マクスウェルの銀の弾

iMperium 2がボツになった理由はエントロピーの法則で説明がつく。2は1の複雑なルールを整理し、より単純にしつつ面白さを保とうとした。そして後者の目標に失敗した。単純で底の浅い、頭を使わないゲームが出来上がってしまったのだ。

水と湯を混ぜてぬるま湯にするのは簡単だが、それを水と湯に分離しようとするとエネルギーが必要になる。変化は不可逆だ。同様に、単純なゲームにルールを付け足して複雑にするのは簡単だが、複雑なゲームを単純化するのは非常に骨が折れ、しばしばゲーム性を大きく損なう。

単純さは一種の位置エネルギーなのだ。物を上から下に移すのは簡単だが、下から上に移すのは力が要る。プロトタイプがnの複雑さを持っていたら、最終完成品の複雑さは>nである。

ゲーム開発はデザイン、実装、テストの繰り返し工程である。個々のループはデザイン空間の隣接する点への移動であり、それは往々にして複雑さの増加を伴う。ゆえに、探索できるデザイン空間の範囲はプロトタイプを起点とし、複雑さが増加する方向に向かって広がる円錐状の領域なのだ。

単純で、独創的で、楽しいプロトタイプ。そこから始める事ができれば労少なくして実り多し。優れたゲームデザインは広漠としたデザイン空間の中の小さな点であり、見つけ出すにはとにかく広い範囲を探すしか無い。

翻訳記事:テーマはゲーム性にあらず(その2)

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GDC#12:テーマはゲーム性にあらず(その2)

2010/6/16 Soren Johnson
Game Developer誌2010年3月号に掲載された物の再掲

 

その1で解説した様に、ゲームの意味を決めるのはメカニクスであってテーマではない。とりわけ二つが対立している場合はそうだ。そういう不調和はプレイヤーを戸惑わせ、場合によっては騙されたと感じさせる。故に開発者はこの二つの調和に向けて努力しなくてはならない。少なくとも、メカニクスとテーマが喧嘩する事が無い様にしよう。

喧嘩している場合、開発者の届けたいテーマをメカニクスが台無しにしてしまう。例えば”Bioshock”はプレイヤーに倫理上の選択を提示する。リトルシスターを搾取するか、それとも救済して魂を解き放つか。搾取すれば2倍のアダム(遺伝子改造に使う通貨)が得られるので、倫理にもとる道への誘惑が存在するわけだ。

ところが、ゲーム中にはリトルシスターを救済したプレイヤーへの報酬も用意されている。それゆえこの選択は最終的に大した違いをもたらさない。ゲームの物語はプレイヤーの選択が重要だと告げている。自分の利益を犠牲にしてリトルシスターを救済しているのだと。しかしメカニクスはそれと違う事を告げているのだ。言うまでもなく、テーマとメカニクスが喧嘩した場合どちらが重要か、プレイヤーはよく分かっている。どちらがそのゲームをそのゲームたらしめているのかを。

同様に、昔ながらのRPGの多くはプレイヤーを不思議な存在にしている。物語の冒頭で壮大な目標(邪悪な魔法使いを倒す!)を与え、プレイヤーを救世主と定義している。しかし実際のゲームプレイは、町の外をうろうろして遭遇した生物を惨殺し、略奪に励むというものだ。物語においてプレイヤーはヒーローと定義されているが、ゲームが報奨する振る舞いはそれと異なっている。リチャード・ギャリオットは”Ultima IV”でこの問題に正面からぶつかって行った。ゴツい悪党を倒す事でなく、八つの徳を磨く事をゲームの主軸に据えたのだ。

 

幸せな結婚

時に、開発者はテーマとメカニクスの完璧な融合を見つけ出す。例えば古典的探索ゲーム、ダン・バンテンの”Seven Cities of Gold”だ。バンテンはオザークでハイキングをしている途中に、未知の土地で方角を見失わない様にするゲームを思いついたという。それをアイディアの種に、次は完璧に合致するテーマを見つけた。コロンブス、コルテス、ピサロといった征服者の時代。彼らはいつも半分迷子だった。こうしたバックグラウンドを材料に制作が始まった。

いくつかのジャンルはテーマとゲームプレイを非常に良く合致させている。Wiiのゲーム(Wii Sports)、音楽ゲーム(Rock Band)、経営ゲーム(レイルロードタイクーン)、スポーツゲーム(Madden)、フライトシム(Wings)、レースゲーム(グランツーリスモ)などだ。これらは現実世界の活動を基にしたゲームであり、メカニクスがテーマから遊離しにくくなっている。もっともらしさを保つ為に四苦八苦しなくて良い訳だ。

実際の所、「マリオカート」は「グランツーリスモ」よりレースらしいレースゲームだと言い張る事もできる。甲羅が飛び交い順位が次々に入れ替わる様は、リアル志向レースゲームのもったりした順位変動よりプレイヤーの理想に近いかも知れないのだ。言い換えると、ゲルニカについてより良く表しているのはどちらだろうか?都市の焼け跡の写真か、ピカソの絵画か?

また、採用されているテーマがメカニクスの実験を上手く正当化してくれる場合も良作が生まれうる。”Left 4 Dead”は本当はゾンビのゲームというより、チームワークのゲームなのだ。開発者は個々のゾンビタイプをチームワークを奨励する方向で調整した。ハンターは一人でふらふらしている奴を狩り、タンクは集中砲火でなければ倒せず、ウィッチは緊密な連絡を必要とする、など。ゾンビというテーマはチームワークを奨励するメカニクスを正当化する背景幕に過ぎない。

 

Civilizationは失敗例?

“Civilization”シリーズはテーマをメカニクスに一致させようとする試みと、それに伴う教訓の宝庫である。このゲームは一応世界の歴史を扱った物という事になっているが、化けの皮が剥がれるのにそう時間はかからない。

まず、文明はゲームを通じて休み無く発展し続ける。暗黒時代に逆戻りしたり、内戦で分裂したりは決してしない。ユーザーコミュニティはこれを「不滅の中華症候群」と呼んだ。プレイヤーが遭遇しうる後退は、外部からの侵略によるものだけである。

大体、ゲームには「革命を始める」ボタンが付いているのだ。プレイヤーはいつでも、好きな時だけ政体を変えられる。ルイ十六世が見たらさぞ羨ましがるだろう。それにまた、全ての行動はトップダウンで決定される。プレイヤーは王であると同時に将軍であり、大実業家であり、神なのだ。

どうして実際の歴史と食い違ってしまうのか。問題の源泉はプレイヤーの介入である。面白いゲームであるためには、プレイヤーは状況をコントロールしていなくてはならない。更にプレイヤーの決定には公平で明白な結果が返って来なくてはならない。そうしてこそ情報に基づいて決断を下し、計画を練り、失敗から学ぶ事ができるのだ。実際の歴史は言うまでもなくもっと混沌としており、難解であらぬ方向に動いて行ってしまう。

正直に言おう。このゲームのメカニクスは世界の歴史というより、それを駒にして動かす神々の遊びに近い。指導者達は全く年を取らない。そして彼ら不死者はプレイヤーを打ち倒せる唯一の存在である。導かれる人民の意志はゲームの展開に影響を与えない。

とは言え、プレイヤーによる介入は良い物である。そうでなければゲームはこんなに楽しくない。ゲームメカニクスに組み入れるには範囲が広すぎたり、漠然としていたり、不安定な要素だってある。それにまた、テーマはテーマで置いておいて、ゲーム自体はそれとは関係ない欲望を満たす幻想空間という場合もある。

