぎるとペナルティを受ける。例えばコロレットではプレイヤーは7色のカードを集めるが、最も多い3色だけが得点になり、4色目以降はマイナスになる。

ズーロレットもメカニクス自体は同じだが、こちらは色を集めるのでなく動物を集め、種類ごとに檻に入れる。この違いによってゲームに強力なテーマが加わった。プレイヤーの動物園に関するスキーマを活用し、得点システムを上手く正当化しているのだ。コロレットでは「3色を超えた分はマイナスになる」とそのまま覚えなくてはならない。一方ズーロレットは盤を見れば、各プレイヤーに3つの檻しか無い事がすぐ分かる。それ以上の動物は檻が足りずに展示できないのだ。違う種類の動物は別の檻に入れるというプレイヤーの知識を利用して、ゲームを学びやすくしているわけである。

もっと突っ込んだ話もすると、テーマによってスキーマを活性化させやすかったり難しかったりする。とりわけ、歴史ものと現代ものはSFやファンタジーよりも多くのスキーマに共鳴する。”Age of Empire”の騎士と射手が何をするかはすぐ察しがつくが、”StarCraft”のミュータリスクとダークテンプラーはそうは行かない。実際、ファンタジーゲームのほとんどは確立されたテンプレートをなぞっている(エルフ、ゴブリン、ドワーフ)。プレイヤーにはそれが馴染みある世界である。ここからはみ出た作品、例えばコーハン〜不滅の王国〜はペルシア神話を基盤にしたファンタジーであるが、そういった物は往々にして失敗する。プレイヤーが既に持っているトールキン世界の知識を利用できないからだ。

 

リアルさ vs. ゲーム性

スキーマをゲームシステムを覗く窓として活用すると、リアルさについての問題が出て来る。何故ならその場合、ルールがプレイヤーの期待に沿っていないといけないからである。もし野球のゲームで4アウトまであったら、そもそも野球のスキーマを使った事自体が無駄、それどころか邪魔になってしまう。プレイヤーは本当の野球のルールと始終混同してしまうだろう。

ゆえにリアルさは重要である。そして開発者の大事な道具である。しかし「リアルさ」という言葉はかなり悪い意味で取られてしまっているのが現状だ。例えばゲーム上の些細な歴史的事実の誤りを指摘するユーザーは重箱小僧呼ばわりされる。実際、シド・マイヤーの「楽しさとリアルさが衝突する場合、楽しさが優先だ」という言葉は有名である。

しかしそれが間違いになる場合もしばしばある。ゲームを覚えやすくするリアルさはゲームをより面白くするのであって、面白さを損なうわけではない。問題は開発者がプレイヤーにありとあらゆる知識を求めた場合である。プレイヤーはゲームを始める前から十分な知識を持っていると仮定すると、それだけ間口を狭めてしまう。二次大戦のゲームでドイツのパンツァー戦車に史実通りの性能が付与されていたとしよう。そこまでは良い。しかしプレイヤーが皆パンツァーの性能を熟知していると過程し、ゲーム内でその情報をきちんと与えなかったとすると問題である。

更に、広まっている逸話は史実よりも重要である。重要なのはプレイヤーのスキーマがゲームを始める前にどう組まれているかだ。史実についての何らかの誤解が広まっているとしたら、それを直そうとするより与してしまった方がいい(ゲームが教育目的でない限りは)。

例えばシド・マイヤーの”Pirates!”は真面目な歴史資料に基づいているわけではなく、ハリウッドの海賊映画をゲームにしたものである。その結果全ての海賊には生き別れの妹がいてスペイン人に捕まっており、全ての酒場にはそれぞれ謎めいた旅人がいて宝の地図の切れ端を持っている。同様にウィル・ライトの「シムピープル」も実際の生活ではなく、定番のホームドラマをゲームにしたものである。

 

ジャンルによるスキーマ

スキーマは何もゲーム外に限らない。古参ゲーマーはゲームはどういうものかというスキーマを持っており、開発者がそれに沿っている事を期待する。とりわけ、それぞれのジャンルのゲームが「どうあるべき」かというスキーマだ。FPSなり2Dアクションなり格闘なりローグライクなりについてそれぞれスキーマがある。

知らない犬に出会った人が犬についてのスキーマから知識を引っ張り出す様に、知らないRTSを買ってみる人はそれぞれに持っているRTSについてのスキーマから中身を予測する。プレイヤーは神の視点を持ち、複数のユニットを動かし、農民ベースの経済を回し、軍事と技術の為に建物を揃え、ブーム/タートル/ラッシュの三すくみがある、などなど。

テンプレート通りの要素を余りに多く無視すると、知る人ぞ知る作品になるのがせいぜいで(“Majesty”、”Sacrifice”、”Dragonshard”)、商業的に成功するのはほぼ不可能だ。60ドルのゲームを買うとなれば消費者も慎重になる。買う前に中身が分かっている方が安心だ。そのジャンルのスキーマにぴったり合う方がいい。こういう具合で、ジャンルのスキーマはゲーム産業における新しい試みをかなり阻んでいる。

こうしたジャンルの制限を乗り越える最良の方法は、もっと別の強力なスキーマを与える事だろう。例えば「ニンテンドッグス」は既存の売れ筋ゲームジャンルに合致しないが、犬の世話をするというテーマ自体が消費者のスキーマを呼び起こし、何ができるか想像させる。結果このゲームは大ヒットした。プレイヤーは犬がどういうものか知っている。それを利用して売り込んだわけだ。

 

筋を通す

ゲーマーの中には未知の領域へ飛び込む事を恐れないという人種もある。掟破りのゲーム「ドワーフフォートレス」や「ドミニオン」である。しかし大部分のプレイヤーはどんなゲームか理解しなければコントローラーに触りもしない。スキーマによる取っ掛かりは必要なのだ。ゲームのテーマにせよ、ジャンルの常識にせよ。

後者はコアゲーマーに売れるだろう。しかしながら、ゲームの客層を広げる事ができるのは前者である。Wiiは当代においてそれを証明した。コントローラーの使いやすさに加え、ヒットタイトルの多くは分かりやすいテーマで消費者の持つスキーマと期待に訴えかけた。”Wii Fit”、「マリオ&ソニック」のオリンピックシリーズ、「ジャストダンス」、更には賛否の分かれる”Carnival Games”さえも。宇宙海兵隊や邪悪な魔法使いのゲームではこうは行かない。

そしてよく響くテーマを見つけ出したとしても、まだ道のりの半分でしかない。ゲームのメカニクスがテーマにぴったり合っていなくてはならないのだ。旧来の「リアルさよりゲーム性」という見解は今や開発者のドグマと化し、楽しさの追求と称してテーマとメカニクスを簡単に遊離させてしまう様になった。新しいゲームを始めるのは信じて飛び込む過程である。ゲームがきちんと筋を通していると期待するのはプレイヤーの正当な権利だ。

(洗濯スキーマはHow to Play Podcastより)

原文:http://www.designer-notes.com/?p=302

翻訳記事:愛憎の曲がり角

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GDC#14:愛憎の曲がり角

2010/11/4 Soren Johnson
Game Developer誌2010年9月号に掲載された物の再掲

 

2009年3月11日、戦略ゲームに関するポッドキャスト”Three Moves Ahead”にて、フリージャーナリストのトム・チック氏がこんな理論を発表した。今日それは「チック曲線」として知られている:

「私にとって”Empire: Total War”は愛憎の曲線であった。最初私はこれが気に入らなかった。つまり曲線の最下部である。どうして気に入らなかったかと言うと、マニュアルがあまりに酷かったからだ。ゲームを覚えたければ出来合いのキャンペーンをやるしか無かった。ポップアップヘルプも滅茶苦茶だった。私はこれが大嫌いだった。

しかしこれをプレイし、覚えるにつれ、私は徐々にこれが気に入り始めた。つまり曲線を登って行ったのである。頂点に達した時私はこう思った。ヘイ、どういうゲームか分かったぞ、こいつはいい! しかしその後が問題だ。私はAIが極めて貧弱である事に気付いてしまった。やはりこれは駄目なゲームだと思った。そして曲線を下って行った。もう”Empire: Total War”に興味は無くしてしまった。

私がゲームをやると大体この曲線が現れる。ゲームシステムを全て覚えると、AIの良し悪しに関わらずその時点で興味を失ってしまう。そこで挑戦は終わってしまうのだ。覚えてしまったゲームは私にとっては終わったゲームと化す。そしてもう嫌になる。だが本当は、システムを覚えた所でようやく始まるべきなのだ」

ゲーマーなら誰しも同じ様な経験をした事があるだろう。面白いゲームシステムを学ぶ楽しみと、その後の下降線だ。

時には、単純なテクニックや裏技でゲーム全てのバランスが台無しになる事もある。だが多くの場合、元凶はゲームメカニクスを上手く扱えない貧弱なAIだ。ゲームデザイナーは色々な要素を詰め込むが、AIプログラマーがそれを実現できるとは限らないのである。前者の描いたゲームシステムが、現代のAIの手に余るという事もあるわけだ。

 

対称性の問題

全てのゲームにチック曲線が当てはまる訳ではない。そもそも「非対称」のゲームも多いのだ。「マリオ」、”Grand Theft Auto”、”World of Warcraft”、”Half-Life”などにおいて、AIは単なる障害物であり簡単に調整できる。問題はAIが人間と同じゲームをしなくてはならない場合である。

そうした「対称」なゲーム、つまり”StarCraft”、「ストリートファイター」、「パズルクエスト」、”Halo”などは独自の課題を抱えている。良いゲームメカニクスを作るだけでは不十分で、それがAIにちゃんと扱えなくてはならないのだ。そして困った事に、AIという条件を付けると多くの良いアイディアが没になってしまう。

AIが扱い切れない要素は色々ある。信じるか裏切るかの選択、長期投資、多正面戦争。さらに人間には見え透いた罠にもすぐ引っかかる。とりわけ裏切りの要素に関しては、シングルプレイ用「ディプロマシー」を作ろうという数々の試みでその難しさが示されている。誰が敵で、誰が味方で、誰が一応味方なのか。それを正しく読み取る能力がどうしても要る。

従って、対称ゲームを作る場合メカニクスの導入を慎重に考えなくてはならない。でないとチック曲線が生じてしまう。プレイを面白くするがAIに過負荷をかけるメカニクスは、ゲームを短期的には面白くするが、プレイヤーがその使い方を覚えてAIを出し抜ける様になってしまうと長期的な面白さを損なう事になる。

無論、対称ゲームは基本的に対戦用である。”Battlefield”シリーズや格闘ゲームがそうだ。これらはシングルプレイの寿命を縮めてでも、マルチプレイの深みを増す方向で作る事ができる。上級者はAIでなくマルチで遊ぶのであれば、核兵器をゲームに入れてもそれほど問題にはならない。

人間の頭脳は極めて柔軟で、新奇なメカニクスを簡単に習得できる。お陰で開発者は随分楽ができるのだ。”Team Fortress 2″の大規模バランス調整で全てのキャラクターが大幅に更新され、Demomanが剣と盾を使える様になったりしたが、人間はAIと違ってその扱い方が分からずおろおろしたりはしなかった。

 

AIのためのデザイン

しかし、対称かつシングルプレイ用のゲームは人間の都合だけでなくAIの都合も考えてデザインしなくてはならない。辛いだろうが、奇抜で創造性に富んだアイディアも、時にはAIの為に没にしなくてはならない。ゲーム開発はトレードオフの連続だ。AIを強くしておくのはチック曲線の下り坂を無くす為に重要な事だ。

そこで考えられるのが、最初のデザインの段階で問題の芽を摘んでおく方法だ。”Empire: Total War”の中で最も酷かったのが上陸攻撃のシステムである。AIは陸海軍を共同させて海を越えた相手を侵略する事がほとんどできなかった。賢いプレイヤーならすぐに気付いた筈だ。AIは海を越えて攻撃できない。ならば戦略バランスは簡単に手玉に取られてしまう。例えばイギリス軍は大した脅威ではないのではないか?

この問題は珍しい物ではない。輸送ユニットが登場するゲームはほぼ常にAIがそこで躓く。陸軍と輸送艦を同時に同じ場所に集結させ、更に護衛の艦隊も付けるとなればなかなか難しい仕事である。

Big Huge Gamesの歴史RTS、”Rise of Nations”はこれに対し大雑把ながら有効な解決策を呈示した。陸軍は岸に差し掛かると船に変身して水上を渡るのである。そして目的地に着いたら元の陸軍に戻る。輸送艦は作る必要も管理する必要も無くなった。

開発者のブライアン・レイノルズは、この単純な一撃で昔から続くAIの問題を取り除いた。水マップは上級者にとっても面白い物となった。このデザインは輸送艦を作る必要を無くした事で「リアルさ」を犠牲にしたとも言えるが、ゲームの製品寿命を大きく延ばす事に成功している。

また、AIの補強とゲームの改善を同時にできる様なシステムも数多く存在する。輸送艦を作る必要がなくなったのはプレイヤーにとっても悪くない。Civ3とCiv4ではユニット維持費を文明単位に変え、生産あふれが持ち越される様にした。どちらもAIの資源管理を助けると同時に、多くのプレイヤーからマイクロマネジメントの負担を取り除いている。

 

難しい決断

開発者にとって最大の決断は、明らかに面白かったりゲームのテーマから言って必須な要素を単純化したり削ぎ落とさねばならない場合である。時には、いくつかの要素を人間プレイヤー専用にする事で問題から逃げる事もできる。Civ1の核兵器は人間専用でAIは使えなかった。シドはその理由をこう説明する。この超兵器は長いゲームの終盤になって登場する。プレイヤーはそれまでやって来たゲームを核で台無しにしようとは思っていない。ただ最後に狂った宴を楽しみたいだけなのだ。

付け加えると、AIが使えない要素を入れた分AIチートを導入してバランスを取るというのは良い解決策ではない。あまりに多くの人間専用要素を入れると、もはや対称ゲームでなく非対称ゲームになってしまう。そうすると戦略バランス自体がまた変わる。

“Empire: Total War”の例で行くと、AIが上陸攻撃を上手く扱えない事が分かった途端ゲーム自体が別物になってしまう。もはやプレイヤーは沿岸領土を守る必要など無いではないか。地続きの同盟国は島国よりも重要ではなかろうか。AIをハメて成功の見込みの無い侵略に資源を浪費させる事も可能ではないか。最も重要な事は、プレイヤーが女王陛下ではなく、AIの穴を突こうとするゲーマーになってしまう事だ。これこそチック曲線の下り坂である。

究極的には、開発者は難しい決断をしなくてはならない。素晴らしいメカニクスを諦めるか、製品寿命を犠牲にするか。製品寿命を延ばす方法はゲームバランス以外にも色々ある。色々なシナリオを作るとか、コンテンツ生成システムとか、Modを強力にサポートするとか、追加コンテンツを開発するとか。

しかし、繰り返し遊べるゲームを作るには、やはり戦略自体の深みと強いAIが必要だ。数度の楽しみの為に製品寿命を犠牲にすれば、結局はデザインの根本を切り崩す事になってしまう。チック氏の言う様に、「プレイヤーがゲームを覚えた時こそ始まり」であるべきだ。ゲームを覚える過程は確かに楽しいが、試験が存在しないのに試験勉強をするというのは気が進まないだろう。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=287

翻訳記事:ソーシャルゲーム革命

これは翻訳記事です

GDC#13:ソーシャルゲーム革命

2010/9/14 Soren Johnson
Game Developer誌2010年6/7月号に掲載された物の再掲

 

最近の記憶を辿ると、今年のGDCの話題は最新ゲーム機でもなく、また次世代機でもなかった。業界の目を釘付けにしているのは、近年におけるフェイスブックゲームの爆発的流行である。実際、ソーシャルネットワークの寵児であるZyngaの”FarmVille”は、8200万人の月間アクティブユーザーを抱えている。そしてそれは僅か9ヶ月の内に達成されたのだ。

“FarmVille”の規模は並外れている。3月に頭打ちになるまで、このゲームのユーザー数はWoWの総ユーザーと同じ数だけ「毎月」増え続けていた。間違いなく”FarmVille”はオンラインゲームの中で初めて、世界人口の1%が遊んでいる作品となった。

ゲーム開発者の多くはこうしたソーシャルゲームの勃興に複雑な思いを抱いている。ユーザー数の多さは世界的なゲーム人口の広がりを示しているが、これらゲームの多くは単純で、面白い意思決定よりも時間の投資に重きを置いている。また悪名高い手法もいくつか存在する。個人情報に基づく広告によるマネタイズや、ウォールへのスパム、ゲーム内ピラミッド構造によるユーザーの増殖などだ。

それでもフェイスブックゲームはこの業界におけるブレイクスルーの象徴だ。ソーシャルネットワークは巨大な市場へのアクセスを可能にし、プレイヤーと開発者の両方に様々なメリットをもたらす。