“Civilization”の場合、欲望とは歴史をコントロールする事である。それは歴史を学ぶ題材にはならないかも知れないが、だからと言って無価値ではない。他の芸術分野で世界の歴史というテーマに体当たりした物は非常に少ないし、存在しても往々にして危険なイデオロギーの産物だったりする。例えば「國民の創生」だ。

本物の歴史についてちゃんと教えてくれるゲームを作りたいなら、特定の時代や出来事に焦点を絞るべきだ。例えばバンテンの”Seven Cities of Gold”やシドの「レイルロードタイクーン」。プレイヤーを生身の人間として定義して、その肉体の制約内で課題をこなす様にする。

 

テーマは重要

テーマとメカニクスは別物だが、一般人はそうは思っていない。折角良いゲームを作っても、テーマが普通の人にとってぞっとする物だったら不当に汚名を被せられてしまう。例えば、”Grand Theft Auto”は犯罪と都市の混沌をテーマにしているが、ゲームそのものは自由とその結果を扱っているのだ。プレイヤーは法を犯すごとに悪名が高まり、最終的に警察が大量の火力を送って来てゲームオーバーに至る。

にも関わらず、普通の人からすればGTAはただの通り魔とひき逃げのゲームである。一般人は何かそれ以外の要素を「扱っている」とは想像できない。だがプレイヤーはちゃんと分かっている。ゲームが提供する物がただの犯罪でない事を。自由な箱庭の中で動き回る。決断が世界に影響し、結果が返って来る。これこそ目玉なのだ。

“Crackdown”は対照的な事例である。自由な箱庭という部分はGTAと同じだが、テーマは犯罪と戦うスーパーコップという物になっている。こちらの方が世間には受けが良い。GTAはヒット作になったが、あれは必ずしも犯罪をテーマにしなくても成立した。社会的責任を考える開発者はその事を覚えておこう。

一般大衆に受ける。優れた作品を創造する。両方を達成しようとして開発者達はもがいている。そしてテーマとメカニクスが食い違っていると、両方とも達成が難しくなるのだ。ゲームデザインの文化に疎い普通の人は、パッケージの絵を見てゲームの中身を想像する。中身と外身が違っているとパッケージ詐欺になってしまう。それでは新規プレイヤーは離れて行ってしまう。

芸術の世界では抽象物が重要な地位を占めている。歌詞は楽曲に意味を付け足すが、楽器だけの演奏も広く好まれている。同様に、ゲームはテーマが無くても成立し得る。テトリスはその代表例だ。

更に、適当に貼り付けただけのテーマも、余計な期待をさせなければそれなりに機能する。”San Juan”と”Race for the Galaxy”はどちらもカードゲーム版「プエルトリコ」だ。一方はカリブを舞台とし、もう一方は外宇宙を舞台とする。しかしそれは大した問題ではない。ゲームは別に現実を奇麗に再現しようとしているのではない。テーマは調味料として入っているだけだ。

それでも、偉大な芸術作品はその意味する所とテーマとがあまりにも食い違っていてはいけない。ゲームの世界はそういう例が溢れている。シェイクスピアの「オセロ」は嫉妬に狂った緑眼の怪物についての物語であり、16世紀のムーア人兵士の人生についてではない。そして後者は前者を妨げない様になっている。”Bioshock”はどうだろう? “Spore”は? “Civilization”は? これらのゲームはそれぞれテーマを持っているが、メカニクスはそれと合致しているだろうか?偉大であるためには、ゲームプレイはテーマが約束する物を届けなくてはならない。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=240

翻訳記事:難しいゲーム

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GDC#10:難しいゲーム

2010/4/1 Soren Johnson
Game Developer誌2009年12月号に掲載された物の再掲

 

外科手術ゲーム「超執刀カドゥケウス」はニンテンドーDSがいかにゲームを変え得るかを示してくれた。タッチペンがメスになり、プレイヤーは医者となってゲームに没頭する。ただ残念なのは、実際の手術の難しさまで再現してしまった事だ。時間制限もあり難しい面は本当に難しい。

ミスをするとやり直しになり先へ進めない。これが致命的な問題である。というのも、このゲームには難易度設定が無いからだ。どれくらい難しいゲームをしたいか、プレイヤーが決める事はできないのだ。ゲーマー人口が子供から大人まで大きく広がっている今日、このデザインはゲームのターゲット層を大きく絞り込んでしまったと言えよう。

ゲームである以上、それなりに難しくなくてはならない。とりわけアーケードの時代には、難易度が急上昇する必要があった。だが今は違う。今は顧客を増やすため一人一人に合わせて難易度を調整する時代である。

 

難易度自動調整システム

例えば”Call of Duty 4″は、訓練ステージでプレイヤーの技量を計測して適正な難易度に調整する。”Left 4 Dead”は難易度自動調整システムを搭載し、プレイヤーの状況と技量によって敵の出現や回復アイテムのドロップを調整する。

しかし、難易度調整システムというのはいささか変な感覚を引き起こす。AIチートと同様、見えざる手が難易度を勝手に弄っているとプレイヤーが感じたら夢から覚めてしまうのだ。ハードルを飛び越えようとしているのに、ハードルそのものが伸び縮みしてしまう様なものである。プレイヤーのレベルに合わせて武器やスキルを向上させる”Oblivion”の敵はうんざりする。

調整の仕組みがバレてしまえば、今度はそれに合わせた不条理戦略が次々に出て来る。例えば敵が強くならない様に一切レベルを上げないとか。もっと深刻なのは、この仕組みがRPGの根源的な楽しみを破壊してしまう事だ。つまり成長である。キャラクターを目一杯育てて、かつては敵わなかったモンスターを一掃するのが楽しいのではないか。

 

難易度選択制

そもそも、RPGの中核システムは戦いに勝つ度に少しずつ強くなるという事である。楽勝だと思えばさっさと進めば良いし、きつければレベル上げをしてから行けば良い。プレイヤーが自分で難易度を調整できるのである。重要なのはデザイナーでなくプレイヤーに決定権がある事だ。

ゲーム開始時に難易度を選ぶという単純な仕組みは黎明期からあったが、ゲームの最中に難易度を変える仕組みは最近やっと出て来たものだ。「NINJA GAIDEN Black」では、3回死ぬごとに「忍犬モード」を選択できる様になる。敵が弱くなる代わり、主人公は罰ゲームとしてピンクのリボンを付けなくてはならない。この仕組み(罰ゲーム部分以外)は”God of War”など多くのゲームに影響を与えた。

もっと言えば、難易度選択そのものをゲームシステムとして取り込む事すら可能である。ブラウザTD系ゲーム”Desktop Tower Defense”には難易度の概念が無く、代わりに敵を早く呼び寄せる事ができる様になっている。そして最終スコアは敵の撃破数だけでなくかかった時間も考慮される。よって加速無しの戦いは初心者用、上級者は加速でハイスコアを目指す。

 

難しさの質を変える

“Thief”では難易度を変えても守衛の数は変わらないし、気付かれ易さが変わるわけでもない。そうでなく課題そのものを変えるのである。例えばイージーでは規定数の宝石と宝物を盗みさえすればクリアだが、ハードでは守衛を1人も殺さずにそれを達成しなくてはならない。

つまり難易度が変わると課題の質が変わるのである。ハードコアゲーマーに長く遊んで貰う良い方法と言えよう。”Civilization 4″のOCCや永久戦争モード、”Diablo 2″のハードコアモード(死ぬと復活しない)なども同様の例だ。それからXbox Liveの実績。これも普通のゲームに上級者向けの目標を付け加えてハードコアゲーマーをつなぎ止めている。

難易度以外でゲームの課題を変更する方法はまだある。例えばRTSは大抵難易度と速度の調整が別々にできる。強いAIを相手にゆっくりしたゲームテンポで戦う事もできるわけだ。また昔のゲームは複雑さの設定というものもあった。”M.U.L.E.”や”Lords of Conquest”などは、資源の種類が減るなどルールを単純化したバージョンも遊べた。初心者はこのモードで手加減無しのAIと戦ったのである。

 

鬼ゲーと糞ゲー

しかしながら、上級者向け課題が退屈さとセットでやって来る例もある。例えば自由にセーブができないゲームは、寄り道して追加の課題をやろうという気になりにくい。課題をクリアするには何度も試行錯誤せねばならず、その度にスタート地点からやり直しでは堪らない。肝心の挑戦にたどり着くまでに簡単で長いステージを越えなくてはならないのだ。その間にスキップできないカットシーンが入っていたりすると最悪である。

この問題をすっきり解決したのが「プリンス・オブ・ペルシャ 時間の砂」の時間巻き戻しシステムである。ミスをしても規定回数まで時間を戻してやり直せるのだ。ミスの度にステージをやり直す必要を無くしつつ、巻き戻し回数に制限を設ける事で緊張感を上手く保っている。

つまらない部分を削減する方向はMMOの世界にも見られる。”World of Warcraft”はデスペナルティを大幅に軽くした事で有名だ。それ以前のMMO、”Everquest”や「ウルティマオンライン」は死んだら死体を回収に行かなければならなかった。そうしなければ経験値をロストしてしまう。一方WoWでは好きな事ができる。デスペナルティを恐れて弱いモンスターだけを専門に狩るのでなく、強敵に挑みたければ挑めるのだ。最悪死んでしまっても町に戻されるだけで済む。

結局、ミスを余りに重く罰するとゲーム性そのものが歪みかねない。安全な道を選べと強制するに等しいからだ。”Warcraft 3″の人気Mod、”Defense of the Ancient”ではユニットが殺されるごとに敵チームに金銭が入る。このため初心者お断りの空気ができてしまった。DotAコミュニティの雰囲気と環境はインターネットの基準に照らしても相当酷い。

 

ペナルティよりも…

戦略パズルゲーム「パズルクエスト」はペナルティの軽さという点でWoWに似ている。いや寛容の極地と言えよう。ミスをしてもいかなるペナルティも無く、それどころか戦いに負けるとボーナスが貰えたりする。無論勝利に比べれば量は少ないが。また、この仕組みは面白い副次効果ももたらしている。セーブという概念を明示する必要が無いのだ。どう転ぼうとペナルティを受ける事は一切無いためロードしてやり直す必要が無く、戦闘や行動の度に自動セーブする仕組みが問題無く働くのだ。

全てのゲームがここまで寛容ではない。”Bioshock”は似た様な復活システムを備えていて、死亡するとゲーム内に点在する蘇生カプセルで復活できる。そして敵の体力は回復しないので、何度も蘇生する事が前提ならレンチ一本でどんな敵にもいつかは勝てる。この仕組みはおかしいと感じたプレイヤーが多かったらしく、後のパッチで無効にもできる様になった。

しかしここでの問題はシステムの欠陥ではなく、”Bioshock”のプレイヤー層に合わなかったというだけの事である。”Lego Star Wars”は全く同じシステムを使っているが、こちらは父親と息子が一緒に楽しむ様なゲームなので完璧にマッチしている。”Bioshock”のプレイヤーはもっとハードコアなゲームを求めたのだ。

もしかすると、最上の策はこうかも知れない。プレイヤーはどんどん先に進める。ただしその技量は何らかの基準に照らして評価される。「押忍!闘え!応援団」は曲を演奏し終える度にS・A・B・C・Dで出来が評価される。演奏を終えさえすれば次の曲に進めるが、良い評価が出るまで繰り返す事もできる。もし「カドゥケウス」が同じ様なシステムを採用していたら、単なる奇作以上の物になっていただろう。ゲームを開発するに当たって、これと同じ失敗を繰り返してはならない。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=179

力だけが正義でごわす

1981年に発表されたコンピュータRPG、”Wizardry”は今の基準からすれば極めて厳しいゲームだ。初期状態の冒険者は恐ろしく貧弱で、最初の敵に数回小突かれただけで簡単に死ぬ。死者が出たら寺院にお布施を払って蘇生せねばならないが、しばしば失敗してそのまま召されてしまう。

深い階層に進むと状況はもっと悪くなる。1〜2発でパーティが壊滅する魔法、レベルを下げる攻撃、避ける以外に対処法の無い即死攻撃などが珍しくなくなる。文字通り命がけの冒険を強いられる訳だ。

こうしたメカニクスは一つの強烈なメッセージをプレイヤーに送る。「強くなれ」だ。レベルが上がってHPが増えれば生存率は大幅に向上する。先制攻撃で敵を殲滅できれば特殊攻撃を受けずに済む。強ければ生き残り弱ければ死ぬ。単純明快な力の論理である。

そして物語そのものも力の論理で駆動している。ゲームの目的は迷宮の最下層に潜む邪悪な魔法使いを倒して護符を取り戻す事だ。その為に必要な進行手順は3つ。

1.エレベータの番人を倒す

2.エレベータに乗る

3.魔法使いを倒す

これだけである。戦闘力さえあれば物語は進行する。というより物語そのものが「強くなって敵を倒す」という一点に集約されている。レベル1のパーティはアンデッドコボルトから逃げ回る。レベル3になる頃にはそれを惨殺できる。ハイウェイマンの集団はプレイヤーを苦しめる。魔法使いが火炎魔法を覚えると復讐劇が始まる。

ボコられる→強くなる→ボコる→次の階層へ進む→ボコられる

これがゲームのルーチン構造である。戦闘力は常に進行のボトルネックであり、強くなりさえすれば全てが解決して先に進める。力の幻想。いじめられっ子が体を鍛えて仕返しをする物語だ。

 

さて「ドラゴンクエスト」を初めとする和製RPGはほぼ例外無くWizardryの焼き直しである。遭遇した生物を惨殺して戦闘力を向上させ物語を進める「力の幻想」をそのまま受け継いでいる。ドラゴンクエストVIの主人公が自分の村の周辺でしばしば瀕死になるのは、デザインコンセプトからすれば全く正しい。彼は最初いじめられっ子でなくてはならぬ。そうでなければ強くなった後の復讐に繋がらないのだ。

力の幻想のゲームにおいてはプレイヤーが虐げられる過程がどうしても必要である。これはいじめられっ子の復讐だ。「魔太郎がくる!!」は主人公が最初に被害に遭わなくては成立しないのだ。最初から世界が優しければ、被虐→鍛錬→復讐という基本ルーチンそのものが崩壊する。

現実にはその様にして力の幻想を台無しにした「優しいJRPG」は存在する。主人公は最初から強く、問題に対処する能力を持っている。物語は用意されたテクストを読む事で進行する。戦闘力の不足によって何かが滞ったりはしない。わざわざ鍛えなくともちゃんと最後まで行ける。

ここには力への渇望が存在しない。力の幻想から力を取り去った物は一体なんだろうか?徹子の部屋から徹子を取り去った物とどう違うのか?凝った戦術ルールや稀少品の蒐集といった付随的要素でいくら部屋を飾ろうとも、肝心の徹子が不在では番組が成立する筈も無い。それらは戦術のゲームなり蒐集のゲームなりとして独立に存在すべきであって、力の幻想のゲームに無理矢理組み入れる必要は無いのだ。

翻訳記事:ランダム性

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GDC#9:ランダム性

2010/3/3 Soren Johnson
Game Developer誌2009年10月号に掲載された物の再掲:

 