  • 本物の社交:ゲームは今や実際の友達との間で遊ばれる。マルチプレイヤーゲームにつきものの問題、友達がいなければ楽しくなく、始めた時は友達がいないという現象はもう起こらない。
  • 継続非同期プレイ:友達と一緒に遊ぶ時間を見つけるのはなかなか難しい。とりわけ社会人ゲーマーにとってはそうだ。非同期プレイがこれを解決する。今やプレイヤーは自分のペースで、よく知っている友達と一緒に遊べる。たまたま同時にオンラインになった見知らぬ人と付き合わなくてもいい。
  • 基本プレイ無料:新規プレイヤーが輪に加わるのに60ドルも払う必要は無くなった。消費者は他の友達も同じゲームを買うのでない限り、なかなかマルチプレイヤーゲームを買おうとはしないものだ。基本プレイ無料システムはこの摩擦を解消した。
  • 統計に基づくデザイン:ゲームは開発者の情熱によって無から作り出される。そして店売りのゲームであれば、ただ1回しか発売の時が無い。その1回で成功しなくてはならないのだ。信頼できるデータとフィードバックにより素早く、反復的に開発を進められるというのは魅力的だ。

フェイスブックゲームが持つこれら4つのメリットを存分に活用できれば、一頭地を抜く助けとなろう。そこで筆者はZyngaのシニアデザイナーであるポール・ステファノクと、製品管理ディレクターであるスーチー・チェンに取材を試み、この新しい領域での経験を語ってもらう事にした。

 

ソーシャル第一、ゲーム第二

Zyngaのチーフデザイナー、ブライアン・レイノルズはよくこう指摘する。成功するソーシャルゲームはソーシャルである事が第一、ゲームである事は第二だと。しかしだからと言って、ゲームとして面白くならないわけではない。チェンは次の様に説明する:

「コーンを植えるか葡萄を植えるか、鶏を買うか果樹を買うか、こうした決断が面白くなる状況も存在する。他のプレイヤーに贈り物をして交流できるようにしておくのは良い考えだ。そして贈り物自体が有限だったりコストがかかれば、それが面白い意思決定として持ち上がって来る。技量を磨いて課題に挑戦する場はちゃんとある。しかしソーシャルゲームにおける技量と課題は、明確な懲罰や競争を伴っていなくてもいい。ここが従来のゲームとは違う。”FarmVille”において美しい農園を作るのは技量の要る事だ。そして隣の農園よりも美しくとなれば、やりがいのある課題である」

実際の友達と一緒の環境でゲームをするとなれば、色々な感情が持ち上がって来る。自尊心、責務、感謝、欲望、そして恥。”FarmVille”では作物を収穫せずに放っておくと枯れてしまう。これはプレイヤーに恥の感情を起こさせ、ソーシャルな圧力によって農園へと向かわせる仕組みだ。もし農園が枯れたイチゴで一杯だったら、それを見た友達は何と思うだろう?

作物が枯れるメカニクスを真似しているゲームは多いが、そのソーシャルな働きをきちんと理解していない場合がある。例えば協力型ソーシャルゲーム”Ponzi”では、何か仕事をこなした時の報酬は時間内に受け取らないとゼロになってしまう。このメカニクスはプレイヤーにちょくちょく戻って来る様に促すが、報酬を取り損ねても他のプレイヤーにはそれが見えないため、ソーシャルな圧力が欠落している。ここが”FarmVille”と違う所だ。

 

非同期という発明

ソーシャル要素以外にも、フェイスブックゲームは様々な興味深いデザインの宝庫だ。とりわけ、非同期プレイは非常に未開拓なデザイン領域と言える。例を挙げると、フェイスブックゲームには2種類の代表的なメカニクスがある。エネルギー方式と収穫方式だ。エネルギー方式の下では、アクションの1つ1つがエネルギーを消費する。そして回復は実時間に基づいている。プレイヤーはある時点でエネルギーの回復を待たなくてはならなくなる。一方収穫方式では行動を起こすのはいつでも自由だが、その結果を得るまでしばらく待たなくてはならない。”FarmVille”でイチゴを植えたら、4時間後に戻って来て収穫するのである。ステファノクはそれぞれのメリットとデメリットをこう説明する:

「先に進みたがるプレイヤーにとって、エネルギー方式は自然なアプローチだ。”Mafia Wars”は最適な例である。一方、収穫方式、つまり「後で戻って来る」システムはよりソフトである。こちらは”FarmVille”などのゲームに適している。競争の要素は少なく、社交や自分の庭いじりに集中するゲームだからだ。要するにゲーム次第という事である。どちらも成功しうるし、両方を組み合わせる事すら可能である。”FarmVille”のトラクターの燃料はエネルギー方式だ」

エネルギー方式にはアイテム課金と結びつけやすいという利点もある。例えばエネルギーパックを買えばエネルギーを即座に回復してゲームを継続できるとか。これに対し収穫方式は、プレイヤーが自分の生活リズムに合わせてプレイ時間を決める事ができる。そのままオンラインでいるつもりなら15分で収穫する作物を植えてすぐに戻ってくればいい。食事や睡眠で離れるなら2時間や8時間の作物が最適だ。

 

一般向けの題材

ソーシャルゲームとハードコアゲームの大きな違いの一つはテーマである。店売りのゲームではファンタジー、SF、レース、WWII、ゾンビといったニッチな題材がしばしば扱われるのに対し、ソーシャルゲームはもっと一般的な題材を取る。フェイスブックの上位10ゲームは農園、レストラン、ペット、水槽などだ。こうした違いはなぜ生まれるのか? それはゲーム機やハイエンドPCを持たない一般人に向けているからだ。そしてニッチな題材でコアなファンを捕まえるという事も無い。

様々な意味で、フェイスブックゲームはこの業界初の「ゲーム版TV」である。サイト内でゲームからゲームへ安全に切り替える事ができ、様式に統一性があり、敷居は低く、友達と一緒に遊べる。そしてプレイヤーが自分の達成を告知したり招待状を送り合えるという点で、これは既にTVを超えている。一人一人が社会的影響力を持てるのだ。

一般向けになる事で変化するのは流通方式やテーマだけではない。基礎となるメカニクスも変化する。ステファノクは”Rise of Nations”などのRTSからソーシャルゲームへ移行する際に、様々な事を脇に置いておく必要があったと言う。

「重大な点の一つは、ゼロサムな競争についての意識を改める事だった。RTSから来た人間にとって、ゲームの競技としての側面は大きなものだった。プレイヤー達が建設や探索をしたがっている事には気付いていたものの、それが競争に勝つというゴールに支えられていなくてはならぬと思いこんでいたのだ。だが違った。従来型ゲームの競争的側面は多くの人にとってデメリットだった。競争が悪いとか、ソーシャルゲームで競争に支えられた仕組みを実現できないと言っている訳ではない。そうではなくて、世の中には沢山の、思っていたより遥かに沢山の、競争を望まないプレイヤーがいるのだ」

ゼロサムな競争はハードコアゲームの開発者が当然の前提と思っている要素である。だが協力型ゲームもここ数年人気を増しており、”Left4Dead”やWoWの自動グループ機能からもそれが分かる。競争型プレイは通常、一方の側が勝利しもう一方が粉砕される。だがソーシャルゲームは、破壊的でなくとも競争的になれるのだ。その答えは並列競争にある。誰が先に自分の経営するレストランを大きく発展させるか、といった競争である。

 

デザイナーとは誰の事か?

ソーシャルゲームが従来のゲームと大きく異なる最後の要素は、統計を用いたプレイ分析と絶え間ない改良である。毎週、時には毎日の。新しいデザインを対照実験できる様になったのは開発における大きな進歩だ。チェンは例を挙げる:

「私がSerious Business(ソーシャルゲーム会社。後にZyngaが買収)を経営していた時、フェイスブックはアプリケーションによる「お知らせ」を許可した。そこで我々は長いお知らせと短いお知らせ、どちらが有効か調べてみた。私は大した差は無いだろうと思っていた。短い方は簡潔だが、長い方は物理的に大きいので気付かれやすいのではないか。様々なコピーを用意して、30日間の対照実験を行った。そして結果は、短ければ短い程有効というものだった。コピーの短さとクリック率には奇麗な比例関係が成り立っていた。その差は最大300%にも達した。数行のコピーを書くだけでこれほどの差が付くとは」

今やリアルタイムでフィードバックが得られ、開発上の決定を下せる環境にある。そうなると、デザイナーの役割は一体どうなるのだろう?デザイナーは今なおゲームの「作者」なのか、それとも違う役割になるのか。コミュニティとゲーム会社の間で流れ込んで来るデータを眺めて暮らすのか。実際、レイノルズはZyngaにおける「チーフデザイナー」はそこまで重要な存在ではないと認める。ステファノクは自身の仕事における統計の役割に付いて次の様に語る:

「統計こそ望む全てだ。少なくとも、デザイナーが部屋に座ってプレイヤーはどのボタンを押すだろうと悩んでいる姿を見る度に、こういう物があればと願って来た。手を伸ばせば答えがあるとしたら、どうしてデザイナーはそこに座っていなくてはならないのだ? プレイヤーがどう遊ぶかを知る事はゲームデザインの創造性を止めはしない。住人がどう暮らすかを知る事が建築の創造性を止めないのと同じだ。これは新しい道だ。知識は制約を知る助けとなる。そして制約は良いデザインの材料だ。私はゲームの作者なのかって? それはまあ、フィクションかノンフィクションかによりますな?」