ランダム性はゲーム制作における強力な武器だ。プレイヤーの行動の結果や場の環境の決定にランダム要素を入れる事ができる。だがその一方、ランダム性がゲームを壊してしまう事もある。これがゲームに何をもたらすのか、どういう時に逆効果になるのか以下に見て行こう。

 

確率の誤謬

ランダム性を導入する際に問題となるのは、人間は確率の見積もりが酷く下手であるという事だ。「ギャンブラーの誤謬」は良い例である。ルーレットで5回続けて黒が出ると、参加者は往々にして次も黒が出る確率は小さいと考えてしまう。こうした連続に何の意味も無い事は明白だというのに。それとは逆に、人間は何も無い所に連続性を見てしまう事もある。バスケットボールに「ホットハンド」という言葉がある。一度シュートを決めた選手はその後のシュート成功率が高まるという考えだが、研究によればこれは全くの迷信である。

またスロットマシンとMMOの制作者なら良く知っている事だが、確率と報酬の分布を非線形にする事でゲームを実際以上に気前良く見せる事ができる。あるスロットの倍率と当たり確率が2008年にwizardofodds.comで公開されていた。

1/8の確率で1倍
1/600の確率で2倍
1/33の確率で5倍
1/2320の確率で20倍
1/219の確率で80倍
1/6241の確率で150倍

80倍の当たりはプレイヤーに良い目を掴んでやろうと思わせる程度には出易く、カジノの収益を脅かさない程度に出難い。さらに言えば、人間は極端な確率を正しく判断できない。1%の確率は度々発生する物と期待され、99%の確率は100%と同程度に安全であると誤解される。

 

下地作り

だが確率の見積もりが難しいという事実はゲーム制作者にとって都合が良い。「カタン」の様なダイスによる単純な資源産出システムも、確率の要素のお陰で奥深い物になっている。

さらにランダム性は上級者と初心者の技量の差をある程度埋めてくれる(と皆思う)。運の要素が強いゲームでは初心者も勝つチャンスを信じる事ができる。大抵の人はチェスのグランドマスターに挑もうとはしないが、バックギャモンの名人になら挑んでも良いと考えるかも知れない。上手く良い目を出せば誰にでも勝つチャンスがあるのだ。

ゲームデザイナー、ダニ・バンテンの言葉を借りればこうだ。「多くのプレイヤーはランダムイベントに自分の戦略が邪魔される事を嫌うが、それでも計画崩しはゲームを活性化させる為に必要なのだ。この問題に関してプレイヤーの言いなりになってはいけない。不運は、プレイヤーが負けた時に言い訳を提供する(糞イベントの所為で負けた!勝ってたのに)。勝った時には不運を跳ね返したという満足感を与える」

そうだ。運の要素はある種の潤滑油、あるいはゲームにおけるアルコールとして働く。1対1の真剣勝負に向かない人々を引きつけるには運の要素が必要だ。

 

確率がゲームを壊す場合

ただし気をつけて欲しい。ランダム性はあらゆるゲームのあらゆる状況に適するわけではない。「意地悪な驚き」は駄目だ。例えば木箱を開けると弾薬などのアイテムが手に入るが、1%の確率で爆発するという例を考えよう。この場合プレイヤーは爆発の可能性を安全な方法で知る事ができない。爆発がゲーム初期に起きた場合、プレイヤーはもう木箱を開けなくなってしまう。逆にずっと無事なままゲーム終盤になり、そこで突然爆発したら、プレイヤーは聞いていないよと思うだろう。

またランダム性がただのノイズになってしまう場合も問題だ。それはただ単にプレイヤーのゲームに対する理解を妨げる。もし”StarCraft”のマリーンが銃を撃つ度に死亡判定ロールがあったとしたら、時間当たり攻撃力がでこぼこになる以外何の効果も無い。長い目で見れば運の要素は平均化され、ゲームの結果に与える影響は小さい。だが確率のノイズの所為でプレイヤーがマリーンの攻撃力を理解するには困難が伴う事だろう。

さらにランダム性がゲームの進行を無駄に遅らせる場合もある。ボードゲーム”History of the World”と”Small World”は殆ど同様の戦争システムを擁しているが、前者はダイスを使い後者は使わない。このため前者は1ターンの進行に後者の3~4倍の時間がかかる。大量のダイスを振る時間もさる事ながら、後者は行動の結果が知れているため、あらかじめ全ての戦略を決めておけるという点において差がついている。予想外の行動結果に対処するというのはゲームデザインの中核要素だが、同時にゲーム自体の進行速度も重要な要素である。制作者はどちらを重視するか慎重に決めなくてはならない。

最後に、勝利判定に運の要素を持ち込んではならない。不運が不公正と見なされないのは、ゲーム終了までに間があって対処する時間が与えられている場合である。運の要素が働くのがゲームの序盤であればあるほど、ゲームバランスが良く感じられる。ピノクル、ブリッジ、ハーツといった多くの古典カードゲームは、最初の手札配り = 環境生成だけがランダムで、その後の勝者と敗者を決める過程にはランダム性が無い。

 

ゲーム内容としてのランダム性

実の所、乗り越えるべき課題をランダムに生成するという方式は多くの古典ゲームで採用されている。単純な物では「マインスイーパー」、複雑な物では”NetHack”や”Age of Empires”。本質的な意味において、「ソリティア」と”Diablo”はそれほど変わらない。どちらもランダムに生成された環境をプレイヤーが知恵によって探索するゲームだ。

最近では「スペランキー」という面白い例がある。同人ゲーム作家のデレック・ユーが制作した、ローグ的なランダム生成ダンジョンとロードランナー的な2Dアクションを組み合わせたゲームだ。無限に生成される洞窟の探索はかなりの中毒性だが、時にはモンスターや地形の組み合わせによって難易度が極端になりストレスを生む事もある。

然り。未調整のランダム性は野獣の如く、ゲームバランスを破壊する要素にもなり得る。例として”Civilization 3″を挙げよう。チャリオットには馬、戦車には石油という具合に特定のユニットの作成に特定の資源が必要だった。これらの資源はマップ上にランダムにまき散らされるのだが、大陸内の一カ所に鉄が集中し、AI文明の1つがそれを独占するという事態が頻発した。掲示板は資源不足でユニットが作れないという悲鳴で一杯だった。

“Civilization 4″ではこの問題に解決策を与えた。重要な資源を分散させたのだ。例えば7マス以内に2つの鉄が存在する事はできない。予測不可能な資源分布という点はそのままに、資源の一極集中という悪夢を取り除いた。同時に香料・宝石・香辛料などあまり重要ではない資源はあえて集中させ、資源交易を促進した。

 

手の内を明かす

確率について考える場合、ゲーム制作者は最後にこの問いに行き着く。「運の要素はいかにゲームを良く/悪くするか?」ランダム性はプレイヤーに心地よい驚きをもたらし、ゲームを片手間に解けない物にしているか?それとも展開を無駄に予測不能にし、プレイヤーの意思決定を無価値にしているか?

ランダム性を良い物にする方法の一つは、何が起きているかを公開してしまう事だ。”Armageddon Empires”という戦略ゲームの戦闘は単純なダイスロールにより処理され、しかもダイス自体がゲーム画面に表示される。ゲーム内計算処理をプレイヤーに見せる事はゲームシステムへの満足度を高める方向に働く。そうする事で確率は謎ではなくプレイヤーにとっての武器になる。

同じ様な考えで、”Civilization 4″には戦闘勝率を表示するオプションを搭載した。これは戦闘メカニズムに対するプレイヤーの満足度を大いに高めた。人間はとにかく確率の見積もりが下手であるから、それに関して意思決定を助ける仕組みがあればゲームの楽しさはかなり向上するのだ。

「マジック:ザ・ギャザリング」「ドミニオン」などのデッキ作成系カードゲームは確率の概念を前面に出している。デッキに何枚カードを入れるかはそれを引く確率に直結するのだ。勝利を収めるにはレアカードと普通カードの最適な比率を見つけなくてはならない。この考え方はさらに応用され、「ダイスデッキ」からカードを引いてダイスロールの代わりにするシステムもある。これなら悪い目を引く確率は同じだ。

面白いがあまり利用されていない方式の一つに、「ランダム性」をゲームオプションに含めるという物がある。”Lords of Conquest”というターン制戦略ゲームではこれが採用されていた。選択肢は低・中・高の3つ。この選択によって、ランダム性を膠着を破る程度の小さい物にも、戦闘の帰趨を決する大きい物にもできた。ゲームにどの程度のランダム性が存在するべきかは、究極的には各々の好みの問題である。それゆえこの点をプレイヤーの自由にする事はより多くの人々をゲームに引きつけるのだ。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=171

翻訳記事:リアルタイムVSターン制

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GDC#8:リアルタイムVSターン制

2010/2/1 Soren Johnson
Game Developer誌2009年8月号に掲載された物の再掲

 

ゲームの企画を立てる際の重要な問題に、ターン制かリアルタイムかという選択がある。どちらの仕組みも一長一短だ。ターン制は戦略性と透明性に優れるが、アクション性のあるゲームに慣れたプレイヤーには少々まどろっこしい。リアルタイムゲームは没入性が高くマルチプレイにも向くが、スピード調整を間違うと初心者が付いて行けない。

言うまでもなく、ターン制ゲームはボードゲームの直系子孫である。ビデオゲームより歴史は古い。実際、ターン制ゲームを好む層とボードゲームやカードゲームを好む層はかなり一致している。リアルタイムゲームの方は、スポーツを除けばコンピュータ出現以降の文化である。リアルタイム制でしか実現できなかったであろうゲームも多い。「スーパーマリオブラザーズ」、”Team Fortress”、”FIFA”、「パックマン」などだ。

しかしターン制とリアルタイム、どちらでも実装できるゲームもある。そしてそれぞれに長所と短所がある。ローグライクのダンジョン探索ゲームはターン制とリアルタイムの両方が登場している。”NetHack”など初期の作品は純粋なターン制だ。プレイヤーが何か行動しない限りゲーム内の時間は進行しない。一方、Blizzardの”Diablo”は同様の探索&アイテム集めゲームをリアルタイム環境で実装し、戦略性は下がったものの人間の本能に訴える中毒性の高い作品に仕上げた。またターン制には付き物の待ち時間無しでマルチプレイができる様になっている。

とは言え、”Diablo”の登場でターン制ローグライクが廃れたわけではない。「ポケモン不思議のダンジョン」や「風来のシレン」はまた違った良さがある。つまり、ターン制とリアルタイム制の選択はどちらが優れているかという問題ではなく、どちらが作りたいゲームに適しているかの問題である。

 

どれだけの要素を詰め込むか?

ゲームを手っ取り早く理解する方法の一つは、マスターするのにどれだけのシステムや要素を覚えなくてはならないかを見る事である。例えばFPSは10個程度の武器が登場する。RTSは各陣営15種類程度のユニットがある。RPGは20個かそこらの呪文が使える。要素や選択肢の多さだけでも初心者は怯えてしまう事がある。リアルタイム制で時間制限が付けば尚の事だ。

初代”Civilization”のプロトタイプはリアルタイム制だった。元々「シムシティ」を世界スケールにしようというコンセプトで作った物である。しかしすぐに、あまりに多くのゲームシステムが一気に押し寄せて対処不能になる事に気がついた。「シムシティ」には外交も、貿易も、戦闘も、研究も、厄介な蛮族も存在しなかったのである。結局ターン制に路線変更してプロトタイプを作り直す運びとなった。「あと1ターンだけ」はこうして生まれた。

ゲームを開発するに当たっては、どれだけの「要素」を詰め込むかに注意せねばならない。さもないと訳が分からなくなってしまう。ターン制ゲームには時間制限が無いので、プレイヤーは自分の好きなペースでゲームをマスターできる。上級者は素早くプレイしても良いし、初心者はゆっくり考えてインターフェースを確認しながら進めても良い。

よってターン制ゲームは基本的にリアルタイムゲームより取っ付きやすい。だからカジュアルゲームの多くはターン制だ。「ソリティア」や「マインスイーパ」しかり、PopCapの”Bejeweled”、”Bookworm”、”Peggle”しかり。

 

秩序か混沌か?

ゲームの核となる部分において、ターン制とリアルタイム制は異なる強みを持っている。例えば、ゲームを秩序だったものにするか、混沌とさせるかという問題だ。前者の場合、行動の結果がどうなるかを予め十分に検討する事で成果が得られる。パズルクエストで骸骨を4つ並べたら上のジェムが落ちて来て連鎖する、といった具合だ。次に何が降って来るかなど多少のランダム要素もあるが、基本的には次に何が起きるかを頭に入れてプレイしなくてはならない。秩序立ったゲーム性はターン制の強みである。

一方、リアルタイムは展開が予測不能なゲーム性をもたらす。”Team Fortress 2″でチームがメディックばかりだったらピンチである。しかしその後の展開がどうなるかは様々だ。状況をゆっくり検討している時間が無いからである。その間にスナイパーに狙撃されるかも知れない。爆弾で吹っ飛ばされるかも知れない。スパイが裏から回り込んで来るかも知れない。またマップの反対側での情勢によって、ある地点を放棄する事が最善になるかも知れない。リアルタイムゲームは予測不可能なゲーム展開に向いている。時間が等しく流れる中では、状況を定石化して決まった手を打つ事などできはしない。

 

マルチプレイかシングルプレイか?

マルチとシングルのどちらに力を入れるかもターン制とリアルタイム制の選択に関わる問題だ。基本的に、マルチプレイはリアルタイムと相性が良く、ターン制はシングルプレイ重視になりやすい。”Advance Wars”や”Civilization”といったターン制ゲームのマルチプレイを本気でやり込んでいる人はごく少数である。一方、”Command & Conquer”や”Age of Empires”など似た様なテーマのリアルタイムゲームはマルチプレイが中心だ。

理由は単純だ。順番待ちは楽しくないからである。それゆえ同期マルチプレイに焦点を当てたゲームを作る場合はほぼリアルタイム制を選択する事になる。一方、シングルプレイが中心のゲームなら順番待ちの問題は無いので、ターン制要素を入れても全く問題無い。オマケ的要素であれ戦略性を高める為であれ。例えば、シングルプレイ用ゲーム”Fallout 3″はリアルタイムの戦闘中にポーズをかけてV.A.T.S.モードに入れる。これで敵の体のどの部位を狙うか検討したり、選択肢それぞれの成功率を表示する事すらできる。同様に、”Baldur’s Gate”シリーズもターン制とリアルタイムのハイブリッドだ。戦闘は基本的にリアルタイムだが、ダメージを受けたり新しい敵が出現したりすると一時停止する。

 

型を破る

しかしゲーム界全体を見渡せば、「純粋な」ターン制とリアルタイム制の中間がいくらでもある。例えば”Madden”の時間制限付きターンはどうだろうか? “X-Com”は戦略部分がリアルタイムで戦術部分がターン制だがこれはどうなる? “Total War”はその逆だが果たして? “Europa Universalis”は形式的にはリアルタイムだが、ペースが遅いのでターン制の様に感じられる。また非同期のWebゲーム、「トラビアン」などはどうか? 勝負は分単位でなく月単位に及び、時間制限に追い立てられる事が無いままマルチプレイにおけるリアルタイムの良さを取り入れている。”Bang! Howdy”はよくあるマス目型SLGだが、ユニットのターンはリアルタイムで回って来る。つまり現実にはターン制とリアルタイム制の極があり、その中間を無数のゲームが埋め尽くしているのだ。