このモデルではデザイナー=作者という概念は通用しないかも知れない。しかし傑作を作る方法は、依然として「手を汚して」プレイヤーと真剣に向き合い、どのアイディアが上手く働き、どのアイディアが駄目かを見つけ出す事である。ソーシャルゲームの開発はこのルールを新たな地平へ延長したものに過ぎない。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=254

翻訳記事:テーマはゲーム性にあらず(その2)

これは翻訳記事です

GDC#12:テーマはゲーム性にあらず(その2)

2010/6/16 Soren Johnson
Game Developer誌2010年3月号に掲載された物の再掲

 

その1で解説した様に、ゲームの意味を決めるのはメカニクスであってテーマではない。とりわけ二つが対立している場合はそうだ。そういう不調和はプレイヤーを戸惑わせ、場合によっては騙されたと感じさせる。故に開発者はこの二つの調和に向けて努力しなくてはならない。少なくとも、メカニクスとテーマが喧嘩する事が無い様にしよう。

喧嘩している場合、開発者の届けたいテーマをメカニクスが台無しにしてしまう。例えば”Bioshock”はプレイヤーに倫理上の選択を提示する。リトルシスターを搾取するか、それとも救済して魂を解き放つか。搾取すれば2倍のアダム(遺伝子改造に使う通貨)が得られるので、倫理にもとる道への誘惑が存在するわけだ。

ところが、ゲーム中にはリトルシスターを救済したプレイヤーへの報酬も用意されている。それゆえこの選択は最終的に大した違いをもたらさない。ゲームの物語はプレイヤーの選択が重要だと告げている。自分の利益を犠牲にしてリトルシスターを救済しているのだと。しかしメカニクスはそれと違う事を告げているのだ。言うまでもなく、テーマとメカニクスが喧嘩した場合どちらが重要か、プレイヤーはよく分かっている。どちらがそのゲームをそのゲームたらしめているのかを。

同様に、昔ながらのRPGの多くはプレイヤーを不思議な存在にしている。物語の冒頭で壮大な目標(邪悪な魔法使いを倒す!)を与え、プレイヤーを救世主と定義している。しかし実際のゲームプレイは、町の外をうろうろして遭遇した生物を惨殺し、略奪に励むというものだ。物語においてプレイヤーはヒーローと定義されているが、ゲームが報奨する振る舞いはそれと異なっている。リチャード・ギャリオットは”Ultima IV”でこの問題に正面からぶつかって行った。ゴツい悪党を倒す事でなく、八つの徳を磨く事をゲームの主軸に据えたのだ。

 

幸せな結婚

時に、開発者はテーマとメカニクスの完璧な融合を見つけ出す。例えば古典的探索ゲーム、ダン・バンテンの”Seven Cities of Gold”だ。バンテンはオザークでハイキングをしている途中に、未知の土地で方角を見失わない様にするゲームを思いついたという。それをアイディアの種に、次は完璧に合致するテーマを見つけた。コロンブス、コルテス、ピサロといった征服者の時代。彼らはいつも半分迷子だった。こうしたバックグラウンドを材料に制作が始まった。

いくつかのジャンルはテーマとゲームプレイを非常に良く合致させている。Wiiのゲーム(Wii Sports)、音楽ゲーム(Rock Band)、経営ゲーム(レイルロードタイクーン)、スポーツゲーム(Madden)、フライトシム(Wings)、レースゲーム(グランツーリスモ)などだ。これらは現実世界の活動を基にしたゲームであり、メカニクスがテーマから遊離しにくくなっている。もっともらしさを保つ為に四苦八苦しなくて良い訳だ。

実際の所、「マリオカート」は「グランツーリスモ」よりレースらしいレースゲームだと言い張る事もできる。甲羅が飛び交い順位が次々に入れ替わる様は、リアル志向レースゲームのもったりした順位変動よりプレイヤーの理想に近いかも知れないのだ。言い換えると、ゲルニカについてより良く表しているのはどちらだろうか?都市の焼け跡の写真か、ピカソの絵画か?

また、採用されているテーマがメカニクスの実験を上手く正当化してくれる場合も良作が生まれうる。”Left 4 Dead”は本当はゾンビのゲームというより、チームワークのゲームなのだ。開発者は個々のゾンビタイプをチームワークを奨励する方向で調整した。ハンターは一人でふらふらしている奴を狩り、タンクは集中砲火でなければ倒せず、ウィッチは緊密な連絡を必要とする、など。ゾンビというテーマはチームワークを奨励するメカニクスを正当化する背景幕に過ぎない。

 

Civilizationは失敗例?

“Civilization”シリーズはテーマをメカニクスに一致させようとする試みと、それに伴う教訓の宝庫である。このゲームは一応世界の歴史を扱った物という事になっているが、化けの皮が剥がれるのにそう時間はかからない。

まず、文明はゲームを通じて休み無く発展し続ける。暗黒時代に逆戻りしたり、内戦で分裂したりは決してしない。ユーザーコミュニティはこれを「不滅の中華症候群」と呼んだ。プレイヤーが遭遇しうる後退は、外部からの侵略によるものだけである。

大体、ゲームには「革命を始める」ボタンが付いているのだ。プレイヤーはいつでも、好きな時だけ政体を変えられる。ルイ十六世が見たらさぞ羨ましがるだろう。それにまた、全ての行動はトップダウンで決定される。プレイヤーは王であると同時に将軍であり、大実業家であり、神なのだ。

どうして実際の歴史と食い違ってしまうのか。問題の源泉はプレイヤーの介入である。面白いゲームであるためには、プレイヤーは状況をコントロールしていなくてはならない。更にプレイヤーの決定には公平で明白な結果が返って来なくてはならない。そうしてこそ情報に基づいて決断を下し、計画を練り、失敗から学ぶ事ができるのだ。実際の歴史は言うまでもなくもっと混沌としており、難解であらぬ方向に動いて行ってしまう。

正直に言おう。このゲームのメカニクスは世界の歴史というより、それを駒にして動かす神々の遊びに近い。指導者達は全く年を取らない。そして彼ら不死者はプレイヤーを打ち倒せる唯一の存在である。導かれる人民の意志はゲームの展開に影響を与えない。

とは言え、プレイヤーによる介入は良い物である。そうでなければゲームはこんなに楽しくない。ゲームメカニクスに組み入れるには範囲が広すぎたり、漠然としていたり、不安定な要素だってある。それにまた、テーマはテーマで置いておいて、ゲーム自体はそれとは関係ない欲望を満たす幻想空間という場合もある。

“Civilization”の場合、欲望とは歴史をコントロールする事である。それは歴史を学ぶ題材にはならないかも知れないが、だからと言って無価値ではない。他の芸術分野で世界の歴史というテーマに体当たりした物は非常に少ないし、存在しても往々にして危険なイデオロギーの産物だったりする。例えば「國民の創生」だ。

本物の歴史についてちゃんと教えてくれるゲームを作りたいなら、特定の時代や出来事に焦点を絞るべきだ。例えばバンテンの”Seven Cities of Gold”やシドの「レイルロードタイクーン」。プレイヤーを生身の人間として定義して、その肉体の制約内で課題をこなす様にする。

 

テーマは重要

テーマとメカニクスは別物だが、一般人はそうは思っていない。折角良いゲームを作っても、テーマが普通の人にとってぞっとする物だったら不当に汚名を被せられてしまう。例えば、”Grand Theft Auto”は犯罪と都市の混沌をテーマにしているが、ゲームそのものは自由とその結果を扱っているのだ。プレイヤーは法を犯すごとに悪名が高まり、最終的に警察が大量の火力を送って来てゲームオーバーに至る。

にも関わらず、普通の人からすればGTAはただの通り魔とひき逃げのゲームである。一般人は何かそれ以外の要素を「扱っている」とは想像できない。だがプレイヤーはちゃんと分かっている。ゲームが提供する物がただの犯罪でない事を。自由な箱庭の中で動き回る。決断が世界に影響し、結果が返って来る。これこそ目玉なのだ。

“Crackdown”は対照的な事例である。自由な箱庭という部分はGTAと同じだが、テーマは犯罪と戦うスーパーコップという物になっている。こちらの方が世間には受けが良い。GTAはヒット作になったが、あれは必ずしも犯罪をテーマにしなくても成立した。社会的責任を考える開発者はその事を覚えておこう。