問題はどちらの形式を備えているかでなく、どういうゲーム性を備えているかである。例えばTD系のゲーム「プラント vs. ゾンビ」は形式上リアルタイムだが、ゲーム制は伝統的なターン制ゲームに近い。シングルプレイ用である事に加え、ゲーム自体が非常に秩序立っている。マップは5つの段から成りそれぞれ横幅9マス。段の上をゾンビが歩いて来るのでマスに植物を置いて迎撃する。更に、ゾンビの挙動は完全に決まっている。棒高跳びゾンビは常に障害物を跳び越える。たとえその先に人食い植物が口を開けていてもだ。傍から見ていると混沌としたゲームだが、実際は多くのTD系と同様、予見可能な敵の動きに基づいて戦略を立てる。リアルタイム要素は単に時間制限を付けているだけで、リアルタイムゲームによくあるマルチプレイの予見不可能性などを加えているわけではない。

同じ様に「ブームブロックス」もターン制ゲームながらそれらしくないゲーム性を持つ。決まった回数の投擲で重ねたブロックを崩すのだが、物理演算システムによって結果は予測が難しくなっている。また5×9マスの「プラント vs. ゾンビ」と違い、「ブームブロックス」はWiiリモコンのアナログな操作で画面に向かってボールを投げる。カオス理論の示す通り、完全に同じ投擲が2度続く事はまずあり得ない。この予見不可能性と、投擲1回というターンの短さのお陰で「ブームブロックス」は素晴らしいマルチプレイヤーゲームになっている。ターン制ゲームにはなかなか無い事だ。

つまるところ、ゲームの形式をターン制にするかリアルタイムにするかの問題は、どちらのゲーム性が全体のデザインに相応しいかの問題ほど重要ではない。型を知って型を破るの謂である。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=151

翻訳記事:AIチートについて

これは翻訳記事です

GDC#7:AIチートについて

2009/9/1 Soren Johnson
Game Developer誌2009年5月号に掲載された物の再掲

 

「パズルクエスト」の開発者はある疑惑に晒されている。ゲームに汚いチートを仕込んでいるのではないかと思われているのだ。ゲームの核となるのは”Bejeweled”の対戦バージョンで、AIと「3つ並べて消す」勝負をする。

問題は降って来る宝石がどうやって生成されるかだ。例えば、緑の宝石が3つ一列に並ぶとそれは消え、上に乗っていた宝石が落ちて来る。しかし、宝石は時々3つ同色の組み合わせで降って来る。置いた瞬間に消える事が確定しているわけで、当然得点になる。そういう組み合わせが降って来る確率は低い(2%前後)が、ゲームを繰り返していれば何度も目にする事になる。

言うまでもなくAIにも同じルールが適用される。そのためAIの方に同色宝石が降って来るのを度々目にする事になる。そうすると人間の心理は疑いを差し挟む。降って来る宝石の生成過程は隠されているので、プレイヤーはAIがイカサマをしているのではないかという疑いを持つ。

人間の精神は確率の理解が恐ろしく下手である。そのため多くのプレイヤーがAIはイカサマをしていると信じるに至った。開発元は何度も何度もチートはしていないと誓言したがどうしようもない。チートの可能性が存在するだけでゲームの楽しさは減ってしまう。

 

俺を信じろ

最初の時点では誰も信じてくれない。プレイヤーからの信頼は時間をかけて構築するしか無い。開発者がいくらでも好きなイカサマを仕込める事に顧客はきちんと気付いている。プレイヤーに楽しんでもらう為には、手の内を明かし、ルールの一貫性を保たねばならない。最悪なのは、ゲーム自体がルールを曲げてプレイヤーを不公平に扱っているのではないかと疑われる事である。

AIと人間が対等の環境で戦うゲームでは、問題はかなり奥が深い。そうでない非対称のゲームなら、チートは単に悪いデザインである。仮に”Half-Life”の敵がマップ上をテレポートしたり、”Thief”の守衛が隠れている主人公を即座に見つけたりしたらどうなるか。

一方対称ゲームの場合、AIはチートが無いと人間に敵わないという場合が出て来る。そこで開発者は、どういうチートが公平でどういうチートが不公平か理解せねばならない。「パズルクエスト」の経験からも分かる様に、プレイヤーに疑いを持たれる事は全力で避けねばならないのだ。

チートと難易度は別物である。難易度というのはプレイヤーがもっとやり甲斐のある課題をくれと頼む手段である。チートはゲームがプレイヤーを「公正に」扱っているかどうかの問題だ。良いプレイをきちんと報奨し、難易度調整の為に恣意的に不利益を与えていないか。だが困った事に、実務レベルでは難易度とチートの境はいささか不明瞭だ。

 

手の内を明かす

レースゲームにはグレーな仕組みがよくある。レースを接戦にするため、車両同士をゴムで繋いだ様にするのだ。つまり、AIがプレイヤーに大きく遅れを取るとスピードが上がる。大きく先行するとスピードが下がる。そうしてぶっちぎりの展開を防止する。

だが困った事に、このやり方はプレイヤーにバレバレである。勝ってもあまり嬉しくないし、負けると納得が行かない。皮肉な事に、こういう仕組みを止めてもっと明瞭なデザインにした方がユーザーは喜ぶ。

例えば「マリオカート」。コース上のハテナボックスを取った時のアイテムは順位によって変動する。先頭走者は自分より前の車を撃つ為の甲羅しか貰えず、後ろの方の走者はキラーを取って一気に中盤へ躍り出る事ができる。

こういった自己調整型バランスはボードゲーム界では一般的だ。「カタン」の泥棒はトップの土地を塞ぐ。そしてそれがチートだとは誰も思わない。仕組みがきちんと説明されているからだ。説明されていれば、ボーナスはAIにも人間にも平等だと分かる。直感と実際が一致するのだ。透明性は不信と疑惑への解毒剤なり。

 

Civilizationにおけるチート

時にはAIに秘密のボーナスを与えて難易度を調整する必要も出て来る。”Civilization”シリーズはこの件に関して色々と失敗をやらかしており、不公平感でプレイヤーを発狂させてしまった。

リアルタイム制ゲームなら人間の反応速度に限界があるのだが、ターン制ゲームはそうはいかない。仕方ないので”Civilization”シリーズは難易度によってAIの生産・研究コストが下がる様にしている(難易度が低いと逆にペナルティがある)。難易度ごとに徐々にボーナスが増える仕組みなのでそれほどプレイヤーの怒りは買わない。ターン単位で見ればそれほど大きな違いを出すわけではないし、システムの詳細を詮索するプレイヤーは何故それが必要なのかも理解してくれる。

一方、それ以外のボーナスはかなり不評だった。初代”Civilization”では視界外にAIのユニットが沸く。これではAIと人間が違うルールでプレイしている事になる。更に、AIは時々遺産(訳注:当時は不思議という名称)を一瞬で完成させ、プレイヤーの費やしたターンをふいにした。毎ターン少しずつのボーナスのお陰でAIが遺産競争に勝つのはまだしも、一瞬で建ててしまうのはいかがなものか。