一般大衆に受ける。優れた作品を創造する。両方を達成しようとして開発者達はもがいている。そしてテーマとメカニクスが食い違っていると、両方とも達成が難しくなるのだ。ゲームデザインの文化に疎い普通の人は、パッケージの絵を見てゲームの中身を想像する。中身と外身が違っているとパッケージ詐欺になってしまう。それでは新規プレイヤーは離れて行ってしまう。

芸術の世界では抽象物が重要な地位を占めている。歌詞は楽曲に意味を付け足すが、楽器だけの演奏も広く好まれている。同様に、ゲームはテーマが無くても成立し得る。テトリスはその代表例だ。

更に、適当に貼り付けただけのテーマも、余計な期待をさせなければそれなりに機能する。”San Juan”と”Race for the Galaxy”はどちらもカードゲーム版「プエルトリコ」だ。一方はカリブを舞台とし、もう一方は外宇宙を舞台とする。しかしそれは大した問題ではない。ゲームは別に現実を奇麗に再現しようとしているのではない。テーマは調味料として入っているだけだ。

それでも、偉大な芸術作品はその意味する所とテーマとがあまりにも食い違っていてはいけない。ゲームの世界はそういう例が溢れている。シェイクスピアの「オセロ」は嫉妬に狂った緑眼の怪物についての物語であり、16世紀のムーア人兵士の人生についてではない。そして後者は前者を妨げない様になっている。”Bioshock”はどうだろう? “Spore”は? “Civilization”は? これらのゲームはそれぞれテーマを持っているが、メカニクスはそれと合致しているだろうか?偉大であるためには、ゲームプレイはテーマが約束する物を届けなくてはならない。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=240

翻訳記事:難しいゲーム

これは翻訳記事です

GDC#10:難しいゲーム

2010/4/1 Soren Johnson
Game Developer誌2009年12月号に掲載された物の再掲

 

外科手術ゲーム「超執刀カドゥケウス」はニンテンドーDSがいかにゲームを変え得るかを示してくれた。タッチペンがメスになり、プレイヤーは医者となってゲームに没頭する。ただ残念なのは、実際の手術の難しさまで再現してしまった事だ。時間制限もあり難しい面は本当に難しい。

ミスをするとやり直しになり先へ進めない。これが致命的な問題である。というのも、このゲームには難易度設定が無いからだ。どれくらい難しいゲームをしたいか、プレイヤーが決める事はできないのだ。ゲーマー人口が子供から大人まで大きく広がっている今日、このデザインはゲームのターゲット層を大きく絞り込んでしまったと言えよう。

ゲームである以上、それなりに難しくなくてはならない。とりわけアーケードの時代には、難易度が急上昇する必要があった。だが今は違う。今は顧客を増やすため一人一人に合わせて難易度を調整する時代である。

 

難易度自動調整システム

例えば”Call of Duty 4″は、訓練ステージでプレイヤーの技量を計測して適正な難易度に調整する。”Left 4 Dead”は難易度自動調整システムを搭載し、プレイヤーの状況と技量によって敵の出現や回復アイテムのドロップを調整する。

しかし、難易度調整システムというのはいささか変な感覚を引き起こす。AIチートと同様、見えざる手が難易度を勝手に弄っているとプレイヤーが感じたら夢から覚めてしまうのだ。ハードルを飛び越えようとしているのに、ハードルそのものが伸び縮みしてしまう様なものである。プレイヤーのレベルに合わせて武器やスキルを向上させる”Oblivion”の敵はうんざりする。

調整の仕組みがバレてしまえば、今度はそれに合わせた不条理戦略が次々に出て来る。例えば敵が強くならない様に一切レベルを上げないとか。もっと深刻なのは、この仕組みがRPGの根源的な楽しみを破壊してしまう事だ。つまり成長である。キャラクターを目一杯育てて、かつては敵わなかったモンスターを一掃するのが楽しいのではないか。

 

難易度選択制

そもそも、RPGの中核システムは戦いに勝つ度に少しずつ強くなるという事である。楽勝だと思えばさっさと進めば良いし、きつければレベル上げをしてから行けば良い。プレイヤーが自分で難易度を調整できるのである。重要なのはデザイナーでなくプレイヤーに決定権がある事だ。

ゲーム開始時に難易度を選ぶという単純な仕組みは黎明期からあったが、ゲームの最中に難易度を変える仕組みは最近やっと出て来たものだ。「NINJA GAIDEN Black」では、3回死ぬごとに「忍犬モード」を選択できる様になる。敵が弱くなる代わり、主人公は罰ゲームとしてピンクのリボンを付けなくてはならない。この仕組み(罰ゲーム部分以外)は”God of War”など多くのゲームに影響を与えた。

もっと言えば、難易度選択そのものをゲームシステムとして取り込む事すら可能である。ブラウザTD系ゲーム”Desktop Tower Defense”には難易度の概念が無く、代わりに敵を早く呼び寄せる事ができる様になっている。そして最終スコアは敵の撃破数だけでなくかかった時間も考慮される。よって加速無しの戦いは初心者用、上級者は加速でハイスコアを目指す。

 

難しさの質を変える

“Thief”では難易度を変えても守衛の数は変わらないし、気付かれ易さが変わるわけでもない。そうでなく課題そのものを変えるのである。例えばイージーでは規定数の宝石と宝物を盗みさえすればクリアだが、ハードでは守衛を1人も殺さずにそれを達成しなくてはならない。

つまり難易度が変わると課題の質が変わるのである。ハードコアゲーマーに長く遊んで貰う良い方法と言えよう。”Civilization 4″のOCCや永久戦争モード、”Diablo 2″のハードコアモード(死ぬと復活しない)なども同様の例だ。それからXbox Liveの実績。これも普通のゲームに上級者向けの目標を付け加えてハードコアゲーマーをつなぎ止めている。

難易度以外でゲームの課題を変更する方法はまだある。例えばRTSは大抵難易度と速度の調整が別々にできる。強いAIを相手にゆっくりしたゲームテンポで戦う事もできるわけだ。また昔のゲームは複雑さの設定というものもあった。”M.U.L.E.”や”Lords of Conquest”などは、資源の種類が減るなどルールを単純化したバージョンも遊べた。初心者はこのモードで手加減無しのAIと戦ったのである。

 

鬼ゲーと糞ゲー

しかしながら、上級者向け課題が退屈さとセットでやって来る例もある。例えば自由にセーブができないゲームは、寄り道して追加の課題をやろうという気になりにくい。課題をクリアするには何度も試行錯誤せねばならず、その度にスタート地点からやり直しでは堪らない。肝心の挑戦にたどり着くまでに簡単で長いステージを越えなくてはならないのだ。その間にスキップできないカットシーンが入っていたりすると最悪である。

この問題をすっきり解決したのが「プリンス・オブ・ペルシャ 時間の砂」の時間巻き戻しシステムである。ミスをしても規定回数まで時間を戻してやり直せるのだ。ミスの度にステージをやり直す必要を無くしつつ、巻き戻し回数に制限を設ける事で緊張感を上手く保っている。

つまらない部分を削減する方向はMMOの世界にも見られる。”World of Warcraft”はデスペナルティを大幅に軽くした事で有名だ。それ以前のMMO、”Everquest”や「ウルティマオンライン」は死んだら死体を回収に行かなければならなかった。そうしなければ経験値をロストしてしまう。一方WoWでは好きな事ができる。デスペナルティを恐れて弱いモンスターだけを専門に狩るのでなく、強敵に挑みたければ挑めるのだ。最悪死んでしまっても町に戻されるだけで済む。

結局、ミスを余りに重く罰するとゲーム性そのものが歪みかねない。安全な道を選べと強制するに等しいからだ。”Warcraft 3″の人気Mod、”Defense of the Ancient”ではユニットが殺されるごとに敵チームに金銭が入る。このため初心者お断りの空気ができてしまった。DotAコミュニティの雰囲気と環境はインターネットの基準に照らしても相当酷い。

 

ペナルティよりも…

戦略パズルゲーム「パズルクエスト」はペナルティの軽さという点でWoWに似ている。いや寛容の極地と言えよう。ミスをしてもいかなるペナルティも無く、それどころか戦いに負けるとボーナスが貰えたりする。無論勝利に比べれば量は少ないが。また、この仕組みは面白い副次効果ももたらしている。セーブという概念を明示する必要が無いのだ。どう転ぼうとペナルティを受ける事は一切無いためロードしてやり直す必要が無く、戦闘や行動の度に自動セーブする仕組みが問題無く働くのだ。

全てのゲームがここまで寛容ではない。”Bioshock”は似た様な復活システムを備えていて、死亡するとゲーム内に点在する蘇生カプセルで復活できる。そして敵の体力は回復しないので、何度も蘇生する事が前提ならレンチ一本でどんな敵にもいつかは勝てる。この仕組みはおかしいと感じたプレイヤーが多かったらしく、後のパッチで無効にもできる様になった。

しかしここでの問題はシステムの欠陥ではなく、”Bioshock”のプレイヤー層に合わなかったというだけの事である。”Lego Star Wars”は全く同じシステムを使っているが、こちらは父親と息子が一緒に楽しむ様なゲームなので完璧にマッチしている。”Bioshock”のプレイヤーはもっとハードコアなゲームを求めたのだ。

もしかすると、最上の策はこうかも知れない。プレイヤーはどんどん先に進める。ただしその技量は何らかの基準に照らして評価される。「押忍!闘え!応援団」は曲を演奏し終える度にS・A・B・C・Dで出来が評価される。演奏を終えさえすれば次の曲に進めるが、良い評価が出るまで繰り返す事もできる。もし「カドゥケウス」が同じ様なシステムを採用していたら、単なる奇作以上の物になっていただろう。ゲームを開発するに当たって、これと同じ失敗を繰り返してはならない。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=179

翻訳記事:ランダム性

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GDC#9:ランダム性

2010/3/3 Soren Johnson
Game Developer誌2009年10月号に掲載された物の再掲:

 

ランダム性はゲーム制作における強力な武器だ。プレイヤーの行動の結果や場の環境の決定にランダム要素を入れる事ができる。だがその一方、ランダム性がゲームを壊してしまう事もある。これがゲームに何をもたらすのか、どういう時に逆効果になるのか以下に見て行こう。

 

確率の誤謬

ランダム性を導入する際に問題となるのは、人間は確率の見積もりが酷く下手であるという事だ。「ギャンブラーの誤謬」は良い例である。ルーレットで5回続けて黒が出ると、参加者は往々にして次も黒が出る確率は小さいと考えてしまう。こうした連続に何の意味も無い事は明白だというのに。それとは逆に、人間は何も無い所に連続性を見てしまう事もある。バスケットボールに「ホットハンド」という言葉がある。一度シュートを決めた選手はその後のシュート成功率が高まるという考えだが、研究によればこれは全くの迷信である。

またスロットマシンとMMOの制作者なら良く知っている事だが、確率と報酬の分布を非線形にする事でゲームを実際以上に気前良く見せる事ができる。あるスロットの倍率と当たり確率が2008年にwizardofodds.comで公開されていた。

1/8の確率で1倍
1/600の確率で2倍
1/33の確率で5倍
1/2320の確率で20倍
1/219の確率で80倍
1/6241の確率で150倍

80倍の当たりはプレイヤーに良い目を掴んでやろうと思わせる程度には出易く、カジノの収益を脅かさない程度に出難い。さらに言えば、人間は極端な確率を正しく判断できない。1%の確率は度々発生する物と期待され、99%の確率は100%と同程度に安全であると誤解される。

 

下地作り

だが確率の見積もりが難しいという事実はゲーム制作者にとって都合が良い。「カタン」の様なダイスによる単純な資源産出システムも、確率の要素のお陰で奥深い物になっている。

さらにランダム性は上級者と初心者の技量の差をある程度埋めてくれる(と皆思う)。運の要素が強いゲームでは初心者も勝つチャンスを信じる事ができる。大抵の人はチェスのグランドマスターに挑もうとはしないが、バックギャモンの名人になら挑んでも良いと考えるかも知れない。上手く良い目を出せば誰にでも勝つチャンスがあるのだ。

ゲームデザイナー、ダニ・バンテンの言葉を借りればこうだ。「多くのプレイヤーはランダムイベントに自分の戦略が邪魔される事を嫌うが、それでも計画崩しはゲームを活性化させる為に必要なのだ。この問題に関してプレイヤーの言いなりになってはいけない。不運は、プレイヤーが負けた時に言い訳を提供する(糞イベントの所為で負けた!勝ってたのに)。勝った時には不運を跳ね返したという満足感を与える」

そうだ。運の要素はある種の潤滑油、あるいはゲームにおけるアルコールとして働く。1対1の真剣勝負に向かない人々を引きつけるには運の要素が必要だ。

 

確率がゲームを壊す場合

ただし気をつけて欲しい。ランダム性はあらゆるゲームのあらゆる状況に適するわけではない。「意地悪な驚き」は駄目だ。例えば木箱を開けると弾薬などのアイテムが手に入るが、1%の確率で爆発するという例を考えよう。この場合プレイヤーは爆発の可能性を安全な方法で知る事ができない。爆発がゲーム初期に起きた場合、プレイヤーはもう木箱を開けなくなってしまう。逆にずっと無事なままゲーム終盤になり、そこで突然爆発したら、プレイヤーは聞いていないよと思うだろう。

またランダム性がただのノイズになってしまう場合も問題だ。それはただ単にプレイヤーのゲームに対する理解を妨げる。もし”StarCraft”のマリーンが銃を撃つ度に死亡判定ロールがあったとしたら、時間当たり攻撃力がでこぼこになる以外何の効果も無い。長い目で見れば運の要素は平均化され、ゲームの結果に与える影響は小さい。だが確率のノイズの所為でプレイヤーがマリーンの攻撃力を理解するには困難が伴う事だろう。

さらにランダム性がゲームの進行を無駄に遅らせる場合もある。ボードゲーム”History of the World”と”Small World”は殆ど同様の戦争システムを擁しているが、前者はダイスを使い後者は使わない。このため前者は1ターンの進行に後者の3~4倍の時間がかかる。大量のダイスを振る時間もさる事ながら、後者は行動の結果が知れているため、あらかじめ全ての戦略を決めておけるという点において差がついている。予想外の行動結果に対処するというのはゲームデザインの中核要素だが、同時にゲーム自体の進行速度も重要な要素である。制作者はどちらを重視するか慎重に決めなくてはならない。

最後に、勝利判定に運の要素を持ち込んではならない。不運が不公正と見なされないのは、ゲーム終了までに間があって対処する時間が与えられている場合である。運の要素が働くのがゲームの序盤であればあるほど、ゲームバランスが良く感じられる。ピノクル、ブリッジ、ハーツといった多くの古典カードゲームは、最初の手札配り = 環境生成だけがランダムで、その後の勝者と敗者を決める過程にはランダム性が無い。

 

ゲーム内容としてのランダム性

実の所、乗り越えるべき課題をランダムに生成するという方式は多くの古典ゲームで採用されている。単純な物では「マインスイーパー」、複雑な物では”NetHack”や”Age of Empires”。本質的な意味において、「ソリティア」と”Diablo”はそれほど変わらない。どちらもランダムに生成された環境をプレイヤーが知恵によって探索するゲームだ。

最近では「スペランキー」という面白い例がある。同人ゲーム作家のデレック・ユーが制作した、ローグ的なランダム生成ダンジョンとロードランナー的な2Dアクションを組み合わせたゲームだ。無限に生成される洞窟の探索はかなりの中毒性だが、時にはモンスターや地形の組み合わせによって難易度が極端になりストレスを生む事もある。

然り。未調整のランダム性は野獣の如く、ゲームバランスを破壊する要素にもなり得る。例として”Civilization 3″を挙げよう。チャリオットには馬、戦車には石油という具合に特定のユニットの作成に特定の資源が必要だった。これらの資源はマップ上にランダムにまき散らされるのだが、大陸内の一カ所に鉄が集中し、AI文明の1つがそれを独占するという事態が頻発した。掲示板は資源不足でユニットが作れないという悲鳴で一杯だった。

“Civilization 4″ではこの問題に解決策を与えた。重要な資源を分散させたのだ。例えば7マス以内に2つの鉄が存在する事はできない。予測不可能な資源分布という点はそのままに、資源の一極集中という悪夢を取り除いた。同時に香料・宝石・香辛料などあまり重要ではない資源はあえて集中させ、資源交易を促進した。

 

手の内を明かす

確率について考える場合、ゲーム制作者は最後にこの問いに行き着く。「運の要素はいかにゲームを良く/悪くするか?」ランダム性はプレイヤーに心地よい驚きをもたらし、ゲームを片手間に解けない物にしているか?それとも展開を無駄に予測不能にし、プレイヤーの意思決定を無価値にしているか?