チートが受け入れられるかどうかは、何らかの公平性の規準ではなくプレイヤーの人間心理で決まる。心理は矛盾だらけで非合理な物だ。少々のAIボーナスは受け入れられる一方、AIが本気の戦略を取るとプレイヤーを発狂させる。たとえ人間プレイヤーなら同じ事をすると分かっていてもだ。

例えばCiv1では、プレイヤーが1900年までにトップになるとAIがこぞって宣戦布告する。これが不公平感を出していた。AI共がグルになって人間を袋叩きにしていると思われたのだ。そういうプレイヤー自身、マルチで誰かがトップになったらノータイムで袋叩きにするはずである。しかしそんな事は関係無いのだ。

ユーザーの声に応え、Civ3ではAIが外交の際に相手が人間かAIかを考慮しない様にした。だがそれでも不公平感は払拭されなかった。Civ3は自由な取引が可能になっていて、技術とか地図とか資源を売却できる。抜け目の無いプレイヤーなら弱小国に技術を安売りする事もあるだろう。

そこでAIにも同じ事をさせた。後進国には今あるだけの現金で技術を売ってしまう様にした。結果大不評である。AI同士で技術同盟を組んでいると思われてしまったのだ。AIはかなり気前良く技術を渡してしまうので、AI文明が悉く同じ技術を持っているという事態になった。人間プレイヤーは環から閉め出された格好だ。

 

空即是色

プレイヤーがどう感じるかこそゲームの現実である。AIが実際に公平にプレイしているかどうかではなく、プレイヤーがそう感じるかどうかが問題だ。プレイヤーが不公平感を覚える様なら改善しなくてはならない。そこでCiv4ではAIの技術交換を制限し、同じ様な状況に陥らない様にした。

コンピュータの中はプレイヤーから見えないブラックボックスである。故に発生原因の分からないイベントは問題を起こしやすい。例えばスポーツゲームの開発では、ファンブル、盗塁、肝心な時のエラーなど不利なランダムイベントの発生率について非常に神経質になる。プレイヤーに不公平と思われては大変だからだ。

最初の話題に戻ろう。「パズルクエスト」はチートを採用すべきだった。ただしプレイヤーに有利なチートだ。同色宝石が落ちて来るのは人間側だけにしておくのだ。最終的なバランスはAIの装備やスペルを調整すれば適正化できる。こういう調整はプレイヤーにきちんと公開されるので不公平感は無い。疑惑を生ずる要素を取り除く事でゲーム性は改善される。公平感の問題については、プレイヤーの言う事が正しいのだ。

原文:http://www.designer-notes.com/?p=132

翻訳記事:非同期性

これは翻訳記事です

GDC#6:非同期性

2009/7/1 Soren Johnson
Game Developer magazine2009年3月号に掲載された物の再掲:

 

コンピュータゲームには、ボードゲーム・カードゲーム・室内ゲームなどの伝統的ゲームには無い特徴がある。リアルタイム性だ。コンピュータはゲーム中で起きる複数の事象を同時に処理できる。実際の所、世界初の対戦用コンピュータゲームである”Pong”は、伝統的なゲームでなくリアルタイムなスポーツ(卓球)を元にして作られている。これら初期のゲームは必然的に同期プレイ用であった。即ちプレイヤーたちは同時にゲーム台に向かい、同時にゲームに参加する。爾来、同期プレイ方式は対戦用コンピュータゲームの王道となった。そしてオンラインゲームが登場すると、そのままの方式が離れた場所にいるプレイヤーの間でも可能になった。

同期プレイ方式はゲーム業界に深く根付いた伝統である。”Doom”、”StarCraft”、”Madden”、”EverQuest”、その他諸々・・・ほとんどのゲームデザイナーは、同期プレイがデザインにおける選択肢の1つに過ぎないという事にすら気付いていない。非同期プレイという別の道も存在するのだ。即ち各プレイヤーがそれぞれ好きな時間に参加し、少しずつゲームを進行させる。この方式は伝統的なボードゲームの世界にも存在した。例えばチェスやウォーゲームの郵便対戦だ。中でも最も成功したのは「ディプロマシー」だろう。このゲームでは裏切りや秘密外交が横行し、それらが勝利の為の手段として確立されている。こうした行動は同期プレイでは不可能だ。Webが登場するとディプロマシーの対戦サイトが多数立ち上げられ、同様の非同期プレイがオンラインで行われる様になった。

ディプロマシーが非同期プレイ用ゲームとして成功した理由の1つは、これが同時ターン制を採用している事だろう。つまりチェスの様な交互ターン制ゲームと違い、全プレイヤーの行動が同時に解決される。プレイヤーは自分の行動計画を他の者には伏せたままゲームマスターに通達し、マスターは全員の行動が届いた時点で綿密なルールに従い紛争を処理する。この方式は非同期プレイに最適だ。何故なら、「全ての」プレイヤーが「全ての」ターンに意思決定を行えるからだ。”Risk”や「モノポリー」などの旧いゲームで非同期プレイを行うと、ほとんどのターンを他のプレイヤーが駒を動かすのを待って過ごすために、ゲーム進行が耐えられないほど遅くなってしまう。ゆえに、非同期プレイには非同期プレイに適したゲームシステムが必要なのだ。待ち時間を極力減らし、参加時間を極力増やすシステムが。

 

忙しい人にも参加できるゲームを

非同期ゲームは同期ゲームに無い特長をいくつも備えている。第一に、他のプレイヤーを待たせる事を心配する必要が無い。4~5人のプレイヤーがゲーム卓を囲み、優柔不断な者が行動を決めるのを苛々しながら待つ・・・こんな事は非同期ゲームでは起こらない。1ターンに1時間かけてもゲームの流れを止める事にはならないのだ。次に、非同期ゲームはまとまった時間の取れない忙しい人や、異なるタイムゾーンに暮らす人も参加できる。ゲーム体験の豊かさはそのままだ。MMOでは5時間がかりの40人参加セッションなどがあるが、ほとんどの社会人はそれに参加するだけの時間が取れない。一方非同期ゲームでは、プレイヤーがそれぞれ1日に15分だけ時間を見つけて参加すればマルチプレイが成立する。例えばディプロマシー。イギリス担当のプレイヤーは朝に行動計画を送信し、フランス担当のプレイヤーは夜に送信する。あるいはその逆。どちらでも都合の良い様にできる。

現行のオンライン非同期ゲームにはディプロマシーより一歩進んだプレイ方式を提供している物もある。ディプロマシーには、誰かが行動計画を出さないまま放置するとゲームの進行が止まってしまうという問題点があった。新方式ではリアルタイムなゲーム進行をこれに加える事で問題を解決している。一定時間が経過すると、プレイヤーが行動したか否かに関わらずゲームがそのまま進行するのだ。これは多くのファンタジースポーツゲームで採用されており、一度リーグが始まるとプレイヤーのログイン状況に関わらず日々ゲームが進行する。2週に1回ログインして状況を確認するプレイヤーもいれば、毎日数回ログインしてトレードに出されている選手がいるか調べるプレイヤーもいる。そしてそのどちらも完全な参加者なのだ。この方式が優れている事は、現在のオンラインファンタジースポーツの人気を見れば明らかである。研究によると、2007年時点でファンタジースポーツリーグの参加者は北米だけで3000万人を超えている。実際、ファンタジースポーツは世界で最も人気のあるマルチプレイヤーゲームジャンルなのだ。プレイ時間の長短に関わらず全てのプレイヤーが共に参加でき、楽しみを共有できる。一般的なRTSではこうは行かない。

 