ランダム性を良い物にする方法の一つは、何が起きているかを公開してしまう事だ。”Armageddon Empires”という戦略ゲームの戦闘は単純なダイスロールにより処理され、しかもダイス自体がゲーム画面に表示される。ゲーム内計算処理をプレイヤーに見せる事はゲームシステムへの満足度を高める方向に働く。そうする事で確率は謎ではなくプレイヤーにとっての武器になる。

同じ様な考えで、”Civilization 4″には戦闘勝率を表示するオプションを搭載した。これは戦闘メカニズムに対するプレイヤーの満足度を大いに高めた。人間はとにかく確率の見積もりが下手であるから、それに関して意思決定を助ける仕組みがあればゲームの楽しさはかなり向上するのだ。

「マジック:ザ・ギャザリング」「ドミニオン」などのデッキ作成系カードゲームは確率の概念を前面に出している。デッキに何枚カードを入れるかはそれを引く確率に直結するのだ。勝利を収めるにはレアカードと普通カードの最適な比率を見つけなくてはならない。この考え方はさらに応用され、「ダイスデッキ」からカードを引いてダイスロールの代わりにするシステムもある。これなら悪い目を引く確率は同じだ。

面白いがあまり利用されていない方式の一つに、「ランダム性」をゲームオプションに含めるという物がある。”Lords of Conquest”というターン制戦略ゲームではこれが採用されていた。選択肢は低・中・高の3つ。この選択によって、ランダム性を膠着を破る程度の小さい物にも、戦闘の帰趨を決する大きい物にもできた。ゲームにどの程度のランダム性が存在するべきかは、究極的には各々の好みの問題である。それゆえこの点をプレイヤーの自由にする事はより多くの人々をゲームに引きつけるのだ。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=171

翻訳記事:リアルタイムVSターン制

これは翻訳記事です

GDC#8:リアルタイムVSターン制

2010/2/1 Soren Johnson
Game Developer誌2009年8月号に掲載された物の再掲

 

ゲームの企画を立てる際の重要な問題に、ターン制かリアルタイムかという選択がある。どちらの仕組みも一長一短だ。ターン制は戦略性と透明性に優れるが、アクション性のあるゲームに慣れたプレイヤーには少々まどろっこしい。リアルタイムゲームは没入性が高くマルチプレイにも向くが、スピード調整を間違うと初心者が付いて行けない。

言うまでもなく、ターン制ゲームはボードゲームの直系子孫である。ビデオゲームより歴史は古い。実際、ターン制ゲームを好む層とボードゲームやカードゲームを好む層はかなり一致している。リアルタイムゲームの方は、スポーツを除けばコンピュータ出現以降の文化である。リアルタイム制でしか実現できなかったであろうゲームも多い。「スーパーマリオブラザーズ」、”Team Fortress”、”FIFA”、「パックマン」などだ。

しかしターン制とリアルタイム、どちらでも実装できるゲームもある。そしてそれぞれに長所と短所がある。ローグライクのダンジョン探索ゲームはターン制とリアルタイムの両方が登場している。”NetHack”など初期の作品は純粋なターン制だ。プレイヤーが何か行動しない限りゲーム内の時間は進行しない。一方、Blizzardの”Diablo”は同様の探索&アイテム集めゲームをリアルタイム環境で実装し、戦略性は下がったものの人間の本能に訴える中毒性の高い作品に仕上げた。またターン制には付き物の待ち時間無しでマルチプレイができる様になっている。

とは言え、”Diablo”の登場でターン制ローグライクが廃れたわけではない。「ポケモン不思議のダンジョン」や「風来のシレン」はまた違った良さがある。つまり、ターン制とリアルタイム制の選択はどちらが優れているかという問題ではなく、どちらが作りたいゲームに適しているかの問題である。

 

どれだけの要素を詰め込むか?

ゲームを手っ取り早く理解する方法の一つは、マスターするのにどれだけのシステムや要素を覚えなくてはならないかを見る事である。例えばFPSは10個程度の武器が登場する。RTSは各陣営15種類程度のユニットがある。RPGは20個かそこらの呪文が使える。要素や選択肢の多さだけでも初心者は怯えてしまう事がある。リアルタイム制で時間制限が付けば尚の事だ。

初代”Civilization”のプロトタイプはリアルタイム制だった。元々「シムシティ」を世界スケールにしようというコンセプトで作った物である。しかしすぐに、あまりに多くのゲームシステムが一気に押し寄せて対処不能になる事に気がついた。「シムシティ」には外交も、貿易も、戦闘も、研究も、厄介な蛮族も存在しなかったのである。結局ターン制に路線変更してプロトタイプを作り直す運びとなった。「あと1ターンだけ」はこうして生まれた。

ゲームを開発するに当たっては、どれだけの「要素」を詰め込むかに注意せねばならない。さもないと訳が分からなくなってしまう。ターン制ゲームには時間制限が無いので、プレイヤーは自分の好きなペースでゲームをマスターできる。上級者は素早くプレイしても良いし、初心者はゆっくり考えてインターフェースを確認しながら進めても良い。

よってターン制ゲームは基本的にリアルタイムゲームより取っ付きやすい。だからカジュアルゲームの多くはターン制だ。「ソリティア」や「マインスイーパ」しかり、PopCapの”Bejeweled”、”Bookworm”、”Peggle”しかり。

 

秩序か混沌か?

ゲームの核となる部分において、ターン制とリアルタイム制は異なる強みを持っている。例えば、ゲームを秩序だったものにするか、混沌とさせるかという問題だ。前者の場合、行動の結果がどうなるかを予め十分に検討する事で成果が得られる。パズルクエストで骸骨を4つ並べたら上のジェムが落ちて来て連鎖する、といった具合だ。次に何が降って来るかなど多少のランダム要素もあるが、基本的には次に何が起きるかを頭に入れてプレイしなくてはならない。秩序立ったゲーム性はターン制の強みである。

一方、リアルタイムは展開が予測不能なゲーム性をもたらす。”Team Fortress 2″でチームがメディックばかりだったらピンチである。しかしその後の展開がどうなるかは様々だ。状況をゆっくり検討している時間が無いからである。その間にスナイパーに狙撃されるかも知れない。爆弾で吹っ飛ばされるかも知れない。スパイが裏から回り込んで来るかも知れない。またマップの反対側での情勢によって、ある地点を放棄する事が最善になるかも知れない。リアルタイムゲームは予測不可能なゲーム展開に向いている。時間が等しく流れる中では、状況を定石化して決まった手を打つ事などできはしない。

 

マルチプレイかシングルプレイか?

マルチとシングルのどちらに力を入れるかもターン制とリアルタイム制の選択に関わる問題だ。基本的に、マルチプレイはリアルタイムと相性が良く、ターン制はシングルプレイ重視になりやすい。”Advance Wars”や”Civilization”といったターン制ゲームのマルチプレイを本気でやり込んでいる人はごく少数である。一方、”Command & Conquer”や”Age of Empires”など似た様なテーマのリアルタイムゲームはマルチプレイが中心だ。

理由は単純だ。順番待ちは楽しくないからである。それゆえ同期マルチプレイに焦点を当てたゲームを作る場合はほぼリアルタイム制を選択する事になる。一方、シングルプレイが中心のゲームなら順番待ちの問題は無いので、ターン制要素を入れても全く問題無い。オマケ的要素であれ戦略性を高める為であれ。例えば、シングルプレイ用ゲーム”Fallout 3″はリアルタイムの戦闘中にポーズをかけてV.A.T.S.モードに入れる。これで敵の体のどの部位を狙うか検討したり、選択肢それぞれの成功率を表示する事すらできる。同様に、”Baldur’s Gate”シリーズもターン制とリアルタイムのハイブリッドだ。戦闘は基本的にリアルタイムだが、ダメージを受けたり新しい敵が出現したりすると一時停止する。

 

型を破る

しかしゲーム界全体を見渡せば、「純粋な」ターン制とリアルタイム制の中間がいくらでもある。例えば”Madden”の時間制限付きターンはどうだろうか? “X-Com”は戦略部分がリアルタイムで戦術部分がターン制だがこれはどうなる? “Total War”はその逆だが果たして? “Europa Universalis”は形式的にはリアルタイムだが、ペースが遅いのでターン制の様に感じられる。また非同期のWebゲーム、「トラビアン」などはどうか? 勝負は分単位でなく月単位に及び、時間制限に追い立てられる事が無いままマルチプレイにおけるリアルタイムの良さを取り入れている。”Bang! Howdy”はよくあるマス目型SLGだが、ユニットのターンはリアルタイムで回って来る。つまり現実にはターン制とリアルタイム制の極があり、その中間を無数のゲームが埋め尽くしているのだ。

問題はどちらの形式を備えているかでなく、どういうゲーム性を備えているかである。例えばTD系のゲーム「プラント vs. ゾンビ」は形式上リアルタイムだが、ゲーム制は伝統的なターン制ゲームに近い。シングルプレイ用である事に加え、ゲーム自体が非常に秩序立っている。マップは5つの段から成りそれぞれ横幅9マス。段の上をゾンビが歩いて来るのでマスに植物を置いて迎撃する。更に、ゾンビの挙動は完全に決まっている。棒高跳びゾンビは常に障害物を跳び越える。たとえその先に人食い植物が口を開けていてもだ。傍から見ていると混沌としたゲームだが、実際は多くのTD系と同様、予見可能な敵の動きに基づいて戦略を立てる。リアルタイム要素は単に時間制限を付けているだけで、リアルタイムゲームによくあるマルチプレイの予見不可能性などを加えているわけではない。

同じ様に「ブームブロックス」もターン制ゲームながらそれらしくないゲーム性を持つ。決まった回数の投擲で重ねたブロックを崩すのだが、物理演算システムによって結果は予測が難しくなっている。また5×9マスの「プラント vs. ゾンビ」と違い、「ブームブロックス」はWiiリモコンのアナログな操作で画面に向かってボールを投げる。カオス理論の示す通り、完全に同じ投擲が2度続く事はまずあり得ない。この予見不可能性と、投擲1回というターンの短さのお陰で「ブームブロックス」は素晴らしいマルチプレイヤーゲームになっている。ターン制ゲームにはなかなか無い事だ。

つまるところ、ゲームの形式をターン制にするかリアルタイムにするかの問題は、どちらのゲーム性が全体のデザインに相応しいかの問題ほど重要ではない。型を知って型を破るの謂である。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=151

翻訳記事:AIチートについて

これは翻訳記事です

GDC#7:AIチートについて

2009/9/1 Soren Johnson
Game Developer誌2009年5月号に掲載された物の再掲

 

「パズルクエスト」の開発者はある疑惑に晒されている。ゲームに汚いチートを仕込んでいるのではないかと思われているのだ。ゲームの核となるのは”Bejeweled”の対戦バージョンで、AIと「3つ並べて消す」勝負をする。

問題は降って来る宝石がどうやって生成されるかだ。例えば、緑の宝石が3つ一列に並ぶとそれは消え、上に乗っていた宝石が落ちて来る。しかし、宝石は時々3つ同色の組み合わせで降って来る。置いた瞬間に消える事が確定しているわけで、当然得点になる。そういう組み合わせが降って来る確率は低い(2%前後)が、ゲームを繰り返していれば何度も目にする事になる。

言うまでもなくAIにも同じルールが適用される。そのためAIの方に同色宝石が降って来るのを度々目にする事になる。そうすると人間の心理は疑いを差し挟む。降って来る宝石の生成過程は隠されているので、プレイヤーはAIがイカサマをしているのではないかという疑いを持つ。

人間の精神は確率の理解が恐ろしく下手である。そのため多くのプレイヤーがAIはイカサマをしていると信じるに至った。開発元は何度も何度もチートはしていないと誓言したがどうしようもない。チートの可能性が存在するだけでゲームの楽しさは減ってしまう。

 

俺を信じろ

最初の時点では誰も信じてくれない。プレイヤーからの信頼は時間をかけて構築するしか無い。開発者がいくらでも好きなイカサマを仕込める事に顧客はきちんと気付いている。プレイヤーに楽しんでもらう為には、手の内を明かし、ルールの一貫性を保たねばならない。最悪なのは、ゲーム自体がルールを曲げてプレイヤーを不公平に扱っているのではないかと疑われる事である。

AIと人間が対等の環境で戦うゲームでは、問題はかなり奥が深い。そうでない非対称のゲームなら、チートは単に悪いデザインである。仮に”Half-Life”の敵がマップ上をテレポートしたり、”Thief”の守衛が隠れている主人公を即座に見つけたりしたらどうなるか。

一方対称ゲームの場合、AIはチートが無いと人間に敵わないという場合が出て来る。そこで開発者は、どういうチートが公平でどういうチートが不公平か理解せねばならない。「パズルクエスト」の経験からも分かる様に、プレイヤーに疑いを持たれる事は全力で避けねばならないのだ。

チートと難易度は別物である。難易度というのはプレイヤーがもっとやり甲斐のある課題をくれと頼む手段である。チートはゲームがプレイヤーを「公正に」扱っているかどうかの問題だ。良いプレイをきちんと報奨し、難易度調整の為に恣意的に不利益を与えていないか。だが困った事に、実務レベルでは難易度とチートの境はいささか不明瞭だ。

 

手の内を明かす

レースゲームにはグレーな仕組みがよくある。レースを接戦にするため、車両同士をゴムで繋いだ様にするのだ。つまり、AIがプレイヤーに大きく遅れを取るとスピードが上がる。大きく先行するとスピードが下がる。そうしてぶっちぎりの展開を防止する。

だが困った事に、このやり方はプレイヤーにバレバレである。勝ってもあまり嬉しくないし、負けると納得が行かない。皮肉な事に、こういう仕組みを止めてもっと明瞭なデザインにした方がユーザーは喜ぶ。

例えば「マリオカート」。コース上のハテナボックスを取った時のアイテムは順位によって変動する。先頭走者は自分より前の車を撃つ為の甲羅しか貰えず、後ろの方の走者はキラーを取って一気に中盤へ躍り出る事ができる。

こういった自己調整型バランスはボードゲーム界では一般的だ。「カタン」の泥棒はトップの土地を塞ぐ。そしてそれがチートだとは誰も思わない。仕組みがきちんと説明されているからだ。説明されていれば、ボーナスはAIにも人間にも平等だと分かる。直感と実際が一致するのだ。透明性は不信と疑惑への解毒剤なり。

 

Civilizationにおけるチート

時にはAIに秘密のボーナスを与えて難易度を調整する必要も出て来る。”Civilization”シリーズはこの件に関して色々と失敗をやらかしており、不公平感でプレイヤーを発狂させてしまった。

リアルタイム制ゲームなら人間の反応速度に限界があるのだが、ターン制ゲームはそうはいかない。仕方ないので”Civilization”シリーズは難易度によってAIの生産・研究コストが下がる様にしている(難易度が低いと逆にペナルティがある)。難易度ごとに徐々にボーナスが増える仕組みなのでそれほどプレイヤーの怒りは買わない。ターン単位で見ればそれほど大きな違いを出すわけではないし、システムの詳細を詮索するプレイヤーは何故それが必要なのかも理解してくれる。

一方、それ以外のボーナスはかなり不評だった。初代”Civilization”では視界外にAIのユニットが沸く。これではAIと人間が違うルールでプレイしている事になる。更に、AIは時々遺産(訳注:当時は不思議という名称)を一瞬で完成させ、プレイヤーの費やしたターンをふいにした。毎ターン少しずつのボーナスのお陰でAIが遺産競争に勝つのはまだしも、一瞬で建ててしまうのはいかがなものか。

チートが受け入れられるかどうかは、何らかの公平性の規準ではなくプレイヤーの人間心理で決まる。心理は矛盾だらけで非合理な物だ。少々のAIボーナスは受け入れられる一方、AIが本気の戦略を取るとプレイヤーを発狂させる。たとえ人間プレイヤーなら同じ事をすると分かっていてもだ。

例えばCiv1では、プレイヤーが1900年までにトップになるとAIがこぞって宣戦布告する。これが不公平感を出していた。AI共がグルになって人間を袋叩きにしていると思われたのだ。そういうプレイヤー自身、マルチで誰かがトップになったらノータイムで袋叩きにするはずである。しかしそんな事は関係無いのだ。

ユーザーの声に応え、Civ3ではAIが外交の際に相手が人間かAIかを考慮しない様にした。だがそれでも不公平感は払拭されなかった。Civ3は自由な取引が可能になっていて、技術とか地図とか資源を売却できる。抜け目の無いプレイヤーなら弱小国に技術を安売りする事もあるだろう。

そこでAIにも同じ事をさせた。後進国には今あるだけの現金で技術を売ってしまう様にした。結果大不評である。AI同士で技術同盟を組んでいると思われてしまったのだ。AIはかなり気前良く技術を渡してしまうので、AI文明が悉く同じ技術を持っているという事態になった。人間プレイヤーは環から閉め出された格好だ。

 

空即是色

プレイヤーがどう感じるかこそゲームの現実である。AIが実際に公平にプレイしているかどうかではなく、プレイヤーがそう感じるかどうかが問題だ。プレイヤーが不公平感を覚える様なら改善しなくてはならない。そこでCiv4ではAIの技術交換を制限し、同じ様な状況に陥らない様にした。

コンピュータの中はプレイヤーから見えないブラックボックスである。故に発生原因の分からないイベントは問題を起こしやすい。例えばスポーツゲームの開発では、ファンブル、盗塁、肝心な時のエラーなど不利なランダムイベントの発生率について非常に神経質になる。プレイヤーに不公平と思われては大変だからだ。

最初の話題に戻ろう。「パズルクエスト」はチートを採用すべきだった。ただしプレイヤーに有利なチートだ。同色宝石が落ちて来るのは人間側だけにしておくのだ。最終的なバランスはAIの装備やスペルを調整すれば適正化できる。こういう調整はプレイヤーにきちんと公開されるので不公平感は無い。疑惑を生ずる要素を取り除く事でゲーム性は改善される。公平感の問題については、プレイヤーの言う事が正しいのだ。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=132