Webに目を向ける

旧来のゲームのメール対戦以外にも、本格的なゲームにおける非同期プレイの例はいくつか存在する。”Civilization4″にはPitBossという仕組みがある。これを使えば最大32人のプレイヤーがマルチプレイに参加でき、それぞれ好きな時間にログインしてゲームを進める事ができる。同時ターン制を採用し、ターンタイマーは24時間。従来困難だった”Civilization”の大規模・長期間マルチプレイが可能になる。”World of Warcraft”はソロプレイ用コンテンツが充実しており、これも非同期プレイの一形態と言えよう。湧き待ちや誘われ待ちの労無しにMMOを楽しめる様になったのだ。プレイヤーランキングや達成表示の類は、従来型のシングルおよびマルチプレイヤーゲームに非同期の交流手段を付加してくれる。同じセッションに参加しないプレイヤーとも相互関係が生まれるのだ。

とは言え、独創的な非同期プレイ用ゲームの大部分はWebをプラットフォームとしている。Webは当初から非同期交流を前提に作られた物だ。”Wordscraper”をはじめ、多くのフェイスブックゲームは簡素なターン制を採用し、ソーシャルネットワークの要素を利用する事で対戦を容易にしている。1ゲームにかかる時間は数時間から数ヶ月まで参加者のログイン頻度次第で様々だ。更に非同期MMOも既に存在する。フェイスブックゲームでは”Mob Wars”や”Knighthood”、独立サイトでは”Nile Online”や「トラビアン」がある。

この手のゲームではプレイヤーは大きな世界の中で何かを育てて行く。それによって名誉を得たり、あるいは単に育成自体を楽しんだりする。”Nile Online”の場合、プレイヤーはナイル流域の都市の1つを受け持ち運営する。それぞれの都市は木材・金・油などの特産品を持っており、都市が成長するとそれらを近隣の都市との間で売買できる様になる。都市の成長度合いはゲーム内ランキングに表示される。偉大な記念碑を建造する事で更に名声を高める事もできる。

 

相互作用の意味は?

これら非同期MMOに1つ疑問を投げかけるとすればこうだ。確かにマルチプレイヤーゲームの長所をいくつか備えているが、結局の所は時々ちょっかいの入るシングルプレイヤーゲームではないのか? プレイヤー間の相互作用は比較的弱く、システムの大部分は自分の領地をコツコツ開発する事に関する物である。隣近所を気にする必要はあまり無い。というのも、このタイプのゲームではプレイヤーが他のプレイヤーに与える影響を大きくする事が難しいのだ。相互作用システムはプレイヤーの一方がログインしていない事を前提に作成される。もし誰かが他のプレイヤーの都市を焼き払う事ができたら? その時攻撃を受けるプレイヤーは寝ていたとしたら? 朝起きたら自分の都市が丸焼けになっていて、それを防ぐチャンスすら無かったというのは楽しい体験だろうか?

そういう具合で、ほとんどのゲームは他のプレイヤーの行動から受ける影響を減らす選択肢が存在する。例えば「トラビアン」では、岩の隙間に資源を隠しておいて攻撃を受けても奪われない様にできる。そもそも資源強奪の様なゼロサムな相互作用は非同期プレイと相性が良くない。ゲームにおける影響があまりに大きければ、各自が好きな時にログインできるという非同期ゲームの長所が失われてしまう。これらのゲームデザインは並列関係の競争に力点を置くべきだ。遺産の建造競争とか、経済支配の確立などである。

しかし非同期のMMOでゼロサム相互作用を中心に据えつつ、それに伴う問題を解決している例もある。”Duels”だ。キャラクターのレベルを上げて他と戦うファンタジーMMOだが、戦いの際に両方のプレイヤーがログインしている必要は無い。例えば戦士が魔法使いに決闘を挑むと、魔法使いがそれを承諾した時点で実際の戦闘が始まる。このシステムならゼロサムな紛争を行いつつ、ゲーム部屋探しや途中退場などの不快な要素を排除できる。だがこれはまた別の問題を抱えている。決闘の際にプレイヤーがログインしている必要が無い為、戦闘中にはいかなる意思決定も行われない。戦闘はブラックボックスになり、2人のキャラクターが中に入って結果だけを吐き出す代物と化す。「面白いゲーム」が「面白い意思決定」の集まりだとすれば、”Duels”はその機会をプレイヤーから奪う事で袋小路に陥ってしまっている。

 

非同期ネイティブなゲームを

正直な所、非同期ゲームとそのデザインの歴史はまだ始まったばかりである。されど前途は明るい。同期ゲームに参加する時間のある者は非同期ゲームにも参加できるが、逆は真ならず。つまり非同期ゲームは同期ゲームより多くの潜在顧客を有している。今後の課題は同期ゲームシステムの模倣を止め、最初から非同期プレイの為に作られたシステムを確立する事である。

最良の事例は”Parking Wars”というフェイスブックゲームだ。このゲームのプレイヤーは、他のプレイヤーの所有する道路に違法駐車をして金を得る。駐車された側は、それを見つけて取り締まれば金を巻き上げる事ができる。よって最良の戦略は他のプレイヤーがオフラインの時間帯を調べ上げ、そこを狙って違法駐車をするという物だ。そして対抗戦略は言うまでもなく、意外な時間にログインしてそれを取り締まる事である。つまりこのゲームは「プレイヤーがオフラインの時間をゲーム内容として活用している」と言える。先に挙げた他の非同期ゲームと違い、このシステムは同期プレイでは全く機能しない。将来の非同期ゲームデザイナーはこれを見習うべきである。今や時代は変わった。同期ゲームを改装して非同期プレイに押し込むのではなく、非同期プレイならではのゲームを作る時が来たのだ。

原文: http://www.designer-notes.com/?p=124

楽しい敗戦

対戦格闘ゲームは2種類に分かれる。バランスへの不満が噴出しているゲームと、誰も遊んでいないゲームとである。そして「スーパーストリートファイターIV AE」は前者に属するらしい。このキャラは強過ぎる。あの技を弱体化しろ。こっちは強化してくれ。長い陳情の列がどこまでも続く。

こうした不満は全て一語に集約できる。「勝たせろ」だ。自分の使っているキャラクタが強すぎてつまらない、という不満は存在しない。勝っている限りは満足なのだ。

誰かと誰かが戦うごとに、同数の勝利と敗北が生成される。これは対戦ゲームが背負っている宿命だ。となれば、敗北を楽しい経験に変える事ができればユーザ体験は大幅に向上する筈である。何しろ敗北は戦いの半分なのだ。以下に楽しい敗北の条件を挙げてみよう。

 

・理由が明確に示される

「チャンスの時に必殺技を出し損ねた」とか「敵への対処で間違った技を用いてしまった」といった明確な理由があっての敗北はゲームへの不満に繋がりにくい。勝利を1点、敗北をマイナス1点とすると、「勝つチャンスのあった敗北」はマイナス0.5点くらいである。

 

・次は勝てると思わせる

人は希望があれば前に進める。敗因を分析して次の勝利に繋げる事ができるなら、敗北はもはや失敗ではない。勝利まであと一歩という地点ならば尚更だ。「あと一手で勝利に達する地点」までは楽に到達できる様になっていると宜しい。例えばメックアリーナは2アウトまでは楽に取れる。止めの3アウト目が難しいのだ。

 

・技量の近い相手とマッチングする

全体としての結果が敗北であっても、個別の小競り合いではいくつか勝っている場合もある。総論敗北各論勝利。そうした小さな勝利も慰めとして重要である。

 

・言い訳を用意する

「今回は乱数に恵まれなかった」「相手のラッキーヒットだった」「向こうの方が段位が上なんだから仕方ない」ユーザは色々と負けた言い訳をする。それによって敗北の不満はいくらか解消されている。運の要素を多少入れておくのは良い考えだろう。

 

負けても楽しいゲームを作ろう。